私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「井」について

2010-12-29 21:03:30 | Weblog

 昨日で持って今年の最後にしようと思っていたのですが、私のそれは何遍でも云う「最後」であって、「最後」でない「最後」のようですが、今日も、又又、3回目の「最後の」と銘打ったブログになります。

 と言うのは、全国各地の色々な、それこそ色々なる博学一般事について、細かく御研究をされていているお方からメールを頂いたからです。そのお方を、どんなことにも精通していらっしゃって、なんでも、よく知っていらっしゃるという意味から「難手摸」氏と、私は勝手に徒名しているのですが、そのお方から今回も、ご丁寧なる御教授を頂きました。
 それは「井」と言う言葉についてです。

 氏は言われるのです。
 「井」は、地名などに付く場合は、「むら・まち」を意味しているのだから、昨日の「福井」の「井」は水とは関係がないのではないかと。

 総社市にも「福井」と、呼ばれている地名があります。ここは、あの鬼の城(阿曾)近くに位置しています。そんな関係で、私も、此の福井は、もしかして鉄製品の作られていた所ではないかと思ったのです。筆敬氏も思い付きではあるらしいのですが、福井の井と鉄製品関連付けて推測されたようなのですが、この難手摸氏の御指摘のように、それがどうも一般化された説ではないようなのです。
 よく調べてみると、此の福井地域には、「福井新田公民館」と看板のある公民館もあります。これも推測の域を出ないのですが、新田、その昔と言っても、五世紀頃ではないかと思われますが、漢人が帰化して新しく開墾した土地「にった」ではなかったかとも思われます。黒尾なんて土地もあります。鉱山のある「まち」という事から福井と地名が付いたのかもしれませんね。

 色々な人からの御指導を受けながら、ああでもない、こうでもないと、暇にまかせてものを考えるという事も、結構、又、諸兄じゃあないのですが「楽しからずや」です。

 この一年を反省してみて、このように色んな人からのお教えを受けながら、「やっちもねえことを」と、家人からは何時も非難なされながらでも、書き綴る事が出来たという事は、私の今年の「十大ニュース」の一つである事には間違いありません。 


今年の書き納め

2010-12-28 17:35:26 | Weblog

 昨日のブログで、今年の最終にしたいと思っていたのですが、またもや、あの「ヒツケー」氏からの、

 「今年も、ようけえ おめえさんのブログにつきあったもんだとおもよんじゃ。今年の、せえごに こりゃ どねえなもんじゃろうかなあ・・・・」と云うメールです。

 彼の言によると、福治や福地とおんなじように「福井」も、「そげえな鉄製品をこしらえていた所じゃあねえだろうか」、といわれるのです。
 「井」は誰もが知っとるように水の出る場所だという意味で、その水によって鉄のでき具合の良し悪しは、酒とおんなじで「決まるんじゃ」そうです。鍛治には水も、又、重要な必需品だったのだそうです。鉄製品を作るには良質の井戸水が、必ず、必要であったのだそうです。だから、福井と言うのは福山・福谷・福濱・福崎・福江という鉄の原料である砂鉄が取れるところからつけられた名前ではなく。昨日の福地等と同じような鉄製品が作られた場所を示す地名だったといわれるのです。

 さすが、筆敬さんだけはあります。そうかも知れません。感心しました。なお、此の「福井」ですが、総社市にもあります。その他、吉備地方のあちらこちらにその地名を見いだせます。

 なお、「伊福」と言う地名ですが、これも筆敬さんのご指摘によりますと、鉄とは何ら関係のない佐伯部と同じ軍事と関われのある部民であるのだそうです。
 私は、今までは、軍事や武人に関わる「部」としては大伴・物部・佐伯ぐらいであろうと思っていたのですが。伊福もそれに関係した部であるという事は全然知らなかったので、ついつい簡単に「福井」を逆に言ったくらいにしか思っていなかったものですから間違えてしまったのです。お笑いください。

 折角の御指摘、「ほっとけ。ほっとけ」と言う我が胸内と葛藤しながら、重い筆を取り上げて書いていますが、これで今年のおしまいにします。

 

再度、よいお年を!!!!!


高梁市福地について

2010-12-27 15:28:45 | Weblog

 「吉備に鍛治部なし」についてもう少し付け加えておきます。「真金吹く」の枕詞が付いておる吉備に、どうして「鍛治部」がなかったのでしょうか。その理由として、私は、鍛治部の必要がなかったからだと結論付けたのです。この古代吉備での、鉄を使った色々な最新の道具は、鍛治部と言う特別の部の民によらなくても、簡単に何処からでも入手する事が出来たのです。その例が、当時の「下道郡福治」の例からも分かります。
 この「福治」と同じように、鍛治部以外の人の手で鉄製品が作られていた所ではないかと思われる様な例が、ここ吉備の国には他にも見る事が出来ます。

 高梁市に「福地」(成羽町の東側の))という土地がありますが、そこではないかと言われるのです。この「福地」、何と読むのかおわかりですか????

 最初は「ふくち」。即ち、岡山市の「福治」と同じではなかったのかと考えられます。鍛治と同じです。その「治」が、何時しか、ここでは「地」に代わって、「福地」になったのだと思います。そして、面白い事に、「地」と言う字だけでなしに、いつしか読み方まで変っててしまったのです。
 「しろ」と読ませたのです。
 では、「福」がどうして「しろ」なのでしょうか。
 それについて、私は、次のような理由からだと推測しています。まず。「福」は、昨日も述べた通り、「吹く」です。鉄を作るという意味があります。では、それが何故「しろ」なのでしょうか。この「しろ」は、「たたら」から取り出した黒光りのする鉄の粗綱に鋼を入れて作った刀などの鉄製品は、銅の「あか」に対して。「しろ」と呼ばれていたのです。ただし、銀も山上憶良の歌にあるように「しろがね」と言われていたのですが、鉄製品はただ「しろ」と呼ばれていたのです。それは、又「真金」とも呼ばれていたのです。「真」は「しん」で「しろ」に通じます。

 その白い色に光る鉄製品を作っている場所と言う意味から「福」を、ここでは、それを「ふく」ではなしに、特別に「しろ」と読ましたのだと思います。要するに、はがね等を取り入れて白色を帯びさせた第2次産品である刀などの鉄製品を作る処と言う事から「福地」(ふくち)と言っていたものが、いつの時代かは分からないのですが、「しろち」と読ますようになったのです。
 「しろち」、そうです。それが「福地」の正式な呼び名となったのです。時代的に言うと、この呼び名になったのは、奈良以前の、造山古墳が出来た5世紀の初めのころの秦からの帰化人が大量に流れついた頃ではないかと思われます。

 そのような地名が沢山に残っている吉備地方です。決して、「吉備に鍛治部なし」ではないのです。「部」がなかっただけで、鍛治、そうです、それまでには考えもしなかったような全く新しい産業の革命を起こした鉄製品を生産した場所が、吉備の至る処にあったという証拠を残す、これらの地名です。

 そのような強大な力を持つ吉備の力を、どうにかして弱めようと大和は考えて策略を巡らします。その一つが雄略天皇がなくなった後に起きる星川皇子の反乱だったのです。

 その様子は、稚媛と言う吉備の美人と共に、来年にでもまとめて書いていきたいと思います。私も、今年は、世間並みに年末年始の休業と洒落て、暫く、お休みします。一年って本当にあっという間ですね。

 では、皆々さまにも よいお年を!!!


吉備に鍛冶部なし

2010-12-26 10:09:11 | Weblog

 「吉備に鍛治部なし」こんな言葉を、どこかで見たか聞いたかしたように思われます。この鍛治部と言うのは、みなさんも御存じの通り、鉄の生産に関わる部民ではなく、その鉄を加工して第2次製品に造り上げる、例えば刀、鎧、兜、矢じりなどを造る職責を持った人たちの集団に付けられたものだったのです。
 でも、昨日の福治の例も、そうですが、決して、吉備には「たたら」と呼ばれる製鉄施設を使って生産した鉄を、そのままにどこか他の国の加工業者である「鍛治部」に輸出だけしていたとは考えられない事です。ということは、この「吉備に鍛治部なし」となんて言うのは、ありえない事なのです。
 それでは、何故、「吉備に鍛治部なし」と言われたのでしょうか。

 私は、それについて「吉備に鍛治部なし」ではなく、「吉備に鍛治部の必要なし」だったのではないかと考えてます。
 と言う事は、昨日の「福」と言う字の付く場所、そうです。鉄を生産する場所が吉備には沢山あります。そこで出来た原料の鉄を使った、刀などの第2次産品も、当然、吉備では至る所で造られていたはずです。「鍛治」でなく「福治」からでも分かるように、吉備独自の鉄製品を製造する者は、当時の吉備の各地にいたのです。それは、吉備にある大小の古墳から、無数の兜・刀・鎧・矢じりなどの鉄製品が出土する事からでも分かります。県北部の小さな古墳からも出土の報告がなされています。
 そんな意味で、この特別な「鍛治部」と呼ばれた大和朝廷とかかわりのある鉄作りの専門部民が、この吉備に必要がなかったのです。だから「なし」ではなく「必要なし」なのです。

 私が学生の時ですが、庄司先生と言われる、まだ若い助教授だったと思われるのですが、この「たたら」を研究されていた先生がおられました。若くして亡くなられましたが、ある時です。後期の授業だったと思いますが、60日ほどの長い夏季の休みを利用させれ、中国山間部にある「たたら」についてお調べになったのでしょうか、休み明けの我々学生に、古代吉備の国の鉄の生産について、調査してきたばかりの生のお話をしてくださいました。想像を越す多数の「たたら」があったと熱っぽく語られた先生の印象が今でも頭に残っています。
 
 古代吉備の国には、それくらい沢山のたたら」があったのです。鉄があることは刀などの鉄製品が生まれていたということにもなります。その鉄を利用した農業生産も当然行われていたと考えられます。それによる飛躍的な生産性も高まり、大和勢力に負けない大きな勢力を持つ事が出来たのだろうと思われます。その上に、日本に来た秦等からの帰化人のもつ、新しい技術の導入などして更なる発展を見たのだと思います。

 その力が「記紀」にあるように神武天皇の東征で3年間(9年とも)も兵力増強のためにこの吉備に留まったという記事とも何か一脈通じるところがあるように思われます????時代的にそれが合うのかどうかは不明なのですが、ここはひとまず、本居宣長の云う「左右(かにかく)に疑はし」と、言う事で終わります。

 


福治と鉄の生産

2010-12-25 20:26:25 | Weblog

 岡山市福治にある字名に「山守」ですが、吉備の鉄造りと関係があるのではないかと言ってきたのですが。その元になると思われるのが、「福治」と言う地名です。この「福」、そうです、「ふく」です。是は一体何を意味しておるとお考えですか。

 吉備の国にある「ふく」は、総て「吹く」に通じると思われますです。「真金吹く」の「吹く」、即ち、鉄を作る時に送る風に通じるのです。
 
 動詞の連用形の言葉は、しばしば名詞化された言葉として普通によく使われている例をたくさん見る事が出来ます。例えば「笛吹き」となると名詞化された言葉として通用しますが、終止形「笛吹く」となると、もはや名詞となる独立した言葉としては使われれずに、動詞としてしか使えないのが普通です。
 しかし、この吉備ではどこに行ってもよくお目にかかる「ふく」と言う言葉だけは、例外的に、終止形で名詞化されて使われているのです。その代表的な例が、吉備の枕詞にある「真金ふく」です。この「ふく」がこの吉備一帯では動詞としてでなく、名詞としての使われている場合がたくさん見えられるのです。
 まず、吹屋をみてみましょう。この場合は「ふき」で、連用形です。普通のすんなりとした名詞化された言葉で、問題はないのです。しかし、我が吉備津周辺には、この「ふき」でなく、終止形「ふく」が付いて名詞化された言葉として使われている地名が多く見られます。
 「福岡」「福崎」「福山」「福島」福濱」「福谷」「福原」「福地」「福井」、さらに、面白いのは「福井」をさかさまにした「伊福」と言う地名すらもあります。これらの地名は総て、その昔、鉄を生産していた土地を意味しているのだと思われます。吉備の至る処にこの「福」と言う地名が現在まで残っているのです。それぐらい吉備のどこでも鉄が作られていたという証拠なのです。

 九州にも「福岡」があるではないかと思われるかもしれませんが、一遍上人伝絵巻にある、備前福岡の町人を、この福岡生まれの黒田半兵衛が、そこの城主に任命されたため、強制的に根こそぎ連れて行って、従来あった博多の一画に新しい町を造り、そこを古里の名を取って「福岡」と命名しただけの事なのです。ですから、この筑前の福岡は、もともとは吉備生まれの鉄の生産にかかわる地名だったのですが、今ではあたかも昔からそんな名前がそこにあったかのような顔をしているだけに過ぎません。元々の町の名前は「博多」なのです。何も筑紫と福岡はいささかなる関係もなかったのです。

 さて、話がとんでもない所に行ってしまったのですが、この「福治」ですが、これは「鍛治」に通じます。「福」は、元々、鉄を生産するための大切な設備、鞴(ふいご)を意味する「吹く」です。「治」は「経営する」「うまく扱う」と言う意味があります。だから鉄を生産するために上手に処理できる土地と言う事で、この地名が付けられたのではないかと推察しているのです。


備前山守部の消滅と吉備の衰退

2010-12-25 10:06:22 | Weblog

 岡山市福治に「山守」の字を持つ所があります。この「山守」は、「山守部」と言われる応神天皇の時に作られた「広く山全体を守る職」を司る部民ですが、その一族がこの地に住んでいた所だろうと推定されます。
 この備前に置いた山守(やまもり)部ですが、どうも、当時、吉備の国が持つ、最っも大切な産物、そうです、「鉄」ですが、その生産から販売までの一切を管理もしていたのではないかと思われるのです。この製鉄の技術を持っていたと言う事が、大和を中心とする天皇と対等な勢力を持つことになるのです。だから、大和政権は、備前の持つこの強大な勢力を、どうにかして分散させようと図ります。まず、やったのが、備前を2つに分け「美作の国」を作り国力を弱めます。

 そんな時に起こったのが、と言っても、5世紀の後半に入ってからですが、一つの大きな皇位を巡る戦いが起ります。
 それが雄略天皇の死後の皇位を巡っての、朝廷内の権力闘争だったのではと思いますが、争いなのです。上道の臣の女「稚姫(わかひめ)」が生んだ星川皇子と韓媛の王子白髭との戦いになるのです。これも大和勢力中枢が吉備勢力衰退を考えて謀った陰謀ではないかと言う人もおります。
 丁度、その時代には、これは歴史にも何も書かれているわけではありませんが、どうも吉備の国でも、2大勢力だった上道と下道が対立していてお互いに仲たがいをしていて、十分な両者の間の意志の疎通が出来ていなかった時代のように思われます。その2つの吉備勢力の対立を見越しての大和の吉備に対する勢力の衰退を図る絶好のチャンスとばかりに仕掛けた陰謀ではないかと思われるのです。

 この戦いの結果、吉備の国の勢力は極端に弱まり、大和の勢力の中に完全に飲み込まれてしまう結果になるのですが、その一つを福治にある「山守」という地名の中から読むことが出来るのです。この遺名は「備前の山守部」の職を大和に奪われ、吉備の鉄作りが制限され、その力を消滅させられて行った過程を、何かその背後にある芥子山と共、現代の我々にそこはかとなく物語ってくれているようでもあります。

 

 なお、この5世紀の後半と言いますと、(両宮山古墳が出来るのは5世紀前半です)日本一を誇る伝仁徳陵である大山古墳が作られています。その頃から吉備の国には、もう、100mを超すような大きな古墳を作るだけの余裕は残ってはいなかったのです。その勢力は、完全に衰退してしまい、歴史の主役として活躍する吉備に再び戻る事がなかったのです。この星川皇子の反乱を契機にして、吉備は、普通の国になって、日本の歴史の表舞台の中からは完全に姿を消してしまいます。


大多羅葦原

2010-12-24 10:27:30 | Weblog

 赤穂線に大多羅駅があります。「大多羅(おおたら)」、何となく異国を感じさせるような、何か日本ではない他の所のような感じがします。「くだら」百済と何か関係があるのかもしれませんが、よく分かりません。
 この地名が、歴史の中で、最初に出て来るのは「大和国大安寺流記資財帳」です。この一帯は、北に芥子山を背負い、南は吉備の穴海があり、東西に広く入江が食いこんでいます。その入り江を挿んで、東は山守江、西は石間江がありました。この間に広大な葦原は広がっていたのです。これが、この資財帳に書かれている「大多羅葦原」です。
 「山守」という地名は字名として岡山市福江にあります。又、「石間」は、百間川の東側にある岡山市米田辺りをそう呼んでいたのだそうです。要するに、このあたりは、旭川と砂川が作った三角州の一画にあったのでしょう。当然、「江」ですから、この辺りまで海が入り込んでいて入り江を作っていたのではないでしょうか。その入り江はさらに奥まで伸びて「古都」辺りにまでではなかったかと思われます。

 なお、この「山守」と言うのは、応神天皇の時に「海人部と山守部を置いた」と言う記事にあるように備前に置かれた「山守部」のあった所だと推定されます。この山守部は山を守る職の部民ですが、この福江に何故そんな部民を置いたのか、ちょっと考えさせられますが、この大多羅駅のすぐ北には、備前の名山「芥子山」があります。また、その山がどれほどの歴史的な意味があるのかわ分かりませんが、何となく名山らしい「雨乞山」と言う山もあります。備前の国の山全体を管理する部民を、何らかの理由でこの地に置いたのではと思いますが。
 また、この芥子山に、この吉備の幡多郷に入って来た秦人たちは、桑を植え養蚕を行っていたのではと言う人もいるようですが、それらの事と山守との関連もあるのではないでしょうか?????)
 

 応神天皇の御代から、この辺りも、秦からの帰化人達の働きによって、生産性が高まり、経済的に豊かな土地となり、大和と覇権を争うような強大な勢力を持つまでになったのではないでしょうか。国府跡も周濠を持つ両宮山を始め大小の古墳も大廻小廻の山城も残っています。又雅姫の伝説も残っている土地です。
 吉備の上道郡の勢力のいかに大きかったかということを、これらは亮然と物語っているのです。


9974の番号

2010-12-23 09:58:05 | Weblog

 これは「吉備」とは聊かも関係ない事ですが、こんなこっとてあるのかな、と思いますので書いてみます。

 と言うのは、今まで、そんな数字が入るなんて思ってみなかったので何となく見過ごしていたのですが、20日(月)の我がブログのアクセス・ランキングの所にこの数字が入っているではありませんか。9974番なのだそうです。いままでは、いつもーの線が入っていたのです。それが普通なのだろうと思っていたのですが20日に限って、「順位:9974位/1511144」とありました。この順位は10000位以下の場合のみ数字が付くとのことです。うれしいのやらかなしいのやら何か変な気分になりました。 
 5年近く投稿して初めての経験でした、こんなこともあるもんですね、一つ今年は宝くじでも買ってみようかなと言う気分になりました。

 まあ、これからもいろんな所へ行って色んな資料を集めながら、皆さんがあまり知らなかったような吉備の歴史に関する事を、真実な事ばかりとは限りませんが、書き綴って行きたいと思いますので、どしどし痛烈なるご批評を頂ければ幸いに存じます。


やっちもねえ話じゃがなあ???

2010-12-22 10:50:44 | Weblog

 またまた、例のメール氏からです。本当に「ひつけえなー」と思いますが。

 「おめえが、またまたけえておる 吉備と肥後のことじゃけえどなあ やっちもねえ話じゃがなあ。そげえなこた考えられんど。まあ、せえでも 安芸ぐれえまでは かんげえられんこたあ ねえけえどなあ、どうして そげんな ええかげんなことばあ けえたんなら」

 そこで、この話、またも横道へ

 どうして「肥後」までを、吉備の勢力下にあったのではと、書いたかと言いますと、それは、藤井 駿先生のお書きになった「吉備津神社」(岡山文庫52)にあります。
 それによりますと、大和から吉備の国を平定にやって来た(例の温羅退治の話)吉備津彦命の子孫は三井根子命の他にはいなかったという事です。その命も葦北国造になって肥後の国に行かれたのだそうです。だから当然、その後の吉備と肥後の両国は密接な関係があったのではないかと推測したのです。なお、これも推測の域を出ないのですが、その劣化が近年クローズアップされている千足古墳の壁画ですが、この壁画と類似したものが熊本の古墳にも見られます。吉備と肥後の緊密性を物語る有力な証拠ではないでしょうか。

 まあ、どうでもいいような話ではあるのですが、この千足古墳を含む造り山古墳が5世紀初めの日本での最大の古墳であるという事実だけは確実な歴史的証拠である事には間違いないことですが。この辺りに歴史を探るロマンがある様に思われます。どうでしょう。


吉備の国の勢力は大和より上か??

2010-12-21 20:02:04 | Weblog

 紀元前後の日本には中国本土からや朝鮮半島の人たち帰化人が活躍します。新しいそれまでに知らなかった新しい文化を、彼らを通して日本に取り入れるのに当時の人たちは躍起になったのではないかと思われます。土木事業に関わること、堤防・池・用水路などの干拓に関する墾田の開発事業が多かったのです。大きな河川の下流に広がっていた三角州やその周辺に広がっている葦原や草原の耕地化です。大和川も旭川など岡山の川は勿論のこと、西日本の沢山の河川の三角州が耕地化されたのです。岡山市可知の東に「芳野」吉原」等の地名がありませうが、これらは総て旭川の三角州に出来た葦の生い茂った未開の土地だったのではないでしょうか。この地を彼ら帰化人の手を借りて積極的に開拓して言ったのではないかと思います。それが後になり「芳(よし)」や「葦(よし)」と言う字を使って土地の名前にしたのではと思われます。

 この他、彼ら帰化人によって伝えられた技術に養蚕や絹織物があります。青銅器・鉄等の金属の冶金技術もそうです。酒作りもそうなのです。この酒作りについては。松尾明神が日本の酒作りの神様のように云われていますが、その元祖はどうも秦からの帰化人が関わっていたのではないかと言う思いまします。特に、この「秦 酒公」とう字を見ると、そんな気分にさせられうです。

 この酒公が雄略天皇から賜ったといわれる太秦(うずまさ)には大酒神社があり、この神社と、酒の神である松尾神社とは深い繋がりがあるのではないかと思われます。

 当時、彼ら帰化人の持っている先進の技術き接した天皇を初め日本の人たちが、彼らの持つ新しい文明に大いに関心を持ち、「忌寸(イミキ)」とうい姓(かばね)まで作って、それを与えるなどして、彼らの持つその高度な文化を積極的に吸収しようと努めた形跡が伺われます。

 と云う事は、その高度な文明を吸収するだけの国力と言いましょうか、それを受け入れるのだけの十分の力が大和や吉備の国だけに備わっていたという事です。何故それが安芸の国ではなく、吉備であったのかと言う事はよくわからないのです。だから、帰化人たちもどんどんこの吉備に定着したのではと思われます。
 地理的には、大陸や半島と近いという関係で、九州と同じように、地理的条件からすれば安芸の国も、日本の古代史の中に出てきても当然のように思われるのですが、吉備だけがどうして表に出てくるのか分かりません(記紀から)。それだけ、当時の日本に置いては、大和と吉備の関係は覇権を争う2大勢力だったのでしょう。播磨も讃岐も伊予ももしかして肥後の国までが、と言う事は九州辺りにまで吉備の勢力圏に取りこまれていたのではないでしょうか。
 それぐらい大きな勢力範囲がなかったのなら、5世紀の初めに、あのような日本で最も大きな前方後円墳の造山古墳など作ることはできなかったのではないかと思われます。なお、応神・仁徳陵の古墳はこの造山古墳より約半世紀後に作られています。我田引水的な論になりましたが、念のために。


「可知」とはなんぞや

2010-12-19 10:14:19 | Weblog

 幡多に関連して、「可知」も、また、秦からの帰化人が多く住んでいた所だというのです。この幡多小学校からは南東約8km位もあるでしょうか、ここにも岡山市立可知小学校があります。赤穂線の大多羅近くにあります。

 この「可知」は和名抄に「上道郡可知郷」が見え、幡多と同じく仁徳天皇の時代に、この旭川東岸の開発にあったた秦からの帰化人が拓いた土地だと思われます。
 では、この「可知」がどうして秦人と関わりがあるのかと言いますと、やはりこれも日本書紀からですが、雄略天皇の条に出ています。

 「・・・・賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝部。奉献庸・調御調也絹・縑。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。」 

 秦の民が日本に来て天皇に仕えたというのです。其民を秦の酒公(さけぎみ)に賜わります。その結果、その人が喜んで百八十人ぐらいの勝部(かちべ)〈すぐりべ〉を引き連れて、絹やその織物などを朝廷にうずたかくなるほどいっぱいに献上したのだそうです。それ以後この人達を、うずたかくなるぼどに絹をいっぱいに積みあげた人と言う意味で<うずまさ>と呼んだというのです。

 ここに出てくる勝部(カチベ)を「秦」「半田」「幡多」「葉田」等ど言う名前と一緒にして、即ち、秦人をこう呼んでいたのです。それが「可知」と、何時からかは分からないのですが、呼ばれるようになったのだそうです。大多羅もやはりこの秦人達とのなんらかの関わりのありそうな地名だと思われます


幡多という地名

2010-12-18 12:55:14 | Weblog

 今回の過ちは「震撼たらしめる」という程の大仰なものではなかったのですが、筆敬氏からの忠告もありましたので、もう少し「秦」からの我が国への帰化した人の事を探ってみます。

 その一つが「幡多」についてです。秦・葉田・半田・土田など、これらは総て<はた>と呼ばれていた地名です。古事記に「仁徳天皇は、秦からの帰化人を使って茨田堤、丸邇池、掘江などを作らせた」と、あります。この秦人が土着した所を「幡多郷」と呼んでいたのです。これは「河内」での事ですが、それが、この「備前」にも、やはり、この河内にあるのと同じ「幡多郷」と呼ばれていたいた所があります。

 現在、岡山市高屋にある「幡多小学校」と言う校名となって残っている事からも分かるように、この辺りも、仁徳天皇時代に秦人達が住みついて「幡多郷」と呼ばれていた地域があったのです。秦からの帰化した人々を使って旭川の東岸一帯の土木事業に携わっていたのではないかと考えられています。

 これはどうも真実味が欠けるようには思われるのですが、この地が、日本書紀にある応神天皇が行幸された葉田の足守宮で、高屋はその御所があった所だと言う人もいるようです。なお、この旭川を渡るとすぐの山が、例の半田山もあります。

 又、横道にそれます。「和気絹」と言う本によりますと
 この半田山は、その昔は浅山で、萩すすきの他に木はなかったのだそうです。しかし、この地に来た秦の人が、松数本を植えたのだそうです。その松の木が大木となって「植松」と呼ばれたのです。だから、その山も、最初は「秦山」だったのですが、いつしか「半田山」となったのだそうです。
 なお、はっきりしたことは言えないのですが、この半田山の下辺りに、(法界院辺りのではなかったのでは)どうも「植松」と言うがあったように記憶しているのですが、どうでしょうかね????????
 

 こんな話も「幡多」と関連して今に伝わっています。なお、高屋には「土田(ハタ)」と言う字名を持つちめいもあります。また「可知(カチ)」という所もあり、これもまた、秦との関連のありそうな地名なのです。


「でえれえまちごうとるど」

2010-12-17 11:26:36 | Weblog

 筆敬氏からのお叱りのメールです。
 「おめえがけえた きのうのいぬのことじゃけえど でえれえまちごうとるど。秦じゃあのうて漢じゃろうが。ちいたあまちげえもあるとおもうんじゃが かくからにゃあ もちいたあ きをつけんとおえんど」
 と、いうのです。

 全く氏の言われる通りでした。「漢」のつもりで書いていたのですが何処でどう間違ったのか知らないのですが、ついうっかりして「秦」と書いてしまったのです。温羅も、ももたろうさんのいぬも、すべて、秦からではなくて、応神天皇の時に、漢の阿智使主が引き連れてきた漢族が蕃衍したものだったと、いいたかったのです。
 

 「カンシンを持っていつも見ていただいておりますのに、誠に相済まない事をしました」と、謝りのメールをしました。

 

 

 


桃太郎の犬は秦からの帰化人か

2010-12-16 13:10:51 | Weblog

 応神天皇の時、日本に、新漢(いまき)と呼ばれた漢からの帰化人達が住みついたと思われる場所がたくさんあるようです。その新漢「いまき」から変化して「にいみ」になったのだと、昨日、書きました。この「にい」即ち「新」ですが、この字の付いたと地名も、やはり漢と何らかの関わりを持って語られる場合が多いのです。
 吉備津の近くにも新野(ニイノ)、新山(ニイヤマ)と呼ばれる土地があります。「ニイヤマ」は、例の鬼の城の辺りです。と云う事は、「温羅」、もしかして、伝説では「百済」から飛来してきた等と云われているのですが、真実は、秦からの帰化人たちの集団の長を言ったのかもしれません。地名から言いますと、寧ろ、こっちの方が正しいのではと???・

 また、この新山にある「鬼の城」に住んでいた「温羅(うら)」を退治にした桃太郎こと吉備津彦命に仕えていたあの「犬」ですが、どうもこれもまた、私には、「秦」からの帰化した人達ではなかったかと思われるのです。それは、日本書紀に書かれている、中国「漢」の国から最初に渡来してきた阿智使主(あちのおみ)を祖とする略系の中に「犬養忌寸」が見られます。なお、この忌寸(いみき)という姓(かばね)は渡来人に与えられたものです。

 温羅も秦人、おもたろうの「いぬ」も秦人、なんだかとっても愉快な気分にしてくれますね。
 軍事的に優秀な温羅を征伐するためには、これ又、それと同等な軍事力をもつ秦人達の集団「さる」族を利用しなくては勝利が覚束ないと考えた「ももたろう」こと吉備津彦が取った戦略だったように思われます。
 なお、この戦いでの戦費など経済対策については「さる」族、作戦面では、空から偵察できる「きじ」族、其々の分担に応じて働いた結果、桃太郎が勝利したのです。
 でも、この戦いの後から、「いぬ」と「ももたろう」との間には対立が生まれます。それは、一番最初に家来になった「さる」には「きびだんご」を1つやったのですが、最後に家来になった「いぬ」には、どうしたことか、半分しかやらなかったのです。その多寡の大小による争いになったのです。それを知った「いぬ」は、
 「自分たちが秦からの渡来人だったから、ももたろうは差別した」
 と、考えたのです。それが原因で、「いぬ」族がこの軍団から離れて行ったのだと、そんなお話がこの地方には残っています。
 だから、回廊の所にある随神門には「いぬ」がいなくて、「さる」と「きじ」だけで守っているのだとも

 そんなん話をすると、
 「とんでもねえ。そげえな はなしゃあ きたこともねえで」 
 と、、真顔になって怒る人も、近所に居られます。その方は「犬飼」さんと云われる人です。その人は言われます。
 「吉備津さんを見てみい。あのなげえ けえろうの傍に随神門があるんは しっとりんさろうが。その門のなけえおって 吉備津さまの番を いっつも しとりょんさるんが 「さる」と」きじ」なんじゃ。・・・せえなら、「いぬ」はどうしょうるんならあ、と思うんが当たり前じゃろうが。そうじゃろうが。・・・・あのいなあなあ、鬼退治してからのちになあ、吉備の国の治安のために、自分からこうてでて、いわゆる「いぬ」になってなあ、吉備の国のいろんなとけえ散って行ったんじゃけん、だから、おらんのじゃ。おめえが言うように、吉備団子を半分しかくれなかったけえ、ふくれてどけえかいったんとは違うど」
 と云われるのです。
 「ううむ・・・・」
 と、うなるしか方法がありませ。「旨い事云われるは」と、感心しきりです。そういえば、私の周りには、この「犬養、犬飼」姓の付く家が多いのです。備前・備中・美作・備後にも、沢山「いぬかい」姓の付く家があります。

 と言う事は、この「犬飼」さんの言い分に軍配が上がるのかな??????


「新見」って何処から付けられたのでしょうか

2010-12-14 19:30:45 | Weblog

 応神天皇の時、阿知使主と其の子都加使主が日本に来て、日本全国に広がって住みついたのです。大和、摂津、伊勢、近江、丹波などの近畿、阿波、讃岐など四国、豊前、豊後、日向など九州、それに美作、備前、備中、備後等の中国、更に、中部や関東にまで広がって住んでいます。それを示す地名が残っています。

 新らたに日本にやって来た漢と云う事から「新漢」、これが「イマキ」なのです。「今来」と云う名の土地もあります。これが応神天皇紀に見える日本に来た「倭漢」(ヤマトノアヤ)人達が新しく住んだ土地なのです。

 なお、この「倭漢」が、日本で最初に土地を天皇より授かったのが大和国高市郡檜前村と云う事です。それからこの人たちが、漸次、日本各地に広がってその文化を広めたのでした。それらの人々は、最初は「新漢部」(いまきのあやべ)と呼ばれていたのですが、それが「新部(にいべ)」や「漢部(あやべ)」に変化していきます。それが、次第に、新見や綾部と云う地名に代わったのです。
 この「にいべ」や「あやべ」という名前は、更に変化して、「にひの」は「新野に、「にひた」は入田や新田に、この他「にいやま」は新山となったのです。

 岡山県の新見はそうです。最初は「新漢部(いまきのあやべ)」であったものが、「新部(いまきのあやべ)」、それが「にひべ」「にひへ」変化して、「にひめ」、さらに「にひみ」と変わったのです。和名抄にある「哲多郡新見郷」が文献にあらわれた、最も古い地名です。