私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

高尚の著書2

2012-11-30 19:34:22 | Weblog

 伊勢物語新釈六巻についてですが。明治二六年に発行された今泉定介の「伊勢物語講義」の前書には、
 「・・・中にも新釈は、出版の時代、最、あたらしければ、説も亦新しく、いはゆる、古註をあつめて、大成せるものといふべし。故に余もおほよう新釈により・・・」とあり、高尚の「伊勢物語新釈」が一番、この解釈には適切であると云っています。

 さて、次なる高尚の著書です。

 ・大祓い後々釈 一巻
   本居宣長の後釈に漏れたる補い誤れるを正す。
 ・みつのしらべ 三巻
    道・歌・文のしるべについて。此の事については後で説明します。
 ・松屋文後集 三巻
 ・出雲路日記 一巻
 ・松の落葉 四巻
 ・源平拾遺 二巻
   平家物語・源平盛衰記に漏れたる将士の言行を記せる秘書あるを雅文に写したるなりと云う。::
 ・松屋文合 二巻
   枕草子・栄華物語・狭衣・紫式部日記・和泉式部日記五種の書の佳歌を選び出して四季恋雑の歌題に分けたものです。
 ・松屋家集 一巻
 ・松屋文後々集 三巻
 ・古今集新釈 若干巻


高尚の著書1

2012-11-29 12:03:32 | Weblog

 井上博士は書いております。

 「高尚最も文を作るに長ぜり。故に其著書、文に関れるもの多し。高尚の著書を通読せむと思はば、まず、「みつのしるべ」を見るべし。この著述のいかなる意より出でたるかを知るを得べし。」
 と。

・おくれし雁 一巻
  真淵を始めて名高き人々の消息文を集めたもの
・神の御蔭の日記 二巻
  寛政十一年江戸と京トに行きし日記
・消息文例 二巻
  中古風の消息文の書様を教へたる書なり。
・松屋文集 二巻
・日本紀の御局の考え
  紫式部を日本紀の御局という所以を考へたり。
・浅瀬のしるべ 一巻
 燈台もとくらし、なま病法大きずのもとなど云う俚諺を云ひ広めて人に教訓としたり。
・伊勢物語新釈 六巻


73歳の時の肖像

2012-11-27 10:52:42 | Weblog

 高尚にはもう一枚73歳の時の肖像画があります。

                     

  此の肖像画を見て高尚ははいています。

 「いにしへふみ一巻もよみえずて年はいそぢになりにけるかなととみて此おのだすがたのかみに書きしは昔の事にてこたみ又
           むかしへの わが面影は われをみて しらぬ翁と おもひこそせめ
    七十三翁松斎大中臣藤井宿禰高尚」

       念のため、昨日の五十二歳の肖像画を載せておきます。比べてみてください

          


高尚の終疾

2012-11-25 11:47:14 | Weblog

 高尚の晩年の病について井上博士は「藤井高尚伝」に書いております。

 吉備国歌集に見えたる高尚の歌のことば書きに、
 「中風と云う病に臥し居なる年の始」
 と、あり。又天保9年4月に妙玄寺義門が高雅に贈りし書状に
 「御老翁様三月十日より御中風とや。さてさて驚入申候」
 とあれば高尚の命を奪ひし病は中風なるべし。」

 また、門人早川真学と云う人が書いております。「松斎先生は七月二十四日からご病気が篤くなり八月十五日齢七十七で死去された」とあります。
 「齢七十七爾之弖身没比津登」(よわい77にてついにみまかりたまいつ)と書かれています。

 なお、前に書いたのですが、此の高尚の墓は板倉の向山にあり、その墓に刻されている字はいつしか消え失せて、はっきりとは読めませんが「天保十一年庚子八月十五日」とうすぼんやりと読む事が出来ますから、門人早川氏の書いている通りで間違いがありません。念のために。

 


小柴の屋

2012-11-24 09:55:20 | Weblog

 高尚は時々、昨日書いたように、京の鐸屋に赴いて鈴屋門の学の講義をしていました。が、偶々、京の鐸屋に来て高尚の講義を聞いた大阪の人「中 玉樹」と云う人が
 「先生に大阪に来ていただき、鈴門の学を大阪商人に聞かせてやってはくれまいか」と高尚に頼みます。その依頼を受けて高尚は大阪の難波橋近くで講義をします。それを契機に、大阪でも私熟「小柴の屋」が出来あがり、ここへも出向いて、それ以降、何回か講義をするようになったのだそうです。
 その時を様子を、又、文後集に書いております。

 「・・・とひ来て乞うまにまに此難波にもものしつつ。さて道のかたは此頃えらびなしつる「神祗事類条目」というものをときをしへ、歌文の学にては伊勢源氏の物語を講釈そける・・・・とい来てきく人三十よそとかぞうばかり数そひゆく。・・・文政六年十月の頃なりけり。・・・・・」
 これが大阪の「小柴の屋」の出来た由来です。

 この高尚が吉備津神社の社家頭を一子の高豊に譲ったのが文政二年ですから、文政六年と云えば、ある程度高尚に公務から解放された時ではなかったかと思われます。なお。社家頭を高豊に譲ってほッとしていたのも束の間です、その高豊も35歳の若さで、文政八年には死去してしまい、再び、高尚が社家頭に就いています。それから以後、養孫の高雅(たかつね)その職を譲るまで天保六年まで、十年間も続けております。

 だから、此の京の鐸屋や大坂の小柴の屋に出向いて鈴門の学を教えたのは文政三、四年から文政八年までの、高尚が吉備津神社の公務を離れた間のことではないだろうかと思います。
 その後、この大阪の「小柴の屋」がどうなったかははっきりと分かってはいません。


「おきめくらしも」

2012-11-23 09:33:30 | Weblog

 高尚の京都にある私塾「鐸舎(ぬてや)」についての松屋文後集に、「おきめくらしものふるごと思ひいでらるればなり」と書いてありますが、別項を設けて、わざわざ、この「おきめくらしも」についても説明しています。それによりますと

 「顕宗天皇の置目老媼(オキメオミナ)を慈みたまひて大殿の戸に鐸を懸けて其老媼を召さむとする時は必その鐸を引き鳴らしたまい、ある時、“あさぢ原小谷をすぎてももづたふぬてゆらぐとも置目来らしも”と御歌よみしたまいひし事を云へるなり」
 とあります。

 何故、特に、此の置目老媼について、わざわざ高尚がここに書き記したかと云うと、「鐸」についてもそうですが、その師である本居宣長が「古事記伝」の中で取り上げ、詳しく説明しているかだらと思います。その中で
 「鐸は奴理弖(ヌリテ)と訓べし。鈴の大きなるを云り、鐸の字、説文に大鈴也、と云うに当れり」
 と。 また、続いて
 「 須受(スズ)は総名にて其中に大きなるを奴里弖とは云なり。故に古書に、須受をば鈴と書き、奴里弖をば鐸と書て、鈴とは書ず。」
 と、説明しています

 城戸千楯等が作った私塾[鐸舎]の名前の由来を高尚は <そのゆらぐぬての音に鈴の屋の学のふりを慕へる心ばへはおのずからこもりてこそ> と最後に書いております。


鐸舎(ぬてや)での高尚

2012-11-22 16:14:58 | Weblog

 宣長の死後、その学問をより多くの人に広めるために、長谷川管緒、城戸千楯等など5人の鈴屋門の人達が中心に、「鐸舎(ぬてや)」という塾を京にて開いています。その塾に高尚も、時々、出向いて出張授業を行ったのです。
 そのことについても「松屋文後集」に

 ・月ごとに六度の書よむまとゐ、あるはいにしへぶりの文かき、長歌みじか歌よむまとゐをもこヽにてせんとて事おこしてものしたるなり。
 ・年々のまとゐの始には奥の小床の壁に、荷田大人・縣居大人・鈴屋大人のおもかげのうつしゑのかけものというものをかけならべてみたま祭る事せり。
 ・よき方人のいできぬるは高尚がをりをり都にまゐりていにしへ書ども人にとき聞かせけるいさをなりとて故翁の君のまな子につぎて己を此の屋のまろうどざ        ねとかしづかるヽはいみじきめいぼくになんありける
 ・さてぬて屋としもいふはまとゐすべき友だちの限ひきならしつつ入り来とて母屋の戸口に大いなる鐸(ぬて)のかかりたるゆゑにやあらん。「おきめくらしも」のふるごとの思いでらるればなり。そのゆらぐぬての音に鈴の屋の学のふりを慕へる心ばへはおのづからこもりてこそ。

 このように書いております。


高尚の庵 かえでの園と竹の庵

2012-11-21 11:58:08 | Weblog

 高尚は自分の住家「松の屋」から離れて吉野町に鶏頭樹園(かえでのそ)という庵を造っています。文化11年のことです。そのことについて、「松屋文後集」には次のように書いております。

 “同じ宮の郷(さと)の内ながら松の屋とは離れて吉野町と云う町の東、普賢院と云う寺の北隣におのがなごりどころを作れり。・・・・・・かえでの園とぞいう。しか云う故はかへでの木、数を尽して植ゑつればなり。文化十とせあまり一とせといひし年の冬うえたてて・・・・”
 と書かれています。

 更に、晩年になって、井上博士の「高尚伝」には、その作った年代は書かれてはないのですが、高尚の屋敷内にもう一つの庵を作っています。その理由として、かえでの園までは少々距離があって、食事など運ばせるのに家人を困らせるからという理由から、松の屋の屋敷内に二坪ほどの「竹の庵」を作りそこを住家としていたようです。その事についても、また、松屋文後集に
 “家の西にささやかなる庵つくりす。・・・庵の南の窓の前に竹を植ゑ茂らせたり。・・・・かく竹をあまた植ゑつればおのづから庵の名ともなりぬとぞ”
 と。
 


高尚の父母や妻子

2012-11-20 11:43:53 | Weblog

 父母は藤井高久・小春です。父高久も但馬守従五位下に任じられており、号は静斎又は細谷亭です。歌を栂井一室に学んでいます。やはり徒然草や新古今和歌集の研究をしています。その友人でもある笠岡の小寺清先に高尚は幼少の時学んでいます。

 また、妻を繁弥といい、その子に藤井高豊がいます。高豊も、はやはり但馬守従五位下に任じられています。行年35歳でした。松屋文後集に、高尚はその早すぎる死について
 ”うせにし高豊は・・・・・おのれも妻もいといとかなしゅうしヽおほし立てたる独子になんありける”
 と書かれています。なお、繁弥も、そのお墓には行年四九歳と刻まれています。その後妻には折枝と云う人が入っています。

 高豊には女子一人がおりました、その名は「松野」と云います。この人が養子を迎えております。その人がまた何時か詳しくご紹介しようと思っていますが、緒方洪庵の甥であり、しばしばその影響をうけた藤井高雅(たかつね)なのです。

 これら藤井家の人々はそれぞれに和歌をよくし、沢山の歌を残しています。それを編集したのが高雅の「吉備国歌集」です。


高尚のお墓

2012-11-19 16:42:46 | Weblog

 高尚は天保九年に京の吉田家より生前の霊号を賜っていますが,2年後の天保十一年に77歳で亡くなっています。
 その墓は向山にあります。このお墓について、その生前に、お墓の形やそこに記す文字などは遺言状として残しています。その墓は、高雅が作ったと伝えられていますが、その遺言状どうりに造られております。

 そのお墓の表には 「三寸鏡霊神藤井宿弥高尚墓」。また、その裏側は、今ではそこに記されている文字はすっかり時代とともに消え去り、判読することは難しくなっておりますが、記録によりますと、「みそめけり日数あまたにみちみちてけふ朝顔の花の一花 天保十一年庚子八月一五日 松斎」。と書かれているのだそうです。(井上博士の藤井高尚伝による)。言わずもがなのことですが、この「みそめけり」という歌が高尚の辞世の歌です。

 このお墓を見すと、高尚は、単に、宣長門下の偉大な国学者と云うに止まらず、自分の近辺にある名もない「あさがを」「かえで」「竹」「さくら」「まつ」、さらに、庭にある名もない雑草にまで、深く心に留め、いとおしむように眺め、それを生活の中に取り入れていたのではないでしょうか。そうでなかったらあれほど松に執心していたにもかかわらず、その松でなく、敢て、「あさがを」、それも、そこらじゅうにいっぱい咲いている朝顔でなく、たったその「一花」を辞世の歌に取り上げるはずがありません。もしかしたら、秀吉と利休の朝顔の話を知っていて、派手派手しいものではなく、ひっそりとたたずんでいる何処にでもあるような平凡な一花にでも心を廻らす事が出来る慈しみ深い人ではなかったかと想像しています。

 


高尚の霊号贈与について

2012-11-18 09:18:54 | Weblog

 高尚が宣長に再開した寛政11年と云う年には、五月に、「従五位下 長門守」に任じられております。その後、天保九年九月には「三寸鏡霊神」という霊号を賜っております。

 此の生前の霊号贈与ついて高尚は、文後々集に次のように書いております。
 [於布気無久毛  (おほけなくもー思いがけなく)>己和霊(にぎたま)三寸鏡(みきがかみ取託利奈武登理弖其事吉田殿志可婆三寸鏡霊神云名化奴・・・]

 と書かれ、さらに、この後、要約すると、「霊号を生きている人に賜る事なんて大変珍しい事で、それは、高尚が幼い時より八,九〇になる今日まで、たゆみなく御国の学に心を砕いて一生懸命に力を尽くし、また、その学問を世に広めるようと、諸人に教えてきて、国学の名を高めた功績によってこのような霊号を賜ったのだろ」と、書かれています。

 なお、高尚は、霊号を賜った三年後の天保十一年八月十五日、七十七歳でなくなっております。そのお墓は板倉村の向山にあります。なお、宮内は神領地と云うこともあって墓地はありません。宮内の人のお墓は総てこの向山に造られています。しかし、同じ宮内村の中でも、庭瀬藩領の宮内の片山には墓地があります。前書いた岡田屋熊治郎のお墓は片山墓地にあります。

 


高尚の書状

2012-11-17 10:56:06 | Weblog

 井上博士の高尚伝には、高尚が岡山の若林正晃と云う人に送った書状がありますが、その書状には、宣長について次のように書いています。なお、この書状には日付が落ちていますが、その内容から、始めて宣長と対面した時、寛政5年のことではないかと推察されます。

 本居春庵名宣長。号鈴屋。・・・・松阪にしばらく滞在、日々参候て国学専要之儀共論じ候て高論を承候。歌文章の儀は私多年ねり候所甚宣と被賞申候別に論もなく同心に御坐候て万葉家の古体を好はあしきよし被申候・・・・・

 ここに書かれている内容を要約していますと、
 1)高尚が宣長と合って、宣長の高論(非常に優れた意見)を聞き、和歌や文章について、自分がこれまでに練ってきたものと 全く同じで、宣長から、「甚だ宜しい」とお褒めていただいた
 2、宣長の神道については大いに参考になった
 3)宣長は、当時、耳が遠く筆談をしながら古書を論じた
 4)当時、日本では儒学に押されて国学が衰えている事を嘆かれ。「国学をひろめ候様とくれぐれ被申、約をなして帰り申候」。国学をもっともっと日本の国に広めるように頑張ってくださいと励まされた
 5)この時(宣長に会った時のこと)沢山の国学者にあったが、そのいずれも自分流の意見(我意をたてしゐたる論)を主張してやまなかった人が多かったが、宣長の説は、何時も、その論説は正論で、真の古学者である。だから、自分は、此の翁、宣長に「随身仕候」 と、この書状を結んでいます。

 この書状を見ると、やはり、高尚が始めて宣長に合ったのは、やはり、いのうえ先生が言われる「寛政5年の説」が正しいのではないかと私は結論付けました。どうでしょうかね??????昨日の緒方富雄の説もそうですが

 


緒方富雄の高尚

2012-11-16 10:06:10 | Weblog

[緒方洪庵のててがみ」を著した緒方洪庵の曾孫である緒方富雄によると、高尚について、次のように記述しております。

 「吉備津神社筆頭の社家(社家頭)の一つで、代々学識の高い人が出た。なかでも藤井高尚(たかなお)(1764~1840)は寛政五年(1793)から本居宣長(1730~1801)に学んで国学に深く、宣長門下でもとくにぬきんでいたという。また、和歌にもすぐれ、多くの歌をのこしている。」

 と。
 これは昨日見た「鈴屋門人録寛政五年癸丑の条」の記録から、緒方富雄も寛政五年に始めて高尚が宣長の門下生になったとしたのだと思います。

 なお、緒方富雄は「緒方洪庵適々斎塾姓名録 」も編集しており、十分に藤井高尚について知っていたと思われますので間違いはないと思います。すると、宮内辺りでささやかれている、私も、それまでは、「之が真実だ」と思っていたのですが、高尚の十六歳の時、その師小寺清先に薦められて、父高久に無断で鈴屋に入門したという説はどうも胡散臭い臭いがするのですが????。


高尚の妻子

2012-11-15 10:47:14 | Weblog

 高尚の結婚について、それを記したものは見たことはないのですが、向山の藤井家の墓地にある高尚の妻繁弥の墓碑を見ると「文化十五年卒・・・行年四十九」とあり、また、その子高豊が生まれたのは寛政三年(1790年)のことです。だから、昨日の高尚が本居宣長に「八とせ経て再たいめいたまはる・・・」は寛政十一年のことですから、その八年前には、寛政二年には、既に、長子高豊は生まれていたのですから、当然宮内にいたと思われます。そう見てくると鈴門人録にある寛政五年の条にある
     “備中吉備津宮社人藤井長門守高尚”
 と云う記述が訝しいと思われます。又、高尚が長門守を賜るのは寛政十一年のことですからこれも記述に誤りがあったこと間違いありません。
 一説によりますと、十六歳で鈴門に入り、二十二歳で宮内に帰って来たといわれています。

 

 

 

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