私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

夕焼け雲 4

2010-08-31 15:21:14 | Weblog
 「あの者たちにも、ここにいるわれわれと、同様に、この高松の地で、堂々と、例え死すとも戦いに挑み、最後まで武士の面目を果たたいと思っていることは確かであろう。まして、数日以来の渦巻くまっ茶色の増水に、行き場もなく、どう足掻いても、どうすることも出きない己の運命を自らで呪うしか方法がない者の思いは如何ばかりであろうか。・・・・聞けば、高松城内には、それまでは、ついぞ見かけない、そこにそれまでの間にずっと居ずいていたのであろうネズミや家蛇まで、人の姿にも、いささかもたじろぐ様子さえも見せず、かえって、人の傍に寄り添うように近寄っていると、恵瓊殿より聞いたばかりじゃ。人も城の小さな生き物たちまでも、この異常な事態に、己の運命さえも見定められないで、大層の疲労困憊して、今を、そうです、今の此の時を、一体、自らをどう処すればいいのか考える余裕もない程の緊急の事態に陥っているのは確かなことなのだ。それを解決できる者は、今はこの広い世に、たった、一人、高松城主清水宗治しかいないのだ。残念ながら、兄上毛利輝元でも、決して解決させることは出来ないのだ。宗治公の切腹でしかそれを解決させることが出来ないのじゃ。残念じゃが、敵将の秀吉殿が、そのことを察して、ここにいる恵瓊殿にそれを託されたのじゃなあ。・・・・恵瓊殿そうであろう」

 恵瓊に向かって静かに問いかけられます。

 「・・・・はは、・・・愚僧は、先年、ひょんな所で、あの秀吉殿と顔見知りになり申した。それが縁で、此度の織田と毛利の和平の交渉に借り出されもうしたのじゃが。・・・それはそうとして、先ほど隆景殿が申された水中の高松城内のことじゃが、その通りの様子じゃッた。始めは女子どもは身近に近寄る蛇を見ては、恐怖のためにあらぬ大声を出して大騒ぎをしていたそうじゃが、愚僧の尋ねたつい先頃は、かえって相憐れむがごとくに、両者の間には、互いもう長い前から知り合っていた者同士のように擦り寄り共存しているがごとくに見えたのじゃ。不思議なことじゃが、人もそれらの小動物たちも同じ運命を背負った者同士のようにだ。・・・・泥水が押し寄せる城内を歩く、数々の戦場で振り廻したであろうのつわものどもの腰に指されている刀にも、大層わびしげな悲哀みたいなものが着いて回っているのではないかという風な翳が、愚僧には見えるように感じられたのじゃ。我の運命は自らの力で切り開いて進むのだと言う、昔からあった毛利の気風は何処にも見られず、ため息ばかりの人の歩みが見え、本来のあの溌剌たる覇気は何処を探しても見いだすことはできませんでした。ただ、腐った鮒のような虚ろな眼だけが、ぎょろぎょろとあらぬ方向を見つめて、あたかも夢遊病者の如くに歩んでいる姿だけが目に留まりました。是があの選りすぐられた精鋭が集められた高松城の今の姿かと我が目を疑う如くでございました。・・・・・先程申された、元長様と隆景様のいわれた武門の誉れについてじゃが、愚僧もそれについて、今、垣間見てまいった、あの城内の様子から少々話してみようと思うのじゃが、どうだ、聞いてくれるかのう、元長殿・・・・・・」

夕焼け雲 3

2010-08-30 14:34:02 | Weblog
 本陣の小窓をほんのりと薄紅色に染めていた夕焼け雲が、次第にその色を薄めながら、それでもまだ、福山の上に、その余韻をわずかに残しているのでしょうか、うっすらと青紫色を漂わせています。そこに集まった元春、隆景など、主だった毛利家の武将たちの顔々にもその影の変化(へんげ)の様子がはっきりと映し出されています。その薄光に照らされた隆景の顔には、この世の人とも思えないような悲壮な様相が浮かんでいます。そして、己の姿を打ち消すように、一瞬、さも威厳を示すように、また、あたかも自らにでも語りかけでもするように、苦渋に満ちた悲痛な面持ちを打ち消すかのように語りかけます。

 「武門の誉れの為には己の死をも省みない勇者が、我が毛利家だけではなく、あの秀吉の陣にも集うていると思う。十万を下らない兵士が、今、己の命をかけて、この地に集結しているのじゃ。・・・総ての者が己の武士としての誇り、そうじゃの元長殿の言われる。己の武門としての誉れの為に集うていることは確かな事だ。・・・・・・このような戦いが、もう百年にもなるだろうか、京に始まり、それが、今では、この国全体に広がり、この国の歴史上にかって例を見ない戦ばかりの世の中が繰り広げられているのだ。その総てが、武門の誉れと云う一語の元に戦を展開しているのじゃ。誰一人の例以なしにじゃ。分かるか例外なしに、一人もいないのじゃ」
 その顔が小窓を通した僅かばかりの西空の夕焼け雲の光に照らされています。其の一文字に結んだ口が細かく震えているのを、その場にいた総ての毛利の武将は見てとりました。
 暮れなずむ微小な雲を媒介にした日の光が、怪しく、その口元を薄く照らしています。

 「ううう・うう」という声ならぬ声が、隆景の口から漏れます。しばらくして、また、話しだします。


 「そうじゃ、残念ではあるが、その武門の誉れとやらを掴もうとしても決して掴み取れない者がわが陣営には、今、おるのじゃ。当然、武士として誰もが受けることのできる誉れが、どのように踠いても、どうしても掴み取れない憐れな勇者がいるのじゃ・・・・・・誰だか分かるか。・・・・その者どもも、元長殿達と同じように、せめて、どうにかして堂々と敵と相見え、武門の誉れとやらの元に死にたいと願がっている者が居るのじゃ。でも、それすらできないで、只、目前に差し迫った泥水の中に、湖の藻屑となって沈まねばならない、真の勇者として恥辱的な死しか甘受する事が出来ない憐れな我が勇者おるのじゃ。6千人もの者がおるのじゃ。・・・・・・分かったであろう。清水宗治を始め、あの高松城に籠城している者たちなのだ。・・・・」
 目に一筋の涙が流れます。
 「あの者たちの武門としても誉れは、此処にいる我々は、如何にして達成させてやればいいのだろうか。我らがその彼らを救いだそうと、この日差山から打って出れば、あの者たちも呼応して打って出れるでしょうか。あの水をどのように掻い潜って。それすらも出来なくて、結局は、あの湖水の水の藻屑になって朽ちてしまうのじゃ。・・・・・・・・・さあ、どうする。元長殿」

 若い元長、元丈などのその場にいた毛利の武将たち、じっと下を向いたまま、ぐっと言葉を飲みました。
 
 「その我が四万の武門の誉れを、いや、その誉すら奪い取られた高松城に籠城する六千のの誉れまで、自らが一人で、押し抱いて、武士の面目を果たそうと言う宗治の心意気を、今は、どうあれ、静かに見守ってやるのが、我ら毛利家の出来うる秀吉との最後で、唯一つの戦いではないか。確かに、我が毛利家にとって、それは忍び難いものである事は確かなことです。が、それで、6千の兵士の誉れを保つことが出来れば、それしか、他には是に代わる方法がないのではなかろうか」
 隆景の眼には後から後から悔恨の涙でしょうか、籠城している六千の兵士に代わる謝意の涙でしょうか。
 「ううう・・・」と、その場の、あちことから涙声が漏れ聞こえてきます。恰もあの湖水に渦巻く泥水のように、次から次へと。

 何時しか、小窓を照らしていたうっすらとした西空の夕焼けの明りは消えて、六月の闇が辺りに偲び来ていました。

夕焼け雲 2

2010-08-29 10:16:30 | Weblog
 その沈黙を破るように、父である元春は言います。
 「打って出るか。・・・・夜の戦か。まして、あの増水した大河、兄部(かわべ)川を渡っての戦いになるのだぞ。どう、水の逆巻く夜のあの川を渡るかも問題だ。未だ誰もが経験したことがないような、結果など皆目、見当だにもつかないような、それこそ、予測不能な事態が生じ兼ねない戦いになるぞ。やってみなければ何も言えないような困難が待ち受けれいること必定である。もし、例え渡河は成功して、対岸にたどり着く事が出来たとしても、我々の前には、まだ、その先の秀吉の陣営にたどり着くまでの間に、我々を阻害する幾多の障害が待ち受けていると思われる。それは、いまだ、我々が、この日差山に陣を構え居りながら、眼下に展開する高松の地形すら存分には分かってはいないということなのだ。この地には、秀吉の軍勢すら往く手を阻まれている多くの泥沼も、高松城周辺だけでなく、あちらことらと点在していると聞いておる。その危険を覚悟で打って出るのか。秀吉軍と戦う前に、それら幾多の自然要塞にぶつかり、我らの軍は破滅に追い込まれることも存分に予想されるのは確かだぞ。それ故、多くの場合は、お前にも十分知っているはずだと思うが、夜の戦は避け、昼間の戦いに互いに行っているのだ。夜の戦いともなれば、敵味方の区別もなく、只、無暗矢鱈に刀を振り回し、ひたすら、己の身を守るだけの戦術など何もない無茶苦茶な地獄の戦いになるのだぞ。それでも良いのだな。・・・それが武門の誉れとなればだな・・・」
 きっと目を見開いて言い放ちます。しかし、その言葉の節々には我が子を思う親愛の情が見え隠れしています。武門の誉れの為にと云うまだ何事につけても未経験な19歳の我が子の一途さを十分慮っての父親としての情愛ある、激しいが、当然の言葉であろうと思われました。元長は、俯き加減に聴いていましたが、なお、何か言いたそうにその父親に向って顔を上げます。その時を捉えて
 「待たれよ元長殿」
 と、重く静かに隆景が口を挟みます。
 「今、兄上の申される通り、夜の戦の危なかしさ、難しさは、言われなくても元長殿には十分にお分かりの事だと思う。どちらが勝利するにしても、その戦いがあまりにもむごたらしい悲惨な結果を伴う事は間違いありません。武門の誉れどころの騒ぎではないはずです。でも、我々武家の戦いには、その誉と云う御旗の為に、死の恐怖をも、遥かに通り越して行っていると申しても過言ではなのです。それこそが武士の武士たる所以の戦いなのです。己の魂までをつぎ込んで戦うのです。その意味で元長殿の申される事は正しいのです。武門の誉れとしての戦、それこそが毛利家の武将としての正義そのもの戦いなのです。・・・・・・・でも、まあ、しばし待たれよ元長殿」
 膝を少し開き直しながら、
 「我々には、元長殿が言われるように、確かに武門の誉れを掲げて戦う事は、例え、いくら不可能に見えても、敢て、やろうとすれば、元春殿が申されるように、結果を度外視すれば、いかなることになろうとも、夜だって十分にできます。それで自分の持つ武門の誉れが打ち立てられ、死すらその名誉と比せばなんて軽量なことと思えるのです。此処に待機する毛利家の総ての将兵は、ひたすらその命を待ち望んでいるのです。でも」
 と、隆景は、元長を始めその場に控えておる武将たちの面々を一通り見まわしながら、更に言葉を続けます。
 「元長殿、此の思いは毛利の総てでありましょうや。先に三沢氏の疑惑を申したのはあなたではなかったのですか。その三沢氏だって、その思いはあなたと全く同じです。でも、残念ながら、この武門の誉れのために戦う事の出来ない我が将兵が六千もいるのです」
 敢然と言い放ちます。
 

暫らく小説家の部門に??? 夕焼け雲

2010-08-28 20:46:21 | Weblog
 秀吉の石井山本陣を後にして恵瓊は、足早に毛利氏の“日差山”の本陣に向います。その間の距離はおよそ十町ばかりです。

 「今日一日、何があったのだ。詳細に語れよ、恵瓊」
 吉川元春は、性急に恵瓊に迫ります。恵瓊は静かに、今日一日の事次第をつぶさに語り出します。秀吉の和平の詳細、それを受けての高松城内での清水宗治の覚悟などを。
 
 「宗治公が、自らこの高松での両軍の対決の結末を、己の命と引き換えに終結させる事が、此処に集結した多くの人々の、ざっと数えてみても両軍合わせても十数万は下らない人達の、和平につながる事になるならば、更に、長年、戦の為に多大な被害を被った多くの民百姓の安心に繋がるものになるならば、私一人が身を滅することで、それが可能なばら、私の拙い命など少しも惜しくはありません。それまでに数々の御恩を賜った毛利家に対して、その一人として、寧ろ、名誉にさえ思われるのです、と、笑いながらその心境を語った宗治の心意気を、その毛利家に真の臣下としての義心を垣間見ました。・・・・・此の心意気には、敵將秀吉公も、もいたく心を動かされてれていたように思われまする」
 元春も、傍で聞いていた隆景も静かにうなずきます。
 「うむー 宗治が切腹とか・・・」
 少しの間、聴いていた毛利家の重臣たちの間にも沈黙が流れます。誰もが口を一文字に結んだまま、息さえ聞き取れないかのような静寂が場を流れます。
 永遠の時が、そのままその場の時を支配するのではと思えた、その時です。
 「ま、ま 待たれよ」
 と、力強く毅然と言い放った一人の若者がありました。
 重ぐるしい混沌の空気が流れていた場に、何か突然の異変でも起こったかのように、何にが何だか分からないように、その場にいた総ての者に一瞬の緊張が漂います。
 その声はあまりにも凛々しくゆっくりと応々しく部屋いっぱいに響きました。

 その声は吉川元春の嫡子吉川治部少輔元長でした。
 「それでは、結局、我が毛利家は、あの勇猛果敢なる我が義将清水長左衛門宗治を黙って切腹させることを認めるのですか。それは見殺しに如かずであります。先に決めた明日の秀吉との決戦は、如何になる事に相成りましょうや。・・・もし、秀吉の思惑どうりに宗治の切腹を黙って見過ごすことになれば、我が毛利の武門としての誉はどうなりましょうや。まさか、あの高松城と一緒に水底に沈んでしまうのを容認することになるのではないでしょうか。・・・・初心を貫き、我が毛利一族が敗者となること明らかなるも。なお、戦ってこそ、この毛利の名を高松の苔に残すべきでありしょう。時を移さず、今にすぐ、打って出るべきです、今が其の時なのではありませんか、時将に至りです。いざ決戦を・・・」
 と。

 沈黙が、又、しばらく流れます。誰もが眼差しを、あらぬ方角に向けて押し黙ったまんまでいます。身動き一つも起こる気配さえもありません。戦国の武将として己の命を黙って投げ捨てるのが我が武士道として、当然な事だと、覚悟はできてはいたのですが、いざ戦いの前に臨んだ人としての武将達の胸の内には、なんだか訳のわからない、ただ、それでも、宗治に己の運命を託して、今しばらく生きてみたいという願望みたいなものがちょろちょろと顔を覗かせるのでした。
 我が行く末を慮っているのでしょうか、運命と云う、いたって、複雑怪奇なその場その場で変化し姿を替えてくるものの中に、突然に、放り投げられ、何が何だか自分自身の心もどこに行ってしまったかの如くに放心しきっていました。

 梅雨空が、突然、晴れて、遅い夕焼け雲が遠い福山辺りの西空の一部を真っ赤な茜色に染めています。


宗治の切腹

2010-08-27 20:05:37 | Weblog
 六月四日も、早とっぷりとくれ、高松城に水嵩が刻々と増しています。籠城している城兵達にも、お城では、今、何かが起きている事は分かっていますが、果たして、これからの自分たちの運命と、その小舟に乗った一人の僧侶とが如何なる繋がりがあるのかまでは分からず、不安はますます募るばかりです。
 移送の小舟が城に着き、やがて、又、あわだたしく出て行った事は分かりますが、そこで何が話し合われ、何が決められ、これから、この城がどのようになって行くのかは、かいもく見当さへ立てられません。詳しい報告もなく、それが、余計に、籠城の人々の心に苛立ちを感じさせるのでした。
 夜も深々と更けてまいります。城の外を流れる水音だけは相変わらずごうごうと唸りを立てながら通り過ぎております。人も、そこにいる鼠や蛇までもが、其の恐ろしげな水音に鳴りをひそめ、蹲くまるように身を寄せ合っているだけです。

 一方、安国寺恵瓊は、秀吉に宗治の報告をすると、直ちに、毛利軍の本陣である日差山に駆け付け、高松城の人々の、今にも藻屑と化そう様子と宗治の元春・隆景に伝えてほしいと言ったことばを伝えるのです。

 「ただ今自害し此和平調ひなば、死期の面目何事か是にしかんや。未だ武運に尽ずして惜からぬ命一つ捨つるが故に、中国の危亡を救ひ、諸民の苦みを助くる事此の上なき悦びや是有るべき」

 当然、元春・隆景にも秀吉に与えたと同じような書簡もあったのだと思うますが、その後毛利家は、秀吉の配下に属し臣下になり下がりますので、太閤記では、敢て、秀吉と同等な書簡など無かったものとして、本としての態勢を整えたのではと推測しています。

 なお、此の恵瓊の言葉を伝え聞いた、高松城を救うためのあの両軍の決戦を唱えた、吉川元春の嫡男元長が如何なる言動をしたかなど詳し内容は歴史の中から消えてしまって残ってはいません。小説家の領分になるのですが、此処でも激しいやり取りがなされた事は確かだと思います。

 その領分に小説家でもない私が、少しぐらい立ち寄ってもいいのかとも思うのですがどうでしょう??????
 

秀吉の思い

2010-08-26 11:31:46 | Weblog
 安国寺恵瓊より、その書館と共に、高松城での会見の模様について聞いた秀吉は、其のこころざしに感じて

 「其の求めに応ずべきの条、然るべき様に相計い返簡に及ぶべし」
 と、蜂須賀小六、杉原七郎左衛門に命じます。

 その書簡に曰く

 「御状之趣越前守相達せ令し処、衆命に代り籠城の諸人御助成有るべくの結構、一入(ひとしお)相感ぜられ、即ち、御望に応ぜられるべきの旨に候。然れば、小船一艘酒肴十荷、之を進ぜ候。明日其刻限検使差し遣るべく侯間、静に用意之有るべく候 恐惶謹言

    天正十年六月四日
                                蜂須賀小六
                                杉原七郎左衛門
     清水長左衛門殿

  この書簡二通ですが、当時は秀吉の陣と高松城の間を往来したことは確かですが、そんなん話が確かに伝わっているのは事実なのですが、残念ながら、現在では、此の二通の書簡とも、行方不明なのです。何処から、ひょっこりと出て来ようものならば、それは、直ちに、国宝になること間違いないもくらい貴重なものなのですが。

 此に記した二通の書簡は、「絵本太閤紀」より書き出したものです。他の太閤紀に書かれてる内容と比べて見ると、若干の違いが認められます。
 この違いは、本物の書簡がないことから来る違いだと思われます。

 その例を2、3上げてみます。絵本太閤記では、ただ単に、ここに上げているように「衆命」としか書れてはいないのですが、他の太閤紀(太田和泉守の)には、この部分が「各四人衆命」と、切腹する者四名の命と引き換えにと書かれていたり、「四人の他、仮令、宗治の長男だったとしても、決して、切腹してはいけない」と書かれていたりします。

 なお、四人とは清水宗治、月清、難波伝兵衛、近松左衛門であると、太田太閤紀には書かれています。

 
 

秀吉から宗治に当てた書簡

2010-08-24 20:26:50 | Weblog
 2回に渡ってお届けしました、一服の清涼剤はどうでした。何だこんなの一つも涼しさの足しにもならんわいと思いのお方も多かったのかもしれません。
 でも、私には目の鱗の貴重な発見であるように思われたので、こんなことをお知らせしたのですが。
 
 又、高松城の水攻めに戻ります。


 「切腹いたします。」
 宗治は、何の恵瓊に申します。
 時は、刻々と、天正十年六月四日を過ぎようとしています。高松城を取り巻く堤防を囲んで、余裕すら一刻たりとも残されてはいません。それまでに経験したことがないような大規模な、日本の史上で例を見ない程の、誠に無残なとかしか言いようのないような戦いが、この高松の地で繰り広げられる事は誰の目にも確かなことです。
 その成否の鍵を握っているのが、この世広といえども、一人、安国寺恵瓊を置いてありません。そんなことぐらい恵瓊には痛いほど分かっています。そこは恵瓊の老練さが総てをカバーするのです。
 恵瓊は、ゆっくりと宗治を見上げて言います。
 「城内の人たちのお命は総て、確かに此の恵瓊がお預かりします。それから、毛利家の存亡も」

 宗治から、蜂須賀侯に当てた書簡を大切に胸に押し抱いて、恵瓊は、再び舟上の人となられ、秀吉の元に馳せ参じます。

 秀吉の御前に侍った恵瓊は、高松城内での宗治との話を詳らかに申し上げます。

  只、一言、秀吉は、
 「あわれ義士也」
 と言い、宗治に当てて書簡を認めます。

一服の清涼剤その2

2010-08-23 14:28:28 | Weblog
 今日も、又、脇道を真直ぐに進んでいます。
 
 昨日は、私の朝顔の花に、生まれた初めてのその美しさを発見したかのような驚きに似た感動を覚えたのですが、よく見ると、この朝顔には、外にもう一つ他に例を見ない、之ぞ造化の造化たるゆえんだと、まさに驚嘆せずにはいられないような美しさがある事に気が付きます。
 今までは、その花と同じように、その美しさなんて事には、全然気にも留めないで、それがそこに有るのが当り前であるかのように思っていたのですが。

 「それがどうして不思議なのですか。そんなの何でもないよ、あなたのように大仰に驚くほどのものではないよ」
 と、言われるお方もおられるかもしれませんが、おっとどっこい、豈 図らんやです。、 この世には、此の朝顔置いては、これ以外にはない、とても美しいものが存在するのですよ。
 それは朝顔の葉です。
 まず、第一に、その葉の形に驚かされるではありませんか。
 どうして、神はこのような摩訶不思議な、名前も付けられないような形をお創りになったのでしょうか。その驚異な姿には驚かざるを得ません。
 それから、また、此の葉に画かれている線の美しさも、どう表現してよいか分からないくらいの美しさがあります。左右対称になって葉を真二つにしながら、恰も、しなやかにしかも妙なる、人の手では決して描く事の出来ないような線で、宇宙の彼方にでも伸びるが如く描き出された葉脈の妙。

 
 
 本当に、生まれて初めて目にするような清新な驚きを覚えるくような美しさを見せてくれます。どうして、今まで、そんなことも気が付かなかったのかと、反省しきりの残暑最中です。
 

 これって、今日も、又、何十年ぶりかと、恨めしそうに気象予想官をして、言わしめている暑い夏の一服の清涼剤にはなりませんか?????
 
 これも、また、写真でどうぞ!!

 

 これって何ですかね。・・・・・本当に、人類の今まで誰もが経験した事のない不思議な世界を映し出してくれているのではないかともおもわれます。ひょっとしたらあのビックバンの瞬間の姿がこんな姿ではなかっただろうかと、私は勝手に想像しています。

 しかし、万物の創造者たる神は言われるかもしれません。
 「馬鹿も休み休み言えよな。ビックバンって、人間の想像する範囲をとっくに超えている神の領域のものです。お前みたいな小人に分かってたまるものですか。あるかないかと意識せずに、自然そのままをお前たち人間に見せたあげているのだ。黙って観ておればいいのじゃ」
 と。

 此の朝顔の葉は、それぐらいな神秘の世界のものであると考えられます。

厳しい残暑です。一服の清涼剤をどうぞ!!

2010-08-22 10:38:27 | Weblog
    
  
 どうですきれいでしょう。
 
 此の朝顔について、今日は、宗治の書簡を受け取った秀吉話を、又また、置いといて、例の如くにわき道に反れます。

 
 秀吉と云えば、まず、私の頭に浮かぶのが千利休です。この高松城の戦い当時は、天正十年の事ですから、当然、此の時には、利休はこの戦いには参加して居るはずもありませんし、まだ、利休は信長公に仕えていた時だったようです。
 記録などをひも解いてみても、吉備の国とこの利休とは、直接的には無関係なのだそうですが、強いて挙げるとすると、是も故事付けですが、茶祖である栄西禅師が、「我が町 吉備津」出身だったと、云う関係から、まんざら無関係だとも言い切れないのではないかとも思われるのですが???。
 
 ここで、突然に話が、又、有らぬ方向に飛びます。
 
 この利休は朝顔の花が、とても好きで、毎年、利休の庭に植えて、その清楚な姿を楽しんでいたのだそうです。
 そんな話を何時だったか忘れてしまったのですが、どこかの本か、それともテレビだったかもしれませんが知りました。現在でも、日本各地に朝顔市が立つ程だそうですから、こよなくこの花を愛でている人がいることは確かです。でも、私の周りには、そこら辺りに、畑の隅にも、山にも、いくらでも転がっているような平々凡々たる花の一つぐらいにしかとらえてはいませんでした。そんなに特別な目で、この花を眺めたことはありませんでした。
 今朝も、畑の野菜に水をやっていました。どうしてかは分からないのですが、今朝に限って、畑の隅に有る柿の木の下辺りに、何やら2,3こ、白っぽい花が咲いている事に気付きます。自然に生えた朝顔が、遅咲きの花を付けていたのです。もう2.3日前から咲いていたのでしょうか、私は気付いてはいませんでした。
 「何だ。こんな所に朝顔が」
 と、母がとても好きだったので、仏壇にでもと、一輪取って帰り、先ず、食卓に置きます。
 何気なく、そのコップに投げ入れた食卓の朝顔の花を見ました。これも、どうしてかは分からないのですが、今朝は、珍しくつくづくと眺めました。すると、今まで、一度たりとも、思っても見なかったその色の美しさに惚れぼれしてしまいます。
 「うちの朝顔って、こんなにいきれいだったかなあ。気が付かなかったなあ。是が我が家の朝顔か」
 消え入りそうな白と云ってもいいような薄い桃色で、夏の己を朝の化粧と洒落ているではありませんか。
 花びら全体が五つに区切られいて、そのきちんとジョウゴ型に開いている姿を、生まれて初めて見る様に眺めます。なんという優雅な姿でしょうか。でも、それは、今まで、私が、いつも目にしているあの普通の朝顔の花びらです。それを、つくづく見ていますと、なんだか今まで気に掛けなかった私の不注意のようにも感じられるから不思議ではありませんか。
 「誰がどうしてこんな形に、色って何でしょう、花はどうして夕影しらぬ朝なのでしょうか。・・・」
 次から次へと、いくらでの疑問が、雲のようにわき上がってきます

 そのままコップに挿した朝顔を眺めます。葉と茎と花とが、誠にすっきりとした形で、下から上へと順序よく並んでいます。誰が一体何のために、こうも整然と創り上げたのでしょうか。その茎先には、明日か明後日の日の為にでしょうか、それはそれは小さな花びらの元を、ちゃんと既に結び付けています。それすらも、今朝は、大変珍しい事のように奇妙に感じられました。

 それから、しばらくその朝顔を眺めていました。神の為せる技としか言いようのないような自然の造化に驚かずには居られません。その色と形のマッチした姿のなんて神々しいのでしょうか。朝顔自身以外の何ものにも、決して、出来ない不思議な美しさの世界に魅せられます。
 それから、暫らく、食卓の上に置いた朝顔に見とれていました。
 「早く食べないと、おみおつけ冷えてしまいますわよ」
 つれあいの言葉に促されながら、でもまだ、花を見つつ箸を走らせます。
 自然って、本当に尊いもんですな。そんなことすら知らないで、此の自然を汚している私を含めた人間って、本当にもう滅びるしかないもんでしょうか。
 その摩訶不思議で、人の手では、決して、造る事が出来ない美の造化を写真でご覧らんいただきたいものだと思います。
 こんなの、今日の残暑よけにはならんでしょうなあ


 なお、蛇足です。 一説によりますと、千利休のこの朝顔好きが、秀吉に切腹を命じられる原因の一つになったのではと、言われています。人の手では決して作れない造化の美の世界の利休と、殺伐たる人間関係の義の世界の秀吉との違いが、その主な原因だったのではないかと思われます。

宗治からの秀吉方への書簡

2010-08-21 15:40:11 | Weblog
 恵瓊の前で宗治は筆を走られます。

 「謹而(つつしんで)愚意を述べ奉ります。当地永々御在滞、楚辛労力恐れながら察し奉り侯、然者(しかれば)当城極運之儀、弥(いよいよ)近く覚え侯、小臣清水宗治、衆命に代わり切腹致す可き之条、憐愍(れんみん)を垂れられ籠城の輩寛仁之君徳を施され、悉く御助命にては、忝(かたじけな)く存じ奉り侯。回章に依って、明日五日辰刻切腹に及ぶ可く侯。然者小船一艘並に美酒佳肴聊か恩賜に預り侯はば。且つ老兵之疲労を散ず侯。恐々謹言
  天正十年六月四日
                           清水長左衛門宗治
   蜂須賀小六  殿
   杉原七郎左衛門殿

 と、云う書簡を認め、安国寺恵瓊に授け、
 「貴僧から、秀吉の御前宜しく取繕い希いください」
 と。さらに、元春、隆景には、
 「宗治は喜んで切腹します。決して沙汰御無用にござります。」
 そうお伝え下さいと頼みます。

 そんな宗治を見た恵瓊も感激しては
 「実に忠勇義心の臣とは、あなた様のようなお方を言うのです。英名当今に普く永世にのこるべし。この旨秀吉に申達し、和平成就ならしむべし。必ず実現させます」
 と、感涙を流し、断言するのでした。
 そして大急ぎで秀吉の陣へと取って返し、書簡を呈しながら、高松城での、この宗治との一部始終を話します。
 「あはれ義士かな、此の上は出来うる限り早急に織田毛利和順して、天下泰平の基を築かなくてはなるまい」
 と、秀吉。
 でも、此の時になっても、まだ、恵瓊は、二日前に本能寺にて、明智光秀の為に暗殺されていようとは想像だにしておりませんでした。いい事か悪い事かわ分かりませんが知らなかったのです。それも歴史なのです。それと、この坊主と言いましょうか恵瓊は此の和平が整った後から、果たして、信長からどのくらいの恩賞があるだろうかと、胸算用して、ほくそ笑んでいたのだそうです。
  

 なお、此の恵瓊のその後については、吉備とは、全然、関係ありませんので、興味のあるお方は御調べ頂き、それをお教えいただければ幸いに存じます。
 
 ものの本には
 <所領数多(あまた)賜るべしと、独笑(ひとりえみ)して居たり>と、書かれています。

 人間とは言え、坊主でも、所詮、それくらいなものかもしれませんね。どう思われますか????

宗治の涙

2010-08-20 07:35:34 | Weblog
 宗治は、兄月清に言います。
 「このように湖水日々夜々に増して行くのを見て、身の行末の日数を数えて見ると、果たしてあと幾日残っていることだろうか。・・・恐らく後十日もしない内に城内の総ての者が溺死するだろう。どうにか助けてやりたいものだ。其の為なら、わしの命ぐらい少しもおしくはないのじゃが。兄弟で腹を切って、城に籠城して居る者総ての命を助ける事は出来ないものでしょうか」
 すると、兄の月清も内々にさも有りたきものだと、啐啄するのでした。その旨を秀吉に伝えたいと使者を使わそうとしていた処に、この恵瓊の舟が湖上に現われたのでした。


 その恵瓊(えけい)の話をじっと聞いていた清水長左衛門宗治です。その閉じられた目から一筋の涙がこぼれ落ちました。

 「元春、隆景公の如き義将又世に有るべしとも覚えず。それほどまで我々の事を思召しであったとは。今、毛利秀吉両陣営の勝敗を計るに、敵は多勢にして、しかも、信長近日中に出張と聞こゆれば、その勢、甚だ大なるべし。我が毛利家は小勢にして見継ぐべき勢もなく、此のまま、戦闘に突入すると、味方は大敗すること必定です。そして、その時が、毛利家の存亡の時とこそ覚えます。然るに、たまたま、敵方より「和睦せん」と言って来たのです。こんな時に、清水のような者が、例え、五人十人命を捨てようが、和平が有るべき事になるのでしたならば、潔くわが命を捨てることはたやすい事でございます。それを、却って我らをかばい給いて、和睦領承し給はぬこそ、かへすがへすも残念な事でございます。我仮令詮なき命暫らくながら之有とも、とても助かるべき命に有らず。」
 
 そこまで宗治は一気に言い放ちます。そこでしばらく間を置いてから、又、話します。
 
 「只今自害し此の和平調ひなば、死期の面目何事か是にしかんや。未だ武運尽きずして惜しからぬ命一つ捨つる故に、毛利家の危亡を救い、諸民の苦しみを助くる事、此の上なき悦びに存じ侯」
 と、切腹するのが、高松城を預かって来た城主として、当然の任務であるが如くに申されます。
 それから宗治は、静かに筆をとり、秀吉への陣に送る書簡を認めるのでした。それも直接秀吉宛ではなく、間接的に蜂須賀小六と杉原七郎左衛門に宛てて出しています。

 どうして、直接、秀吉宛にでなく、側近の者に当てたのでしょうか?
 多分、当時の書簡を認める礼儀として、直接、大将に当てて書くのではなく、何か依頼する場合等のような時は、その側近の者に宛てて、間接的に書簡を書くのが礼儀だったのだと思います。直接では、余りにも不敬になるのです。それが武家の作法だったのです
 だから、もしも、こんな書簡が、今でも残っているのならば、当時の武家社会の、上下関係を伝える貴重な歴史的な証拠になるものです。残っているとは聞いていますんが。

清水宗治の決意

2010-08-19 09:38:40 | Weblog
 恵瓊を乗せた舟は増水した水の為に、直接、高松城の本丸へ着きます。早速、清水長左衛門宗治は恵瓊を招きよせ、
 「此処に来られた趣意は如何に」
 と問い質します。
 「清水侯のご尊顔を拝し奉り、恐縮至極に存じ上げます。一別以来の御活躍、誠に御目出たき次第に存じ上げ奉ります・・・・・」

 と、型通りの挨拶もそこそこに、毛利方と秀吉方の今の状況を語ります。

 「此の度、旧知の秀吉より招きを受け、御大将元春・隆景侯の了承の元に、両軍の和議を諮ってまいりました。元春・隆景公は言い放ちまする。『足下の生命を助け侯はば和平すべし、それ無き場合は、決して、和議には非ず。戦いを挑み共に死せん』と、一方、秀吉は、『宗治の切腹こそが和議の条件だ』と、一言の元に言い放ちます。その秀吉は宗治侯の切腹無くしては、己のこの戦いの指揮者としての武士としても面目は立たなくなってします。『武門の恥辱になる』と申すのでございます。両氏とも、その思いを引っ込めようとする気配は聊かも有らずでございます。・・・こうなったならば、いよいよ明日に迫った両軍の戦闘は、もはや避けようとしても、決して、避けられるものではありません。多くの両軍の、命がこの地に散り往く事と必定なのです。・・・・そんな折、その仲立ちをしている私には、もし、この戦いで、両軍和睦整いせば、この中国にも、応仁の世から打ち続く長く戦国の世から、忽ちに平均して、その結果、万民の塗炭の苦しみは無くなる事は確かなことだと思われるのです。どうしたら、その和平が、この地に訪れるのでしょうか。いかに宗治侯はお考えですか」
 恵瓊は淡々と語りかけます。その言葉を宗治は黙って、静かに、表情一つ変えないで聞いています。更に、続けて、恵瓊は続けます。
 「もう和議は敗れました。多分、明日の今ごろ、この高松城に籠城している数千と云う人の運命の行き先も分かりきっています。水がもうここまできています。城に巣つく蛇や鼠までもが、城に上って、ここまで来る間に私の足元に姿を見せ、逃げようともしないで、自分の命の行方を知り尽くしているが如くに、黙って、うずくまっています。・・・・それのみか、この城を取り囲んでいる敵、味方双方の幾万と云う兵士までもが、明日の己の運命も如何にかと戦々恐々としています事明白です。己の死が刻々と迫っていることが己自身によく分かっているのでしょうか、敵、味方総ての兵士の眼に、虚ろさが漲なぎっているように見えます。これは、将に、世間で言う地獄絵の中にいる人間のようにも感じられます。今、この狭い吉備の野一帯に対峙している両軍の兵士総ての間に見えるのです。何と憐れな姿でしょう。髪の仏もいない、将に、末世の中の姿を呈していると云っても過言ではないように思えまする。」
 
 恵瓊は良弁を続けます。
 
 しばらく沈黙が続きます。城は、全く時が止まったように動きそのものがありません。打ち寄せるさざ波の床板を打ち付ける音でしょうか、ひたひたとと云う音だけが、そぼ降る雨の夕暮れの城に、響いているだけです。死の世界にいるかのようです。

 宗治は、唯、恵瓊のゆっくりとした、これ以上の重さはないような低い声を押し黙って聞いています。
 
 この恵瓊が一人でこの重く厳しい語りかけを宗治にしている数刻前でしょうか、そうです、湖上に一艘の小舟が姿を見せるほんの少し前にです。宗治は、兄の月清、難波伝兵衛、近松左衛門等の主だったこの高松城に籠城している武将と何やら相談していたのです。
 

時だけが静かに湖上を流れゆきます 

2010-08-18 08:49:22 | Weblog
 秀吉の下知を受けた恵瓊はたった一人で真っ茶色の泥水の湖上をゆっくりと進んでいきます。
 この天も地も、永遠の時までを押し包んでしまうかのような静もれる湖上を覆い隠すように広がっています。そんな湖上に、唯一艘の小舟が描き出す光景を目にした高松城の人々も、勿論、この城を取り囲む両軍の兵士たちも、「こはいかなることに候か」と、固唾を飲んで見守っています。
 城將清水長左衛門宗治は難波伝兵衛、近松左衛門尉等と一緒に、やはり、湖上の小舟を見ていました。そうでしょう、何の前触れもなく、突然に現われた小舟なのですから。
 「あの小舟いったいどうしたことでしょうか。今此の時に至って。早速に、銃を打ち掛け沈めましょうか」
 「いや、待て待て。あの舟の上のお人は、墨染めの衣。そうだ。安国寺恵瓊に相違あるまい。・・・なぜ・・・。安国寺がここにくるは、<極めて故こそ有りつらめ>。すぐ城門を開けよ」
 と、命を下します。水は一段と嵩を増し、もう、城の本丸までに達しています。その為、城門を通った恵瓊の舟は、そのまま、本丸に、直接、漕ぎ着けることが出来たのでした。

 一方、日差(太閤記には廂山)山から此の恵瓊の乗った湖上を進む舟を見ていた元春、隆景にもその武将たちにも、あの小舟が何を暗示しているのやら、これから何が起こるのかも、皆目、見当すら立ちません。秀吉と恵瓊がどのような話をしたのかも、勿論、分かるはずもありん。全く、つい先刻までは、予想だにもしなかったことなのでした。唯、湖上を行く小舟の行方を、食い居る様に、じっと見ているしか、それ以外の方法はありませんでした。兵士たちまでも、寡黙に、ただ、その行方を見ています。
 
 「その湖上に翻る墨染めの衣は、一体、それは何なんだ。恵瓊。どうしてなのだ」
 と、毛利の者たちは思うだけで、それ以外に考える手段も方法もある筈がありません。
 そんな中を、時だけが、足早に、この狭い山々に囲まれた吉備の豊饒な野の中を通り過ぎていきます。高松のお城の上を、日差山の上を、石井山の上を流れて行きます。 

湖上の安国寺恵瓊

2010-08-17 07:31:29 | Weblog
 「御下知、身を替えて相勤め申べし」
 と、恵瓊が諒承します。すると、秀吉は居寄って申します。

 「聞くところによると、高松の城主清水宗治は高義忠君並びなき武将だそうである。これからすぐ舟を用意させるから、それに乗って高松城中に至り、宗治に会って、此の秀吉が言ったことと毛利元春・小早川隆景の言った事を伝えてほしいのじゃ、両者の言を伝えてほしいのじゃ。宗治が一人切腹すると、和議が成り立ち、中国も一時に平均するのじゃ。ぜひ、切腹を説得してほしいのじゃ。それが宗治の功だ。決して辞退しないでほしいと、恵瓊の言葉で宗治に伝えてほしいのじゃ」
 日は既に西の端に落ちかけています。時はあまり残されてはません。恵瓊は、その秀吉の言葉を忠実に伝えるべく、真っ茶色に濁った俄かの湖水の上の舟の人になって高松城に向います。
 湖上には濁流が、相変わらず門前の取り入れ口から意気よいよく流れ込んでいます。雨は小止みになったとはいえ、相変わらず不気味な音を響かせながら降り続いています。泥水は今にも城そのものを飲み込もうとしています。
 そんな湖上に、一艘の小舟が、突然に、何の前触れも無しに、静かに漕ぎだしてくるではありませんか。その漕ぎ行く舟の跡が二筋、後へ後へと無常の世にでも吸い込まれるように、線を湖上に描き出しています。辺りは、今までに誰もが経験したことともないような不気味な静けさが、天と地を覆いつくすように広がっています。
 「何であろう、今頃」
 相対している両陣の人々はいぶかります。
 相変わらず小雨にけぶる湖を、ゆっくりと流れ進む小舟には、墨染めの衣の僧一人と船頭しか乗っていません。僧は傘も付けずに小雨の中に、前を見据えるように身じろぎもせず、舳先に、すくっとつったっています。
 この二、三日の、目前に差し迫った戦いの緊張や興奮とは違う光景が、突然に飛び込んできます。しかし、それすら、何となく落ち着かない、目の前に横たわる泥水の浪と同じように、何か不吉な、地獄の中へ引き落とされるのではないかと云うような予告を表しているのではないかという感じさへさせられます。かえって、それが益々の不安を高まらせているのであるかもしれません。

 舟は城へ城へと、無限の時間の中を行くように二本の舟跡を伸ばしながら、幾万と云う敵味方両陣の兵士の見守る中を、ゆっくりと進んでいます。動くものと言えば唯一つ、舟を操る船頭の黒い小さな蔭と広がり進む二筋の舟の跡のみであります。この二つの小さな動が無限の静の中に広大な無常の世界を描き出しているようにも、人々の間には写ったのでしょう。此処にいる人、誰もが、かって味わったことのない荘厳な静の中に引きずり込まれた化のように思ったのです。
 秀吉も元春・隆景も両軍の雑兵共にも。

 この静こそが、清水宗治を切腹させた一番の原因であったのか知れません。そんな舞台効果を、秀吉は読んでいたのです。
 この時の秀吉の詞で感心するのは、恵瓊に宗治に伝えさせたのが「吉川元春と小早川隆景の詞」も同時に伝えさせています。この辺りも人の心を読むに長けた才能があったのではないかと感心させられます。その結果の背景を十分に描きながら脚本を仕上げているのです。
 

安国寺恵瓊の思案

2010-08-16 10:01:06 | Weblog
 帰って来た恵瓊から秀吉の「宗治は切腹すべし」という言葉を聞いた吉川元春・小早川隆景等の毛利方の武将は
 「宗治切腹と候はば和睦の儀思ひよらず、戦うて死を倶(とも)にすべし」
 と、詮議し、そして、その旨を秀吉に伝えるべく、再び、恵瓊を秀吉の陣へ向かわせます。六月四日のもう昼近き時です。
 秀吉は恵瓊から毛利方の詮議を聞き
 「そうか、やはり宗治の切腹は毛利方として承知できないか。義を知る武将として尤もな思いであろう。・・・・でも、秀吉が身に於いて攻めかかる城を落とさずして、和平をなせば、これから後世まで「弓箭の恥辱」となる事明白である。武士としての面目を失う事明らかじゃ。それに対して、この戦いの和平の代償として、宗治が切腹したとしても、元春・隆景の恥とはならず、大義面目は十分に立てられるのじゃ。どうじゃな、もう一度元春に尋ねてきてはくれんか」
 時は刻一刻と押し詰まり、余裕とてありません。恵瓊は、再び、元春・隆景の元に戻ります。
 「否」
 と、一言、和平を即座に拒みます。
 
 このような交渉が長びけば長引く程、信長公暗殺後の明智方の京での動きがより活発化して、秀吉方に不利になる事は分かりきっています。幸いにして、未だに、毛利方にはその情報は入ってはいません。一刻も早く、この高松城を中心とした戦いを解決して、信長の弔い合戦をしなくてはならないのです。秀吉にもそんな弱みがありました。
 「今日明日中に、何とか」
 秀吉の焦りがあったのですが、そんな素振は見せず、恵瓊と交渉します。

 その恵瓊に秀吉は言います。
 「のう恵瓊殿、どうにかわしの面目が立つように、そうじゃ、宗治一人の首でいいのじゃ。それと交換に和平が出来ないもんじゃろうかのう。褒美は取らす故、尽力してくれんか。信長公にもその旨申し上げて抜群の所領を給わるようにお願いするので、どうかよろしくお頼み申す」
 と、頭を下げます。もとより秀吉が天下を掌握する器である事を見抜いていた恵瓊です。
 「いかなる御下知候ふとも身に替えて相勤め申します」
 と承知します。
 此の恵瓊は、幾度となく両陣を行き来しているうちに、益々秀吉の人物に引き込まれてしまいます。すっかり秀吉のとりこになってしまったのです。心変わりです。もっとも、秀吉の言い分が、毛利方にとっても十分な益だと考えての事でしょうが。明日に差し迫った両軍の戦の悲惨さを考えたからでもあったことだろうことは確かでしょうが。そうでなかっなら「如何なる御下知候ふとも」という言葉が、恵瓊の口を突いて出てくることはないと思います。そこに恵瓊の強かさみたいなものが見え隠れしているとしか思われません。人の弱さというか生まれながらに内在しているであろう醜いとさえ言えそうな欲望というものでありましょうか。見方によれば、この坊主、とんでもない食わせ者であったのかもしれませんが?そんな恵瓊をよく知っていたからこそ、秀吉も、最後の最後まで、彼を利用したのかもしれません??????
 此処にも、近代戦争の特色である「情報の確かさ」が見て取れます。