私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

我町内の溝掃除

2007-10-21 10:53:43 | Weblog
 今日は少々高尚先生から離れて、身近なわが町の小さな風景をお伝えします

 周りの田圃の稲も刈り取られて、景色が一転し、なにか寒々とした感があたりを漂っているようです。そんな秋空の元、町内120軒総出の秋の溝掃除の日です。半年分の溝にたまったヘドロがあっという間にきれいに片付きます。みんなの力です。平生の町内の和だと、思っています。今年は専門の業者にも来ていただいて、徹底的な大掃除でした。8時から10時までの2時間の奉仕作業でした。
 
 缶コーヒー一つをもらい、今年の作業は終了です。
 
 これも、わが町;吉備津の年中行事の一つとなって、これまた、和気藹々と楽しく続けられております。

テレビを消して

2007-10-20 12:32:47 | Weblog
 最近のニュースを見ておりますと、本当に常識では判断しかねるような事が、あちらでもこちらでも、「よくもこれだけ続くものだ」と、感心するぐらい大同小異の事件が、起きては消え、消えては起きています。
 「赤福」もそうです。
 「自分さえよければ人様のことなどどうでもいい」
 「判らなければ何をしてもいい」
 「嘘も方便だ。隠せ隠せ、隠しまくれ」
 などと、でも言いたげに、したい放題のことを、日本全国共通の認識(知恵といったほうがいいのかも)であるかのように、今の日本では、皆で、上も下も、しまくっているように感じられます。利己主義のオンパレードですな。
 この原因は一体何処から起ったことなのでしょうか。かって、「大宅壮一」という評論家が言ったとかで物議をかもしたとされる、
 『テレビによる1憶総白痴化』
 が現実に起ったのだ、と言い切っている人もおられます。
 あまりにも短絡的なものの考え方は、このテレビの影響が最も大きいのではとも考えられますが。
 要するに、深くものを考えないで、「テレビでこんな事を見た。そうだ。それを自分も真似てやってみよう」と、いう、善悪の判断以前の単純な思考しか日本人が出来なくなったてしまったからではないでしょうか。
 「本を読まなくなったのが原因だ」と、私は思います。
 そのあたりについて、高尚先生も、人間として最も大切なこととして、「ものまなび」を上げております。その中で先生は、
 『ものまなびをするということは、神代のみふみをよく読むことだ。そうすると、人の生き方などを深く考える事が出来る。今までにあったことなどが色々と心に深く残り、自分はどう生きるべきかを考えて、自分の生きる道が分ってくる。善悪の判断も確実に掴み取る事が出来る。
 文を読まなければ、人としての道がわからなくなってしまう。』
 文中で
 「神代のみふみをよくよめば、よしあしの見えわかれて、あきらかにしらるることにてあれ」
 「孔子のをしへのふみをもよむなんこまやかにこころえられていとよき。論語によりてまなぶべし」
 と、お書きになっておられます。

 私事(ひとりごと);
 「切れる」と言う言葉が教育界にも蔓延しているらしいのですが、こんな言葉は、かっては泉鏡花しか使わなかったのですが、今頃では当たり前の日常会話として家庭でもしばしな聞こえるようです。
 その言葉を聴くのと比例して、自分を押えることが出来ない人も随分と増えているようです。
 裕福であると、いうことは人間として一番の幸福な事かも知りませんが、裕福すぎて、我慢が出来ず、直ぐ切れる人が増えてくるのもまた問題です。
 そんな問題を解決するためにも、テレビを消して、家庭で本を読む時間をもっと増やす必要があるのではないでしょうか?
 

都はるみさんがんばって

2007-10-19 10:46:04 | Weblog
 今朝の朝刊に、山折哲雄さんと都はるみさんの対談が出ていました。その中で、山折さんが
 「演歌の一番底を流れているのは、永遠などない、という無常の感覚です。この感覚の中には、暗い沈む無常観と高揚感の明るい無常感がある」
 と言われます。それを受けて、都さんは、
「自分では悲しい歌を歌っているつもりでも、いやぁ元気が出ましたと言われ、どうしてかなと思うのですが、「明るい」無常感というものがあるのでね」
 と、言われております。
 都さんでも、ひばりさんでも、誰でもいいのですが、演歌を聞いていますと、明るい歌でも、悲しい歌でも、それを聴いて、元気が出ると言うのは、山折さんが言われるような事があるのかもしれませんが、私には、あの歌そのものに、曲にも詞にも影響されない、何か自分の心を奮い立たせてくれるどこか安心感みたいなものが、歌そのものもが生まれたその時点で、神様みたいに、その中に存在しているのではないかと思っています。
 西行の和歌に、宗祇の連歌に、芭蕉の俳諧に通じる何かがあるように思われて仕方ありません。人の心を自然に奮い立たせる超自然のようなものが、言い換えますと神様のようなものが、その中に密にしのんでいるようにも思われます。
 そんな演歌などを聴いて、自分の心に何か響くものがあるから元気を与えられたように感じるのではと思います。
 名歌だとかこれはそれほどでもないなどと、歌そのそのものを区別すること自体が変ではないのではないでしょうか。
 たくさんの人が口ずさんでくれたから、たくさんレコードが売れたから名歌だとは言い切れないようです。流行ったから名歌だとは、決して言い切れないのではないでしょうか。流行らなっかた歌でも、心の底を打つ歌は一杯にあると思います。それが名歌なのです。
 
 この歌の心を我;先生の「古歌のこころをとくべきよう」の中に詳しく述べられています。
 先生の言われる古歌とは和歌の事ですが、演歌の歌にも共通するところがありますのでちょっと紹介しておきます。
 先生は
 「昔から名歌だとされている歌はともかくとして、それほどとは思われないような歌の中にも、こころを留めてよく読めば、人の心を深く抉るような情がある〈をかしきふしある〉歌も多い。また、詞に隠された心(情)のある歌もあるから、一概に、「この歌とこそ」と、決め付けるはどうも感心しない」
と。
 

 私事(ひとりごと);
 山折さんは、『短歌やクラシックは上等で、演歌は低級』という変なコンプレックスがあるが、エレジーは世界中で大衆に愛されている。と、この中で言われています。
 詞と曲が一緒になった歌が、今の時代に堂々と羽を広げてはばたいています。
 そこには、何かしら人々をひきつける魅力があるからだと思います。都さんが言うように、元気を与えてくれものだと、感謝さえされています。
 短歌にしろ、演歌にしろ、曲があろうがなかろうが、「歌と言うもの」の持つ魅力だと思います。
 

  「都はるみさん!ますますがんばって」と言う気分になりました。

 

これぞわが町の教育力!!、ボランティア活動

2007-10-18 21:47:45 | Weblog
 ボランティア(volunteer)とは「志願兵」「応援者」「・・自ら進んで申し出る」「自発的にする」と言った意味があるのだそうです。
 この「ボランティア」そのものをわが町吉備津で見つけましたので報告します。
 今日は、孫達の通っている保育園と幼稚園の「お芋堀りの日」です。
 生憎と孫は風邪気味で、昨日まで保育園を休んでいました。「どうしても」と言う孫の言に負け、この芋掘りだけ参加させる事にしました。
 そんな訳で、その芋畑に園児達皆とは遅れて孫を連れて行きました。
 するとどうでしょう。そのお芋畑には、この地区の老人会の皆さんが沢山集まって、園児達の来るのを今か今かと待ち受けてくださっているではありませんか。前日から辺りの草刈、園児が掘る芋のつるの切り取りなど色々なご配慮を頂いています。聞けば、もう何十年も前から続けられているとか。
 田圃の提供から苗の植え付け、芽吹かなかった苗の植え替え、生育期の草取り、モグラ対策など、今日に到るまでの細々とご苦労があったはずですが、そんなことはおくびにも出さず、
 「いい顔をしているね」
 「あの笑顔が可愛いね。長生きできるよ」
 「一生懸命な姿がなんとも言われん」
 「お手伝いした甲斐があったよ」
 などと、小さい子供達のあどけない動作の一つずつを見て、みんな我事のように喜んでおられました。
 子供達も、園の先生達も、参加したお母さん達も、老人会の人も、私みたいに飛び入りで参加した者までも、そこにいる全員の人が、
 「本当にいい芋掘り大会ができたな」
 と大いに満足げな顔を見せていました。
 誰からも強制されたわけでなく、地域の子供達の為に自分達ができる事はないかとお考えになって始められたと、聞いております。
 これこそ、本当のボランティアだと思いました。
 何か殺伐とした昨今、この芋掘りに参加させていただき、爽やかな今日の秋のような、すっきりとした気分にさせていただきました。
 御蔭で今日一日ほのぼのとした気分で過ごす事が出来ました。

 なお、この老人会の人たちは、今度は、29日に
 「鯉山小学校の児童にも、稲刈りを体験させる」
 と、言う事でした。頭の下がる重いがします。聞けばこれも毎年のこととか。
 この地域の子供達の健全な育成を願って『進んで行動を起す』運動をなさっておられるということです。それも、ごく普通に当たり前のことをしているのだという風に自然体で。
 昨日も加古川で2年生の女児が無残に刺し殺されています。
 殺人者を、この吉備津の老人会の人たちの思いと比べてみることそれ自体、大変な失礼になるとは思いますが、今更のようにこの人たちに対するありがたさが湧き上がります。何時も子供達を見守ってくださってもいます。この地区ではこんな無残なことは起りえないと確信しています。
 それを思うと、ますます、この「殺害者」に対する怒りが募るばかりです。

 これも、わが町吉備津の有形無形の自然な姿なのです。こんな大人の心はきっと子供達が引き継いでくれると強く思いました。
 これが地域の教育力なのではないでしょうか。

神様へお参りしましょう(氏神氏子)

2007-10-17 08:01:47 | Weblog
 お祭りも済んで、ようやく秋の気配が、我里にも、深まりつつあります。
 お宮さんのお屋根替えも急ピッチに進行して完成間近だと聞いています。完成までに「もう一回進捗状況を見る機会を設ける」と、氏子の人も言っています。どれだけ出来たかなと、心待ちにしています。

 さて、「松の落葉」で、この氏子と氏神について、高尚先生は書かれていますので紹介します。

 『氏神は、自分達の「遠つ祖神」で、氏子は氏の祖神の子孫だ。
 最初は、里人の家々の親神を氏神として、それぞれにお祭りをしていたのが、次第に、その家々の祖神を一箇所に集めて「里の社」を作り、それを地主の神(その土地の神)=氏神とし、そして、里人皆が共通の氏子となりお祭りをするようになった。どうして家々の祖神を、里の一社に集めたのかと言うと、仏教の影響がある』
 と
  
 私事(ひとりごと);
 ここ吉備津の里では、氏神様を吉備津神社に戴き、里人総てが氏子となります。他所から移り住んだ者(そこで生まれなかった者)も、今この吉備津に住んでおる者なら誰でも氏子になれるのです。いや住んだら、即、氏子なのです。そのあたりが、他の宗教と違うところす。包容性というか許容性というか、誠におおらかで、他に見ない宗教なのです。
 自分の神様を拝みつつ他の仏やキリストなどの宗教を拝もうと一向に構わないのです。又『私は今は拝まない』と、言っても、決して、咎められもしません。一心に、これだけをただ熱心に信仰しなくても良いのです。
 本当に自由で不思議な神様です。宗教戦争なんてとんでもない事なのです。平和主義に徹底しているのです。人は総て善人なのです。戦犯だろうと極悪人だろうと、総て、人が生まれた時は神様の心を持つ善人なのです。
 そんな思想が神道の根本なのだそうです。

 神の御前で、お祓いを受けると、総ての人が「善人」になれると言われています。
 今朝も六歳の女児が、路上で刺し殺されるという痛ましい事件が報じられています。この児は、これから一杯に生きられるのに、なぜ殺されなくてはいけないのでしょうか。そんな事件が起る前に、この犯人がもし、神様の前で、お祓いを受けていたとするなら、こんな事件は起こらなかったのにと思われますが。
 
 

重箱と湯桶

2007-10-16 10:32:29 | Weblog
 金銀を施した「重箱」が、お祭りを飾る主役の一つだった頃を懐かしんでいます。現代では、祭りのお客もなく、ただ普通と変らないそんなに大ご馳走というほどでもない食事で済ましてしまっているようです。祭りの料理に二日も三日も費やしていた時代とは何だったのでしょうか。
 でも、昨日ご紹介した吉備津神社の七十五膳据は、250年以上の伝統がそのまま現代に引き続けられています。ここで使用されるのは重箱ではないのですが、漆塗りの重厚な感じのするお膳です。

 さて、ご馳走を入れる重箱のことではないのですが、高尚先生は、この重箱読み、音・訓まじえてよむ熟語について書いておられます。
 「例えば、古砌薄を〈こぜいのすすき〉と読んでいるようだが、昔は漢字で書いた文字を訓で読む時は総て訓で、音で読む時は総て音で読んでおった。音訓交じりに読むのは大変聞き苦しいことだ。」
 と。

 私事(ひとりごと);
 では「重箱」はどう読んだらいいいのでしょうか。「じゅうそう」でもおかしいし、「かさねばこ」でも、何か変な感じがします。何時頃から「重箱」という食器が使われ出したかは知りませんが、高尚先生の時には、果たして、なんと呼んでいたのでしょうかね。

 ちょっと、ここでストをします。
1、さてみなさん、次の言葉はどう読むのでしょう。
 ①「客間」「派手」「台所」「本棚」「新顔」「団子」
 ②「夕刊」「手数」「白菊」「雨具」「手帳」「豚肉」
 簡単でしょう。では、次に。

2、①と②の違いはどうですか。
  


 答;①群は、いわゆる重箱読み(音+訓)です。②群は湯桶読み(訓+音)と呼ばれているものの集まりです。

七十五膳据の神事

2007-10-15 10:39:01 | Weblog
 またまた、例のメールが届き、このお祭りをもっと詳しく知らせろというのです。
 そこで、又その気になりました。

 この吉備津神社のお祭りは、江戸時代には、陰暦の九月の申の日に行われていた「大饗会(だいきょうえ)」が明治になって春秋の大祭に変ったものです。
 この大饗会というのは、新嘗祭が変化したものだそうです。
 毎年の秋、備中の諸郷から新穀や果物や魚藻が吉備津神社に献納され、五穀豊穣を感謝するお祭りが新嘗祭です。だから、秋の大祭の時の「御盛相」は玄米を使います。この御盛相を作る専門の人がおり、その人達が毎年二日がかりでこしらえております。
 それら七十五膳をこしらえる場所が「御供殿」で、ここから回廊を通って本殿に供えられます。
 御掛盤、平膳、高杯、瓶子などの膳が用意されます。
 その行列は警固3人、榊持ち、氏子総代、獅子2頭、猿田彦、鉄砲(男児)鳥篭持(女児)弓持、矢持、鉾、大太刀、小太刀、五色の幣、御冠、宮司、御掛盤、高坏、神酒、鏡餅、果物、菓子、絹布、綿布、平膳の順番で百数十人の長い行列が回廊を進みます。
 これらのお祭りの総ては貞享年間に書かれた「御祭礼行列之次第」に法り、執り行われています。
 古式豊かな吉備津神社ならではの独特の優雅にして、しかも、荘厳なお祭りです。
 なお、戦前までは、巫女の神楽舞がみられていたようですが、寂しい事ですが、今ではその姿は目にすることは出来ません。

吉備津神社のお祭り

2007-10-14 08:06:54 | Weblog
 今日は吉備津神社のお祭りです。
 七十五膳据の神事が行われます。「御盛相(おもっそう)」と呼ばれる玄米(春は白米)を蒸して円塔形の型にはめて作った御飯を中心にして、鯛、魚、昆布、大根などの野菜、それに柳の箸をそえ、膳は黒漆塗りの桐紋の付いた立派な物に入れられて、回廊を通って本殿までは運ばれます。
 お膳の数が75種あることからこの名が付いたのだそうです。
 このお祭りに花を添えるべく我町内からももう25回目を数えるのですが千歳楽を繰り出します。

さみせんの琴

2007-10-13 08:25:53 | Weblog
 高尚先生が「松の落葉」の中で取り上げられている楽器の内、最後が、この「さみせんの琴」です。先生は琴を大変愛でられていたと書きましたが、「さみせん」の琴については、
 「げによき人のひくべき琴にはあらず」
 と。
 この琴は昔からあったものではなく、ごく最近になってから広まったようで、主に遊びのための琴で、聞く人を浮き立たすような音色で、あまり奥の深いものでないく、それ故、品格のある人が弾くものではない、と書かれています。

 私事(ひとりごと);
 三味線は、現代では、クラッシクと競演したりする日本が誇る世界的な楽器として名声を博しているのですが、当時は、歓楽街などで使われていたので、相当卑しめられていた楽器ではなかたのでしょうか。
 時と共に浮き沈みのは激しい人の世だけあって、その時代時代で人の好みや評価も、こんな小さ楽器にまで見ることが出来、有為転変そのもののような感を深くしています。
 こんな「さみせん」の評価を、高尚先生がお聞きになったら、どんなご感想を御持ちになるかなと、想像するだけでも気持ちが浮き立つようです。 
 

篳篥(ひちりき)

2007-10-12 15:16:40 | Weblog
 篳篥という楽器があります。この楽器について、我;先生は簡単に次のように説明しています。
 「今の世にある「ひちりき」は小さいものですが、いにしへには、大なるひちりきと小さいひちりきの2種類があったようです。」
 と。

 篳篥・笙・龍笛の3種類が雅楽の三笛とよばれそのうちの主旋律を奏でるのが篳篥だという事です。
 この篳篥を、清少納言は枕草子で、
 「いとかしがましく」とか「轡虫などの心ちして、うたて、け近くきかまほしからず」とか「ただいみじゅう、うるわし髪持たらむ人も、みな立ち上がりぬべき心ちすれ」
 と、散々に悪口雑言に言い切っています。
 一方、兼好の徒然草には、
 「神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。おほかた、ものの音には、笛、篳篥」
 と、大変おくゆかしいものとして書かれています。
 
 このように、日本を代表する評論家の二人の評価が真反対になっていますが、私は「なまめかしく、おもしろい」と、何時も感じているのですが。
 高尚先生も、この楽器をわざわざここで取り上げたのも、まんざら、「小うるさいどうしようもない楽器だ」とは、お思いになられてはいないのではと思いますがどうでしょう。

鹿の骨で占う

2007-10-11 12:57:18 | Weblog
 またまた、メールを彼の人より頂きました。
 昨日、天照大神が、天の岩戸からお出ましになるかならないかを占らなうのに「鹿の骨」と使ったと書きましたが、これは『亀の甲』の誤りではないかと、言うのです。
 どうだったかなと思い、念のため、もう一度、宣長の「古事記伝」を引き出して調べてみました。それによりますと;

 「大和の時代になってから、『卜部氏』(壱岐出身)が、鹿の骨に代わって、初めて亀の甲を使った方法を韓国から伝えます。だから、天照大神の神代の当時にはまだ、鹿の骨を使って占いをしていたのだそうです。そして、この骨を焼くものが、『波々迦(ははか)』という木です。これは、『朱桜』という木で、この皮で焼いてその割れ目の様子から事のよしあしを占っていたというのです。」
 と、ありました。

 古事記と言う書物も、深く読んでみると味わい深いものがありますね。感心することしきりです。天岩戸の部分だけを読んでも、それはそれは深い意味がこめられているのが分ります。それにしても、「古事記伝」も、日本の名著ですね。
 
 そんなわけで、「篳篥」のお話は明日に。


 

和笛

2007-10-10 15:13:07 | Weblog
 今日は「和笛」について、我;先生が述べておられるのを書きます。
 それによりますと、
 『やまと琴は、神代より非常に貴重な物であって、今でも使われているが、やまと笛は、今の世には見えず、昔からあったということは聞いてない。
 平安の文献などには、「和笛(やまとぶえ)」を弾く楽士がいないので採用する事が出来なかったとある』と。

 私事(ひとりごと);
 古事記には、
 『天の岩戸にお隠れになった天照大神が、再び、高天原にお出まし頂くよい方法ないかと、思金神が中心となって八百万神たちは、天安之河原に集まって話し合いをします。その結果が、鏡や勾玉などを造らせたり、鹿の骨を持って占なわしたり、天児屋命に祝詞を奏上させたり、更に天宇受売命を樽を逆さにしたものの上で踊らせたりした。』
 と、書いています。
 これは、わが国のお祭りの最初だったと思います。当然、そこに笛や琴や太鼓といった楽器が登場してもよさそうなのですが、楽器を使ったという記述はありません。神代には、わが国になかったと言えそうです。
 笛、鐘、太鼓などといった楽器は、その後、中国や朝鮮から伝わったものではないでしょうか。
 もし、太古からあったとするなら、この天照大神のお祭りに使われていてもよかったのではないかと想像しています。
 
 先生は、「やまと笛はなかったが、琴は神代からあった」と、記されていますが、それからすると、この私の説はちょっと変ですね。
 まさか、天照大神は音楽が嫌いだったというわけでもないでしょう?????

琴 笛

2007-10-09 13:15:37 | Weblog
 井上通泰という人が岡山の医学校の教授としておられました(播磨の人)。この人が書いた『南天荘雑筆』に藤井高尚先生のことが記されています。
 それによると、先生は相当琴が好きのようでした。それだからかは分りかねますが、『松の落葉』には楽器についてても「琴、笛」「和笛」「小篳篥」「さみせんの琴』の4つについての記述が見えます。

 まず今日は「琴 笛」です。
 
 『ことというのは ひきもののすべて名前で、文では「きんのこと」「そうのこと」と分けているが、歌では総て一律に「こと」となっている。
   ゆくすがら 馬のうへにて ひく琴の
             弦(お)ごとに玉を ぬくなみだかな
 というかがあるが、これは琵琶の琴の事です。
 また、「ふえ」は吹くもの総てを言った。文では「笙のふえ」「ひちりきのふえ」と書いているが、歌ではどれも総て「ふえ」となっている。
 「こと・ふえ」のことを、今の歌詠みの中には、「絲竹」と言う人もいるようですがこれは誤りで、古歌に「笛」を竹という言い方はあるが、琴を絲といったためしはない。鎌倉あたりから、琴笛を「いとたけ」といった言い表し方があるにはあるが、本来は琴笛が本筋だ。』と。

 私事(ひとりごと);
 かの井上氏の南天荘雑筆の中にあったのですが、先生の著書に「ひきもののさだめ」というご本では。筝の琴、琵琶、サミセン、胡弓、一弦琴の優劣について書いておられるとか。この本を今探しています。
 

たたみ

2007-10-08 08:24:22 | Weblog

 孫達の保育園の運動会で使われていた古畳がやけに目に付きました。新しがり屋の現代の教育の場に、まさかこんな物がといささか驚かされました。先生達のアイデアに感心することしきりでした。  

 さて、この「たたみ」について、我;先生は 

 『たたみという名は神代からあったのですが、今の畳とは随分違っていた。どんなものでも、いくへにもたたみて敷く物をいって、「これが畳だ」というものだという決まったものはなかったようです。 奈良に都があった時代は、薦(こも)をたたみ重ねて編み、畳を作ったとあります。それが平安の時代になってから、現在のような畳になったらしいのです。 「錦のはしさしたる長たたみどもを、西ひがし北みなみとまはりてしかせたまわり・・・」という文が栄花物語にも出ていることからもわかる。 藺を織ったものを表にした畳というものは、この時代の中ごろから作られたようです。でも、今の時代のように長さ大きさが決まってはなかったらしい。 
 中でも面白いのは、畳のはしのさまは、そこに座られる人によって区別されていたようです。 帝、院、神仏用には、繧繝縁(うんげんべり)。大臣などの公家は小紋高麗縁、紫縁、黄縁など位によって使われる色が分かれていた」 と。  

 私事(ひとりごと);  
 庶民の暮らしの中に何時頃から取り入れられた分らないのですが(多分室町ぐらいからではないでしょうか)、藺はその表に敷かれたその辺の経緯が分ればと思ったのですがはっきりした事は不明なのだそうです、この草は、細くて硬くて敷物にするのには適していたと書かれている本のあるようで、人の生活の智慧の大きさを改めて思いました。 
 我々年老いた者にとっては、やはりこの畳のない生活って考えられないことのように思われます。 日本人の落ち着いた気分を誘うためには、どうしても欠くことのできない身体の一部だと、いっても良いようなものではないでしょうか。 
 『胡坐をかく』、これこそ伝統的な日本文化の基ではないでしょうか。畳があって、そこからすべての日本人の物の考え方を始として、生活する上での基礎的な習慣が生まれてきたのではないかとも思われます。大げさに言いますと、日本人を作ったと言っても過言ではないと思います。
 「礼儀、作法」もそうです。また「くつろぐ」という言葉も、この畳から生まれています。 
  現代の家を見ていますと、そんな従来からあった日本人の伝統的な心を創り上げた畳を忘れてしまって、形式的な便宜さだけを追求しての板の間の空間が家の中の主流となり、いままでに培ってきた数々の日本人の心が蔑にされているのではないかと、寂しく一人で思っております。これも現在の殺伐たる世相を生み出している大きな原因の一つではないでしょうか。

  日本の建築の中から、敷居、鴨居、天井、たたみ、障子、衾、欄間、床の間、神棚、大黒柱、更に、金剛梁といった人の心を支えていた建物様式が身の回りから消えています。 日本全国何処へ行っても同じ家が建っています。気候風土に合致した地方独特の日本家屋が消失しています。それに連れ情緒も。北海道も岡山も総てが同じになっています。 

 ますます明治や昭和が遠のいています。


足守川のゴミ拾い

2007-10-07 13:29:47 | Weblog
 高松地区内を流れる足守川のグリーン作戦の日です。合せて吉備津地区内のグリーン作戦も行われました。
 例年なら、吉備の中山周辺のゴミ集めをするだけですが、今年は範囲が広くなり足守川周辺まで広げられました。
 明治43年の天皇の陸軍演習のための行幸場所である足守川畔の天皇の野立所付近のゴミを拾って歩きました。この川畔道は一般の車があまり通らない場所ですので、思ったほどのゴミはありませんでしたが、それでも、道沿いの草の中には、なお沢山の空きペットボトルなどありました。中には一般の家庭ごみが袋に詰められたまま捨てられているのも見つかります。
 「どうして」でしょうかね。
 細谷川周辺は案外にきれいです。毎年この運動が、年一回ですが、続けられている成果ではないでしょうか。継続は力ですね。

 それがすんでから、こんどは吉備津地区の運動会が行われました。これも長い歴史があるのですが、沢山の住民の参加があり、盛大にみんな楽しんでいたようでした。