私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

枝さしかはす岡山の松

2010-05-24 11:53:09 | Weblog
 16日間の、お供1000人を連れての大名行列でした。それこそ周りの苦労も何も知らない19歳の若殿の気楽な初上りだったと思います。

 綱政の歌紀行は、これで終わっていますが、その結び言葉として、次のように書いています。

 「足引の山の言の葉、わたつみつらの藻塩草、書きあつめ一巻となす事、うたて心のあるに似たれど、白妙の白色は、色のもとならん、うば玉の黒き色はいろの末ならん、黒を白にそへてぞ青白なるけじめあらはなり、これをよすがにておこがましき事なれど、忘れし今を後の年にもしのばん、かつは人にみゆべきものならねば、朝たつおのの浅茅はら、日もくれ竹のうきふしぶしをのべけるとぞ」

 色々な過去の文献を頭の中で組み立てながら、鋭く旅の様子を捉えた隠れたる優れた日本の文学作品の一つだとも思うのです。
 ・・・朝たつおのの浅茅はら、日もくれ竹のうきふしぶしを・・・、だなんて、どこかにあったのかもしれないような文章ですが、ちょっと、岡山弁でいう「こずらにきい」ような書きぶりではないですか????

 こんな冴えた能力の持ち主だったからこそ、あの後楽園も、そして、その後の日本の干拓事業の先駆けとなるような備前の一大干拓事業が来たのです。彼の先を見通す先天的な力に負うところが大きかったのではと思います。
 また、津田永忠などの有能な多くの藩士にも恵まれるという幸運にも味方され、彼らの能力を思う存分に発揮させた綱政の為政者としての才能が先天的に備わっていたことも備前岡山に天が与えた幸運であったと思われます。
 
 何回でも言います。決して、江戸幕府が思っていたと言われるような、暗愚んな大名ではなかったのです。

 なお、この歌紀行で一番最後に詠んだ歌が

   色ふかく 君が恵みに 末葉まで
                枝さしかはす 岡山の松

 です。

 これで、ほんの少しと、宝泥氏にご指摘されて始まった綱政侯でしたが。ついつい長くなりましたが、これにて、一応、終わりにします。

あかしのうらみ残して

2010-05-23 12:51:17 | Weblog
 須磨の浦を通り過ぎ、船は明石に至ります。

 「明石のおなじ夜ふかに風よしとてこぎゆきけらば、昼ならで浦なみ見ざりし事の心うくうらめし

       ゆかりなく 風にまかせて 行く舟の
                 あとにあかしの うらみの残して


  ゆかりなく風にまかせてゆく行く舟と、綱政侯は詠まれていますが、この場面は、源氏の明石の入道と一緒に須磨から明石への舟旅を十分考慮に入れて詠まれていることが分かります。

 そして、
 「此外名所寝ぬる程に過ぎて、二十六日曙に備前岡山の住家に入りぬ」
 これで綱政侯の歌紀行は終わっていますが、牛窓まで舟に乗り、そこから岡山までは、この歌紀行では取り上げてはいませんが、再び、行列を組んで岡山に入ったと思われます。
 ここにある、岡山の住家と言うのは牛窓の宿舎のどこかだと思われます。

 まま、これで、江戸を出発してから十六日間の初上りだったのです。

再び 綱政侯の歌紀行

2010-05-22 16:37:34 | Weblog
 しばらくご無沙汰しておりました綱政侯の御歌に戻ります。
 
 明暦三年 神無月二十一日のたそがれに伏見についています。二十二日は一日伏見でお過ごしになったのか、何か事情があったのか分かりませんが、何も筆にされていません。

 二十三日に、ようたく川舟に乗って淀川を下りますが、尋ね人が多くて、そのままどうも舟中の生活であったようです。そしてこれもまた不思議なのですが、二十四日も、これ又、空白で、どう過ごされたのかよく分かりません。草津の宿から後は、どうも順調な旅ではなかったように思えます。

 それが、二十五日になって

 「雨続きて淀にかかりぬ。夜に入りて雨もやみ風も追手になりぬとて船を出しと」
 と、書かれています。

 天く不順で旅にいささか手間取ったのだと思われます。
 そうすると、二十三日の
 「漕ぎ出る跡のみながめやる」と、言う書き方のちょっとばかり疑問が生じますが。
 

 まあ、兎に角、京大阪に至ってからは、随分と無駄足を踏んだのではないかと思われますが、旅が進みます。
 そして、この二十五日の深夜です。

 「夜深きねざめに聞くはここぞ須磨の浦とかや、ののしる声まくらに聞ゆ、むかしの名にふりにし関の戸も、今は跡なく、人の語るのみなり。道すがらつづりし歌に、このあたりを残してんも心うく覚えて

       ・夜を深み 須磨のうら葉を 漕ぐ舟は
                  なみより外に せきもりもなし」

 と。

 「ののしる声」と言うのは、まさか、舟人の声とは思ほえず、兼昌の歌にある千鳥の鳴く声を、敢て、こう表現したのだと思われます。

 まあ、その兼昌の歌と、この若き十九歳の備前藩主池田綱政侯の歌と一緒に声に出して歌ってみて下さい。

       ・淡路島 かとふ千鳥の なく声に
                  いく夜ねざめぬ 須磨の関守

私の小さいギャラリー

2010-05-20 14:44:00 | Weblog
 ご紹介した私の持っている書等の犬養木堂に関するグッズを並べて、毎年私一人の小さなギャラリーを開いています。
 誰も見せたことのない私一人の展示をして楽しんでいます。
 今年は平和のシンボル「鳩」の置物も添えて見ました。

            


木堂翁の最後の揮毫「慈悲」に秘めた心とは

2010-05-19 19:35:29 | Weblog
 この吉備の国が生んだ偉人な政治家「犬養木堂」の最後の揮毫をお見せします。

 あの忌まわしい昭和7年5月15日の事件によって、木堂翁は一命を落します。享年77歳でした。
 
 この書は、木堂翁が暗殺される、ほんの1日か2日前に書いて頂いたと、本当がどうか正確な記録はないのですが、ただ、「七十八叟」と言う文字だけが、その事実を伝えているに過ぎません。
     
 若し、これが木堂その人の真実なる書なら、将に、貴重な近代日本の歴史を語る上で、最も大切な歴史的事実を物語る資料の一つになるのではと、私は思っています。それも「慈悲」という、まことに、木堂晩年の、総ての人間を思いやる心が十分に伝わる、何か一本芯を貫いたような気品さへ感じさせられるような書だと思われますです。
 
 「慈悲の心を総ての、そうです。たとえ支那人であっても、人々が持つことが出来る日本社会の実現を目指しておるのだが・・・」 
 と、満州事変の対処方法に汲々している政府の要人や軍人たちを尻目に、己の総理としてのこれからの対策を確乎たるものとして心に秘めているような字にも思われます。
 
 5・15事件のすぐ前の書であると、聞いております。

 なお、「慈悲」とはなんであるか、例の漢文氏に問い合わせたところ、この言葉は孔子などの中国の古典はない言葉で、恐らく明治以降の作られた言葉ではないかという答えでした。

 でも、今となっては、木堂翁が、暗殺される二,三日前に、どんな気持ちでこの揮毫をしたためたのか、その由を知ることは、残念ですが出来ません。書だけがぽつんと空しく残っているだけです。

 五月の青葉の中で、「衆事不躁」の軸と共に、もう80年にもなる日本の昔を物言わぬ言葉で静かに語りかけているようでもあります。

木堂翁の漫画

2010-05-18 11:52:18 | Weblog
 5・15事件について、ひつこく書いています。

 まあ、ちょっと、ここら辺りで骨抜きでもと思い、当時描かれた、政治家の漫画をお見せします。高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって普通選挙法が制定された大正14年(1925年)のある雑誌に載った漫画です。岡本一平等当時の漫画家によってえがかれたものです。
     

 中央にいるよぼよぼしい木堂翁70歳の漫画なのです。


 これも余談事ですが、ここに描かれている木堂翁の漫画のなんてじじむさい感じかと、ちょっと見にはおもえます。こんな覇気のないような頼りないような老人を、よくも政界に引きずり出して総理まで勤めさせたのか不思議な感じします。
 漫画では、こんなよぼよぼな爺さんですが、本当の姿は、所謂、論語に言う、「剛毅朴訥は仁に近し」の人だったのだと思います。
 そんなことを考えると、この木堂の漫画は、中央よりやや下に、小さく影さへ薄らいで描かれていますが、
 「まあ、待っていろ。これからがわしの本領発揮の時なのだ」
 と、うそぶいているようにも見えるから不思議です。

 ちなみに、此の普通選挙法が制定された後の、最初の選挙は1928年にありました。。それまでは人口の約5~6%の人しか選挙はできなかったのですが、この時は国民の20%の人が選挙をしました。でも、まだ、女子には選挙権のない時代でした。

リットン報告書

2010-05-17 10:13:20 | Weblog
 「満州事変は主権の侵害だ」として、中華民国政府は国際連盟に提訴します。その訴えにより、1932年3月、連盟では、イギリスのリットン卿を団長として、調査団を中国に派遣し、その全貌を調査します。6月に完全に調査が終わります。5・15事件は、リットン郷達が、まだ、中国に於いて、その調査の途中に起きた事件のです。
 だから、その調査報告書、所謂「リットン報告書」を犬養毅は見ていないわけです。どのような思いでこの報告書を、犬養が待っていたのかは歴史からは完全に消えてしまっています。

 「もしも」と言う言葉を使う事が許されるなら、私は、この5・15事件がなかったなら、そうです。犬養木堂が生きていたなら、太平洋戦争は、あの広島や長崎の悲劇は、また、現在の普天間の騒動は、存在しなかったのではないかと思っています。
 
 この犬養が暗殺された翌年、1933年には、日本は、「33対1」と言う恥辱的な議決にも関わらず、堂々?と国際連盟を、脱退するという、誠に、破廉恥な政治的行為を敢行しています。
 犬養毅と言う一人の政治家の力ではどうすることもできなかったのかもしれませんが、木堂翁が生きていたなら、バラを愛する人でしたので、もう少し変わっていた日本の歴史を見ることが出来ていたのかもしれませんが。

 なおこの報告書には、大体、次のような内容のものを英語と日本語で書かれています。

 “ 柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
 しかし、満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない。”
  
 と。
 中国側の主張を支持しながらも、日本側への配慮も見られ報告書になっています。
 1932年10月ことです。

 1932年10月に出た報告書です。

                


満州事変ー南嶺の激戦

2010-05-16 10:20:59 | Weblog
 5・15事件の前年です。昭和6年9月18日に、日本は満州事変を起こし、所謂「満州国」を作り上げます。
 この事変での激戦地の一つである「南嶺」の航空写真です。

   
 この南嶺にあった中国兵の兵舎を日本軍は総攻撃し、短時間の内に、撃破してしまいます。満州事変が始まった翌日の昭和6年9月19日のことです。その日本軍が敵陣に打ち込んだ砲弾を、後日、拾い集めて、ご丁寧にも、戦勝記念品として各方面に配った人がいます。
 その内の一つを私は持っています。なお、この砲弾を発射した大砲の写真と一緒に載せておきますので見てください。

     


 この砲弾に、犬養木堂が好んだという、バラの花を生けて見ました。
 この赤いバラの花言葉は「あなたを愛します」と言う意味があるのだそうです。「敵だって愛します」と言う博愛の精神を木堂翁は持っていました。だからバラを愛したのではと???

 「砲弾にバラ」なんて 、とってもいかす言葉ではないでしょうか。この言葉を使ってみて、私も言葉美人になった様な気分です????

心静かなれば衆は事を躁せず

2010-05-15 11:06:07 | Weblog
 今日は5月15日です。もう77年も前に起きた五・一五事件で、我が吉備の国が生んだ偉大な首相「犬養木堂翁」が暗殺された日です。奇しくも、今年は彼が暗殺されてた年齢77歳と同じ年月が経過した年でもあります。
 この木堂翁の慰霊祭が吉備津神社にある木堂の銅像前でも、しめやかに執り行われました。祝詞による慰霊祭です。仏式によるそれよりも、又、聊か趣を異にした神様な式でした。

   
 
 犬養毅は、当時、大の親友だった孫文など中国の要人と深い親交があり、それゆえに、犬養は満州侵略に強く反対しており、日本は中国から手を引くべきだとの持論を主張していたのです。この主張が、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となり、それが5・15事件となって犬養毅は殺されたのです。

 首相官邸を急襲した軍人山岸 宏に木堂翁は言います。
 「話せば分かる」
 と。
 この木堂翁の言葉に、即座に呼応して、山岸が鋭く叫びます。 

 「問答はいらぬ。撃て撃て」

 と。すると、山岸の側にいた黒岩・三上等の銃が一斉に火を噴き、官邸内に「ダンー」という世界を圧倒するかのような、恰も、はらわたをえぐりとるようなずしりとした銃砲が官邸いっぱいに響き渡ります。
 これが、あの5・15事件の風景なのです。
 世界恐慌という荒波にもまれた日本の暗い世相を反映した日本歴史の中で、一番長い暗一日ではなかったかと考えられます。

 

 この木堂翁の「話せば分かる」の言葉の元になったのが、写真の掛け軸に書かれている言葉です。

      

 「心静かなれば即ち衆事を躁せず」
 例の漢文氏によると、「躁」とは騒がしく手荒な事なのだそうです。ゆっくりと心を落ち付けて静かに話せば、そこにいる人は、そんなに事を仰々しく荒立てなくても、案外、事は簡単に解決できるものなんだと、言う意味なのだそうです。
 「話せば分かる」の原典です。
 
 付けたしですが、木堂が総理大臣になったのは、昭和7年2月のことです。その時、木堂はもう77歳にもなっていて、当然、政界からも引退して、楽隠居を構えて、信州に隠居していたのです。
 ところがです。満州事変という思わぬ時局が展開され、日本は、国際的に孤立して将来の存亡に関わる瀬戸際な立場に立たされていたのです。要するに、日本がにっちもさっちもいかなくなったのです。
 こんな危急な日本から抜け出す行政手腕を持つ者は、日本広しとはいえ、犬養木堂しかいなかったのです。77歳の老人にもなっていた木堂にこの日本を、本気で、委ねたのです。
 それほど、どうにもならないせっぱつまった日本になっていたのです。その解決に、77歳の木堂翁に日本を託いたのです。今から考えると誠に理解しがたい摩訶不思議な日本になりきっていやたのです。
 それを裏返して言えば、木堂翁は、昭和初期における、他にいない、それだけ偉大な政治的超一流な人物だったと云えるのではないでしょうか。

「擔尿漢」はどう読みますが?

2010-05-14 18:18:43 | Weblog
 昨日書いた「擔尿漢」は、「たんにょうかん」としか読めないように思いますが、よく考えてみますと、もっとましな読み方があるように思えるのです。聞いただけで、それがどんな事をするのか、誰にでも分かるような一般に通用するような読み方があるのではないでしょうか。

 ご存じのお方は教えていただけませんでしょうか。

 それはともかく、この婦女子の立小便なんてのは、滑稽なとても様にも何にもならなかった風習だと、江戸人には写ったのでしょう。天子様がいる京都での風習として外国人には、特に、見せたくはなかったのだと思います。早くこんな風習は辞めなければいけないと忠告さへしています。江戸には、このご婦人の立小便の風習はなかったので、余計に、江戸人にとっては、そんな奇異な日本の恥じるべき風習だと思っていたのは確かです。
 その京都辺りのご婦人の立小便を見た西洋人も、これには大層相当驚いて、日本の女性は、西洋の人のそれより、腹に近い場所についているから、あんな恰好で小便が出来るのだと思ったと、書いてある本もあります。

 とんだ所に話が飛びましたが、こんな話はめったに聞けるものじゃあないのではないかと思い、敢て、恥を承知で、書き綴ってみました。お許しください。
  
 これにて、小便談義は終了します。

青々青菜

2010-05-13 19:54:02 | Weblog
 小便談義について、もう少々のお付き合いを?????
 
 あの十返舎一九の「東海道長膝栗毛」に出てくる、京都での弥次さん喜多さんの話ですが、次のような場面があります。

 当時、京都では、古来から大便は家主の所得で、小便は借主の所得になる習慣があったようです。それは、大小便を汲取る百姓が、大便は元肥、小便はかけ肥えと分けて使っていたという事から分かります。

 こんな習慣を詠んだ当時の川柳があります。

    青々青菜に小便しようとて百姓ありく

 都繁昌記の「擔尿漢」には「所謂侏離鴃舌」と書いていますが、実際には、此の川柳にあるよな「青々青菜」と、その百姓たちは、大声を上げながら町中を歩いていたのではないかと考えられす。
 これを書いた因果道士が聞いたこの「青々青菜」を、百姓は「あおあおあおなー」と京都弁特有な呼び声で、大声で叫んで歩いていたのだと思われます。この「あおあおあおな」は「ああああああな」と大変は大声でがなりたてるように聞こえたのだと思います。これでは、その意味など分かるわけがありません。将に、「侏離鴃舌」そのものです。
 
 こんなあこがれの京の都に来た弥次さん喜多さんも、当然、因果道士が聞いたであろう此の何だか知らないが意味の分からん言葉を耳にして、大いに驚いたことだろうと思われます。何せ、江戸ではついぞ見かけない大変珍しい風習です。興味津津だったことには違いありません。
 こんなな時も時です。弥次さん達の眼の前で。多分、これも「擔尿漢」にありますが、その汲取った尿の量の多いの少ないのと言って、百姓と、多分、町屋の山の神でしょうか、言い争うをおっぱじめたのでしょう。その結末がどうなったのかわ知れませんが、その場面に出くわした弥次さん達は、町屋のおかみさんたちに応援したのでしょう。百姓の汲んで来た小便桶に、己の小便を足してやります。結局、普通なら2本の大根だったのですが、それを3本も貰ってやることになるのです。

 そう書いてありますが、考えてみますと、いかに、弥次さん達二人が踏ん張って小便をしたといても、もともと大根2本だったものが3本にまで、そんなに大量の小便が出るはずはありませんが、それが3本になるのです。そこら辺りを滑稽小説らしく面白可笑しゅう描いているのにも感心させられます。

 いかなる場でも姿を見せるこの弥次さん達の機知に富んだとんちに、江戸の読者は一喜一憂しながら、読んだのだろうと思われます。
 ここらあたりにも、「東海道中膝栗毛」の、今でも多くの読者をひきつける所以があるのではないでしょうか。

青物と小便の交換の話

2010-05-12 10:07:02 | Weblog
 「京都の婦女子の立小便」について少々薀蓄を傾けましたが、この京都の小便について、こんなことを書いている人もいます。あまり興味が湧かないだろうとは思いますが、まあ、「こんなこともあったのか」と、思われるお人もいらっしゃるのではないかと思い、古い本を引っ張り出して調べてみましたので見てください。

 その本は、「都繁盛記」です。 
   

 写真にあるように、何やら難しい漢字がびっしりと並んでいます。私の手に負える代物ではありません。そこで、これを持って、ご無沙汰している例の珍聞漢文氏を尋ねます。

 写真ではよく分からないかと思いますので、そこに並んでいます字を、少し書き写しておきます。

 「・・・・・爾時有賤夫擔尿桶一隻及小籃盛以時新菜蔬公然高叫過、其言急且略、所謂侏離鴃舌・・・・・・・」
 と、延々と並んでいます。

 漢文氏は相変わらずの物知りです。ここにあります「侏離鴃舌」という字なんかもあっさり解決してくれます。
 
 「これか、シュリゲキゼツと読んで、なにゅういよんかようわからんというこっちゃ」
 たちまちのうちに読み説いてくれました。


 この文の全部は必要がないので、面白そうなところだけを読んでもらい説明を受けました。
 
 それによるとこの部分の大体の内容は次のようになるらしいのです。

 「時々にです。都の周辺にいる百姓は尿桶2つと取れたばかりの野菜(青物)を篭にいっぱいにして、町中の歩いているのです。その掛け声は、傍で聞いていると、「一体、この人は何を言っているのか」と、さっぱり分からないような、ただ、大声を張り上げているだけのように聞こえるのです。でも、よく聞いてみると、どうも、百姓が擔いできた野菜と大根や茄子やその他の野菜と町家に溜めてある小便と交換するための掛け声のようです。
 その百姓の声を聞くと、家にいる夫なり妻なりが戸口に出てきて、自分の家に溜めている小便と野菜を交換するのだそうです。
 その交換にもちゃんと順序があります。まず、百姓は、その家に必要な野菜を聞きます。大根か茄子か菜っぱなどと。それが済むと、その家に入り持ってきた肥桶に尿を汲取り、その量の多少によってに、持ってきた要求のあった野菜を置いて帰ります。この時、しばしば問題が起きるのだそうです。それは、百姓の置いて帰る野菜の量の多少です。その多少で言い争いになり、
 「至相嗔相罵其甚者令傾桶還瀉」
 と成ることもあるのだそうです。
 「両者ともものすごく怒り罵り合い、終いには、百姓は汲取った小便を元の所へ流し込む」という説明を受けました。

 この町家の糞尿を、当時の百姓達は、肥料として使うために、彼らのの作った野菜と交換していたようです。

 

紀行羇旅慢録

2010-05-10 11:20:19 | Weblog
 久しぶりにと、いっては何ですが、例の飯亭寶泥氏からお便りを頂きました。
 
 「おめえは、舟に乗る時の為の小便用の火吹き竹や淀川での船旅の時の便所のことをけえとったが、江戸時代にゃあ、この小便にちぃいて、おもしれえ話があるんじゃ。しりゃあへんじゃろからなあ、おせえてやる。滝沢馬琴がけえた「紀行羇旅慢録」というもんのなけえ、出とるんじゃ」

 といって、ご丁寧にも、その一部をコピーして送ってきていただきました。

 というわけで、一寸、これ又、綱政侯には失礼ですが、その小便に付いて、横道にそれます。
 
 それは「女児の立小便」と題する一条です。

 「京の家々厠の前に小便擔桶(しょうべんたご)ありて女もそれへ小便する故に富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但良賤とも紙を用ゐず・・・・・・月々六斎ほどづヽこの小便桶をくみに来たるなり、或は供二三人つれたる女 道ばたの小便たごへ立ちながら尻をむけて小便をするに恥るいろなく笑う人なし」

 「しりゃあへんじゃろうが」というのですが、この女性の立小便は私は小さい時分に見て、知っていました。
 戦争前の話ですが、私の祖父の従兄弟の娘で名は「ななちゃん」と呼ばれていました。彼女は、当時、山の上にあったお寺の娘で、旧制の女学校へ通っていた大変美しい、子供心にも「きれいなお姉ちゃんじゃなあ」という気がするほどの美女でした。普通は、女学校の寄宿かどこかへ泊っていたのですが、時々、山の上の自分の家に帰る途中か何かで、祖父の家に立ち寄ります。
 ご多分に漏れずに祖父の家にも、馬琴が書いている「小便たご」がありました。唯、簡単な囲いがしてあるだけのお粗末な小便壺が置いてあるだけの物です。
 ある時です。そのきれいな女学生のお姉さんが、そのお粗末な小便壺の中に、臆面もなく立ち小便をする姿を見てしまったのです。母や私の身も周りにいる伯母さんたちの立小便の姿はいつも目にしている物ですから、決して、その立ち小便には、奇異さを感じ取れなかったのです。田植時になると、そのおばさんたちが器用にする泥田の中にする立ち小便には、何とも云われないような、絵にでもなるような面白さがあるように思っていました。でも、この美しいお姉さんが尻をからげてする立小便にはいささか面食らったと、いう記憶があります。おさげ髪のセーラー服の襟の白色の二本の線がやけに目に焼けついたのを、今でも、覚えています。

 それぐらい女性の立小便は50年くらい前は、日常茶飯事なことだったのです。

 

淀川を下る。

2010-05-08 16:51:52 | Weblog
 二十三日に伏見から川舟に乗って淀を下り、一路岡山を目指しますが、この二十三、二十四日とどのような旅であったか、この歌紀行には、二十二日と同じように何も書かれてはいません。次に、出てくるのは二十五日のことです。
 伏見に宿した夜は、それまでの宿のようなあわただしさがなく心静かに過ごしたと書かれています。しかし、二十三日に船出して以後の二日間に、何かが起こったことは確かですがそれが何かは分かりません。

 ただ、「二十五日、雨つづきて淀にかかりぬ。夜に入りて雨のやみ風も追手になりぬとて船を出しつ、」

 と、二十五日の夜になってからの事が書かれていますので、その何かを推察することはできます。
 
 この文章から考えられることは、明暦三年、神無月二十三日、伏見を船出してから、途中で風雨が激しくなり、そのまま舟はそこいらに停泊して、天候の回復を待てえいたのでしょう、二十四日も、依然として天候の回復は見られず、そのまま、舟の中での過ごされたのだと思います。その為の空白の時間ではないかと予想されます。
 それが二十五日の夜になって、雨もやみ風も追手になったので、出発されたのでしょう。
 結局 二十三、二十四、二十五日と、三日間、綱政侯の一行は舟の中で過ごされたことになります。その辺りの様子を、この紀行には、何も書いていません。待つことしか方法がなかったために、随分と寛容な当時の人たちの生活が思われます。「今の人だったら」と、あらぬ方向に思いが向きます。 
 
 このように考えてみますと、昔の旅は、今のそれとは比べものにならないくらい、天候に、大きく左右される場面が、しばしばあったのでしょう。特に、大名の参勤交代の旅がいかに大変だったかという事が、この歌紀行からもよく推察できます。食事はどうあったのか、それぞれの人の寝る場所は、また、便所はなどと、思いが次から次へと巡りきます。

 

再び 綱政侯の歌紀行

2010-05-07 14:11:52 | Weblog
 端午の節句で、またもや、思わぬ横道に反れてしまいましたが、後少なくなった綱政侯の歌紀行に戻ります。


 綱政侯が伏見に到着されたのは、草津の宿を出た二十一日のたそがれでした。

 それまでの旅の日程から考えると、当然、次の日の二十二日に伏見を発つはずですが、なぜかわ分からないのですが、この日については、何も記されてはいません。
 二代目備前岡山藩主綱政侯の「初上り」です。千人程度の大旅団です。京での藩主綱政侯の知り人と逢う等といった個人的な思いで旅の日程が変更されるはずがありません。次の日からは船旅です。天候不順かなと、思ったのですが、伏見につかれた二十一日の夜は「月あかふさへわたり」と書いています。嵐とかそのような兆候は何一つありはしないのですから、いよいよ訳が分からない空白の一日です。

 それが、この歌紀行に、次に、書かれているのは「神無月、二十三日」のことです。

 「舟に乗りて淀に下がりし比、例のはるばる侍し人の名残おしみてしたいきたり、漕出る跡のみながめる、涙も留め難く、

    淀川の 水かなみだか 別れゆく
             袖になみたつ 今朝の出船
 と。

 沙弥満誓の「世間を何に譬へむ朝びらき漕ぎ去にし船の跡なくがごと」を本歌取りしています。
 
 淀川のしぶきで袖が濡れたのではない、別れを悲しむ私の涙で袖が濡れている、今朝の、私の別れであったことよと、歌いあげています。別れとは、満誓のいうような無常な別ればかりあるものではないのです。こんな涙で袖を濡らす、有情な別れがなんて多いことだろうかと、堂々と、満誓の向こうを張ったのかどうかは分からないのですが、臆することなく、十九歳の青年藩主が歌いあげています。「なみたつ」、波立つと涙の懸け言葉まで使った非凡な歌人(うたびと)だったと思いますです。

 なお、この満誓の「漕ぎ去にし」は漕ぎ「イにし」と読みます。
 「はよういのうやー」と、友達なんかと、だらだらと長話をしている母親に対してその子供が、しきりにせがむ場面を、岡山地方では、度々目にする事があります。
 今では、この「いのうやー」という言葉は、吉備地方(備後を含めて)独特の方言のように思われていますが、元々は(平安以前の世では)この言葉は標準語として一般に広く使われていた日常的な言葉だったのです。それがいつの間にやら、備後を含めて吉備地方だけ(?)に使われるような方言になった言葉だと思います。岐阜・名古屋辺りでは、どうなのかは分からないのですが。知っている人は教えてください。

 小野小町の歌にも
 「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘う水あらば去なんとぞ思ふ」があります。これも「イなん」です。

 「いぬ」。「どこかへ帰る」「その場所から立ち去る」という意味なります。でも、近頃では、いいことか、悪いことかは分からないのですが、この言葉も、また岡山地方でも、死語になりかけているきらいがあります。