私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

とんだ失敗ー「オオルリとルリタキ」

2009-03-31 14:27:33 | Weblog
 3月尽です。少々の肌寒さは感じられるものやはり春の盛りです。吉備津宮の桜が気になり出かけました。見事な枝垂れの桜が池の水面に、そよふく穏やかな春の空に、その己が姿を眩しいまでに映し出しています。
  
 このほかの神社の周りにある「ソメイヨシノ」の桜は、まだ、咲き初めたばかりで、この2,3日らいの春先にしてはやや寒々とした風に、お手玉でもされているように、満開を待ちわびているようでもありました。
 そのほんの1分か2分の咲きかけの桜の木の下を通って、自然と歩みが細谷川へと進みます。「あのオオルリはどうしているかな。もういないのかな」と思いながら。
 途中で「タラ」の芽を摘みつつ上っていきます。どうもその姿が谷川には見えません。
 谷川の遊歩道を下ってくる御夫人とすれ違います。見し人です。挨拶を交わして、また、しばらく谷川を上ります。すると、突然、シジュウガラが谷川の向こうの枝から枝へと、姿を見せたり消したりしながら飛び渡っています。そのシジュウガラの姿を追って私も谷川を下りますが、すぐどこに行ったか分からなくなります。
 しばらく下りていくと、先ほどの御夫人が何やら探すように谷川を見つめているではありませんか。
 「何かいるのですか」
 「谷に美しい鳥がいますよ」
 「どこにですか」
 「ほれ、あそこに青色の鳥が。ルリタキかしら」
 「あ、本当だ。あれはオオルリですよ」
   
 と、知ったかぶりをする私。
 「オオルリというのですか。私のご近所でもときどき見かけますよ。・・・あ、どこにいったでしょうか」
 その御夫人は、しばらくの間、何か不思議そうに頭をかしげながら、それからゆっくりと道を下って行かれました。
 私は、一昨日見たあのオオルリが、まだ、ここにいてくれたかと、大いに感激してしばらく谷川の青い鳥を追います。
 ちょっと谷川を上った岩の上から「ここにおるぞ、おまえを待っていたのだ」とでも言うようにじっとことらを見ています。
 その時、先ほどの御夫人の言われた「ルりタキ」という名が、突然に、頭の中に湧き上がってきます。御夫人に「オオルリですよ」と言ったあの青い鳥も、何か知らないのですが私の周りからそんなに遠くへは飛んでいきません。谷川にある小枝に留ったかと思うと今度は谷川の岩の上にと。よく見ると頭をしきりに上下させる動作を繰り返しています。不思議なのですが、私には、それが「そうだ。そうだ」と言っているように思えてなりません。
 「何がそうなんだ」
 と、思いながら、その様子を数枚の写真に納めて帰りました。
 その私のオオルリは、まだ、そのあたりを飛び交っていましたが。

 家に着くなりさっそく調べてみました。
 オオルリでなく、やっぱり「ルりタキ」でした。
 谷川のルりタキがあのきれいな声を聞かせてくれないのかが何となくわかったようでもあります。
 とんだ「失敗の巻」でした。
 

吉備って知っている  129 緒方洪庵の旅日記④

2009-03-30 12:54:18 | Weblog
 23日 曇不定
 「昼前より出立の御届に出、列席回勤。佐伯にて離杯相すみ、八ッ半(三時頃)足守発足。高松大橋に立寄。千足村、米屋浅吉へ見舞。夜四ッ(十時頃)時宮内光政へ着。佐伯より忠太夫を若党して、同所へ送りに相来る。立出の節見送り、喜多、山田・・・。
 妹尾又玄今昼より宮内へ来り、半嘉に一宿のよし。翌朝面会す」
 と、あります。
 
 ・「高松大橋」ですが、高松にはそんな地名のあるはありません。もしかして「大崎」だったのではないかと思われます。
 この「大崎」には、洪庵のいとこに当たる「石原官平」という人がいました。その子に守屋庸庵という人がいます。この人は、洪庵が足守を訪ねた当時、守屋家に養子として入り、倉敷西阿知に住んでいたのです。その生家に父親の石原氏を訪ねていたったのではと思われます。
 なお、この日記が終わったら、次に「足守徐痘館」について少しばかり触れたいと思うのでが、その館で大変な活躍をするのが、この洪庵のまたいとこの守屋庸庵です。
 
 ・光政というのは姉(喜智)の堀家の家です。足守から宮内まで千足などに立ち寄ったために午後十時頃到着しています。米屋浅吉が何者かは分かっていません。「見舞」とありますので、診療方々訪ねて行ったのではと思います。何か姉の「おきち」と関係が大いにありそうな感じがしますが、その辺りの事は歴史の中からは完全にたち消えてしまっていることです。が、洪庵の日記の中だけに「千足村、米屋浅吉」の名前が細々と残っているだけで、誰も注意だにしていません。

 なお、少し調べてみたのですが、母(きよう)の賀宴に列席したと書かれている「津下成斎」という人ですが、適塾姓名録には岡山藩医学館に勤めた津下精斎という人がありますが、その人であったのかも知れません。なぜ、この津下という人が洪庵の母の米寿の祝いに参加したのかはよく分かりません。

 ・「妹尾又玄」という人は箭田で医者をしていたやはり適塾に学んだ人です。適塾姓名録には「又玄」でなく「遊玄」とでています。
 
 ・「半嘉に一宿のよし」の「半嘉」というのは宿屋か何かだろうと調べてみましたが嘉永年間に作られた宮内の古地図の中には見当たりませんが、「茶屋米嘉」と、もしかして洪庵が間違って書いたのかとも思われますが。米嘉はありました。
 
 なお、「米」という字の草書体を。後世の人が「半」と読んだのかも知れませんが?

吉備って知っている  128 緒方洪庵の旅日記③

2009-03-29 19:22:53 | Weblog
 21日に母「きよう」の米寿の賀宴は夜半に終わったと、洪庵先生は、その日記に書かれています。
 
 その翌日22日の日記から

 「早朝午時迄病人診察」とあります。一時も自分の医者としての務めを怠ったことはないのです。
 「今日堀家姉君、右兵衛(高雅の兄輔政)下総守(高雅)お梅、宮内へ帰り」
と、あります。
 なお、ここに出てまいります「お梅」という女子は17,8歳頃で、輔政の長女でした。蛇足ですが、このお梅さんは、その後、すぐ大坂堺の医者平井是龍という人の妻になっていますが、これも洪庵先生の口添えか何かがあったからだと思われます。その後裔は今どうなっているのか機会があれば調べたいと思っています。
 「原田磊蔵、別府琴松帰郷」
 とあります。
 洪庵先生も帰郷を聞いて駆け付けたのです。その人柄が大変よくわかるエピソードです。
 「田中右門太より書状到来。□□申来る。右兵衛へ返事伝言す」
 と、あります。□□はどんな字が書いてあるのか判断ができないのだそうですが、その2日後、24日の日記を見れば想像がつくのですが、それはまたその時にでも。

 なお、現在では想像もつかないのですが、緒方先生の奥様「八重」というお人の事ですが、この人は大変出来がよく、福沢諭吉などから「大坂の母さん」と呼ばれ慕われていたということです。普通なら、姑の米寿の賀宴ですと一番に駆けつけなくてはんらないところですが、何せ大阪からです。そして洪庵にはこの人との間に6男7女の子供をもうけていますので、そんな暇もなかったのではと考えられます。

吉備って知っている  127 緒方洪庵の旅日記

2009-03-28 09:22:47 | Weblog
さて、緒方洪庵の「壬戌旅行日記」です。文久2年4月の洪庵の母「きやう」の米寿の賀宴のための帰省の折の日記です

 「21日 晴
   昨夜より別府琴松来り、河本屋に宿し、今朝対面す」
 とあります。
 
 河本屋というのは足守にあった旅籠のような宿屋だと思われます。また、この中にあります「別府琴松」という名前は洪庵の弟子だったのです。
 適塾姓名録の中に
 「備中窪屋郡中島 別府真敬倅 別府琴松」と、書かれています。
 また、明治6年8月に、この別府琴松から、当時の小田県権令矢野光儀あてに提出されている書類の中に
  1嘉永4年辛亥十月より大坂緒方洪庵に従ひ安政元年甲寅四月まで都合二年七   ヶ月西洋方内治済生三方医療正始扶氏経験遺訓研究
  1窪屋郡中島村に於て開業
      右通相違無御座此断奉申立候
    なお、「扶氏経験遺訓」は洪庵の著書です


 などからも分かるように、現在の総社市上中島(旧清音村)に住んでいました。この別府琴松が洪庵先生足守に帰るという報に、急いで3里あまりの道を足守まで駆けつけてきたのです。
 

 この日の日記より
  ・「1早朝より午時迄病人診察」
 とあります。たまに帰った古里、のんびりとでも、思うのですが、洪庵はどこにいてもいつも医者としても務めを果たしています。
 
  ・「午後山下立三、原田磊蔵来る」
  ・「午後より佐伯賀杯
    姉君(洪庵でも頭の上がらない姉おきちです)兄君夫婦・・・」などの関   係者の名前を記しています。
  「夜半に終わる」と。
 山下立三はよく分からないのですが、原田磊蔵は適塾で学んだ後、福沢諭吉と一緒に江戸に出て、更に医学を勉強しています。

吉備って知っている  126 緒方洪庵の旅日記

2009-03-26 10:48:16 | Weblog
 文久2年4月、洪庵は「壬戌旅行日記」と記しております。
 
 なお、又横道にそれます。ご存じの事だとは思いまっが、まあついでですので書いてみます。
 この「壬戌」は「みずのえ・いぬ」です。文久2年です。ちなみに、今年はこの呼び方で言うと、つちのと・うし「已丑」に当たります。
 その年の呼び方として、「昭和・平成」等という年号でなく中国の5行説から生まれたと言われます「十干」があります
 「木・き」「火・ひ」「土・つち」「金・か」「水・みず」のそれぞれに兄弟がおり、それが「きのえ(兄)」と「きのと(弟)」となり、次は、「ひのえ」「ひのと」「つちのえ」「つちのと」「かのえ」「かのと」「みずのえ」「みずのと」なり、それぞれに漢字一字づつを当てはめます。
 きのえに「甲」、きのとに「乙」と順に丙(ひのと)丁(ひのえ)戊(つちのえ)已(つちのと)庚(かのえ)辛(かのと)壬(みずのえ)癸(みずのと)です。この十干と子丑寅・・などの十二支が結びついて昔はその年の呼び名が決められていました。
 きのと・ね【甲子】から始まって、きのえ・うし、ひのと・とらというように続いていき、つぎの【甲子】まで60年かかります。60年たつと元に戻るということから、暦が帰る、即ち「還暦」と呼んでいるのです。

 なお、この前、倉敷工が奇跡的な勝利を得た高校野球の試合が行われた甲子園球場は大正13年にできています。この年が丁度「きのと・ね」即ち、甲子の年ですから「甲子園球場」と命名したと言われています。この他、日本の歴史の中にも、この呼び方を使った、「壬申の乱」がとか「戊申戦争」だとかという歴史的な事件の名前が教科書にも出ています。なお、大正13年から60年たった昭和59年も甲子の年でした。

 まあこんなしちめんどくさい年の呼び方等知っていなくたっていいとは思うのですが、平成21年で十分なのですが、面白がって「已丑」だなんてよくわからんような年の呼び方で言う人もいます。そんなもんかいなというぐらいに記憶にとどめておいてもらえたらと思い、書いてみました。

 こんなくだらないことを、長たらしく知ったかぶりして、いい気になって書いたものですから、肝心な洪庵の旅日記の方は明日に回します。

吉備って知っている  126 緒方洪庵と宮内

2009-03-25 11:07:34 | Weblog
 洪庵の姉「おきち」が宮内の堀家徳政と結婚して輔政と高雅を生んでいます。そんな関係で洪庵もたびたびこの宮内に足を運んでいます。
 記録には残されてはいませんが、高尚が天保11年8月15日に亡くなっていますが、その葬儀に帰ってきたのではと思われます。また、弘化4年の9月20日に洪庵の父佐伯惟因、高雅の祖父が歿しています。やはり洪庵も、当然、足守に帰ったものと考えてもいいのではないでしょうか。
 これは記録に残っているのですが、目的などは分かってはいませんが、嘉永6年5月8日に宮内に来たことは分かっています。
 さらに、嘉永元年3月に、洪庵が、時事の事について手紙で報じて来ています。今その手紙がどうなっているのかは分かりませんが。宮内の何処かの家にひっそりと姿を隠しているのではと想像しています。見つかると、日本の夜明けが一層ははっきりとしてくるのではないかと思われます。
 その後もう一回宮内に洪庵は尋ねています、それは彼の日記にちゃんと記されています

 その日記は明日にでも。 
 
 なお、高雅は、度々、京や江戸に出ていますが、その都度大坂の洪庵の所に立ち寄っています。

吉備って知っている  125 緒方洪庵と藤井高雅

2009-03-24 17:20:34 | Weblog
 緒方洪庵の父は備中足守藩佐伯惟因です。この人は、また、高雅の祖父でもあるのです。即ち、洪庵の姉の喜智女(通称おきち)は高雅の母です。
 この高雅の祖父惟因から洪庵に宛てた、天保9年8月の書状が残っています。
 この書状によりますと、瘧病(ぎゃくびょうーおこり、マラリヤか?)になった高雅を診察してもらうために、兄輔政を介助役として、大阪の、当時日本一の名医と謳われていた緒方洪庵の元に遣ります。
 その前の月には、高雅の子尚太郎が死んでいます。人の死に対する恐れを人一倍知っている「おきち」の、どうしても、今、しなくてはならないことのように思ったのでしょうか。きっと、この書状を弟洪庵に書くようにと、父である惟因に頼んでのではないかと想像がつきます。この時、高雅は20歳です。
 なお、この書状の最後には、洪庵にその症状を見てもらったら、「宮内で静養させるので、早々に宮内に返すよう」にしてほしいという言葉も書き添えられています。
 これも、母おきちの心配が祖父をしてこの書状を出さしめたのではないかとも想像できます。あるいは、おきちが父に頼んでやったことではないかとも思えまます。
 また、その後、高雅は、天保12年にも、将軍家へ御祓箱を献上しに、吉備津神社の代表として江戸に行っています。その時も、祖父として惟因から洪庵宛に、「高雅が大阪に立ち寄るだろうからよろしく」という書状が送られています。これも、もしかして高雅の母であるおきちの父へ依頼であったかもしれません。
 この高雅の母「おきち」は、当時にあって本当に日本一、二を争うような気丈な女の人であったようです。おもしろいことなのですが、父も弟も、この人には一もなくおされぎみなお人ではなかったかと思えるふしが方々で見られます。

 まあ、それはともかくとして、何回か大阪を訪れている高雅は、洪庵の適塾での教育を聞いていたのだと思います。その教育方針「人の為に生活して、己の為に生活せざる医学」ということ言葉が、自分の「後松屋」の運営方針の基本となったのではないかと思われます。
 
 

吉備って知っている  124 藤井高雅の教育方針⑫

2009-03-23 20:36:24 | Weblog
 高雅は養祖父高尚の後を継いで松屋社中を盛りたてています。高雅が引き継いだ社中は、高尚の「松屋」に対して「後松屋」と呼ばれていました。そこで高雅もまた吉備津を中心として多くの子弟を育てています。
 この社中を経営するにあったて高雅はその教育方針を、次の5項目に定めて門弟の指導にあたったようです。
  1、分を守りて家業をつとむべし
  1、心をためて正直なるべし
  1、怒を忍びて柔和をならうべし
  1、義気をはげまして懈(おこた)りなかるべし
  1、堅く私の欲を慎むべし
 なお、この後に、ご丁寧に「つねにこころのおきてとすべし」と、高雅は書き添えています。


 江戸期の社会での特記すべき学訓です。現代の高等教育においてもこんな方針を立てて経営しているところは少ないのではと思われます。
 そんな私塾がこの吉備津に存在していたというのも大変珍しいことです。
 正直で柔和で義気を持って私欲を慎むなど、どこかの国の政治家に聞かせてやりたいとものだと思います。
  なお、高雅には緒方洪庵という著名な叔父さんの適塾の教育方針を高雅の「後松屋」に取り入れたのではないかと思われます。
 吉備津という日本の片田舎の私塾でもこんな教育方針を示して教育が行われていたということは大変珍しいことでもあるのです。広く世界に目を向けて物を見る目を育てていたのです。
  
 江戸末期に、ここ吉備津では、高尚、高雅と続いて二人の偉大なる教育者が生まれています。しかし、淋しい限りですが、今では、吉備津でも、「高雅?そんな人知らんでえ」と、まことに愛嬌なしと言うのが現実です。

 高雅の歌
    ・のどけさは いろともかとも なかりけり
            むぐらのやどの はるのあけぼの
    ・すみわびぬ 山へもがなと おもひける
            こころあやしき 花ざかりかな

吉備津の桜が開花しました

2009-03-22 13:24:39 | Weblog
 昨日23日ごろが開花する予定だとお知らせしましたが、今朝、もしやと思って吉備津神社にでかけました。あんのじょう、私の標準木の梢に4,5枚のさくらが初々しい花びらをはずかしそうに開いていました。念のためにと、周りの木を見てみますと、どの木にも3,4枚の花びらを見せておりました。今日、3月22日が吉備津の桜の開花日です。昨年と比べてみると一週間も早い開花です。
 
 そう言えば、昨年も開花の時に竹の子も出たなと言うことを思い出して、早速車を飛ばします。
 
 竹藪はひんやりと静まり返っています。この分ならやっぱりまだ出てないかもと思いながら、足裏で地面をなでるようにして探します。この時期の竹の子はまだ地面には顔はのぞかせてはいません。土の中にじっと潜んででいるのです。足裏でしか見つける方法はありません。地面を踏んだその時の感覚からあるかないかを判断するしか方法はありません。コツっと言うわずかな足裏に伝わる感覚で探し当てるのです。
 「まだかな」と思っていたのですが、そのうちに足裏にその感覚が伝わってきます。ここにも、またここにもと10本ぐらいの初々しい竹の子が見つかりました。田舎に住んでいなかったら味わえない春の楽しみです。
 
 今晩の楽しみです。竹の子独特の風味はこの時期の採れたてのものでなかったら味わえない風味です。あく抜きなんてとんでもありません。すぐ煮てやわらかく食べれます。

細谷川のオオルリ

2009-03-21 14:46:24 | Weblog
 23日(月)に、吉備地方の桜の開花宣言が出そうだとテレビが報じています。ここ吉備津の桜の開花はいつごろだろうかと吉備津の私の標準桜の木(吉備津神社の本宮社の前にある木です)を見にに出かけました。
 昨年は3月28日に開花していますが、今年は予報どうりの23日頃になると思います。昨年より少し早い開花となることは確かです。
 

 それから谷川を遡ります。さやかな音を立てながら谷川がすすり泣いています。
その両岸には、周りの大木が芽吹かない前にと、小さな楓の木があちらでもこちらでも、一杯に葉をのばして、太陽の光を吸い取って、眩しいくらいに輝いています。
 他よりやや早いかえでの若葉やあるかないかの谷川のせせらぎを聞きながら私だけの春を楽しんでみました。
 その時です。目の前の谷川に何やら動くすものがあります。すると谷川にあるこれも小さな枝に一羽の鳥がじっとこちらを窺っております。はやばやとオオルリのお出ましです。しばらくオオルリを追って私も谷を上に下にします。声でも聞けたらと期待してあちらこちらと、しばらくオオルリ姿を追いかけます。残念ですが声はまだ早いと思っているのでしょうか鳴いてはくれませんでした。写真だけはばっちりとってきましたのでお見せします。

      
 それからしばらく谷川に目をやりながら進みます。今日は、僥倖(ぎょうこう=予想もしなかっためったにない幸運)に2度も出会えました。というのは、またしばらくすると木の上にちっちという鳴き声、そうです。時々出会えるあのキツツキの仲間のコゲラが木を渡っているではありませんか。コゲラハオオルリのようには一か所にじっとしてはいません。すぐとこかへ姿を消してしまいました。写真には撮ったつもりですが写真の中にその姿が見当たりんせん。

吉備って知っている  123 藤井高雅とその仲間たち⑪

2009-03-20 20:16:06 | Weblog
 天保11年8月15日に藤井高尚は歿しています。彼の松屋社中は一時火が消えたようにさびれます。その時、高雅はようやく20歳になったばかりです。その彼が高尚の後を受け継いで松屋の学風を維持し、経営していくのです。
 そんな高雅を訪ねてはるばる越前の国学者である高尚の高弟妙玄寺義門と言う人が宮内を訪ねてきております。この人の日記に少しばかり面白い記事がありましたのでご紹介しておきます。

 時は天保14年5月です。そうです。高尚の死後3年たった時です。かの鶏頭樹園(高尚先生の別荘)に多くの人が集まり、この妙玄寺義門を中心にして沢山の歌を詠んでいます。
 高雅をはじめ、実兄の堀家輔政、堀家政足、堀家正樹、藤井尚澄、虫明善文、橋本本資、橋本真琴、佐々木真弓などのすぐれた歌人達が集まって歌会をしています。

 その日記に
 「皆たにざくにかきて、かの小床におきつ。さて酒のみなど為しあひつつなほ歌ものがたりしあふ。いまだくろうもしらざりけるに、ともし火ともしたるにや、中山にいざよう月みすぐさじと、はしに出てみれど、いざよい出てかすめる、いとおぼつかなきここちす。細谷のかはとだにみんと思う月あやにくにおそくいづらむ・・・・」
 と、あります。
 それからみますと、当時の宮内の文人たちはこぞって、この吉備津神社の南を流れている川を細谷川としていたのではと思います。すると、前にあげた野之口隆正の「細谷川古跡」の石碑は、ここに立つべくし立ったのだということが分かります。
 
 それはそうとして、江戸末期の天保年間に、こんなに沢山の歌人がいたということは、宮内が、山陽道随一の遊興地だったということの他に、高尚という一人の偉大な学者によってもたらされた高い文化を誇る和歌や国学を中心とした学術的な町だったということが分かります。
 これ以前もこれ以後の時代にもなかった、長い吉備津の歴史の中で特記すべき文化的な時代だったということです。
 それは、ただ男性だけに限ったことではありませんでした。高雅の母堀家喜智も、兄の妻堀家登与も、堀家千代も、高雅の妻松野も、後妻の若枝もやはり歌を詠んでいます。相当の数の歌読みが当時の宮内にはいたのです。それだけ文化教養豊かな地域であったことが知られます。この影響は一般の人だけでなく、言い伝えによると。当時の遊閣にいた宮内の遊女の中にも、歌を読む人が大勢いたとか。

  みな草も やくもえ出つ あすかゐに
            いざ水かはん 春の若駒  喜智女(高雅の母)


吉備って知っている  122 藤井高雅と業合大枝⑩

2009-03-19 20:39:53 | Weblog
 業合大枝と高雅とはほぼ師弟関係にあったようです。この大枝は高尚の高弟の一人であり、高雅より大枝は30歳も年上ですから、若き高雅が大いに傾倒したことには間違いありません。そして、その学業にも大きな影響を与えたことは確かです。
 次のような、高雅から業合大枝に宛てた手紙も残っております。

 「毎度御厄介には御座候へ共、詠草少々御加筆を願候。歌合数百首候へ共、此分少々入用之事有之候分ニ而、急二御加墨ヲ願上候
                             たかえ

 と、自分が作った数首の歌の添削を依頼しています。

 大枝の高雅に与えた和歌をはじめ国学の学問上の影響は大きなものがあったと思えんます。日本固有の「みやび」「やまとごころ」等を深く学びとたっのです。

吉備って知っている  121 藤井高雅と野々宮隆正⑨

2009-03-18 20:31:53 | Weblog
 高起は弘化3年頃、丁度、「細谷川古跡」の石碑を建立した頃、高枝と名を改めています。そのすぐ後に、三度、名を「高雅(たかつね)」と改めています。その前年に妻松野(高尚の孫娘)が子紀一郎を生んで即日亡くなっています。高雅と名をあらためた原因が、そんなことに関係があったのでしょうか。
 この頃盛んに沢山の歌を読み、歌集を作っています。
 その沢山ある歌の中にこんな歌を見つけました。

 野々口隆正の書ける奴の絵に
     衣箱の 身はかろむとも ふたごころ   
              もたじみくにの 手ぶりたがうな

 野々口隆正の石碑が吉備津神社の中にある意味が次第にはっきりします。
 高尚の後を継いで宮司になった高雅も、隆正を知っていたのです。当然、吉備津神社としての資金の提供はあったのではと思われます。弘化2年の「お屋根替え」の記念碑としたです。
 そうすると、高雅も吉備津神社の南を流れるこの川を細谷川と考えられたのではと想像がつきます。南北2つの川を思い浮かべなくては「帯にせる細谷川」という意味が通じなくなります。
 だから、ここにこの石碑を建てても、決して、間違いはないのだと高雅先生もお考えになたのだと意を強くしています。

ちょっと旅してまいりました

2009-03-17 17:24:00 | Weblog
 15,16日と南信州に、仲間と一緒に旅としゃれてみました。
 3月半ばの日差しに包まれて穏やかな道中の景色が、バスの車窓から後へ後へ流れていきます。高速道路をびゅんびゅんと猛スピードで走る車の数はものすごく、どれもこれもきれいに着飾ってある真新しい車ばかりです。昔はよくあった、あのなんとも言えない「おんぼろ車」なんて一台も見かけません。こんなな高速道路の風景を見ていると、テレビニュースでしか知らない日本の「不況」なんて信じられません。不景気だなんて、どこの国の話だろうかとさえ思われます。日本は「金持ちなんだなあ。豊かなんだなあ」としか思えません。
 「豊かなんだなあ」と言う思いは、車窓を流れ行く車だけに限りません、通り過ぎる民家の家々にも、都会のビルディングにも感じられます。この豊かさとはいったい何ででしょうか。民家一つを取り上げて見てもそうです。車と同じです。すべてきれいで素晴らしい家々です。でも、なんだか私にはその車窓から流れ去る素晴らしい家々の風景にもなんだか知らないのですがわびしさ淋しさを感じるのです。
 それは、昔から何百年と引き続いだ、その地域の気候や風土から生まれた独特の特色を描き出していた家の面影が消えてしまってしまったということです。よっぽど交通不便の限界集落みたいな所に行ったとして、今では、めったにそんな懐かしさがにじみ出ているような景色にお目にかかることはできません。「何とか住宅」とかが建てた同じ規格の家が日本中を席捲しています。
 ああ、やっとあの国に来たのだという、昔みたいな、なんか懐かしいようなほのぼのとした感じがする面白みのある風情がなくなってしまっています。
 車と同じです。日本中家が、同じ規格の同一の軒端のない家々になり下がってしまっているのです。「軒端にゆれる」なんてゆったりとしたあの七夕なんてお祭りが消えてしまった原因にもなっていますが。しかし、たまにですが、築何百年という古いその地方の特色を色濃く残している民家をバスの向こうに目にすることもあります。そんなん風景に出会えると、私は、旅をする喜びみたいなものが湧き上がるように思われます。
 今頃を「旅する」と言うことは何でしょう。ただ同じものを目にするだけの、ただ場所を移動させるだけのむなしい一人の気晴らしにすぎないことでしょうか。
 そんな事を思いながら、それでも10人の仲間と行く旅は、まあ結構おもしろいものでした。目的地についてから歩く道端等に何となく顔ををのぞかせている雪割り草などを目にすると「旅っていいもんだ」と言う気にもさせてくれます。
 これが旅でしょうか。
 
 と、なんだかんだで、今回も、飲むお酒と一緒に旅を結構楽しんできました。

 大勢の人がバスや電車や飛行機の旅を楽しんでいます。
 果たして、旅とは何でしょうかね。どう思われます?
 

吉備って知っている  120 藤井高雅と業合大枝⑧

2009-03-14 20:14:29 | Weblog
  さて、高起も祖父高尚の薫陶よろし気を得て、国学者として大成していったのであります。
 その間、祖父高尚に負うところが大きかったのは、言わずもがななことですが、その他大勢の人たちの影響があったことも否めません。
 その一人に「業合大枝」がいます。
 この人は高尚の四天王として活躍していました。

 ちょっと、横道にそれますが。この人、大枝は備前国邑久郡今城村上寺山の人で、豊原北島神社の詞官でした。後に、高尚の勧めで、あの野之口隆正と同じ平田篤胤に入門しています。
 
 ある時、あの平賀義元が、備前邑久郡今城村にいた、この「業合大枝」を訪ねています。その目的はよくはわからないのですが、義元は、若い時、岡山藩を脱藩しています。当時、一度脱藩した武士は、永久にその地には戻れないという不文律がありました。そのため、義元は、永久に生まれ故郷の岡山の番町にはに戻ることはできません。いくら願ってもかないっこありません。
 老境に達した元義は、今までのように自由で闊達な、歌道一筋の奔放な生活にいささか倦ん、やっぱり、晩年は自分の生まれ育った古里が恋しくなり、そこで静かに自分の余生を送りたいと言う思いに駆られたのではないかと思われます。
 その実現のために、当時、岡山藩主の依頼で、多く藩士を教えていた大枝に頼ってどうにかしてもらおうという魂胆があったのではないかと思います。
 そんな義元の思いを、大枝は知っていたのだと思います。例え藩主にかけ合うことができたとしても、どうなることではありません。そこで、大枝は逃の一手にしかずと思ったのかどうかは分かりませんがに、逢わないことが一番だと思い、仕事にかまけて、義元には逢うことはしませんでした。
 あったからと言って、今更どうなるかということはわかりきっていることです。そこで、大枝は逃げの一手をうったのです。


 この義元と大枝が知り合っていたかどうかは分かりませんが、大枝を先生と仰ぐ高起との関係は以前から係わりがあったことは分かっています。
 まだ、高起が20~30代の頃だと思われます。ある春の桜の満開の季節に吉備津彦神社の詞官をしていた大守大藤内の邸で花見を一緒にしています。
 その花見の時、余興として出した高起の下の句「けふのむしろに散る桜かな」に対して、義元が「あけん朝はらうな富子おもしろく」と、即興の上の句を付けています。
 こんな関係から、この二人は相見知り合った同士だったと思えます。
 

 おもしろいのは、わざわざ邑久郡まで訪ねていたにも関わらず、冷やかな大枝の処遇に対して、義元のこんな歌も残っています。
    
   弓柄とる ますら男子(おのこ)し おもうこと
              どげずほとほと かえるべきかも

 どうです。こんな義元に私は喝さいを浴びせたいのですが。
 大枝は、やっぱり普通の人であるように思えます。大枝と義元を比べる方がおかしいのかも知れませんが。
 でも、この大枝は高尚先生随一のお弟子だんです。偉い人とは分からないものですね。
 とんだ方面に話が行ったようでが、今日はこのあたりで。2日ほどまた旅に出ますのでお休みします。
 では、17,8日に次回を。おやすみなさい。