私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

日参札

2006-07-30 10:05:37 | Weblog
 私が住んでいます岡山市吉備津字向畑には、古くから受け継がれてきている風習があります。その風習について今日はご説明します。  それは『吉備津宮日参』と書かれた一枚の木札です。宝暦八年(1759年)3月に作られたと書かれています。 どのような経緯でこの札が作られたかは不明ですが、地域の古老の話しによりますと 「昔、向畑にある山神様のお祭りを何かの原因で中止した。すると、その祟りがたちまちのうちに起り、天災地変ばかりでなく悪病も蔓延して,地域の人が恐れおののいた」 そうです。それ以後、このお社のお祭りは、春夏年二回、必ず行われて現在に至っているそうです。 そんな由来が、この木札信仰にも結びついているのかもしれませんが、とにかく、この木札は、120軒ある向畑の吉備津神社の氏子の家々を、毎日順々に回していくのです。回ってきた家では、その都度、吉備津様にお参りして、家内安全や町の人々の日々の安寧を祈ります。お参りした後、この木札を隣の家に持てさんじます。 このようにして、誰かが必ず一日に一回吉備津様におまいりする仕組みなっているのです。 この木札の裏面には寛政八年(1796年)「求之」という字も見え、何代目かの物らしいということが分ります。そんなに古い古い風習が、戦後の一時期を除いて、未だに続けられています。 経済至上主義、合理主義などの言葉が、世の中を闊歩している時に、こんな人の息吹がむんむんするような風習を受け継いでいる、わが町を、いつも、自分自身で一人自慢しています。

板倉の宿

2006-07-29 18:15:15 | Weblog

 江戸時代の山陽道について調べてみました。 当時の地図など、余り詳しくは分りませんが、藤井俊先生の「吉備津神社」(岡山文庫52)によると、江戸中期ごろになると本陣、脇本陣が一軒づつ置かれ、はたごの数も70軒,その他茶屋も相当あったようです。飯盛り女も相当数いたようです。今はその面影は何処を捜してもなく、ただ、道に沿って続く軒の低い家並の中に、往時の面影をしばしとどめているに過ぎません。吉備津神社の付近の宮内と並んで、江戸時代の山陽道の中で、一番隆盛を極めていた宿場町であったということです。

 この板倉の町には、当時芝居小屋が、例の「あたごさん」の下手に立てられていたと言う事です。この芝居小屋の火災予防のために、この祠が作られたのではないでしょうか。
 このあたごさんの上手の家を最近になって壊したところ、軒垂木にやけだだれた跡が見られたと、その屋のご主人が言っておられました。

 古老の話ですと、この地にはもう一軒の芝居小屋もあったと言う事です。宮内にも一軒あったそうですから、この地がいかに繁昌していたかがうかがえると思います。

 


かき氷の味?

2006-07-29 13:16:11 | Weblog

 “かき氷”と聞きますと、自然に遠く過ぎ去った昔が思い出されます。 
 

 もう何年も使っているのでしょうか、下の部分が少々破けて、軒の深い麦わら屋根のみすぼらしい店先の入り口に立てかけてある竹ざおの先に、ぶら下がているあの旗がまず目に浮びます。
 その旗の赤い「」と言う字だけが、やけにぎらぎらと輝いていつも見えていました。
 10銭かそこらあたりのの値段だでしょうか、でも、毎日買ってもらえるわけではありません。まあ10日に一回ぐらいあればいいほうです。それを手にしっかりと握り締め、小走りで懸けていった夏の日が、ついこの間のように思い出されます。
 ねじり鉢巻をして、首にはいつも小汚いタオルをかけた『しいやン』と呼ばれていた初老のおじさんが、青ペンキかなにかを薄汚く塗ってある小さなガラス窓越しに、手回しの器械で、ガラスの一寸洒落た色つきのお皿に、ガラガラシャッシャ、ガラガラシャシャと削ってくれ、瞬く間に、その器に山もりにかき氷が積もって行くのをいつも眺めていました。
 「もう少し高くなれ!」
 子供心にいつもそんな思いで、うず高くなる白い氷を見つめていました。
 それから、しいやんが、アルミの蓋がしてあるガラスの入れ物に入っている赤と黄の蜜を、これもアルミ製の小さいひしゃくで掬い上げ掬い上げして、かけてくれます。
 白い氷の山が、その掛け蜜によってやや低くなるのを不思議な世界の中に引き込まれるようにして見つめていました
 その出来た色のなんて美しいこと。スップンだったと思うのですが、そんな洒落たものが、私の田舎にあったかどうか記憶には残っていませんが、その赤と黄の色をした氷を掬い取り、一口、口に入れたときの感動はいつまでたっても忘れられないものです。
 甘さと冷たさと同時に、私自身の幸福感も満足感もなんもかんも、みんなぐちゃぐちゃに、一緒くたになって味会うことができたように思われました。

 この"かき氷"という言葉を耳にすると、いつも、こんな遠い昔の風景が、頭の中で、飛び回っております。

          

 

 

 

 

 


愛宕さん信仰

2006-07-25 23:46:44 | Weblog

 「あたごさん」こんな言葉聞いたことありますか。 JR吉備線と旧山陽道が交差している所にある板倉踏切の傍に小さな祠があります。それがわが町の『愛宕さん』のお社です。 江戸時代には、旧山陽道板倉宿は、この一帯に東西に約1000mに渡って位置していたようですが、今は、昔を偲ばせるような佇まいは何一つと言っていいほど留めてはいません。ただ、軒の低い家並みが、当時の宿場の賑わいを留めているに過ぎません。 その名残のひとつといっていいのが、この祠、『愛宕さん』です。今だに町内の人たちが、昔ながらに7月23日に、幟旗,提灯を掲げ、僅かながらにお祭りを続けています。
  しかしながら、どうして、このお祭りをと言う事は、今では人々の口に膾炙されることもなく、ただ、形式的にお祭りだけが延々と続けられております。それで結構ではないかと思います。
 「ものには形でなくが留まっておれば、それが存続の条件になる」 と誰かが言っていますが、その通りだと思います。
 理屈では説明でできない何かがこの世の中にはあると思います。そんな風習を大切にしたいものです。
     (このいいようには少し自身がありません。ご意見をどうが)

 


クーラーの温度?

2006-07-23 17:26:23 | Weblog
 28度に設定したか?そんな事無関心で使っています。私が使っているのは古い古いウンドー型のものです。28度では余り効き目がありません。
 地球温暖化を頭に描き、「一人一人の心が美しい未来の地球を作るのだ。私も」と、いつも心で思うのですが、自分の事となると、なかなか守れない弱い自分に遭遇しています。

明治天皇の吉備路への行幸

2006-07-22 19:51:54 | Weblog
 昨日、備前へ、友人石原氏の案内で、陶器を買いに行きました。石原氏の住まう瀬戸内市に『行幸』という珍しい名前の小学校がありました。名前の由来は、明治天皇が、この地に行幸されたので、この名前がついたそうです。
 行幸と言えば、わが町吉備津にも明治天皇が明治43年秋に行幸されています。JR吉備線吉備津駅に、陸軍の大演習の視察のため降立たれました。
 その記念碑が「惣爪」の(足守川のほとり)小高い丘に立てられています。
 
 この明治天皇は生涯に非常にたくさんの御歌をお作りになっていらっしゃいます。
 明治43年だけでも、104首のお歌を詠みになっています。
 (「明治天皇御歌」(文部省発行)と言う本によりますとご生涯に1687首の御歌お詠みになったそうです)
  
 この行幸のとき、果たして、お歌を御読みになったかかどうかは定かではありませんが、吉備の国でお詠みになったのではと想像できるようなが御歌がありますので、ご紹介します。
 旅宿雨、旅宿朝、旅宿夢と題して;
    ・草枕たびのやどりに着きて後うれしく雨はふりいでにけり
    ・このゑ人こまひきいづる音すなり朝だちすべき時やきぬらむ
    ・あすもとく軍ならしのさまみむと思えば夢のさめがちにして
 また、この演習視察中の、足守川の小高い丘に御立ちになった時に御詠になったのではと思える歌も2,3首が見当たります。それを。
    ・をしねほすしづが垣根をみつつゆく秋の旅路のこころよきかな
    ・菊の花人見すべくなりぬるをまだ色うすし庭のもみぢ葉
    ・近かからぬ水のひびきもきこえけりけふしづまれるよはの寝覚に

 吉備平野のど真ん中の、知られざる隠れた絶景地です。心のどかな、大変しずもれる場所です。

 

直弥の1か月検診

2006-07-19 21:19:32 | Weblog
 今日が第3番目の我孫、直弥の生後一ヶ月検診でした。岡山国立病院へ親子を連れて行きました。
 診断結果;順調なる成長振りとか、じいちゃんも診察室に一緒に入り、医師の検察を見守りました。
 お医者さんの真剣なる診察の様子に、今更のように、感謝しながら小児科の存在をありがたく見つめました。
   
    触れる手に やさしさの見え よしよしと
           子に語り掛け 医師は若かり
    赤ちゃんは 聞こえているよと 言う医師の
           診察室の 声の優しさ
           

藤井高尚について②

2006-07-19 13:46:06 | Weblog
 
 彼の著書を紹介します
1おくれし雁、2神の御蔭の日記、3消息文例、4松屋文集、5日本紀ノ御局ノ考
6浅瀬のしるべ、7伊勢物語新訳、8大祓後々訳、9松屋文後集、10出雲路日記
12松の落葉、13源平拾遺、14松屋文合、15古今集新訳 16松屋家集
  など沢山の著書あり

 なお、明治26年に出版された伊勢物語講義(今泉定介著)によりますと、高尚の伊勢物語新訳は、古来から解釈せられものの中で、兼良、季吟、宗祇、契沖、真淵、春満などと共に十首の中に入っています。
     
      これだけ調べるのは大変でした。ああしんど

 

藤井高尚

2006-07-18 10:50:09 | Weblog
藤井高尚について  この人は、吉備が生んだ江戸時代最大の国文学者です。同時代の人に足守出身の緒方洪庵と、学者としては肩を並べます。本居宣長の高弟です。 吉備津神社宮司長門守従五位下松斎大中臣藤井宿禰高尚を、文政11年の夏に賜っている。 なお、孫養子高雅の母は、洪庵の姉である。洪庵はこの人から和歌を習ったと言う事です。 高尚は、号を「松の屋」と言い、その命名は、昨日紹介したように、新古今の歌の中にある「ときわなる吉備の中山おしなべてちとせのまつの深きいろかな」と詠んだ中山の麓で、松が多く、自分の庭にも松が5,6本あり、いずれも歳を経て、大きく枝を伸ばしていることから、『松ノ屋』とつけ、『松斎』と書いたと、その著書『松の落ち葉』に記している。 なお、その旧宅は今は姿を消し、小学校の一部になっています。14,5年前までは校門の近くに大きな松ノ木がありましたが、今では松くい虫の害に会い姿は留めていません。  最後に高尚の歌の一首を紹介します。(高尚の墓の裏に)  みそめけり日数あまたにまちまちてけふ朝顔の花の一花    

缶拾い

2006-07-17 21:14:37 | Weblog
  
岡山市立高松中学生の皆さんが、今朝我町内の道路などに散らばっている缶類等のゴミ拾いをしてくれました。
 その活動にあわせて、町内の人たちも彼らと一緒にゴミ拾いをしました。ありがたいことに、この運動の成果が現れ、年々拾うゴミの量は少なくなっています。
 お蔭で、気持ちよい、きれいな町になっています。
 梅雨空の中に、吉備の中山が緑に包まれ、どっしりとした雄姿を見せています。

 新古今
   常盤なる吉備の中山押なえて千とせの松の深き色哉  (読人不知)

   緑なす吉備の中山雨に濡れ恋しき人の傘あらなくに
  (昔、藤原成親が、このお山で恋しい人を待ちながら雨に打たれながら殺害さ   れたと言う事を聞き)

            

藤井高尚のお墓

2006-07-12 22:46:55 | Weblog

 この旧山陽道に沿って、山の南斜面一帯に墓地が広がっています。その墓地の一番上部に目立った墓石が並んでいます。
 この墓石が藤井高尚のお墓です。
 藤井高尚さんについては、次回にご紹介します。 
                       

吉備津宮の参道について

2006-07-11 17:15:15 | Weblog
 私の家から東へ250mのところに、吉備津神社参道口があります。旧山陽道から真っ直ぐに吉備津宮まで、東南に真っ直ぐ伸びています。その距離あよそ550mほどです。 どうしてこの位置に参道が設置されたかと言う理由は定かではありませんが、最短の距離だと言う事がその一番の原因ではないかと思います。日の出の位置と関係があるのではと、言う人もいますので春分、夏至、冬至の日の出の参道入り口から登る位置について今調査中です。12月の冬至になるとはっきりします。 鉄道が敷かれる明治以前、この道を旅しただろう多くの旅人がお参りしたことは確かです。西郷さんも、龍馬さんも、松陰さんもきっとお参りしただろうと思われます。 その参道は、今でもその両側には松並木が茂り、美しい景観を我々の目に提供してくれていますす。 四季折々の吉備の野を流れる風がその時々の風情をかもし出してくれています。松籟に我が喜怒哀楽を合わせるようにして、ある時は人生を深くえぐるかのように激しく、また、時には、恋人と語り合うかのように頬をやさしく撫でながら流れ、常に、えもいわれぬ優雅さをかもし出して、通り過ぎていきます。

家の前が旧山陽道です。

2006-07-08 16:47:44 | Weblog
 昨日剪定した植木は、道に張り出していました。車や人の往来には支障を生じる程ではないのですが、一寸油断していると木の枝が道にはみ出しそうになります。年に数回早めに早めに剪定を心がけています。
 この枝の張り出す道が、奈良時代の昔から設定された山陽街道なのです。
 この道を人や物が行き来して多くの物語が生まれています。
 奈良時代にはこの辺りまで海が入り込んでいたと言う事です。吉備の穴海と呼ばれていたそうです。その海岸べりに道が設置されたと言うことです。
 現在、江戸時代の初期に作られたと言われている「真金一里塚」が、比較的当時の姿を比較的よく留めて残っています。松(山側)と反対側に榎を植えた塚が残っています。
 その塚のにある松や榎は何代目かは定かではありませんが今も植え継がれています。
 次は、吉備津宮参道を取り上げます。
 

生け垣の剪定をしました

2006-07-06 18:28:37 | Weblog


 梅雨の合間です。お天気の週間予報では、今日は雨でしたが、朝起きてみると雨は降っていませ。
 早速延び延びになっていた生け垣の剪定をしました。サザンカも楓も徒長した枝が道路にもはみ出し不恰好そのものです。
 どんよりとした曇り空ではあったが午前中を費やして剪定をする。「格好よい」とはいえないまでも、さっぱりとした感じに刈り込めたようで、自己満足しています。
 
 おおいに