私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

中秋の名月

2012-09-30 20:00:12 | Weblog

台風の関係で見ることができないとあきらめていた名月が突然にやってきました。

 名月と言えば、私の一番好きな句が蕪村にあります。
     月天心貧しき町を通りけり
 です。
 何時か聞いたことがあるような懐かしい感じのする句ではないでしょうか?この「貧しい」とはどんな意味だとお思いでしょうか。私は、かって昔、随分と華やかで活気が帯びた、人がそこらじゅうにあふれた町であったのが、幾世経て、その華やかさも何時しか消え、今では誰も見向きもしないような落ちぶれたとでも言えばいいでしょうか、そんなわびしい町でもお月さまだけは、昔と変わりなく訪ねてきてくれ、黙って中天にかかって通り過ぎているのだという、蕪村独特な味わいを表している句ではないかと、私は思っています、まあ、蕪村の句の中で最もきな蕪村の一つでもあるのです。

 と言うのは、そんな町が、今書いているブログの宮内なのです。毎年、決まって、名月の今夜、私はその宮内の町を逍遥い歩いています。今年は駄目かなと思っていたのですが、台風の進路がそれ我が町吉備津は絶好のお月見日和になりました。一句でもひねりにと、毎年出歩くのですが、毎年決まって
    “ああ宮内は”
 が落ちになっているのです。

 さて。今年はいかなる句が出来ますやら。


十二町の町中・宮内

2012-09-25 09:15:35 | Weblog

 片山・三日市・辻小路等十二の町に分かれていた宮内ですが、その総てに遊郭が置かれ大層な賑わいを見せていた宮内ですが、この宮内には此の外その遊興の町に似つかわしくない建物が所々に会ったのです。それは吉備津神社の社頭に仕える七十五社家の幾つかがこの宮内に有ったのです。その中でも藤井高尚の屋敷などこの遊興地のど真ん中に厳めしい門扉を構えた建物が堂々とその威容を見せていたのです。その対比が如何にも珍しくその辺りもこの宮内が全国的にも知られる原因にもなっていたのです。
 このようにこの宮内には遊女の居る角行燈の灯る娼家と威風堂々たる吉備津神社の神官の屋敷が混在していたのです。
 その一番有名なる物が前者では旅館「米嘉」があり、後者では明治になって小学校に転用された藤井高尚の屋敷があります。


宮内と言う所

2012-09-24 17:46:56 | Weblog

 江戸時代を通じて、宮内は山陽道随一の遊興地ではあったのですが、紅塵百尺(街の様子が繁華で喧騒で何時もごたごたが絶えない様子)の中に旅館料亭が雑多に軒を並べてあるのではなく、その中にある程度の格式を兼ね備えたような落ち着きのある街だったと言われています。その中心が何時も吉備津神社であり、その意識が市民の間に常に有ったからだと言われております。

 そのことを窺わせるものに宮内の町名に見ることができます。東山ー片山ー三日市―辻小路―熊の小路―大吉野―中吉野―新地ー城の内ー馬場―白畑の十二町が都(京)に倣いその町名を冠していたのです。そして、この十二町の街に総て遊廓が置かれて、その遊郭には、例外なく、宮内特有の「角行燈」がその軒先に並べてあり、それに夜になると一斉に火が灯され、街全体が不夜城そのものに変っていたのだと、言い伝えられています。
 なお、この角行燈なる物は一体どれくらいの大きさのものか、多分軒先に吊り下げらていたのではなく、入口の横などに置かれていたのではないかと思われます。また、それには何が書かれていたのか等と言う細かいものは一切不明ですが、それらのいくつかは、現在でも、まだ、宮内に一つや二つは残っているのではないかと想像されますが、?????


吉備津神社の神領と庭瀬藩領の支配する宮内

2012-09-23 07:47:29 | Weblog

 前にの書いたのですが、吉備津神社の神領は天正年間には一萬八千石だったのですが、徳川になると僅かに百六十石に減ぜられます。
 此の百六十石と言うのは吉備津神社の周りにある限られた土地だけで、宮内や板倉など従来神領であった土地の総ては、庭瀬藩領となったのです。だから、この宮内の遊廓もほとんどが庭瀬の板倉家の管轄に置かれ、その為の代官所が置かれていたのです。その代官所へ提出された書類が、昨日書いた人別帳作成の為の店受帳等の個人情報なのです。

  なお、この百六十石と言うのは大体の見当として(当時の1反当たりの収穫量は一石ぐらいだと計算すると)十六町歩ぐらいの広さであったと思われます。


宮内の遊女

2012-09-22 08:23:56 | Weblog

 宮内の遊女に付いて書き付けたものがいくつか残っています。その内の一つに次のような書付です。

 前略
 一、遊女店借りの者出替之節は御領社領の名主庭屋敷へ罷越し人別帳替前に出置候実文の通り所謂状店受状宗門手形致持参唫味差置之・・・・

 とあるように、宮内に余所から遊女が来た場合には「御領社領」ですから宮内を直接治めている庭瀬藩や吉備津神社が人別帳を作る前に、新たに入って来た遊女の個人情報を届け出をしますという「書付」なのです。
 なお、この中にある「唫味」と言う言葉の意味は、よく分からないのですが、多分「吟味」するという言葉をあやまって書いたのではないかと考えられています。要するに、宮内にいる遊女は一人ひとりの身元が確かであるということなのです。そのような所からも、宮内の遊女は、他所の遊女とは一段の格式と言うか信頼が置ける遊女だと信じられ、近隣を限らず山陽道を行きかう多くの男たちの男心を誘因する理由にもなっていたのです。

 

 こんな珍しいものも残っている宮内です。まだまだ捜せばいくらでも埋もれている江戸の心映えが残る寶の地でもあるのです。


吉備津の芝居小屋

2012-09-21 09:36:57 | Weblog

 春秋の2回行われた宮内芝居の為の仮屋は、現在、牡丹園がある辺りに北向きに造られ、その為、観客席が回廊まで続き、そのために回廊にある横木を数本取って、自由に行き来が出来るようにしたと言われています。又、秋の興行の時はその小屋が今の弓道場辺りに南向きに造られたと言われます。どうして春秋の芝居小屋が場所を違えて作られたのかという理由はよくわからないのですが。
 とにかく、御朱印芝居は江戸大阪京の3都を除、宮内にしかなかったのです、だから相当遠くから芝居見物に来ていたのだそうです。それに伴う人々の喧嘩口論は絶えまなく、相当な騒ぎを引き起こしていたのだそうです。それらを取り締まるための、備前岡山藩や備中庭瀬藩の代官所が臨時に設けられ取り締まりが行われたということです。 

 なお、松平定信が行った寛政の御改革の時、全国の芝居小屋は殆ど閉鎖されていたにもかかわらず、此の吉備津の宮内芝居だけは開かれていたのだそうです。
 この当時の(寛政年間)記録が、児島味野に、岡山藩から出た、「宮内芝居に行ってはいけません」というお触れ書として残っています。この文を見ますと、当時、児島の味野辺りからも宮内芝居の見学に出掛けていたのです。なお、この時の芝居は「いろは屋文七」と言う大阪の役者が来て、連日の満員御礼でそれはそれは賑わったと言い伝えられています。時は寛政7年だそうです。

 

 


宮内芝居興行期間

2012-09-20 13:54:48 | Weblog

 宮内芝居が春秋の年2回行われていたのですが、その初日は三月十八日と九月未の日と決め、幕府からの許可も受けての興行でした。そしてその期間は三十日と決まっていたようです。伺書の中に「雨天を除き」とあることより、宮内の大市三十日間の中、二週間と定められていたのです。この十四日の間毎日興行されていたのです。

 なお、芝居の初日を三月十八日にした理由は、吉備津神社祭神の大吉備津彦命の命日が三月十九日であったからその前日を、また、九月未の日と言うのは、その大吉備津彦命が吉備の国の叛旗を平げ、此の地に凱旋された祥日が申の日であったから、その前日の未の日に初日としたのだと言い伝えられておるのだそうです。


ちょっと一休みしていました。宮内の大市

2012-09-19 20:13:59 | Weblog

 宮内の街が大繁栄するようになったのは、ご朱印の芝居など吉備津神社の繁栄のために取られた施策でした。江戸大阪京以外の所で幕府の認定芝居小屋有ったのは、全国広といえども、この宮内だけだったのです。だから、あの尾上菊五郎でさ、へわざわざこの宮内にまで足を伸ばして芝居興行を取り行っているのです。それくらい権威のあった宮内の芝居小屋だったのです。

 その一つの例をご紹介します。
 これは元禄2年の記録です。それによりますと。吉備津神社社家頭の賀陽主馬と賀陽兵部の二人が連名で、江戸の寺社奉行に宛てた伺書が残っているのです。

 「当社祭礼毎年三月、九月にて御座候 依之神事為賑之先規より芝居仕候 三月は十八日或は十九日を初日に仕り四月初旬まで来仕候 向後は三月は十八日 九月は未の日を初日に定 雨天を除き定日十四日に相究申度存奉此段伺候事
     元禄二年已壬正月十七日
                                               賀陽主馬
                                               賀陽民部
 寺社奉行所   」

 なお、この宮内で何時ごろから芝居を始めたかはその記録は残ってはいないのですが、この記録にあるように元禄時代にはもう相当名のある芝居小屋として全国に知れ渡っていたようです。そう考えると、江戸の初期(十七世紀の中ごろから)からもう、此の地の芝居は行われていたのではないかと思われます????


宮内

2012-09-12 20:09:37 | Weblog

春秋の年2回の宮内の大市に集まった多くの人々の為に必然的に、かつ、然に発生したのが宮内遊廓の始まりでした。最初め臨時の「飯盛女」を雇うなどしていたのですが、それが、恒久的にごく普通に常設の施設へと変化していくのは、自然の成り行きだと思います。
 この遊女の制度は、洋の東西を問わず、人間の欲望のと言うよりは男性の一方的力で以って始められたと思います。色と欲の限りなき最前線から生まれたことは確かです。

 その例外ではありません。秀吉の高松城水攻め以降この宮内は急速に発展します。それは秀吉の為に毛利方、即ち、清水宗治との和平の交渉、といっても、敗戦的処理方法が強かったのですが、を行ったのが吉備津神社の宮司だったからです。まあ、その間に紆余曲折はあったのですが、結局、それまでの山陽道の宿場をこの板倉に移します。それに伴って遊興地として、板倉にすぐ繋がっているん宮内に遊郭が作られるのです。

 それまで栄えていた備前一宮辛川は急激にさびれます。

 でも、この宮内の大市の開催に付いて、時の此の支配者と言っても神社関係者ですが、その都度幕府に対して詳細な依頼書を提出しております。元禄の記録書が残っていますので明日ご紹介します。


こんな意見も寄せられました

2012-09-12 18:35:43 | Weblog

 メールで、こんな意見も寄せられました。どう思われますか????(筆敬さんではありません)

 江戸時代を通じて山陽道の遊廓は、この宮内と宮島のそれが双壁で、その次に、鞆や室津や下関のそれらが続いっていたと言われています。
 続けて彼氏曰。

 「秋成が、賀夜郡庭妹の郷の男「井沢庄太夫」が、どうして、普通ならとっても通って行けそうもないほど遠距離にある鞆の遊郭におった遊女「袖」の元に通わせたかと言えば、この「袖」出身が播磨の印南で、親もない哀れな娘で、船泊でもなるような低級な女なのです。そんな低級な遊女がいた遊廓となると、やはり宮内では駄目なんのです。鞆の遊女がこの場面では一番物語として創り上げるのに都合がよかったのだと思う。また、秋成のこの物語は、江戸人のための読本なのだ。江戸の人達は、当時、庭妹がどうの鞆がどうのと、そんな地理的な背景なんかあまり問題にはしてなく、その西国の奇妙な話に話題が集まっていたのだ。だからこれでいいなだ」

 「第一、そんなことに気をやりながら読んだのでは、この小説が少しも面白くないでしょう。秋成が書いているその通りに読んでおればいいのじゃ。下らないことをあれこれ解釈しても仕方がないのです」と、有難い御忠告までくださいました。


遠くて近きは・・・

2012-09-11 18:11:40 | Weblog

 井沢庄太夫が「鞆の浦の遊女袖」のところに足繫く通ったと書かれていますが、距離的に見みると、この庄太夫の住んでいた所は、雨月物語では「庭妹郷」と書かれていますが、現在の岡山市庭瀬ですから、実際には、鞆の浦までは、ゆうに60km以上も離れているのですよ。そんな所に度々通って行くなんて、いくらなんでも、徒歩が主体の交通手段しかなかったん時代です。とっても出来っこありません。
 この「お袖」と言う遊女がいたのは、本当は宮内ではなかったのかと思われます。
 そうでなかったら、実際には出来っこない事だと思われます。「近くて遠きは・・・・」と言う言葉もありますが。鞆では聊か遠すぎますよね。
 では、秋成は、雨月物語「吉備津の釜」の中で、この「袖」と言う遊女がいた場所を、どうして実際は宮内の遊女だったのにもかかわらず、わざわざに60kmも離れている鞆の遊女にしたのでしょうかね。・・・・・

 これも推測ですが、この秋成は、もしかして一度くらいこの宮内に来たことがあり、その時のこの宮内の遊郭が印象的に、随分と気に入ったのではないでしょうか。
 「宮内の女子はええ」と、大層、宮内びいきになっていたのではないでしょうか。だから、敢て、庄太夫を呪い殺した幽霊女の元いた場所を、この「宮内」でななく、全然、関係のない鞆にその場を移したのではないかなとも思っています。それくらい当時の宮内は素晴らしい岡場所だったのです。その値段も又そこにいる女どもも。

 つれづれなるままに、秋の夜長にこんなつまらない事を考えてみました。お笑いください。


宮内遊廓の誕生

2012-09-10 09:54:25 | Weblog

 その書付によりますと、毎年春秋の2回行う宮内大市の為に、近隣の農家などから臨時の婦女を雇い入れて居ったのですが、この市が大きく固定化されるに従って、常雇の専門の酌婦が必要になり、それに伴い、「飯盛奉公人」の設置を幕府に願い出て、それが許可させます。時代的に言えば、元禄の時代にはもう相当数の女性が諸国からこの宮内にやって来たのだと思われます。その制度が次第に大きくなり全国に其名を馳せる「宮内遊廓」の誕生なのです。

 吉備津神社の知行地が戦国の100分の1程度に縮小された代償として設置が許された春秋の宮内の大市が元になって発展したものなのです。

 これは余談ですが、あの上田秋成の雨月物語に出てくる、主人公の井沢庄太夫は吉備の国の賀夜郡庭妹の郷に住んでいたのですが、此の男が足しげく通ったのが鞆の浦の遊女「袖」です。どうして秋成は、その物語の中で、普通なら当然取り上げられるだろう宮内でなく鞆の浦と言う備後の国の遊女の所まで通って行ったのかよく分かりません。男女の情愛というものは、近い遠いというだけでなない、摩訶不思議な心の働きによるものであるそうですから、地理的距離からだけでは、決して判断できないのかもしれませんね。そこら辺りの心理が読めない私がいけないのでしょうかね????


宮内遊廓の起源

2012-09-09 09:09:30 | Weblog

 高尚と中村歌右衛門との対談の内容は、またの機会に、譲るとして、話を宮内に戻します。

 ご存じでしょうか???この宮内は山陽道切っての備後の鞆、安芸の宮島と肩を並べる大遊郭の地でとして、街道を行き来する旅人は勿論近隣より多くの鼻下長の男共の恰好の遊び場となったのです。特に、岡山藩の光政以下の藩主の思い入れもあったのでしょう、岡場所的な遊び場の設置には頑固とした姿勢を取っていたということもあって。それらの藩士等を含めて岡山城下の男共に、性的な捌け口をこの宮内が果たしていたのだろうとも言われています。
 では何時ごろから宮内に遊郭が出来たのでしょうか。あまりはっきりとした記録はないのですが、発生の起源は、この宮内に、幕府の許可が下りて大市が開けてから、暫くは、この間に諸国より流れ込む多くの人達の為に、その市が開かれている時だけの臨時の旅籠や居酒屋類の家が出来たのだと推測されます。それがこの宮内の大市が定着するようになると、次第に常設の旅籠や居酒屋がこの界隈に開けて来ます。そうなると、当時の社会風習として当然、当時の呼び名は「飯盛奉公人」と呼ばれていたようですが、旅人の接待を主とする女が集まってきます。これが宮内遊廓の始まりです。元禄以前の事だと思われあます。

 この「飯盛奉公人」についての記録が宮内に残っているのです。

 

 


宮内芝居

2012-09-04 07:23:24 | Weblog

春秋の2回催された宮内御朱印芝居がどのくらい人気を博していたかと言う証拠となる古文書があります。

 当時吉備津神社の宮司だった藤井高尚の書には、次のようなことが書き込まれています。
 「浪速の名優三代目中村歌右衛門(俳号梅玉)は文政十年(1828)の秋芝居に宮内に下って来た。とある一夜、高尚の別荘「鶏頭樹園」の茶室でその芸道のことなどなにくれとなく語り明かした」と、その席に同席していた弟子の橋本信古がその著書「落葉の下草」にその時の二人の芸に付いて語った面白い記録が残されています。


ご朱印の芝居 2

2012-09-03 07:43:41 | Weblog

 宮内の芝居を、江戸幕府が、どうして「御朱印の芝居」に指定したか多くの謎が残っているのですが、その一つの理由とされているのが、宮内の主だったものが、戦国の一萬八千石から江戸の幕府になってから、その社領は戦国の世の100分の1に縮小されました。その為に神社の経済は破綻し、それまでの由緒正しい吉備津神社の尊厳が損なわれることを恐れて、その存続のための方策として、この御朱印の芝居を願い出たのだそうです。
 だから、あの寛政の御改革の最中でも堂々と此の地で大芝居を打つことが出来たのだろうと思われます。
 現在、吉備津神社に残されている2代目坂東三津五郎と坂東蓑助親子の「家業繁昌・諸人愛敬」の奉願の扁額などそれをよくしめしているのです。大変立派な扁額です