私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  112

2009-02-28 20:52:39 | Weblog
さて、早いもんでこのブログはじめて3年近くなります。いくらでもと思っていた材料も底をついたように思われます。吉備津との関連から、書いてきたのですが、もうこれ以上書き続けるだけの材料が見当たりません。もうお仕舞にしようかと思って、ふと目を、なにげなく私の書棚にやりました。すると、その片隅の方に、長年、目にだにしていなっかった一冊の本が「おいで、おいで」と手招きしているように目につきます。
 
 その本は藤井俊先生がお書きになった昭和19年に出た「藤井高雅」という127頁の可愛らしい本です。

 「藤井高雅」というお人を皆さんはご存じですか。この人について、これは10回程度というわけにはいかないと思いますが、書き続けたいと思います。
 興味がある方だけでいいのですが、又、当分の間お付き合いくださいますよう願いします。


 これは余談ごとになりますが、明日は、9時から、吉備津神社お屋根替え奉祝のための祭りの最後の催しとして「吉備のお山、細谷川を歩く」が開かれます。大勢の人にご参加いただきたいとおもいます。どうぞよろしく。狭い範囲にしか宣伝はしていませんので、どれだけのお人が集まるのか少々心配にはなっているのです。
 どうぞよろしく!!

吉備って知っている  111 平賀元義⑩

2009-02-26 10:29:44 | Weblog
 元義も、つい2,3回と思って始めたのですが、気がついてみれば早10回目になりました。彼の最期を書いてこの項を終わりとします。
 彼は晩年になって、2人の息子をもうけるのですが、そのいずれも不肖の子でした。というのも、その原因は、どうも彼にあるらしいのです。一般の者が持つような家庭に対する責任感のかけらすらなく、なるようにしかなれとばかりに、まったく顧みたということがなかったのだそうです。だから人並みの親子の情も家庭の教育すらろくすっぽなくもない無責任そのものの親であったらしいのです。こんな家庭にどんな息子が育つといえましょうか。その辺りの母親の姿もはっきりとしません。結局、生まれてきた子供が彼ら夫婦の犠牲になたのかも知れません。
 そんな彼も、齢60歳が過ぎると、ようやく老病が身にしみて感じられるような年になり、やるせない思いにかられた日々が訪れるようになるのです。その思いの中には、やっぱり彼もひとの子。望郷の念、いたく捨てがたく、どうにかして生まれた岡山に帰ろうと思うのですが、一度藩籍を抜けた者が、再びおいそれと、その地に帰ることはできないという規則が当時の社会にはあったのです。願っても現実はできないのが事実なのです。業合大枝に会いに行ったというのも、それを頼みに行ったのではないかという人もいますが?
 まあ、ともかく、岡山藩があった江戸の時代にはいくら望んだとしても現実不可能なことだったようです。

 そんな時彼の読んだ歌に

    放たれし 野路のくだかけ 岡山の
            大城恋し 朝夕になく
     (くだかけ=にわとりのことです)
 があります。
 それが明治の維新となり、待望の岡山の城下の彼が生まれた(番町のあたりか?)所に帰えれるようになるのです。勇さんで帰ってきたと思われますが、しかし、そこは、もう自分の知っている昔の懐かしい土地ではなかったのです。60年という歳月が、そのすべてを搔き消してしまっていたのです。知る人も一人だになく、元義はただ呆然自失しておったのです。そんな彼を見た門弟の一人、中山縫之介という人が上道郡大多羅に招きますが、何が気に入らないのか、その中山家からもついと身を消していなくなり、それからしばらくして、その大多羅の道端に生き倒れになって死んでいたのだそうです、歳は65,6歳であったと言われています。

 なお、何物にも束縛されない自由奔放に生きた、この浮浪の一大詩人の墓は、今、大多羅の道端にあると聞いたものですから、何回か行って探してみたのですが私の眼には届きませんでした。知っている人がいてら教えてほしいものです。花束でも供えたいと思いますので。

 岡山の誇る歌人の一人なのですから。改めて敬意を示したいと思っています。

吉備って知っている  110 平賀元義⑨

2009-02-25 10:24:58 | Weblog
 元義も次第に年を重ねてくると、越し方の自分の生きざまを見つめるようになったと言われます。しかし、依然として彼の生活には、酒にまつわるさまざまな狂態な暮らしぶりはなかなか治らなかったようですが、それでもある時から、どうしてそうなったのかは分からないのですが、磐梨郡稲巻村の神社の巫女と一緒に暮らすようになり、2人の子までなしたのだそうです。
 この2人の男の子はそれぞれあまり出来が良くなく、長男の方は、後に窃盗などを働き官憲に捕えられますし、また、末の子も、とんでもない放蕩息子で、元義が書き残した吉備の地理歴史等の本や歌集など、この家にあったものは全て売り払ってしまい、どこに行ったのか行方不明になっています。

 そんな中、元義は邑久郡に住む藤井高尚の高弟業合大枝を訪ねたことがあるのだそうです。当時、大枝は岡山藩主池田候の要請を受けて岡山でいろいろな階層の子弟に、神道について教えていました。その大枝を頼って、再び、岡山城下でという思いがあったのではと思えますが、どっこい、大枝は用事があるとかなんとか言って、決して、この元義には会おうとしなかったそうです。
 その時、読んだ歌が残っています。
  
   弓柄とる ますら男子(おのこ)し おもうこと
              とげずほとほと かえるべきかも
 という歌です。
 ああ、やっぱり会ってくれないか。それもいたしかたないか。それにしても世の中は誰も彼も何と攣れないのだろうか。それもまたいいか。なるようにおなるさ。ケセラセラさと、鷹揚な心で帰って行ったとするならば、たいしたものですが、恨めしく思ったとするならば、これもまた人としての元義として認めざるを得ないのですが。皆さんはどちらだと思われますか。

 「ほとほと」という言葉から、まあ、私は、「これもまた人生か」と、怨みつらみではなく、やっぱり大枝でもそうかと、いう何かサバサバした心で帰ったのではと思っています。その言葉が彼の人生のすべてを物語っているようでもあります

吉備って知っている  109 平賀元義⑧

2009-02-24 09:57:27 | Weblog
 平賀元義という人を探せば探すほと、その人の大きさと言いましょうか、物にこだわらない自分流に生きた本当の芸術家のように思えて仕方ありません。何か人間そのものを忘れなかったら、その追い求める物の本質と言いましょうか真髄が見つからないのかも知れません。人間が人間を邪魔するというのか、人間であったら本当の人間の姿か分からなくなってしまうのかも知れません。山頭火などもしかりです。
 でもこんな元義すら「人間であった」という姿がかすかではありますが見ることができます。その例を2つばかりご紹介して、あまり長くなりますのでこの平賀元義を終わりたいと思います。

 その1
 彼も、また、人の子であったということからご紹介します。
 それは彼の父親についてです。
 彼の父は生前は中風を患い、足が冷えて困っていたのだそうです。そこで彼はその父の両足をいつも側に行って温めてあげていたといいます。そしてその父が死んでも、父の墓のある石井山妙林寺によく参り供養していたのです。
 その歌も残っています。

  ・うえ山は 山風寒けし ちヽの実の
              父の命の 足冷ゆらむか
  
 また。児島郡にある父峰を見て読んだ歌に
  ・ちヽのみね ゆきふりつみて はまがぜの 
              さむけく吹けば 母をしぞおもふ

 彼も、また、人の子なる故の歌です。人なのです

吉備って知っている  108 平賀元義⑦

2009-02-23 10:39:39 | Weblog
 元義は33歳の時岡山藩を去っています。その原因は女性問題だと思う人がいるかもしれませんが。扶持離れの原因は、奇癖詩人のことですから、窮屈な宮仕に辟易して自ら藩籍を脱して退去したのだと言う人もいます。また、彼の同僚の妬み謗りによるものだという説もあるし、はたまた、ある日途上で友人のために人を切り殺したのが原因だという説もあったとか。どれが真実かは分かりません。
 藩籍を脱した時に読んだ歌も残っています。

  すみなれし 真菰かられて 明日よりは 
                 どこに蛍の 身を隠すべき

 と詠んでいる所を見ると、「やれやれこれで窮屈な武士の生活を離れて自由に生きられるのだ」という何か大きな意気込みたいなものがこの歌の中に感じられます。まあ、考えてみると、彼は生来じっと一か所に留まって、静かに手枷足枷の隠忍自重の生活に絶えると言った性格の持つ主ではなかったのですから、当然のことだと言えばその通りであると思われます。
 このようにして、ともかく自由な身になってから、彼は岡山を離れます。山陰や隠岐に、また、四国にと思いのままの放浪の旅が続きます。が、数年の後、再び、岡山に戻り、それからは播州や三備の村々を徘徊して半醒半酔の生活を十数年も続けております。
 行く所々で本当に元義らしい自由奔放な生活があったようですが、中でも今も記録に残っている逸話の一つをご紹介します。
 備前の香登村で、ある夜、門人の家に泊ったのだそうです。例によって、酔うて夜中に厠に行く時、丁度、その家が造作か何かの最中だったものですから、その縁の側に溜めておいた土壁用の泥の中に落ちたのだそうです。落ちた元義はその土壁用の泥の中で悠然と「梅の花云々」歌って、辺りにあった梅の花を見て平然としていたというのです。
 この梅の花の後のことばは伝わってはいませんが、本当に自分の思いのまま生きた人です。泥の中からでも歌が浮かんでくるのですから相当なものだと思われます。普通なら、決して、できっこでないようなことを平然とするのですから驚かずにはいられません。
 彼の歌の中に、次のような歌が残っていますから、その時の彼の思いを想像してみるのも一興ではないかと思います。

    あかねさす ひるにみつれど いもがそのの 
             うめはつきよに みるにしかずも

 漫画になりますよね。

吉備って知っている  細谷川後編2

2009-02-22 16:23:07 | Weblog
 (歩く会のための資料)番外編
 
 「文学に現れた吉備の中山と細谷川」
  
・古今集       これは藤原佐理の書です。
 まかねふく きひのなかやま おひにせる ほそたにかはの おとのさやけさ     これは承和のおんべのきひのくにのうた
・枕草子(59段) ―清少納言
  〇川は、飛鳥川。大堰川。音無川。七瀬川。耳敏(みみと)川。玉星川。
細谷川。五貫川。澤田川などは催馬楽などの、思はするなるべし。名取川。吉野川。
天の川原・・・
  〇山はをくらやま、三笠やま・、このくれ山、・・・・・ きびのなかやま・・・

・新古今集
   常盤なる 吉備の中山 押なえて 千とせを松の 深き色哉
 


 なお、吉備の中山と細谷川を読んだ歌人は、古今集以来沢山の人が数えられますが、例の百人一首の歌人の中、5人の名前を見ることができます。
まず、始めは、清少納言の父親である清原元輔の歌です。
 1、誰かまた 年経ぬる身を 振り捨てて 吉備の中山 越とすらん        (ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ ・・・・・・)
 次は、前大僧正慈円の歌です。
 2、船とめて 契りし神の ゆかりには 今日も詠る 吉備の中山
    (おおけなく 浮き世の民に おほふかな ・・・・・)
 それから、俊恵法師の歌です。
 3、雪深み 吉備の中山 跡絶えて けふはまかねを 吹や煩ふ
    (夜もすがら 物思ふころは 明けやらで ・・・・・)
 また、あの大納言経信も歌っています。
 4、麓まで 峯の嵐や すさぶらん 紅葉散くる きびの中山
    (夕されば 門田の稲葉 おとづれて ・・・・・・・)
 最後に、あの後鳥羽上皇の歌です。
 5、真金吹く 吉備の山風 うちとけて 細谷川も 岩そそぐなり
    (人もをし 人もうらめし あぢきなく・・・・・・・)
 なお、この歌は「後鳥羽院御集」の第二首目に上げられています。上皇のお気に入りの歌であったらしいのです。
 この他、有名な人の歌もたくさん残されています。
 百人一首の歌人ではないのですが、
   「秋風のたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ」の顕輔の父親である顕季も歌っています。
  ・鶯の 鳴くにつけても まかね吹く きびの山人 春をしるらん 
 あの小侍従も歌っています。
    ・谷川の 氷の帯や 結ぶらん 音こそ聞かね 吉備の中山
 その他、「読人不知」の歌として大変優れている歌もたくさん見受けられます。その一、二首を
   ・春来れば 麓めぐりの 霞こそ 帯とはみゆれ 吉備の中山
   ・春の来る 気色は空に しるき哉 吉備の小山の 峯の霞に

この他に、時代は下るのですが、木下長嘯子(秀吉の弟)も朝鮮征伐のため九州にいた秀吉の陣に赴く時、吉備津神社に詣でて歌を詠んでいます。
    ・けふぞみる 細谷川の 音にのみ 聞きわたりにし 吉備の中山
    ・とどこほる 細谷川も 打ちとけて けふは春しる 吉備の山人
 藤井高尚の歌
    ・思ひやる 心のうちに 出でにけり わが中山の 山のはの月
    ・露ふかき 谷のさくらの 朝しめり 見し夕暮の 花はものかは
    ・もみじ葉は 谷ふところに かくしたる 千しほの玉の 林なりけり  (この二首は細谷川の山裾の石碑に書かれています)

 なお、吉備津神社の本宮社の社前には「吉備中山細谷川古跡」と書かれた石碑があります。
 この石碑は幕末の弘化三年島根県津和野の人「野之口隆正」という人によって建てられました。この裏面には
       古今和歌集大歌所歌
 真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川のおとのさやけさ
 左註に承和のおほむへのきひのくにのうたとあり。このみかとは天長十年のやよひにみくらゐにつきたまひて、そのとし大嘗祭は行ひたまひしなり。そのときの主基方は備中のくににてありけるよし続日本後記に見えたれば、そのおり、大君のみかさの山という、ふるうたをひかへてうたへるものならんかし、ほそたにかはもありて、所のさまよくかなへればなりけん、げにその細谷川はたきつせにて、さやけきおとのいまもきこゆるは、たえてひさしく、といひけんたきにはことたがひて、名のみならずなむ
        弘化三年      野之口隆正


 その他、平安初期の歌謡「催馬楽(さいばら)」の中に

   真金吹く 吉備の中山 帯にせる 
なよや らいしなや さいしなや
   帯にせる はれ帯にせる 細谷川の音のさやけさや
  らいしなや さいしなや さいしなや 
音のさや おとのさやけさ

 と、平安の当時、山陽道の吉備地方で歌われていた歌が、当時、京の都でも流行って、都人の間にしきりに口ずさまれていた歌謡です。やがて、それらの庶民の歌が大宮所の御神歌の中に入っていったのだそうです。更に、それが主基の国の歌として取りあげられ、ついには、古今和歌集にも収められたのです。
 なお、蛇足ですが、この古今集で、細谷川の、次にある歌が
  みまさかや 久米のさらやま さらさらに わがなはたてじ よろずよまでに
 です。念のために。

 付録;   「細谷川の丸木橋について」
「わが恋は 細谷川の丸木橋 渡るに怖き渡らねば 思うお方に逢わりゃせぬ.」という歌が、平家全盛の時代に、京で流行っていたのです。
 この歌を仲立ちにして若き男女の恋が実った物語が、平家物語に出ています。
 平清盛の孫に通盛という一人の貴公子がいました。彼は、当時、禁中第一の美女とうたわれた「小宰相」を一目見て好きになり、しきりに恋文を送るのですが、一向に彼女はなびきません。3年間もの長い間、片思いのままです。その小宰相からはいつまでたっても色よい返事はもらえませんでした。これがだめならと、最後の手紙を家来に届けさせるのです。その手紙に書かれていた歌が
   「わが恋は 細谷川の 丸木橋 ふみかえされて ぬるるそでかな」 と、いう歌でした。この通盛からの手紙に一瞥をくれただけで、「ふん」とばかりに、いつもの通り、ぽんと袂に入れていたのですが、何かの拍子に落としてしまいます。それを彼女のご主人「上西門院」に拾われて、その手紙を見た女院から「女はそんな男ににじゃけんではいけませんよ」と諭されます。、それから、「では私が」と、宰相に代わって、ご丁寧にこの女院は通盛に手紙を書きます。
 その手紙に書いていた歌が「ただたのめ 細谷川の 丸木橋 踏み返しては おちざらめやは」という歌です。
これが契機となって二人は結ばれるのです。
なお、上西門院という女御は崇徳院や後白河法皇の妹なのです。母は待賢門院璋子です。
崇徳院の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の・・・・」という歌の元は、「ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われても末に あはむとぞ思う」だったと、言われています。
そんなんことを考えると、この谷川はひょっとして、細谷川ではないかという気もします。

 

吉備って知っている  107 平賀元義⑥

2009-02-21 09:55:32 | Weblog
 また、かの元義について物語ります。
 よく、その歌を見ていますと「我妹子」という字を配した歌を沢山残しています。その歌を詠むと、どうも彼は、その行く先々到る所で我妹子、即ち、思い人を勝手に作り、歌に詠んでいます。が、それらのほとんどは、あへない恋の片思いであったようです。でも、時々は、まんがよくと言いましょうか、犬も歩けばのたとえの通り彼女ができたといわれています。その一人に下原(現在の総社市下原)の女(ひと)がいます。この女には元義も当座は真剣に愛していたのではと思われます。そんな思いの歌がたくさん残されています。でも、一方、この女の他にも、どうも児島郡の何処かに、撫川(岡山市庭瀬)に、二万に、山手にもという話も伝わっています。相当の女好きではなかったかと思われます。これらのうち、女性の方がどれだけ真剣であったか、どれほどの係わりがあったのかは分かりませんが、それぞれのところで「我妹子」と元義が読んだ恋人がいたようです。
 これらの女性は、果たして、どんな女性であったかということは伝えられてはいません。
 あなたはどんな人だったと思われますか。想像してみるのも、また、楽しいことではないでしょうか?
 わたしは、これらの「我妹子」、そうです。彼の彼女は、あまり美人ではなく、それも誰もがお相手にならないような相当な年増ではなかったのかと思っています。どこの誰ともわからないような、髪の形からでもわかるような風変りな奇人に誰が情なんかをかけれましょうや。元義が相当な美男子ならいざ知らずですが?

 そんな「我妹子(わぎもこ)」の歌をたくさん歌っています(40歳前後の時です)。

 ・埋火は 消えはてにけり 旅にして 身にそへ寝べき 妹もあらなくに
 ・夕やみの 道は暗けど 我妹子に 早やも見せまく ほしきこの文
 ・我妹子に 別れて行けば 眉引(まよびき)の 横山の上に 月ぞ残れる
 ・こころなく 啼く鳥かも 我妹子に 別れのをしき 春の暁

 こんな歌をたくさん読んだところから「我妹子先生」と呼ばれていたようです。

 この先生、至る所で恋にもだえ、恋に焦がれれば焦がれるほど、愛の神からは見放され、最後は、野垂れ死にのように生を終えています。

吉備って知っている  細谷川後編

2009-02-20 13:40:26 | Weblog
 吉備津神社のお屋根替えが済んで半年がたちました。燦然たる千木が早春の空に聳えています。
 そんな真新しいお屋根を背景にして「吉備の中山を歩こう会」が、来る3月1日に催されることに決まりました。

 吉備津神社を出発して、細谷川を登って、吉備津彦命の御陵を通り、一宮の吉備津彦神社から、再び、吉備津神社に至る、吉備の中山を一巡りするコースです。

 途中のそれぞれの場所で案内人を配して場所説明の計画を立てています。そんなこんなで、私もそのうちの一人に指名されたものですから、この吉備の中山の曰くについて調べてみました。
 まず、細谷川です。よく調べてみますと、我が国最初の歌集「万葉集」の中に「細谷川」という文字が見えると言います。
   
  大君の 御笠の山の 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 
 この歌がもともとあって、それが平安の世になってから、吉備の国の細谷川に取り入れられたのだそうです。「帯にせる」以下はまったく同じです。盗作だと言われてもしょうのないような歌です。著作権の完全なる侵害です。
 将に本歌取りそのものです。万葉の細谷川はその流れが細くなるようにいつか忘れ去られて、平安の世になると、吉備の細谷川の方が勢いよく都に流れだすのです。
 そうなりますと、どうしても、この細谷川は、一体どこを流れているのかということにも関心が向くようになります。全国的には、吉備の国の歌だから吉備の国にあるのだというぐらいに軽く受け止められていましたが。どっこいそれでは納得しない輩がどうしても出てくるものです。特に地元にです。
 その結果、ああでもない、こうでもないと、いろいろな説が飛び交います。福田海の側を流れているのがそれだと言う人もいますが、今では吉備津神社の南側を流れ落ちる谷川のほとりに、野之口隆正という人が建てた石碑があります、それがあまりにも立派なため、ほとんどここを訪れる人は、
 「ああ、これがあの細谷川か」
 と大いに関心を示して眺めているのだそうです。
 どっちが本当か。そんなことはどうでもいいように思えます。兎に角、吉備の中山を帯のように取り巻いて流れ下っている谷川だということは確かです。
 どうでもいいようなことにどうしてそんない目くじらを立てて主張するのでしょうかね。
 「細谷川の音のさやけさ」に、平安の人が、そのまだ聞かぬ瀬韻に限りない寂寥の思いを感じて、歌の世界の中だけに、とっぷりと漬かり込んだのは確かなことだと思います。あるかないかの、ほんのわずかな音ににも「もののあられ」を感じ取った当時の人たちの関心を呼ぶだけの強い魅力がこの細谷という語韻から感じられたのだと思います。どこを流れているなんてその場所なんかてんで問題にもしてないのに、地元の少しばかり関心を持つ人たちが郷土自慢の種にしたくて「ここだ」「あそこだ」と、ただ、騒いでいるだけではないでしょうか。

 尚、この歌の中にある「吉備の中山」は、高さこそ150~160mくらいしかない低い山ですが、日本の名山の一つであることには間違いないと思います(谷文兆の日本名山図会による)。
 「山は高きを持って尊しとせず。気を持って尊しとする」ではないでしょうか?
 何回も書いたのですが、板倉、殊に、旧山陽道にある吉備津神社参道口辺りからこのお山を眺めると、頼山陽が言ったと言われる「鯉」そのものの形ように見えます。これも、全国の名山と呼ぶにふさわしい山であったからこそ、「吉備の中山」という名前があるにもかかわらず、敢えて、山陽先生ともあろうお方が、特に、その名山ぶりを目出て「鯉山」とお付けになったのではないかと思われます。
 この名山「吉備の中山」は、四季それぞれの時を通して、その独特の彩(いろ)や匂いまでもが湧き立つように感じられる不思議な魅力あるお山です。
 「あのお山は、吉備の国の神南備(かんなび)のお山だ。だからいつも、何か訳の分からない怪しげな霊気が辺りに漂っていて、それに当たると人は悪いことができなくなるのだ。だからこのへんの人はみんな善人なのでだ」、と、昔から地域の古老が言っていました。
 
 

吉備って知っている  106 平賀元義⑥

2009-02-18 14:10:56 | Weblog
 そこに集まった人達は、平生の元義に似ず「どうしたことかいな」と怪訝に思っていました。そうでしょう。常なら真っ先に歌が口を付いて出るのですがと。
 それから暫く経って、大藤内の一婢が酒瓶を持てきます。俄かに元義その婢の手を取ります。急に、男に手なんかつかまれ、その婢大いに驚き、逃れんとすれども放さず。「先生だめです。そんなはしたないことをなさっては。どうは放してくだない」と、頼無のですが、元義先生その手を握って放さないのだそうです。そこにいた一座の者も何としたのかとやや心配顔をして、その場の成り行きを眺めていました。その婢もどうなるのかとばかりにぶるぶると、手を元義に固く握られたまま身を震わせておったそうです。それからしばらくして元義が大声で叫んだという。
 「成れり、成れり。・・・あんたの名前は何という」
 と、尋ねます。
 「はい、おとみです」
 するとどうでしょう。今まで固く握っていたその婢の手を放して、再び、大声で
 「成れり。・・・・あけん朝 はらうな富子 おもしろく」
 と詠うのです。
 即ち、藤井高雅(たかつね)が、「けふのむしろに ちる桜かな」という下の句につけた上の句です。

  あけん朝 はらうな富子 あもしろく けふのむしろに ちる桜かな
 そこにいた一同みんな手を叩い「妙也」とはやし立てたという。

 一興にしては話ができすぎですが、その婢が若い妖麗な美人だったのではないかと想像しています。下の句が出された時、そのむこうの大藤内の邸の中でお酒かなんかを用意していたの若い美女を目ざとく見つけ、そんな場を想定しながらじっとその婢が出てくるのをなっていたのではないかと、私は想像しています。この婢が年寄りのカボチャばあさんだと想定すると、そんなに長いこと手なんか握っておられるもんですか、ねえ元義さん。
 
 そんな元義さんは詠んだのです。
 夜を徹した酒の宴。空らになった備前の徳利。織部のどんぶり、赤い柿右衛門の皿、唐津の茶碗、昨夜の酔乱の跡が蓆の上に所狭しと散らかっています。人は既になく。ただ桜の花弁だけが、昨夜のあの騒乱はうそであったかのように、むしろの上に静かに散りかっかっています。 
 「おとみさんよ。どうぞ頼みます。今しばらく、この蓆の上に散りかかる桜の花びろを、そっとそのままにしておいてくださいな。なんという静かな興ある景色でしょう。おもしろくというは、これなのです」 

吉備って知っている  105 平賀元義⑤

2009-02-17 20:42:32 | Weblog
 こんな逸話もまたあります。
 ある時、同好の友人数人と一緒に備前一宮の吉備津彦神社の詞官大守大藤内の邸で花見の宴を開いたことがあります。参加した人、みんな大変酔うて、てんでに、そこは歌読みばかり、思い思いに、その場の桜を歌に詠みあげたのだそうです。中には何よ読んだのかろれつが回らなくなってしまっている輩もいたとか。そのうちそこにいた藤井高雅(たかつね)、高尚の婿です。
 「きょうのむしろにちる桜かな」
 と、下の句を詠じたのだそうです。それに対して、その場に加わっていたすべての者が、それぞれが和したのだそうです。でも、一人平賀元義だけは、何にも云わず、ただ、酒だけを中川さんではないのですが、にやにやしながら飲み続けていたのです。そのいつもとは違う元義を見て、そこにいたみんなは口々にはやし立てます。
 「だんまりを決め込む元義さんよ。はようなんとか、上の句を」
 というのですが、でも、義元さん、ただ唯にやにやしながら酒を飲むだけです。普段と違うこの元義の態度に人々は「どうしたことだろう」危ぶんだということです。

 続きは明日にでも。

吉備って知っている  104 平賀元義④

2009-02-15 16:32:22 | Weblog
 永山卯三郎の「岡山県通史」によると、江戸期における吉備の歌読みは、専ら専門家のみによって歌われたんのではないらしいのです。
『彼の、花になく鴬、水に住む蛙の声聞けば、生とし活る物、何れか歌を読まざりける有様にて武人武蔵、名君光政綱政は言わずもがな。釈寂厳も、古松軒も、台山雲鵬、順蔵、洪庵、鉄石、大西祝、の如く医者も僧侶も画家も哲学者も皆歌を詠ぜざるものなし。実に和歌は人の心をたねとして萬のことのはとぞなれける。・・・・・』
 として、山田貞芳選の吉備百種を載せています。
 その百種の中に元義の歌もやはり出ています。

   大君の みかど国もり まなリ坂
           つきおもしろし われひとりゆく
 という歌です。
  
 この歌が出来た由来も、また、なかなか面白いのでご紹介しておきます。

 この元義先生、お知らせしたとおりの、なかなかの変人です、髪の形も一風独特だったらしいのです、
  「丈長くして大いなる方、たしかに一物ある風姿をそなへ・・・」とあるように、誰でも簡単にかの先生の異様なる髪を結う床屋さんはなかったのです。でも、一軒だけ、御野村八坂(岡山市一宮)に元義のお気に入りの床屋があったのだそうです。
 「巧緻にしてこの奇人の意を満たしめた」と、ものの本に記しています。
 この床屋は岡山から道程およそ一里あまりの所にあったのですが、元義は、散髪にこの床屋へは、いつも夕方掛けて出かけて行ったという。
 ある時、月明かりに乗じて出かけて行ったのだそうです。そんなに遅く行ってもこの床屋はいやな顔一つせず、開けてまってくれていたという。この床屋さんもまた相当な奇人だったようです。
 その道中が大層気に行って、即ち歌ったのが、この歌「大君の・・」という歌なのです。
 「みかど」「くにもり」「万成坂」というのはこの道中の地名なのです。

 元義先生は
 「歌はつくるものにはあらずしてよむものなり」
 と、常々言っていたのだそうです。この歌もまさにその通りです。自然と口を衝いて出てきたものなのです。見た通りが歌になるのです。
 文字をこねまわしして、作り上げ、造り上げしている今の歌を、元義先生はどうおもわれるでしょうか?


吉備って知っている  103  平賀元義③

2009-02-14 14:24:28 | Weblog
 藤井高尚先生など、当時有名な国学者が元義の周りには大勢いたのですが、どうしてかは分からないのですが、独学で国学や和歌を勉強しています。師について学ぶということが嫌いだったのではないでしょうか。あまりにも自尊心が高いので。
 また、当時の国学を学ぶものは本居宣長などがそうであるように、漢意漢語を廃して、学問は敷島の大和心を大切にする傾向がありました。ご多分にもれず、元義も儒教や仏教を毛嫌いします、それも並はずれた嫌いようだったようです。先にあげた、我:藤井高尚先生も、ややその傾向なきにしもあらずですが、この元義ほどではありませんでした。

 高尚先生の著書「松の落葉」の中にも、
 『おのれあながちに儒仏の道をしりぞけんとせざる事』の中で
 「大和心を深く学ぶ者は、その尊く非常に優れている良さを理解して人にも教えねばならないが、だからと言って儒教や仏教をインドや中国の大和心とは違う何か卑しいものであるかのように思って一方的に排除する国学者はいるが、それは感心したことではない。それぞれのいい点を見つけて我神道の中にも取り入れるべきだ」
 とあります。元義とは違って、高尚先生は何か広い大きな心で持って時代を見つめることができた人であります。

 ところがです。当時は高尚先生のような汎世界的な考えを持つ人もいたにはいたのですが、ここにいます平賀元義という人は誠に心の狭いというか大和心一筋の人でした。そのため、極端に仏儒を毛嫌い、漢学漢意漢語といえば毛虫のように思っていたのだそうです。
 こんな逸話まで付いて回っています。
 元義は「仏教」はインド人の釈迦が考え出したもので、日本の人が遠い異国で出来たものなど信じることすらおかしいことだと思っていたのです。そのくらい仏教は嫌っています。
 平生、道の途中なんかで、あちらからこちらに歩いてくる僧侶などをみかけようものなら、例え急ぎの用があったとしても、途中から脇道にわざわざ反れて僧が通り過ぎるまでその場に立ち止まって、やり過ごしたという。徹底的に仏教を避けていたのです。
 こんな話が残っています。
 ある時、児島郡だったと伝えられていますが、元義が気がつかないまま小さな路でばったりとその僧侶に出会ったのだそうです。それもまんが悪く、元義の刀の鞘に僧の衣が触れたのだそうです。すると、元義、何を思ったか、「大事あり大事あり」と大声を上げながら、知り人の家に走り込み、「早くこの刀の鞘を洗ってください」と、頼みます。
 「早速洗いますから、まずは、そのお腰にさしていらっしゃる刀をお取りください」
 と、その屋の主人。
 するとどうでしょう。元義はおもむろに言うのです。
 「何。刀を腰から取れだと。そんな事ができると思うのか。刀の鞘に着いている僧侶の汚物が拙者の帯に着物にくっつくではないか。そんなことはでけん」
 と。ついに刀を腰につけたま、ごしごしと洗ったので、例の黒鞘の漆がはげたと言われています。

 そんなにインドや中国のものを毛嫌いしていたにしては、平気で漢字は使っています。昨日の書にある歌「暗四鬼の司人等年かハくハ皇御国乃大道を行く」には、一五字も漢字を使っています。
 

吉備って知っている  102 平賀義元②

2009-02-13 19:42:29 | Weblog
 この平賀元義先生がいかに変人であったかという逸話がたくさんあります。そのいくつかを数回に分けて紹介していきますので、その中から、元義の人物像をご想像していただけたらと思います。
  
 まず、その1です。
 彼の容儀風采についてですが、あまり詳しくは分からないのですが、髪型も一風変わっていて、頭の天辺辺りにうず高く髷を太く巻き上げて一物の風姿を備え、片足が疱瘡のため傷ついていたので、夏でも何時も足袋を履いていたので「沖津の方足袋」と、あだ名されていたそうです。この「沖津」というのは彼の養家の名字です。
 また、服装は、常に月星の紋をつけた檳榔子(びんろうし=暗黒色)羽織に黒鞘の刀を帯びていたのだそうです。
 こんな彼は近世吉備の歌壇に於いて、風変りな万葉調の歌人として、恋を歌い情を説いたのです。惜しいことにみんなからは疎んじられ不遇のうちに生涯を閉じています。

 その歌を一つ。
 これは今の山陽本線庭瀬駅を出で倉敷方面に進むと、すぐに足守川の鉄橋にさしかかります、その辺りを読んだ歌です。

    大井川 朝風さむみ 大丈夫(ますらお)と
           念(おも)いてありし 吾ぞはなひる

 まあ、言ってみれば変人です。彼の書をお見せします。播磨備前備中備後などには沢山あるそうです、その勢いは天馬空をゆくがごとくと評されています。書からも彼の人柄を見ることができます。少々のことでは物に動じない一風独特なゆかしさとでも言いましょうか、気韻がみなぎっているようでもあります。
 
 

吉備って知っている  101 平賀元義

2009-02-12 21:56:26 | Weblog
 吉備の中山が黄砂にうすけぶっています。細谷川も小さなせせらぎの音を立てながら2月としてはずいぶん暖かい如月に驚いているようでもあります。
 さて、この細谷川を遡って急峻な道を登っていくと、やがて藤原成親の墓が見えてきます。
 この墓の案内板が近頃新しくなりました。
 その案内板に、
      あらたこの 成親ごとき よき臣を
               有木の山の 埋れ木にして
  の歌が紹介されています。この歌の作者が、これから数回に渡ってご紹介していきます「平賀元義」です。
 本当に何を考えて生きていったのだろうと思われるような自由奔放な人生を送った江戸末期の岡山藩士の息子として生まれた人です。

建国記念の日

2009-02-11 18:40:31 | Weblog
 建国記念日です。
 2月11日に、神武天皇が大和の国橿原宮で即位された日だそうです。紀元前660年頃のお話だとか。そうだとするなら、この頃って縄文時代のはずだと思うのですが。大和朝廷ができたのは、確か4世紀になってからだと思います。そんな曖昧模糊とした話ですから、この中には、ひとかけらの客観的な真実性もないのが当然ですが、それがあたかも真の現実だと大見えを切る人も稀にはいるようです。人とは面白いですね。でも、近頃の若い人の中には「神武天皇とは誰ですか」と尋ねても、「そなん人が過去の日本にいたの」と、怪訝な顔をする人も多く見かけるようです。
 そもそも、この神武天皇が橿原の宮で即位した日を、明治5年に、日本の建国祭として「紀元節」を設定したのが起原だそうです。それ以前は、この2月11日は、そんなに特別視されてはいない、ただの普通の日であったのです。
 ちなみに、江戸時代に出版された「山井四季之詞」という小冊を見てみると、如月の項を見ても「神武の神」すら載ってははいません。なにもないのです。
 ところが、明治期になって、それまでの幕藩体制という地方分権制度の政治体制を一変させて、天皇を中心とした中央集権の近代国家日本の建設のために、どうしてもこんな神話的な日を作り上げなくてはならなかった、明治政府の苦労というか、工夫というか、そんな思惑が、この日の設定の後ろには見え隠れしているように、私には見えて仕方ありません。
 そんな日を、よりによって、民主主義の新しい日本国憲法の下でも作った人の思いは何であったのか。単なる懐古趣味からだけのために設定したとも思われないのですが。どうなのでしょうかね。
 かって加藤周一さんが「現在を決定する過去が歴史である」と言ったのですが、この建国記念の日、即ち、神武天皇の即位もやっぱり科学性はないにしても「歴史」といえるのでしょうか。単なる神話に過ぎないように思えます。まあ、現在を決定すると言うほどの大きな問題ではないのです。ただ、政治的なご都合主義によって敢えて作りだされた「過去だ」と思いますから、加藤さんが言った「現在を決定する過去」とは少々違っているようにも思えます。
 「歴史は方便だ」という人もいますが、そんな部類の中に入っているのかも知れませんね