私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

もう一つのお社

2012-01-29 14:58:11 | Weblog
 七つあるお社(末社)の中の最後にあるのが、といってもその作り、構造ですが7つともどれも公平に同じなのですが、祓戸神です。「ハラエドガミ」です。

 是も、ちょっと、説明しますと、何処のお宮さんでもそうですが、吉備津神社でも、まず、拝殿に上がり、そこで神官よりお祓いを受けます。その時の神官の祝詞を覚えていらっしゃいますか。聞いたことはあると思いますが。

 話は、又、飛びますが、我が孫の753の時です。拝殿でお祓いを受けました。その時、孫はまだ3歳か時だったのですが、神殿での御祈祷が一通り済んで、外に出たのですが、孫だけが、何かえも言われぬような真剣そのものの顔で聞きます。

 「じいちゃん。・・・・此処にはオオカミがおるんか。どこへおるんじゃろうかなあ」
 
 と。
 それを聞いて、私も、そこにいた父親もみんなきょとんとした顔、顔、顔です。さて、お分かりでしょうか。孫は、先程、拝殿でうけた神官の祝詞の言葉から、てっきりあの恐ろしいオオカミがおるのではないかと思ったのです。

 ちょっと、其の祝詞も一部を

 「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す」

 神官の此の祝詞の中の<祓戸の大神>という部分の 「大神」というのを 3歳の子供流に「オオカミ」と聞き、てっきり此のお宮さんにはオオカミがいるのかと思ったらしいのです。何と子供らしい発想かと驚くやら感心するやらでしたが、其の子ももう4年生を終わろうとしています。昨年の暮れにも、此処で、御祈祷をしていただき、神官の祝詞を一家中で聞いたのですが、もうそんな事を過去に言ったなんてことはおくびにもださず平気な顔して一人前に威儀を正して聞いていました。


 という、私にとってはいわくつきの「祓戸の大神」ですが、本来は、人々の諸々の禍事・罪・穢を清めて誠に有難い神様なのです。

 この祓戸の大神もそうですが、どうしてここにと思うような色々な神様が吉備津彦神社にはいらっしゃるのです。吉備津神社よりもそのお祭りしてある神様は何か多いように思われます。

吉備津彦神社の「句句迺馳神」は、あの蕃山の入れ智恵か???

2012-01-28 20:26:55 | Weblog
 どうもよく分からないのは、ここに並んでいる神々です。「句句迺馳神」だ何んて奇妙な神様のお社も見えます。どうしてと不思議になります。どんな御縁がこの神様と在るのか調べてみました。この「句句迺馳神」は「クグノチ」と読むのだそうです。古事記には「久久能智神」と書かれて、木の神様なのだそうです。

 この吉備津彦神社は吉備の中山の中に鎮座座します神様ですから、当然、山の神の中、木を大切にという心があったのでしょうか、初めに此のお宮を建てた人の思惑があったのでしょうか、わざわざ記紀の中から「句句迺馳神」の神のお宮も作ったのではないでしょうか。

 その伝統が今に生きているのでしょうか、一宮の人々、特に、尾上の人が中心だろうと思われるのですが、私の住む吉備津の町の人たちよりも、吉備の中山の木々をより大切にしているのではないかと思われるのですが。


 それにしても、吉備津彦神社境内に、この神様のお社も建てたと云うことは、よほど記紀の知識の豊富な人だったには違いありません。・・・・・・・・ひょっとしたら熊沢蕃山や津田永忠当たりの入れ智恵であったのかもしれませんね????何せ此のお宮さんの建設に関わった人があの池田綱政侯だったのですからね。

倭迹迹姫命のお宮さんが?

2012-01-27 10:47:20 | Weblog
 備前一宮吉備津彦神社の北側に七つの末社が並んで建っています。その最初の祠が下宮です。祭神は孝元天皇の第三皇女倭迹迹姫命だと説明がしてあります。

 どうして此処に孝元天皇の皇女のお宮があるのか、是も又、大変不思議な話です。

 吉備津彦命の姉である倭迹迹日百襲姫(ヤマトトヒモモソビメ)命なら分かるのですが、これは少々おかしな話ではないかと思われます、この姫と吉備の国となんら関係がないのです。
 「もしかして」という仮定の話なら、前に宇賀神社を吉備の国最古の稲荷神としてある説明板と同じように、これも此のお宮さんを作った人が早とちりして孝霊天皇の皇女の「倭迹迹」という字だけ見て本来ならこの皇女のお宮になるはずですが、誤って孝元天皇の皇女のお宮としたのかもしれないと想像しながら、この七社にお参りしました。なおこの吉備津彦神社は、あの千姫の娘勝姫のお子様である池田綱政侯のは発願によって建てられたものです。此処にある七つの末社甫それより後に建てられたようです。

 正月早々そんな失礼になるかもしれないような事を頭に描きながら参拝しました。

 なお、此の七つの祠には、此の外天照大神、猿田彦命、楽楽森彦、矢喰明神、句句迺馳神、祓戸神だと説明がしてありました。

備前国一宮「吉備津彦神社」に坐す神々

2012-01-26 18:01:01 | Weblog
 備前一宮にある吉備津彦神社にも初詣してきました。この神社にも周りに吉備津神社の宇賀神社と同じように沢山の神々がお祭りされてあります。

 吉備線の踏切を渡り、備前焼の狛犬の間を通り左右の池を見ながら本殿に向います、この道は東に向って伸びており、古代社会の遺構でもあると言われています条里制の名残りだとも言われています。この東西に一直線に延びた道は条理の基線であるとも言われているそうです。

 その池に吉備津神社の御池と同様に名前は付いているのかないのかは不明ですがその池面を鴨がすいすいと泳いでいました。その池には各々に小さな祠があり、説明板によると、北側にあるのが鶴島神社(住吉神)で、南にあるのが亀島神社(宗像神)だそうです。
 何か海と係りの深そうな、古代のロマン、あの黒媛の海部直と何にか関連がありそうな気もしますが、黒媛の父「海部直」の根拠地は、例の「サケツシマ」ですから、距離的に少々違うような気がします。

 まあ、正月早々そんな想像を廻らしながら楽しいお宮参りになりました。このお宮さんにも沢山の末社があります、その一つ一つに神様がおられるのです。

宇賀神と稲荷神

2012-01-24 12:00:52 | Weblog
    

 写真にあるように、どうしてこの宇賀神社が吉備の国の最初の稲荷神とあるのでしょうか。

 どうも、この宇賀神社が吉備の国の最初の「稲荷」であるとは、これを作った人の認識不足がそうさせたのではないかと思われます。というのは、前にも書きましたが、宇賀神社の御神体は日本書紀にある「倉稲魂命(ウガノミタマ)」で、本来は穀物の神ですが、それが何時しか、インドからはるばる日本に渡って来た「弁財天」と結び付いて「福神」にされたのです。と、いうことは宇賀神と稲荷神とは、聊かも関係がないようなのですが、色々な文献を読みますと、まんざら無関係ではないようにも思えるのです。

 ももの本によりますと、「宇賀之魂神。亦名専女。三狐神」と書いてあり、三狐神を(ミケツガミ)と読ませています。此の(みけつ)というのはいわゆる御食津神(みけつがみ)に通じ、食べ物の神になったのだそうです。その三狐がそのまま狐の神様となり、此の狐神が稲荷神と結び付いて宇賀即ち稲荷と同一視されたのではないかというのです。


 そんな風に考えると、この看板にあるように吉備の最古の稲荷であるというのは、聊か話が違い、元々は宇賀神、即ち、「倉稲魂命」をお祭りした神様があり、それと何時ごろかは分からないのですが、狐のお稲荷さん信仰と結び付いて、「最古の稲荷」等という、誠にそれらしい言い伝えが何処からか伝わってきて、信じられこの案内札のようになったのではないでしょうか。


 なお、このお稲荷さんの信仰が盛んになったのは江戸の頃からだと言われています、それ以前には余り人々の信仰の対象としては考えられてはいなかったようです。



ウラガー

2012-01-23 11:50:07 | Weblog
 先日、私は、梵語の中にウラガー(uraga)から「宇賀」」が生まれ、更に、このウラガーはウラスとガーとの結合で、ウラスは胸、ガーは行くこと。即ち、胸で行くもの、龍や蛇をさすものとして考えら、それがそのまま「宇賀神」と「龍」とが関係付けられるのではないかとしましたが、更に、ものの本を紐解いてみると、「弁才天三経」の中に宇賀神について、其の形は天女のように色白で、しかも、その頭には寶冠を頂き、その冠の中には白蛇が有り」と、書いてあります。

 このような色々な話から、民衆の信仰として、弁財天が宇賀神と同一視され、龍神とも合体して、日本に於いては、それが福神にされたのだと思われます。

弁財天と宇賀神主

2012-01-22 17:04:02 | Weblog
 此の弁財天がどうして宇賀神になったのかと調べてみますと、これも余りそれが証拠だと云うことはないのですが、「弁財天三経」という書物の中にどうもそれを知らせてくれるようなものがありそうなのです

 「此天女天竺に在り、則、弁財天と称する。或は宇賀神主と号す。日本に現われ、則、大日尊。或は天照大神と称する」

 と書かれてあります。此の書物は誰によって書かれたのかは知りませんが、随分と思いきった説を称えた意見であるように思われますが、このようなことから弁財天が宇賀神になったのではないかとも言われています。日本に来てからは「天照大神」になったのだとか、大日如来になったのだと書かれています。いい加減な物だと云うことは分かりますが、そんな話が広く伝わり信じられたと云うことです。

 このような話が、明治初年の廃仏毀釈等により、この吉備津神社では、仏ではなく「神のお宮」だと云うイメージを強くするために、敢て、「弁財天」という仏様に近い名前を捨てて、「宇賀神」という真っ当な神様らしい祠名にしたほうがいいのではという考えから命名したのではないでしょうか。だから、このお宮さんは、次の絵地図にあるように、江戸の世では「弁財天」という名で呼ばれていたのではないかと思われます。

   

 なお、この地図にある「手洗池」も、「弁財天」という祠名を無くした、せめての罪滅ぼしと思ったのでしょうか、「龍神池」という弁財天と深く関わりのある名を新たに付け、弁財天というそれまでの名前を懐かしむ村人の為に、敢て是も付けなおしたのではないでしょうか。
 
 では、どうして、この時、この池が「龍神池」と名付けられたのでしょうか。龍と弁財天の接点はあるのでしょうか????

一寸理屈っぽくなりますが

2012-01-21 18:17:27 | Weblog
 宇賀神と弁財天の関係はあまり良くは分からないようですが、インドに於いて、是も推量の域を出ないのですが、梵語の中にウラガー(uraga)というのがあるそうです。このウラガーはウラスとガーとの結合で、ウラスは胸、ガーは行くこと。即ち、胸で行くもの、龍や蛇をさすものとして考えられたようです。
 その「ウラガー」がという発音の言葉を、日本流に「宇賀」と言う漢字を宛てたのだと思われます。これが「宇賀」即ち「龍神」となったのだと言われてきました。

 そこから元禄4年の吉備津神社絵図の中にある「御洗池」が、「弁財天」でなく「宇賀神社」としてお祭りされて以来、「龍神池」と呼ばれるようになったのではないかと考えられます。


 では、元禄4年頃までに「弁財天」とよばれていた神社が、どうして、何時ごろから「宇賀神社」に変身したのでしょうかね。

弁財天

2012-01-20 13:49:55 | Weblog
 江戸の昔、「伊勢屋稲荷に犬の糞」と言われるくらい稲荷が多かったのだそうですが。これは江戸の町の事で、上方等の西日本では弁財天をお祭りした祠が多かったのだそうです。

 此の弁財天は元々インドの神さんだったのだそうです。元来は、音楽の神であったものが、我が国に入ってきてからは福神として、人々に財宝を与える神として信仰されるようになったのだそうです。この神様は、インドでは「薩囉蔭伐底」と呼ばれていたのだそうです。「サラスバチー」と読むのだそうです。サラスと「池または河」の意で、バチーは「持つ」と云う意味の言葉だそうです。この神が日本に入ってきてからは、池や川に関係ありそうな場所に(祠)が設置されています。一番有名なのが琵琶湖に浮かんでいる竹生島の弁天様です。我が吉備津神社にある祠もやはり御手洗池の中にあります。近くでは早島町にある弁財天も水路が集まった土地にあります。
 又、この神様が音楽の神様になったのは、其の祠の周りにある河川の流れが潺々とせせらぎになって流れ下だるその音が誠に爽やかに聞こえることから音楽の神となったのだと言われています。また、論語にある「智者は水を愛す」という言葉から出たのだろうと思われますが「才智の神」ともなり、人々から敬われるようになったのではないかと思われます。我が国の七福神の中で唯一女性の神様です。

 この神様は「容姿端麗なる天女」で、胎蔵界曼荼羅には琵琶を抱きしめているお姿がえがかれています。

 なお、日本の三大弁天とは「竹生島・江の島・厳島」の弁天さんを云うのだそうです。

 こんなことを考えてみれば、我が吉備津神社にあろ宇賀神社も、もともとは元禄4年の地図にあるように弁財天であったのが正しいのではと思われます。

 では、なぜその弁財天が宇賀神社に???そこら辺りは、少々今日のブログは長ったらしくなっていますので、明日にでも解き明かしてみたいと思います。

 「そんなこと、おもしろくもなんにもねええや」と、思いのお方がおられるかもしれませんが、そんなに先をお急ぎなさいますな。色々と調べてみますと、色々な面白い事が分かってくるものですね。弁財天が宇賀になった理由もちゃんと存在しているのです。

元禄年間の吉備津神社の絵地図

2012-01-19 12:18:07 | Weblog
 私の手元には元禄四年九月に画かれた吉備津神社御絵図があります。
 現在、「宇賀神社」とされている社は、この地図にあるようにはっきりと「弁財天」と書かれています。何時ごろからどういう理由で名称変更があったのでしょうか。そこら辺りをもう少し掘り下げてみたいと思います。
 まずその絵地図を見てください。

   

 この絵図の中にある釜宮というのが現在ある御竈殿です。神馬というのはよく分かりませんが、元禄の時代には、この辺りに神馬のいる馬小屋でもあったのでしょうか???
 内宮、金毘羅宮、更に岩山宮の階段の南側には三重塔までちゃんと書きこまれてあります。長い回廊も、元禄の世には新宮までではなく本宮までしかないよう描きこまれています。

たんま

2012-01-18 10:01:30 | Weblog
 「たんま」。こんな言葉知っていますか?
 つい先日、この「たんま」について新聞に出ていました。ご存じかどうかはしりませんが、戦後だったと思いますが、子供たちの遊びの中でしょっちゅう使われた余り運動神経のよくなかった私には大変便利な言葉だったのです。新聞によりますと「タイム」という言葉が語源だそうですが、「ちょいと休憩していて、今私は、皆の遊びからその輪の外にいるのです。私には関わりない事でございますから私はいないものと思って他の人を追いかけてくださいな」と、いうぐらいな意味で、鬼ごっこなどの遊びにしばしば使わせていただいていました。鬼さんに捕まりそうになった時に自己防衛のために作られたまことに便利な言葉だったように覚えています。それと同じような言葉に「ゲッチョウ」等の言葉もあったのではないかとも。

 この「たんま」は、今まで、我が吉備地方だけの子供言葉だったのだろうと思っていたのですが、東京地方でも使われていたと、その人が書かれていてありました。此の言葉は昭和20年代にあっった共通語だったのかと今更のように驚いています。
 それから,これも今NHK放映されている朝ドラの中にあったのですが「パンパン」も、「たんま」と同じように、当時の流行語の一つになっていたのではないかと思われます。

 さて、話は、又、飛びますが、昨日、例の筆敬さんからのメールを受け取りました。
 「おめえが年末までかきょうたあのビスカイノは、どけえいったんなら」
 と、言われます。
 新年早々から、そのビスカイノは例の如くにちょっと置いといてというより、それこそ、「たんま」して、正月ではあるし、少しばかり吉備地方の神様を調べてみました。後数回、この吉備地方の神様について面白い事実が見つかりましたので書いてみます。どうぞお付き合いの程よろしくお願いします。

さぎちょう

2012-01-16 10:49:23 | Weblog
 15日のどんど焼きのことは徒然草にも出ています。ということは。既に、平安の昔からこの年中行事は連続して行われている日本独特の伝統文化なのです。
               

 (この写真は私の持っている江戸末期に出版された「つれづれ草 ゑ入」の中から写しました。はっきりと分からないかもしれませんがここに書かれている文は)

 [百八二]
 さぎちょうは、正月に打ちたるぎちゅうを真言院より神泉苑へ出して焼あぐるなり。「法成就の池」にこそとはやすは、神泉苑の池というなり。
    
 この中に見える「ぎちゅう」というのは辞書で調べてみなすと、「毬枝、毬打」で、木製の毬を打って遊ぶための槌の形をした枝だと説明しています。グランドゴルフのクラブみたいなものだそうです。

 「どんど」は、どうも、此の徒然草の中にあるように、その最初は正月に遊んだ毬打に使った槌を焼いたのがが始まりのようです。それが何時の頃からかは分からないのですが、正月かざりの松・竹・しめ縄など集めて扇をつけ帯かけして「とんとやおほん」とはやしながら、それを燃やすのだと説明している本もあります。(「四季之詞」より)また、書き初めの紙を燃やして、その燃えカスが空高く跳び上がると、習字の字が上手になるなどともいわれて、子供たちは己の紙が高く舞い上がる度に大喜びをしたのです。
  
 さて、我が吉備津では、「今日、学校でとんどをするんでー」と、それぞれの子が家にあるお飾りと持って登校していました。

       左義長も ぎちゅうも知らず 天空の
                     火の粉追いかけ 子らは跳ねおり

「三毬枝」って知っていますか????

2012-01-15 18:03:33 | Weblog
 吉備津神社に在る竜神池(手洗池)の中島に祭られている宇賀神社です。つい最近にねって改装した為に、写真に在るように、随分と派手派手しいお社になっていますが。
  

 この宇賀神社についての案内板には、写真でもお分かりのように、「吉備国最古の稲荷神」とありますが、これは、これを作った人が誰からの言葉だか知れませんが、「宇賀神社は吉備の国の最古の稲荷社だ」という言葉を何の疑いもなく、それをそのまま鵜呑みしてしまって、この説明板を作ったのだろうと想像します。本当は、この神社は、古事記にある「宇迦御魂神」をお祭りした社です。決して稲荷神ではありません。なお、日本書紀には、この神の名を「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」と書いてありますから、この「倉稲」という字から、この神を「稲荷」と勘違いしたのではないでしょうかね

 なお、元禄4年に作られた吉備津宮御絵図によると、この宇賀神社はなく、其の社名は「弁財天」であると記されています。

 しからば、どうして、元禄の時代に「弁財天」と呼ばれていたのが、何時頃かは分からないのですが、宇賀神社と名が変わったのでしょうか。又、この池も、当時は「手洗池」と呼ばれていたのが、何故、現在のような「龍神池」に変ったのでしょうかね。

 それはそうとして。今日は一月十五日 左義長、そうです、どんど祭です。その昔には、この「左義長」は、徒然草で、兼好法師は「三毬打」という字を使っていますが。??
 
 このように、我々の生活の中の習慣は、長い年月が過ぎる間に、宇賀神社が稲荷の昔の神だなんって、その内容まで本来のものより大層異なったものに変化することはよく見受けられるのです。

日本最古の神が吉備津にはいらっしゃいますよ。

2012-01-14 16:52:59 | Weblog
 もうすこし、くどいようでがこの宇賀神社について説明しておきます。
 
 まだ、人々がそれほど豊かではなかった、弥生かそれぐらいの時代の事です。人々は金銀財宝を貯蓄して、富豪を誇るとか高い地位を得るなどという社会的経済的な高度に発達した社会ではなく、一般の人々の一番の願いは「毎日腹いっぱいの食事があれば」という至って原始的と呼んでもよいような社会だったようです。当時は、人民多数の幸福は主要食物である穀物が毎日事欠かさず得られると云うことだったのです。それが最高の人々の贅沢な願いだったのです。そこで人々は、穀物の神を、最も、大切な福神として崇拝したのです。之が我が国に生まれた最初の神だったのです。イザナミ等の神々が出てきたのは奈良時代ごろではないでしょうか。

 此の穀物の神が「宇賀」の神だったのです。「ウゲ」とか「ウケ」とか、時には「ケ」と呼んだのです。その「ウガ」に宇賀という漢字を後から当てはめたのです。「ウガ」というのは、元々の意味は「稲」の事ではないかとも言われています。

 この言葉はいずれも「ケ」であって、生えるものを太古では「ケ」と呼んだらしいのです。体に生える毛もそうです。又土地に生えるもの木も「ケ」と発音されていたと言います。それが後になって「ウ」という接頭語がくっついて「ウガ」になったのではという人もいるようです。そして、それが食べ物を指すように意味が広まって使われるのだそうです。その例として挙げられるのが「あさげ」「ゆうげ」等の言葉です。また、天皇が召しあがる食事を、「御食」と書いて、ミケと呼ばれています

 なお、日本書紀には。この宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)を稲倉魂命と書いています。これからも「ウガ」が稲と何らかの関係があるように思われます。

 こんな弥生の時代から始まったと言われる日本最古の神様が吉備津にはいらっしゃるのです。驚いたでしょう。

宇迦之御魂神

2012-01-13 19:42:59 | Weblog
 之をどう読むか分かりますか???

 さて、正月の神様「大年神」が素戔鳴命と大市比売のお子様で、この神が来ると、その家には、一年の福を授けてくれ、大いに栄えると言われているのです。だから、お飾りや門松を立ててその神を我が家に招来しているのです。それがお飾りをどの家でも飾る習慣になったのだと言われます。 
 
 この大年神にはもう一つの福神の弟君がおられます。その人の名前が「宇迦之御魂神」です。「うがのみたまのかみ」とよましています。(古事記より)倉稲魂神と書いても(うがのみたまのかみ)と読ましているものもあります。

 この神様も兄の大年神と同様「福」を人々に授ける神だと言われています。

 そんな神がいるのか、私は聞いたことがないよとおっしゃると思いますが、この神様をお祭りしている社が吉備津にもあります。吉備津神社の一画にある龍神池の中に建っている「宇賀神社」です。余り、この神様の謂れは知られてはいません。その説明板には、古い稲荷神社だと書いてありますが、それは誤りです。
 大年神の弟神で在らせられるのです。この神も大年神、同様に人々にいっぱい福を授けるのだと言われています。だから、初詣が福神の招来をお願いする為に在るのであれば、本当は吉備津神社に参るより先に、この宇賀神社にお参りして一年の福をお願いするのが本来の初詣の意義だと思うのですが、そんなことは知らんとばかりに、この神社にお参りする人は皆無の状態です。

 なお、この神社と稲荷神社が深く関わっていると云うことも言われていますが、それは、また、何時か説明したいと思いますので今回はこれだけにしておきます。


 来年からは、初詣の際には、この宇賀神社に、是非、何時初めに、どうぞ、参りください。きっと一年の福をいっぱいに授けてくれますよ。