私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

大多羅葦原

2010-12-24 10:27:30 | Weblog

 赤穂線に大多羅駅があります。「大多羅(おおたら)」、何となく異国を感じさせるような、何か日本ではない他の所のような感じがします。「くだら」百済と何か関係があるのかもしれませんが、よく分かりません。
 この地名が、歴史の中で、最初に出て来るのは「大和国大安寺流記資財帳」です。この一帯は、北に芥子山を背負い、南は吉備の穴海があり、東西に広く入江が食いこんでいます。その入り江を挿んで、東は山守江、西は石間江がありました。この間に広大な葦原は広がっていたのです。これが、この資財帳に書かれている「大多羅葦原」です。
 「山守」という地名は字名として岡山市福江にあります。又、「石間」は、百間川の東側にある岡山市米田辺りをそう呼んでいたのだそうです。要するに、このあたりは、旭川と砂川が作った三角州の一画にあったのでしょう。当然、「江」ですから、この辺りまで海が入り込んでいて入り江を作っていたのではないでしょうか。その入り江はさらに奥まで伸びて「古都」辺りにまでではなかったかと思われます。

 なお、この「山守」と言うのは、応神天皇の時に「海人部と山守部を置いた」と言う記事にあるように備前に置かれた「山守部」のあった所だと推定されます。この山守部は山を守る職の部民ですが、この福江に何故そんな部民を置いたのか、ちょっと考えさせられますが、この大多羅駅のすぐ北には、備前の名山「芥子山」があります。また、その山がどれほどの歴史的な意味があるのかわ分かりませんが、何となく名山らしい「雨乞山」と言う山もあります。備前の国の山全体を管理する部民を、何らかの理由でこの地に置いたのではと思いますが。
 また、この芥子山に、この吉備の幡多郷に入って来た秦人たちは、桑を植え養蚕を行っていたのではと言う人もいるようですが、それらの事と山守との関連もあるのではないでしょうか?????)
 

 応神天皇の御代から、この辺りも、秦からの帰化人達の働きによって、生産性が高まり、経済的に豊かな土地となり、大和と覇権を争うような強大な勢力を持つまでになったのではないでしょうか。国府跡も周濠を持つ両宮山を始め大小の古墳も大廻小廻の山城も残っています。又雅姫の伝説も残っている土地です。
 吉備の上道郡の勢力のいかに大きかったかということを、これらは亮然と物語っているのです。


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3 コメント

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なんでもいいけど ()
2012-02-23 20:52:50
おおたら やなくて おおだら ですよ。
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大変、勉強になりました。ありがとう !! (Unknown)
2016-05-14 09:09:31
岡山市福江と言う地名は無いようですが?
倉敷市にはありますが。正式に教えて下さい。
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続きです。 (Unknown)
2016-05-14 09:16:32
石間の件 --- 米田の東、(古都地区かな?-) に岩間の耳神様が鎮座されてます。とっくに廃線になった西大寺軽便鉄道の駅が、確か、あったと思います。
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