私の町 吉備津

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私が書いた小説

2012-04-05 18:21:15 | Weblog
 もう6年にもなるでしょうか。前に一度このブログを使って、私の小説とでも言ったらいいのかもしれませんが、江戸の末期文化文政頃、ここ宮内にいた遊女「小雪」にまつわるお話を載せたことがあります。
 久しぶり開いて読んでみたのですが、我ながらなかなかな出来栄えではないかと思いましたので、もう一度ここに登場させます。ご批判願えればと思いますので。

 その前書きとして、

 私の町吉備津では、吉備津神社がある関係かと思われるのですが。このお宮さんのある宮内にはお墓は1つもありません。その例として言えるのですが、普通ならお寺さんがあれが、たいてい、その寺の周りには、檀家のお墓がずらりとあるのが普通です。でも、宮内にある普賢院というお寺さんの周りにはお墓は1つだにありません。この宮内の家々のお墓は、この宮内にはなくて、「向山」と呼ばれている吉備の中山の北側にある板倉の山の山裾に板倉の人々のお墓と一緒にびっしりと並んで作られています。普賢院の住職さんのお墓も、吉備津神社の神主さんのお墓もそこにあります。しかし、この宮内の中でも、吉備津神社領ではなく、庭瀬藩領だった片山の山裾には、そこのの人達のお墓が作られています。

 この片山にある墓地の中には、当時、宮内にあった山陽道随一の遊郭と歌われた所にいた多くの悲運な遊女の亡骸を埋めた無名の小さなお墓も沢山見ることができます。その沢山にある遊女のお墓の中に、ただ一つだけ例外的に「小雪」と呼ばれた遊女の墓が、一般の遊女の墓地ではなく、特別に一つだけ独立して建てられているのを目にすることができます。それも、此の遊郭を取り締まっていたあの清水の次郎長よりも大親分だと言われていた熊五郎親分の子分であったと言われている人の傍にきちんと建てられているのです。
 どうして、この「小雪」と呼ばれていた遊女だけ一人、沢山いただろうこの宮内で命を落とした遊女よりも違って、特別に、このような晴れがましい処にお墓を作ってもらったのでしょうか。そこら辺りのお話は、全く謎で、何も分かってはいません。

 そこで、そのお墓が出来た由来を、私が小説的にで、そこら辺りを創作して見たと云う次第です。少々長ったらしいのですが、暫らく、再度、このブログに載せますので、私の作り話をお笑いながら読んでいただけると幸いです。

 なお、題名は「小雪物語」としました。

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1 コメント

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Unknown (岡山 清水)
2020-05-23 08:09:25
昨日 自転車で180号線沿いに,渡辺病院の裏にお墓がビッシリ、吉備津神社の方
を向いて立ってるのが不思議でした。
その理由がわかりました。
ありがとうございました。
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