私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

にがむしを噛み潰したような・・・

2011-03-31 10:11:16 | Weblog

 一月晦。江漢は、その前日の狩猟で得た鹿3疋、その肉でしょうか藩主木下利彪公から頂いています。ところが、それからたった5日後に、再び、この利彪公は、近くの山で鹿狩りをしています。よっぽど鹿狩りが好きなのだったのでしょうかね。
 それにしても、あまりにももの好きといってもいいよな突飛な2月4日の鹿狩りではなかったのではないでしょうか。5日前の狩りは、帰国されたて始めの狩りだと思いますので、それはそれだけの意味があるように思われますが、その狩りを済ましてから、たった5日後の狩りです。どうもその辺りが合点がいかないように思えます。何か、一週間の間に、二回も狩りする必要があったのではないでしょうか。
 こんな疑問を持ちながら、これ又、いろいろと調べているうちに、その理由ではないだろうか??と、思われる様なものが見つかりました。それは「春波楼筆記」に書いてありました。

 「予鹿の生血を啜らん事を言う。領主俄に狩に出られけるに・・・・」
 と、あります。これから推測できるのは、例の岩石聳たる処を見学して、「帰りて御殿に参る」と、ありますから、二月三日の事です。2度目の木下侯とのお目通りが適います。その席でも、話が弾み、先日、頂戴した鹿肉の話も、当然、吉備津神社氏子の料理人の話もですが、話題に上った事は間違いないと思います。その時、江漢は、木下公に
 「拙者、あのように鹿肉さへ料理するのもいやがっておりますお国の料理人には相済まないのですが、エゲレスなど西洋の者どもは、鹿の肉は勿論、その生血でさえ、平気で啜って飲むのだと聞いております。私も、出来る事なら、西洋の者どもがするという鹿の生血を啜ってみとう存じます」
 と、申し上げたのではないでしょうか。

 それを聞かれた藩主利彪公も大いに驚かれたに違いありません。
 「何、鹿の生血を!!!これは面白い事になるぞ。いい加減な事を申して。果たして、江漢め、本当に鹿の生血を啜ることが出来るのか。試してみるのも一興だ」
 と、心の中で、思われたのかどうかは分かりませんが、急遽、「領主俄に狩にでられけるに」と、相成るのです。そこらあたりは封建領主です。御自分の料簡で、どうにでもなったのだと思われます。連れ出されるご家来衆に取ってはいい迷惑な話ですが、領主の一声で即決です。
 ここら辺りにも江戸期の大名政治のおおらかさと言いましょうか、いい加減さが顔を覗かせています。現代では到底考えられない、教科書には乗っていない、封建社会の政治実態が存在していた事を示すいい例なのです。用人の黒宮氏の、口をひんまげ、苦虫をかみつぶしたような困り切った顔が想像できます。

 どうでしょうか。この私の推量は??????ご批判願えればと存じます。

 

 

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岩石聳たる処。もしかして豪渓?

2011-03-30 20:59:04 | Weblog

 この西遊日記で、江漢は、「三日天気となる。暖色を催す」と、書き現わしています。「暖色を催す」気候に連れられてか、用人黒宮氏の奥座敷でもある、柏井という所にある温泉場に出向いています。この柏井というのは、前にも書いたのですが、現在の粟井温泉の事だろうと思われます。ここでも、江漢は「粟」と「柏」を間違えているようです。
 この温泉、「黒宮発起して温泉場とす。未だ浴する人なし」と、書いており、その当時、あまり利用する人がいなかったように受け取れます。しかし、前の年の9月に尋ねた時には、「画図西遊旅譚」によると、「浴する者多し」と書いていますので、ここら辺りにもいい加減さが伺われます。
 
 まあ、此の「日記」も「旅譚」も、江漢が、この旅を終えて何年か後に書いたものだそうですので、幾分は覚え間違いがあったことは否めませんが。でも、江漢は、此の足守の湯治湯に、二度までも入っているのですから、江漢自身は、随分と、気に入った場所ではなかったのかと思われます。その後、ここから五、六町離れた場所にある中山という「岩石聳たる処なり」も見学しています。
 これ又、不思議なのですが、この温泉湯治場から五、六町離れた所に「岩石聳えたる所」等ありません。まして、「中山」という地名も現在の足守にはありません。多分、現在の龍泉寺だろうと推測さますが、距離的にそんなんに五、六町の近い所ではありません。
 また、そんなことはないとは思うのですが、此の粟井温泉場から、足を少々延ばし、天下の奇岩の聳えるあの豪渓も行くことはできますが、やはり一日の行程としては少々無理があるように思われます。だから、これも江漢の記憶間違いではないかと思います。もし、あの豪渓にまで足を伸ばしているとするなら、当然、彼は何らかの絵を書き残しているのではと想像します。それぐらいこの豪渓は画家の創作意欲をそそる場所ですから、行ってはいないと思います。

 しかし、この中山も、やはり「画図西遊旅譚」にも書き現わされていますから、前の柏井と同じように2度目の訪問になります。画家としてその腕を揮って、「岩石聳えたる処」について、何か絵でも描き残してくれていたなら、その場所が特定できたのですが、この日記にも、残念ですが、それらしい風景は見当たりません。


一ト夜正月。・・・人間というのは面白いもんですね

2011-03-29 17:10:10 | Weblog

 2月朔、備中地方では、多分吉備地方ではどこでも行われていたのではないかと思われるのですが、「ヒテエショウガツ」と一般に呼ばれて、この日だけ、今年二度目の正月気分を味わっていたのです。この「ヒテエ」というのは、「一重(ひとえ)」のことで、一回りした正月という意味ですが、江漢は、その「ヒテエ」という発音から、長崎に行くと時、この足守に立ち寄ったのですが、その時に聞いた「総社」の町のことを、「宗座」と記していたように、ここでも、その発音から、誰かに聞いたのかどうか知りませんが、多分、自分で勝手にこう書くのだろうと想像して、「一ト夜」なる言葉を創作したのだと思われます。
 あの「山井四季之詞」によりますと、2月朔に、特別に、もう一回、正月行事をご丁寧にするなどという風習があるようには書いていませんので、当時、江戸でも京大阪でも、このような行事はなく、大変、二月朔のこの「ヒテエショウガツ」が江漢には奇異に見えたのでしょうか、書きとめています。

その朔の日記より。
 「昼より雨。此所にては一ト夜正月とて、昨日餅を搗き、今朝雑煮を喰、町家袴上下にて礼に出る。武家になし」
 と。

 この江漢が書きとめている「一と夜正月」は、現在では、もう、ほとんどの家では、こんな風習を行っている所はないようですが、昭和の二〇年頃までは、結構、この辺りでも、多くの家では、そんな風習が残っていたようです。
 私は一人、そんな昔の風習があったのだという事を残してやろうと思って、自分の子供たちには大きくなるまで、ずっと体験させたのですが、いざ、その子供が家庭を持っても、今でも、そんな習慣を続けているかと言いますと、もうそんなのはどこ吹く風の如くに、そんな事をしたのかという事すらも忘れてしまって、普通の二月一日になってしまっています。

 我々が生活した昭和の初め頃でも、江漢が書いているような、袴や上下を着て正月の礼に出るなんてことはなかったのですが、江戸期頃まではそんな風習も見られた事が分かります。
 
 時代の変化というのは何でしょうかね。でも考えれば考える程、人間というのは面白いもんですね。


つい興に乗って

2011-03-27 10:39:59 | Weblog

 このへんてこりんな料理方法で、殿よりか拝領した鹿の肉を食べた江漢でした。、その肉を食べた夜から雨になります。その翌日、二月二日ですが、引き続いて雨です。退屈しのぎに絵を描いて日がな一日を菊屋で過ごしています。誰も来訪者はなく「徒然にて暮らす」とその日記には書きとめています。

 江漢は、この日、備前屋で何枚かの絵を描いたそうです。その絵は、多分、今も足守に残っていると思われるのですが、どんな絵だったか一度調べてみたいものだと思います。御存じのお方がいたらお教え願いたいものだと思います。

 次の日には雨も上がります。

 その次の日、四日の事になりますが、江漢は木下侯と約束していたのでしょうか近くの山に狩りに行っています。そこに、またまた江漢の奇人ぶりが現われた様子が書き込まれています。


あんばいあしし

2011-03-26 10:42:55 | Weblog

 殿より拝領した鹿の肉を料理するよう、足守備前屋の料理人に頼んだところ「獣を嫌う」としただけで、その結末がどうなったのか、此の日記だけからでは分かりません。大方、こっそりと、どこかへ捨てるか何かしたのではと思いました。
 念ためと思って、司馬江漢の書いた他の書物には、この件について何か書き留めているものはないかと、いろいろ探ってみました。昭和の初め頃出版された「日本随筆大成」という本の中に、此の司馬江漢が書いた「春波楼筆記」があるという事を突き止め、早速、その本を捲ってみました。すると、偶然でしたが、この足守での鹿肉の調理について書かれてある部分を見つけました。あきらめかけていたのですが、驚くやらで、皆さんにもぜひご紹介したくなり、今、書いています。

 「・・・・。またある時、鹿の肉を喰はんとて、料理人に云い付けゝるに、煙り臭くして、一向に喰ふ事能はず。何なる故と問ふに、此所は吉備津の宮あり。皆其の神の氏子なるにより、獣類は、穢とて之を忌み嫌ふ事なり。故に外に竈を造り、鼻に気の入らぬ様に、長き竿を以て煮たる故、あんばいあししと云いけれ・・・・・・。」

 と。
 
 「此の肉を料理してくれ」と、料理人に言うと、彼は「こんな煙臭いものをよくぞお召し上がりになられますね」と、真剣に尋ねたのです。それに対して、江漢はその料理人の尋ねたことには答えずに。反対に料理人に「どうしてこんなにうまい鹿の肉をあなたは食べないのですか」と、尋ねます。すると、その料理人が云います。
 「この地方の人は、総て吉備津神社の氏子です、その氏子は、獣の肉を食べることは穢れになると言い伝えられて、昔から、獣の肉を食べたことがありません。まして、料理するなどということは、とんでもないことです」
 と。

 しかし、そのお客様は、それも藩主足守侯の御招きの特別な客人です。そうそう粗末には取り扱えません。「大切にせよ」と、用人からも頼まれています。
 仕方ありません、その料理人は、その料理の仕方を色々と考え、工夫したのです。その結果考え付いた料理方法が、、長い竿竹の先に糸で、その肉をぶら下げる様にして焼くという方法で調理する仕方です。 直接手で持って焼くのではありませんから、味もなにも関係なく、ただ火にあぶっただけの肉です。決して美味しく焼けてはいなかったのだと思います。それも、わざわざ屋外に特別な竈をしつらえて焼いたのですから。その臭いが自分の体につかないようにという配慮からだとしてあります。その結果、焼き上がった鹿の肉の味は「あんばいあしし」、即ち、一向にうまくありません。その様子が江漢の絵として描かれてないのが残念ですが、そんな文章が残っています。

 兎に角、そのようにして焼き上がった其の鹿の肉を、果たして、江漢はむしゃむしゃと食べたのでしょうかね。皆さんはどう思われますか??????私はきっと平気な顔して、堂々と、周りでは、どうなる事になるかと、その料理人をお始め、周りにいた沢山の人々が、見ていたに違いありません。そんな沢山の見ている人の前で、むしゃむしゃと、さもおいしそうに食べたのではないかと想像しています。味噌か醤油かの「たれ」は当然付けたと思われますが。
 それぐらい江漢というお方は、当世流に云うと、随分、変わった変人奇人の人ではなかったのでしょうか。それを自認していたという事が、次の二月四日の日記からも分かります。
 江戸という時代にはこんな、今から見ても、この人いったいどうなっているのと思われるような人がうようよいたように思われるのですが。それだけ、泰平楽な時代だったと言わざるを得ません。そんな一人として画家司馬江漢も見られていたのです。あまり知られていない江漢の人物像です。


江漢の2月朔の日記より

2011-03-25 11:03:28 | Weblog

 「二月朔。昼より雨・・・・・・・。昨日の鹿肉を料理人に申付候へは殊の外困りける。・・・・」と書かれてあります。そして、その理由として「・・・此処は吉備津の宮の氏子にて獣を嫌う。夜に入りて雨ますます降る」

 昨日、木下侯に拝謁して賜った鹿肉の料理を、当時の備中地方、特に、吉備津宮の氏子が厳重に守っている掟というか、或る風習を知らない江漢です、早速に、宿の料理人に依頼するのです。
 すると、どうでしょう。
 
 「あやあ・・、お困り申した。どうしたらいいのでしょうかね。鹿の肉でしょう。これは・・・」
 「そうだ、昨日、殿から頂いた鹿だが、それがどうした」
 「いや、鹿の肉ですね。これは困った。御客様からの料理せよとの仰せですから、無碍にお断りするわけにもいきませんし」
 「当たり前だ。此の肉はそこら辺りに有る肉とわ違うのだ。恐れ多くも木下の殿様から拝領した大切なものだ。早う料理してくれんか・・・・・・・、でも何故お前はそんなにも困っているのだ。料理の方法を知らんのか」
 「いやそう言うわけでがございませんが」

 といって、その困っている訳を備前屋の料理人は江漢に語ります。
 「自分は吉備津神社の氏子です。この氏子が必ず守らなければならない厳しい掟があるのです。それが、獣の肉を食べない事、料理しない事この2つです。それゆえに、すぐに、殿より御拝領のこの鹿の肉を、私は料理する事が出来ないのです。だから、どうしたらいいかのと思案にくれているのでございます」
 と、言うのです。

 さて、その料理人の鹿の肉が料理できない訳を江漢は聞いて、此の肉の処置をどうしたのでしょうか。此の日の日記には「・・・・・獣を嫌う。夜に入りて雨ますます降る」で終わっています。どのように処置したかまでは、此の日記には書いてありません。どうなったやら?????

 


吉備津の料理人

2011-03-24 19:38:19 | Weblog

 1月晦日、足守藩主、木下虎彪侯に拝謁した江漢は、前日狩りした鹿3疋を賜ります。

 次の日。即ち、二月の朔、江漢は宿していた備前屋の料理人に、この賜った鹿の肉の料理を依頼します。此処から、へんてこりんなと言いましょうか、当時、日本における文明の最先端を行く江漢が味わった足守の人たちの、驚くべき保守的な旧態然とした風習に驚きを覚えたのでしょうか、皮肉たっぷりではないのですが、そのようすをお書き綴っています。
 
 江戸人である江漢とすれば、たかが鹿の肉など何でもありません。たちまちのうちにぺろりと平らげることなど日常茶飯事のことで、当たり前の生活です。何も奇異なことではなかったはずです。「当世流行り」を自称していた江漢です。日常の生活の中でも、平気で動物の肉、といっても、とりや猪や鹿の肉だと思いますが、平気で、何の感情の入れずに、平然と口にしていたのです。あの平賀源内らと一緒に、江戸の街角で、泰平を謳歌していた江漢です。鹿の肉などにびびついてはいません。それが大変おいしい食べ物である事を知っていたのです「。江戸末期の最先端の文明文化人だと自称していた人物です。だからこそ、洋画の処方を日本で最初に取り入れて、油絵を描いたのです。
 そのような江漢の気風を知っていたのでしょうか、木下侯も、悠然と、その猟した鹿を江漢に与えたのです。

 これは余分の事ですが、足守藩主虎彪という人も、こんな江漢と付き合っていたのですから、また相当なヨーロッパナイズされたアプレゲールな人ではないかと思われます。
 しかし、この足守は日本の片田舎です。当然ですが、一般の人々の間では、獣の肉を食べるという習慣はなかったと思われます。寧ろ、仏教徒としては、決してしてはならなない戒律の一つとして、厳重に守られていた事ではないかと思われます。動物の肉は、決して、人が口にすべきものではないという決まりみたいなののが生活の中に滲みついていたのです。

 この仏教徒としての戒律が、特に、神のお子である吉備津彦命のおひざ元に有る吉備津神社の氏子には、ことさら、厳重な戒律として、神代の昔から、生活の一部となって、根強く生き付いていたのです。
 鳥だってウサギだって動物の肉は一切口にしないとを言う決まりが、生活の隅々にまで守られていたのです。

 なお、余談事ですが、此の事は、まだ、今でも私の周りにも、そんなん風習を、後生大事と、こんな近代的な世中なのですが、厳重に守って生きているような古風な人を見かけます。

 そんな吉備津の料理人に鹿の肉の料理を依頼するのです。

 さて、この吉備津の料理人は、如何に、忌諱されていた鹿の肉の料理をしたのでしょうかね????

 


司馬江漢の西遊日記に戻ります。

2011-03-23 13:49:52 | Weblog

 11日に発生した東北関東一帯を直撃した地震が、風評などというありもしない事を、さも真実げに伝へ、地震と関係のない地方の人々の間にも不安を振りまくように、それこそ大揺れに揺れて日本列島を震撼させました。そんなかって日本人が経験したことがないような未曽有な大惨事をもたらした震災から、今日はもう13日目です。その復興の槌音が、ほんのかすかですが、ぼつぼつと、闇の中から聞こえだしたのではにかと思われます。

 「たちあがれ日本」ではないのですが、「立ち上がれ災害に逢われた東北地方の人たちよ、とにかく頑張ってください」と、無言なる激励を今でもしています。

 この「ぼつぼつ」という言葉に引っ張られて、私のブログも、又、ぼつぼつと続きを書いていこうと思いますのでよろしく。

 前回は、江漢の「西遊日記」1月29日の記事までを書いたのですが、今日からは、それ以降の日記に目を通したいと思います。

  

  この30日に、江漢はようやく念願がかなって、足守藩主木下虎彪侯にお逢いになっております。
   
 「天気よし。御殿へ出る。お逢ひあり。前日お猟あり、鹿3匹、其肉を下さる」

 此の日記から推察できるのは、藩主から「よう来たな江漢。随分と待たせたて済まなかった。長崎はどうだったかね」と、かなんとか声かけがあったと思われます。そして、その日はお城で十分な饗応があったのでしょうか、まだ、何も問題が起きたようには、此の日記には見えません。その江漢が御城から自分の宿舎、足守の備前屋に下がる時にでしょうか、昨日の猟で仕留めた鹿の肉を、、藩主からわざわざ頂いたのです。

 これだけだったら何という事はない、唯の日常茶飯事なことですが、江漢が宿している備前屋の料理人が、たまたま、宮内出身の吉備津神社の氏子だったのです。それゆえに、誠に珍なる事が起こります。三十日の翌日二月の朔の事です。

 ここでちょっと触れておきますが、私の全然気がついていなかったのですが、旧暦では、其々の月は二十九日か三十日であったのです。新暦のように三十一日まであるような月はなかったのだそうです。

 

 


9日ぶり 80歳と孫救出

2011-03-21 09:43:43 | Weblog

 こんな見出しが、今日の新聞の一面に、大きく報道されています。
 80歳の祖母と16歳の孫二人が、奇跡的に、地震発生以来、9日振りに救助されたと。悲しみの中に、何かしらほっとする事件ではないでしょうか。人の命って何でしょうかね。それこそ神の意思に左右されて生きているようなはかないものではないでしょうか。家ごと津波によって流されたのだという。数限りない危機一髪の場面が、その流されている途中にはあったと思われます。でも、時間的に言うとどのくらいの間であるのかは分からないのですが、幾多の危機の場を乗り越えることが出来たのです。将に、「神のみぞ知る」という事以外にはどう言い表していいのか分かりません。
 その他にも、津波に流されて居る時、たまたま、船が側を流れていたからその船に乗って助かったという青年もいました。これ等すべて人知の及ばない神の世界の物語であるとしか言い表す事が出来ないような事だと思われます。

 今回の大震災は、このようの色々な物語を巻き込んだ、無残な日本歴史として記録に残る大事件であった事には間違いありません。又、此の大震災は、
 「歴史は、決して、人間が一人で造り出したものだけではありませんよ。あなたたちを含めての大自然が造り上げた悲喜交々な記録書ですよ」
 と言っているようでもあります。
  

 しかし、数えきれないほどのいっぱいの惨事を撒き散らし、日本中を大騒動の極みに落としこんでいった未曽有の地震ですが、人にその大惨事に打ち勝つだけの力を、又、神はお与えになっていたのです。叡智でしょうか。その力によって、再び、復興させる力をお与えになっていらっしゃたのです。そんな素晴らしい力を。
 
 それとともに、もう一つの素晴らしい力も。それは人の善意という力です。良心と言った方がいいのかもしれませんが、思いやるとか、親切心と言うものに形を変えて人が人を救っているのです。日本人だけではありません世界中の人々からの善意が、今、津波のように日本に集まってきているようです。

 我々は、此の津波によって「人のいい加減さ」も知りました。でも、もっと大切な「人の善意の有難さ」も知りました。
 
 今、より一層大声で「頑張れ!地震の被害に遭われた人たち」と、声援だけですが、しっかりと送っています。


天罰といっては済まされません

2011-03-20 20:58:46 | Weblog

 どこかの知事が、この地震は「天罰だ」とか言ったとかで論議を醸し出しているようですが、彼を擁護するわけではありませんが、これって、人間の欲の塊が生み出した「天罰」だといっても言ってもいいのではないかとも思われろのです?被害を直接お受けになった東北の人だけを限定したのではなく、世界中の人間を対象とした天罰ではなかったのでしょうか。たまたまその天罰が起こった場所が東北だったと思われます。その天が無常なのでしょうか、今日も被災地には冷たい雨が降っているとか。そんな意味でも。被害を受けなかった我々はできるだけの支援をしなくてはいけないと思いました。そんな被害に遭われた人たちの為に、今我々が出来る最低の支援とは、心をこめた義捐金だけだと思われます。
 
 今夜、我が町内会では役員会を開きました。その中で、岡山市町内会から「一戸当たり40円の義捐金を」との要請がありました。その事についても協議したのですが、一戸当たり40円では余りにも少ない、せめて、町内会では、最低でも1戸100円程度は義捐金として送るべきだという意見が出ました。結局、町内から1万円を送る事に決定しました。
 なお、この件より別に、婦人会をはじめ多くの組織からの義捐金送付の計画要請が有ると聞いていますので、取りあえず一戸当たり100円を送るよう手筈しました。


「使命」というのは何でしょうかね。

2011-03-19 16:49:11 | Weblog

 「使命」、こんな言葉が身の周りにあって、何となくその意義の大切さなんかをろくに考えもしないで、今まで、漠然と使っていたのですが、今回の地震で、その言葉の持つ意義というか、その言葉の大切さを身をもって知らされました。

 原発の放射能漏れの事故に対して、己の生命の危うさすら省みないで、懸命にその使命を果たした多くの関電関係の職員の皆さんたち、昨日からの消防隊や自衛隊の人たちの原発で起こった火災の鎮火の為に懸命に働く人たち。そんな人たちもいる事をテレビを知りました。
 これっていったい何でしょうか。国民は、みんな、今こそ、「己の使命」とは一体何であるか、此の深い悲しみの時に深く考えることが大切ではないでしょうか。これは神戸の大震災の時には感じなかったことですが。

 この事だけではありません。その他、今朝の新聞で知ったのですが、海岸の近くにあるプールに、地震発生直後に、己の命の危うさを考えないで、生徒たちを捜しに行って犠牲になったであろうと思われる県立高田高校の29歳の女性の小野寺先生の使命感、その他、数限りない己の使命の為に命を落とした人がいたと報じられています。
 「使命」とは何でしょうか。どうしてそんな感情が、とっさの時に、人間の脳の生理的作用として、身体に沸き立ち、その使命に向って懸命に、何も考えないで、ただ、「やるしっきゃない」と、己を投げ出す事が出来るのでしょうか。それは、人間の善意としか言い表す事が出来ないのではと思われます。人間の持つ尊厳でしょうか。私だったら果たしてできるでしょうか。そんな事を考えて、私が、今できる出来る事を、ささやかですがしています。

 その一方で、「職員は直ぐ引き上げる」と言ったとか云わなかったとか言って新聞記事になっている関電の幹部たちやお年寄りをほっぽり出すように自分の病院外の施設に移動させ、折角授かった命を無碍に落とさせたとされるお医者さん。その他、多くの使命感の欠けた人々の事についても報道されています。

 どうして、このような極端な、別々の相反するような人の行為が生まれるのでしょうかね。それは、「きっと、神様のいたずらでしょう」と、答える事しか出来ないような事であるとしか言いようがありません。 
 でも、このような人を入れても、日本人って本当に素晴らしいと思いませんか。そなんな思いがようやく解決へのめどが幾分出てきたように思える原発事故などのニュースを聞きながら、つくづくと思いました。


“仰げば尊し”を歌った卒業式

2011-03-18 16:10:12 | Weblog

 今年で、もう132回を数えたとかの歴史を誇る鯉山小学校の卒業式が、今日、挙行され、その式に参列させていただきました。
 33人の卒業式でしたが、来賓として出席した私さへ、そっと目頭を押さえそうになった感動の卒業式でした。全鯉山小学校で、教職員の総ての先生や、5年生は勿論ですが、1年生までもが、本当に一生懸命に、卒業していく6年生を心から祝っているように感じられました。

  今日の式では、近年、そんな歌を歌うのは折角の卒業式をぶっ壊すだけだとばかりに、ほとんどの学校から消えていたあの「仰げば尊し」の歌が、体育館に大きく、しかも、ゆったりと流れ出すではありませんか。この歌が聞こえるなんて、これっぽっちも思っていなかった矢先にです。何と清々しい曲ではありませんか、もう60年も昔の世界に立ち返ったのではないかという気がしました。久しぶりに、この歌が卒業式に聞こえました。ノスダルジアだと思われるかもしれませんが、年寄りを、なんだかほっとさせる様な気分にさせてくれました。

 感動を受けたのは、単に、この歌が流れたからだという事ではありません。歌はそのごく一部だったのです。入場から退場までの卒業生のその態度の素晴らしさはどう表現してよいのか分かりんせんが、校歌にある様な“清き流れを見つめつつ”ではないのですが、その細谷川そのもののような清らかな姿を目の辺りにして、大きな感動を此の卒業生諸君から貰ったような気分になりました。
 


もうしばらく地震のお話

2011-03-17 18:59:19 | Weblog

 本当に9.0の地震は、それ以後の日本列島全体を飲み込んだ大惨事になっています。誰かさんが「天罰」だと言ったとか騒いでいますが、騒ぐ方もおかしいと思うのですが言う方も言う方です。
 まあ、なんだかんだといっても、原発の問題は一向に解決を見ないようです。どうなるのでしょうか。自国民を日本から退去させる等と騒いでいる国まであるようです。早くこの問題が解決するよう天に祈るしか方法がないのでしょうか。水を空から散布している映像がしきりに流されています。

 でも、此の事件で忘れてならない事が一つあります。あの原発で事件解決に向けて、身に降りかかっているだろう危険を十分に承知の上で、職務として懸命に働いている東電職員のお方もいます。また、自衛隊の人もいます。その人たちへの感謝を我々国民は、決して、忘れてはならないと思います。“どうぞご無事に”と、これもまた、天に祈るのみです。

 今日は、この吉備の野にも寒い北風が吹きつけています。天までが敵になったように。


“仰げば尊し”は聞けませんでしたが

2011-03-16 20:42:03 | Weblog

 東北関東大地震の発生後、数々の事件が起きています。死者の数、被害地域、津波の高さ、それには止まらず原発の事故、停電、もの不足、更に、株価下落などの経済的な諸々の事件も派生するように起きています。世界中の人たちが、このような大騒動な日本を注視しているのだそうです。どうなりますか、速く消息してほしいものです。

 そのような混沌とした世ではあるのでしたが、今日は我が町の高松中学校の卒業式でした。199名の3年生が堂々と卒業していきました。
 中には、どうしてこの子は?と思えるような姿もちらほらと見る事が出来ました。みんなと一緒に合唱する校歌すら歌わないのです。これ等の子も、心の奥底には、自分が卒業する学校を十分に母校として意識しているに違いないとは思われますが、どうしたわけか、校歌も歌わないで卒業していくのです。ほんの限られた生徒だとは聞いていましたが、みんなと一緒のように、校歌が堂々と歌える青年になって欲しいものだと思いました。これ等、「さまよえる子供たち」とでも言いたいような少年を我々大人社会はどう包みこんで行ってやればいいのでしょうか。
 そんな事を考えながら今日の卒業式に参列しました。全体的には、大変立派な199人の、仰げば尊しの歌は聞けませんでしたが、地震も何もかも吹っ飛ばしてくれるような、これぞ誇り高き堂々とした高松中学校の卒業式でした。


はるなれや

2011-03-14 12:32:07 | Weblog

 外は春らしい天気です。本来ならば、どこかうきうきした気分になり、「はるなれや」と歌いだしたくなるような陽気な季節です。でも、テレビでは地震のニュースで一杯です。そんなニュースを見ていると、浮き浮きと踊り出したくなるような気分にはなれません。何か胸が詰まる様な、これから先、我々は一体どうなるのだろうかという不安な気分にさいなまれます。

 たった2、3分の地球の小さな瞬きとでも言った方がいいかもしれませんが、長明の言う「ないふる」によって、これほどの惨事をもたらすのかと、ただ、ただ驚いているばかりです。こんなことあっていいのでしょうか ・・・・・・・・・・・でも、これが現実です。

 わがまま放題で、かつ刹那的に、それこそ人間の本質とばかりに今を横柄に生きてきた現代人である、われわれに突きつけられた神からの何らかの忠告ではないのでしょうかうか。自然を虚仮にした人間への天からの、丁度あの押し縮められていたプレートが跳ね返ったと全く同じような、しっぺがえしであったのかもしれません。

 いまも、原発の外壁が吹っ飛んだと、テレビは大きく報じています。人間の手によって作られたものによって、見苦しくも人間が苦しめられているのです。その制御さへ分からずに右往左往しています。

 それらを薄笑うかのごとくに、外には暖かい春の日差しが降り注いでいます。