どんな生き物? 2006-08-25 19:22:07 | Weblog どうせ見えるなら、何がいいかなと、しばらく考えました。 まず、宇宙人です。かって「ヒバゴン」という正体不明の動物が話題になったけ。雪男も面白いな。火星人はいないし、本当に見たい動物、何がいいかな。この頃一寸影が薄い「ライオン○」でもいかがかな。 ○は○かな? #ささやき « 板倉大橋 その2 | トップ | 妹尾兼康の戦死について »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 轟の橋 (緑山太郎) 2006-08-31 21:30:12 初めまして、部屋主様。板倉に関心持っていたもので、コメントします。「緑山」ですけど、今のところ、総社市の上林の小高い山にあたります。ちょうど国分寺の裏側になりますね。浅尾藩でしたか・・・の家老家の墓地になっていました。兼康公の妻子が隠れ住んでいた所と言われています。鯉山小学校の「陶山道勝寺」の墓所のことですが、吉備の穴海との推察の件ですがどうなんでしょうか・・・・。板倉の合戦から13年の後「吉備津の宮内」で兼康公の13回忌法要をした記述があるのですが・・・?。源平合戦の頃の、海岸線が判る資料は無い物でしょうか。 兼康公の「辞世の句」ご存じでしょうか。「轟の橋」が句の最後に出てきます。私としては、兼康公の句かどうか疑問に思う所が有るのですが、兼康公の辞世の句として伝来してきているので・・・。 返信する 「緑山」わかりました。 (赤木亮介) 2006-09-03 10:58:42 大変貴重なご意見を伺い、ありがとうございました。かんがえてみますと、1184~5年頃、あそこが「穴海」の一部だったとは考えられませんね。まあ考えられるとしたら川の一部だったのかもしれませんが。 海岸線何処だったのでしょうかね。佐々木盛綱の粒江が浅い海であったにしろ、庭瀬あたりにまでは、海が入りこんできていたのではないかと思いますが、どうでしょう。 それはそうとして、兼康の首が懸けられたとする「鷺が森」は、どこら辺りにあったのでしょうかね。 吉備津の古老の話しによりますと、吉備津宮参道のあたりに、当時相当大きな森があり、それを鷺が森だといわれていたそうです。 又一説に曰、緑山の麓にあったとも言われているそうですが? どうでしょう。 返信する 鷺の杜 (緑山太郎/) 2006-09-14 00:12:05 お尋ねくださっていたのに返事をするのが遅くなりました。>兼康の首が懸けられたとする「鷺が森」は、どこら辺りにあったの でしょうかね。 陶山左衛門頭が鷺の杜に曝してある死骸を「吉備宮之通吉野」と云う所に送る。と「鷺の杜へ行き父子の首と衣類を盗みだして、墓に収め、墓所の傍らに草庵を結んだ。」と伝承されています。この「送る」「盗みだし」ということから、鷺の森は陶山道勝寺からはかなり離れた場所に存在したと考えます。ですので、緑山の入り口にある金龍寺から東に在る「太郎荒神(下林?)」が祭られている林(今も存在しています。)のあたりではないかと思います。 「伝えられて居る兼康公の辞世の句」です。(諸本によっては最期の様子が違い、何が事実か判りません。)以尓之部能奈良乃都者現尓天(いにしへのならのみやこはうつつにて)夢路遠太止留轟乃波之 (ゆめじをたどるとどろきのはし) 返信する 当家の和歌・俳諧の類は萬葉假名 (妹尾大介兼齋) 2014-07-21 13:46:28 私の和歌・俳諧の師で在り母方の祖父は、俳號を不敗庵賀村(十二代)私は、俳號を撫靖庵賀村(十三代)と申しますが、当家は、一部の限られた者に限り、萬葉假名を用います。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
板倉に関心持っていたもので、コメントします。
「緑山」ですけど、今のところ、総社市の上林の小高い山にあたります。ちょうど国分寺の裏側になりますね。浅尾藩でしたか・・・の家老家の墓地になっていました。兼康公の妻子が隠れ住んでいた所と言われています。
鯉山小学校の「陶山道勝寺」の墓所のことですが、吉備の穴海との推察の件ですがどうなんでしょうか・・・・。板倉の合戦から13年の後「吉備津の宮内」で兼康公の13回忌法要をした記述があるのですが・・・?。
源平合戦の頃の、海岸線が判る資料は無い物でしょうか。
兼康公の「辞世の句」ご存じでしょうか。「轟の橋」が句の最後に出てきます。私としては、兼康公の句かどうか疑問に思う所が有るのですが、兼康公の辞世の句として伝来してきているので・・・。
海岸線何処だったのでしょうかね。佐々木盛綱の粒江が浅い海であったにしろ、庭瀬あたりにまでは、海が入りこんできていたのではないかと思いますが、どうでしょう。
それはそうとして、兼康の首が懸けられたとする「鷺が森」は、どこら辺りにあったのでしょうかね。
吉備津の古老の話しによりますと、吉備津宮参道のあたりに、当時相当大きな森があり、それを鷺が森だといわれていたそうです。
又一説に曰、緑山の麓にあったとも言われているそうですが? どうでしょう。
>兼康の首が懸けられたとする「鷺が森」は、どこら辺りにあったの
でしょうかね。
陶山左衛門頭が鷺の杜に曝してある死骸を「吉備宮之通吉野」と云
う所に送る。と「鷺の杜へ行き父子の首と衣類を盗みだして、墓に収
め、墓所の傍らに草庵を結んだ。」と伝承されています。この「送る」
「盗みだし」ということから、鷺の森は陶山道勝寺からはかなり離れ
た場所に存在したと考えます。ですので、緑山の入り口にある金龍寺
から東に在る「太郎荒神(下林?)」が祭られている林(今も存在して
います。)のあたりではないかと思います。
「伝えられて居る兼康公の辞世の句」です。
(諸本によっては最期の様子が違い、何が事実か判りません。)
以尓之部能奈良乃都者現尓天(いにしへのならのみやこはうつつにて)
夢路遠太止留轟乃波之 (ゆめじをたどるとどろきのはし)
一部の限られた者に限り、萬葉假名を用います。