私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「御風邪をめしまする」

2010-02-28 13:56:45 | Weblog
 そんな光政侯が参勤交代で、駿河の薩埵峠を超えられるときの事です。
 ここで、また、ちょっとばかり寄り道をしまので御勘弁を・・・。
 
      
 
 この絵は、ご存じ、安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」のうち 「由井」を描いた風景です。ここに描かれている坂道が「薩埵峠」なのです。ここは、北陸の親不知・子不知と共に、古来から日本でも有名な交通の難所と言われた所です。しかし、一方、此は、また、東海道一の富士を背景にした素晴らしい眺めが見られる名所でもあったのです。
 その昔、万葉歌人であったある山辺赤人が
 「田子の浦ゆうち出でで見れば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける」
 と、詠んだ所でもあったと言われています。
 このような東海道一の名所「駿河の薩埵峠」を越す旅人は、誰でも、一度は、此の峠に差し掛かると、歩を止めて、そこからの美しい景色を眺め休憩しながら、その旅を楽しむのが普通であったのです。
 だから、当然、ここを通りかかられた我が藩主光政侯もお駕を止められるとばかり思っていたのでしょう。駕脇の侍が、ちらりと御駕の殿の御姿をみます。すると、どうでしょう。そなんな思いの家来たちの予想に反して、事もあろうに、その景色を見るどころか、お籠の中で藩主光政侯はじっと眼をお瞑りになっておられるではありませんか。それも見た駕脇の侍は、藩主光政侯はきっと居眠りをなさっているに違いないと勘違いして、後から「天下の名所薩埵峠」を教えてくれなかったのかと、きつく詰問されてもと思ったのでしょう、

 「御前、薩埵峠にござります。御寝(ぎょしんと読みます)になりましては、御風邪をめしまする」
 と、大声で、申し上げたのでした。
 

猥りに物をば申すな

2010-02-27 11:33:09 | Weblog
 備前訛の光政侯の近習が土に手をついて言います。
 「あまりに中江の無礼、光政侯を誰と思うてか」声を荒立てます。すると光政侯は、
 「猥りに物をば申すな。声高にては授業の邪魔とならむ。控えて居れ」
 と、鷹揚に申されます。「ハッと列坐(なみゐ)る諸臣は黙然(もだし)をれり」と、その場の雰囲気を記しています。
 光政侯の母は徳川家康の外孫で、外様大名でありますが西国の雄藩です。それだけ格式も高く、こんな田舎の一学者ごとき者に、ご自分の尊貴を忘れて、あたかもその家来であるが如くに振舞わなくてもよい、そんなにペコへコすることはないと、家来衆は思われたのです。が、藩主自ら「物を申すな」と言われるのですから致し方ありません。しぶしぶとだろうと思われますが、そこに居並ぶ総ての家臣たちは黙らざるを得ません。そんな雰囲気が「黙然(もだし)をれり」です。
 そうこうしている内に、藤樹先生の村塾の枝折戸を押しあけて、里の総角(あげまきと読みます。子供たちの事です)がガヤガヤと帰って行きます。

 すると、そこに藤樹先生が穏やかにお出ましになられ
 「無礼に侯ひき、稽古もおはり侯。いざ此方へ」
 と、草堂の塵の中に案内します。

池田光政の真骨頂

2010-02-26 10:13:54 | Weblog
 [三百諸侯」の表紙です。

                  

 この中に「新太郎少将光政 中江藤樹を訪ひし事 」という記事があり、それを紹介します。

 「鳰の海面霞わたり、告天子の高く唱うは、近江国高島郡小川村の聖人様・・・・・枝折戸したる村塾あり・・・」こんな書き出しで始まります。告天子はひばりと読むのだそうです。
 そこは中江藤樹の草庵です。里の餓鬼どもたちが履いていたのでしょうか足半(あしなか)が、所狭しと散らかっています。そんなん子供たちの足跡がいっぱいについている、埃まみれの玄関だろうと思われる所に、備前藩主池田光政は、悠然と腰をかけられるのです。 常に、倹約を心がけていた藩主光政侯ではあったのですが、その時の野掛の御召物は、黒木綿の紋付羽織、小倉の袴、鉄造(てつごしら)への脇差、柄(つか)は皮を巻き付けた上物でした。羽織の紐は、軒端に咲いている藤の花と同じ紫の匂えるような鮮やかなものでした。
 その時、家来の者が、岡山弁で、しかも、声を荒げるようにして言います。
 「御前、孔明三顧の例とは申しながら、あんまりにも中江は無礼じゃあないですか」
 と、きつく申し上げたのだそうです。すると、光政侯は、物静かにご自分の手を以て、その家来を制します。これからが光政侯の真骨頂です。

光政にちいて書かにゃあおえんど

2010-02-25 21:01:23 | Weblog
 後楽園・津田永忠・熊沢蕃山と、「つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく・・」ではないのですが、
何やかやと、五目飯のように、それこそ何もかにもごちゃごちゃまぜにして「書きつくれば」しました。でも、残念ですが、生来、無粋で、風流を解する心がありません、兼好のようには「あやしうこそものぐるほしけれ」の心情には、なかなか到達することができません。 
 そんな時、またまたあの飯亭寶泥氏からのメールです。

 「そげんに、知ったかぶりして、いつも、要らんことを言わんでもええのに。もうちいたあ、おめえのけえたものを読んでおる者の気にもなってみいや。そんな人の事を考んげえてものをいわんと、おえりゃあせんど」
 
 「時間がよっぽどあるんじゃなあ。つれずれにしては、しつけえど。まあ、せえでもおめえの情念みてえなもんは、みとめてやらんでもねえが。もお、ええかげんにしとけえよ・・・・・。けえから なにゅう書くんかはしらんけえど。けえだけ けえたんだけえなあ、おせえてえたるけえなー。 岡山城の初代藩主池田光政侯の事も もうちょっとばかりは書かんといけんどう」
 と。
 
 まあ、これで岡山藩の事は終わりにしようと思ったのですが、メール氏の御助言を頂きました、ちょっとばかりその光政侯についてのエピソードみたいなものを書かなくてはと思い、「有斐録」などの以外に、光政侯に関する記録はないかと探してみました。

 明治27年に出た「三百諸侯]という本に、この光政侯の記事が出ているではありませんか。
 それをと思ったのですが、いささかこれも長ったらしいので、それはまた明日にでも。
 

雪割草が咲きました

2010-02-23 11:02:18 | Weblog
 昨年の梅雨時期だったと思いかすが、ご近所の奥様から
「これは吉備高原に咲いていた雪割草です。株をお分けしますので育てて見てくださいな。2月になるとかわいらしい花が見えますよ」
 と、それから育て方についても色々と教えてくださいました。
 「どんな花が咲くのでしょう」
 「まあ、咲いてからのお楽しみです」
 夏の暑さを嫌う草なのだそうです。その対処方法も教えてくださいました。簡単なものです。夏の日差しを避け、日陰になる木の下に置けば、「それで夏は十分越えられる」と言われました。
 そんなことはとっくの昔に忘れていたのですが、2月になってからです。もらって捨てるように木の下に置いていた雪割草の芯の部分が膨らんできているではありませんか。これはひょっとしたらと、期待して、それからは水もかけるようにして眺めていました。1週間ぐらい前から、一輪の、それはまことに愛くるしいピンクの花を覗かせます。

 そこに置いたことも忘れて、何もしないで、ほっとらかしていたにもかかわらずですが、季節がくると忘れずに己の姿をきちんと寒空に晒しているではありませんか。何と愛くるしい花でしょう。梅よりのもっと可憐に。その姿を写真に撮りましたお見せします。もう少しすると4,5枚は花を開くと思います。

      

蕃山先生の最期

2010-02-22 10:18:09 | Weblog
 記録によりますと、先生の最期は元禄4年8月17日丑の刻だそうです。死因については「古河名物の瘧(おこり)」とあります。この病はマラリヤの一種で40度以上もある高い熱が続き大変苦しまれるのが普通なのですが、先生はいたって物静か我慢強いお人であられましたから、その苦しさを耐えられ、亡くなられる17日の4日前まで、薬はご自分で煎られてお飲みになられ、2、3に前まで何時も髪をきちんと結ばれていたのだそうです。
 先生の最期までを診察していた医者は
 「これ程の病にかかっていながら最期まで静かで逝った人は見たことがない」
 とまで言われています。

 葬儀は、死後3日たった20日行われ、白帷子を着せ、髪はいつもの通りに結って、太刀を入れて、茶を詰めて埋葬されたのだそうです。土をそのお棺にかぶせ、上に[息游軒墓]とだけ書かれた自然石が置かれたのだそうです。京に生まれてから73年間の波乱万丈に富んだ自分を大切にされた生涯であったのです。
 この葬儀の様子は、その当時、先生の家来であった野田勘左衛門という人が先生の弟子に話していたと言い伝えられていて、今に残っているのです。先生らしい葬儀が予想されます。

 なお、先生のその墓は、古河市大堤の鮭延寺にあるのだそうです。一度訪ねたいと思っています。この写真にある今の御墓は、蕃山先生の6世の外孫が建てたと、その玉垣に記されているのだそうです。なお、ここに見える墓石には「熊澤息游軒伯継之墓]という字が書かれてあります。最初作った自然石の墓石ではないと思われます。念のために。

     

蕃山はほんの数回と

2010-02-21 15:36:25 | Weblog
 「ほんの数回」と、思って始めたのですが、蕃山先生についても、また、多くの記事になりました。後2回ぐらいは?と思っていますのでお付き合いください。
 
 先生の最晩年は、昨日書いた通りの「歌と琵琶を友とした隠遁の生活」であったのですが、その生涯を通した人となりを、最後に、まとめておきます。

 先生は生まれつき身体肥満で、容貌は女子のようであったのだそうですが、16歳ごろから、自分が肥満なために、人と比較して、敏速な行動が出来にくいと気付きます。それでは一流の武士にはなれないだろうと思って、この肥満解消のための方策を4つ決め、実行に移したそうです。

 まず、①です、「寝るに帯を解かず」、次に②です。「美味を食せず」、③番目は「酒を飲まず」です。
 何故、「寝るに帯を解かず」が目標の①かはよく分かりませんが、多分、夜中に何時でも剣術の稽古ができるという心構えのためだったのではと思いますが。果たして肥満解消に結び付いたのでしょうか?
 次の、②と③は誰でも考えつくことです。
 肥満解消なら、これだけでもう十分だと思いますがでも、蕃山先生は、この他に、もう一つ、肥満解消のための目標を立てています。何だと思われますか。

 それが、また、どうして、そんなことを考えつかれたのかは分からないのですが、ものの本にはこう書かれています。即ち、
 ④に「男女の人道を絶つ」を上げています。

 男性として女性と性交をしないと言うのです。それも人生で一番血気盛んな年頃、16歳の時にです。それが果たして肥満解消のための格別な特効薬になると言うのでしょうか。医学の知識がないので、私には分かりませんが、先生が考え付かれた根拠は何でしたのでしょうか。それも10年間もお続けになったと言う事です。
 
 この4つを基本として、この他に、夏の暑さの盛りに、敢て、野外に出て雲雀を打ったり、厳寒の冬には雪霜を踏み分けて山中に入ったりした自然を友とするような生活を心がけたと言われます。
 そして、何時も木刀と草履を携え、人が寝静まった時に、人の誰もいない庭で、一人黙々と剣術の練習もしていたのだそうです。

 そのような鍛錬のお陰でしょうが肥満が取れ、湯浅常山によれば
 「了介は婦人好女の如く見えし」
 と、あり、また、ある本によれば
 「容姿は婀娜っぽく美婦人のようであった」
 とも書かれています。
 又、熊沢先言行録には
 「20歳の頃、文を人に教えているときは童のようで、顔色はうるわしく、色気立つような美声で、人々を引き付けずにはおられないような美しさを持っておられ、怒った声などは聞いたことがなかった」
 と、あります。

 こんなものを総合してみると、先生は「其人の平生は、甚だ温潤にして愛敬あまりありて謙遜なる人なり」という事が出来ます。

 

蕃山の最晩年

2010-02-20 12:12:33 | Weblog
 貞享4年幕府から蟄居を命じら、蕃山先生は人とは交らず、ただ、琴と笙と笛を友とした孤独で寡黙な生活であったと言われます。そしてもう一つの楽しみが和歌を詠むことだったのです。
 春まちえてや かへる雁がねの歌と一緒に作ったのが

   ゆく雁に 関はなくとも おほやけの
             いましめあれば ふみもつたへじ

 の歌です。

 この歌は、匈奴に囚われの身になっても何時も望郷の念を持ち続けた漢の蘇武の故事から作った先生の、いつかは、必ず、故郷へという思いが強く現われた歌です。
 この2首があって初めて、その場に居合わせた先生の総ての思いが伝わる歌だと思います。

 その年の12月には、妻イチにも先立たれ、益々孤独な生活を強いられたのです。
 なお、山田貞芳という人が選んだ江戸期における吉備の歌、百首の中にある蕃山先生の和歌です。

  芝の戸を 折りたてもせて 出るあとに
            心もおかす すめる月影

 何時詠んだのかは記録にはありませんが、多分、最晩年の妻イチとも死別した元禄二,三年の作ではないかと思いますが。

 
 なお、寶泥氏からのメールで、昨日の蕃山先生の歌は、伊勢の
     “春霞たつを見すててゆく雁は
                 花なき里に住みやならへる”
 の本歌取りではないのかと、あったのですが、私は「それはない。政弘侯の歌こそ本歌取りだと確信しています」と、返事をしておきました。どう思われますか。

政弘帰る

2010-02-19 18:52:44 | Weblog
 蕃山先生の
 老の身の 見んことかたき ふるさとに
            春まちえてや かへる雁かね
 の歌を見てきたのですが、この歌の本歌取りとしてあげられると思うものに、一般には、ほとんど知る人はないと思われるのですが、大内政弘という山口を中心として勢力を誇っていた中国地方最大の室町期の守護大名の詠んだ歌があります。
 
 
 応仁元年(1467年)将軍義政の後目相続の為のいざこざで、11年の長きに渡り争いが続き 、京都の町は焦土と化した、所謂、応仁の乱が起こります。 当時の京都にいた多くの室町文化を支えていた文化人が、争いを避けるために、山口を始め各地の地方都市に、有力な大名を頼って下野しています。雪舟などが頼ったパトロンが、この大内政弘だったのです。その援助を受けて雪舟は中国へ渡り、帰国後は、生まれ故郷、備中赤浜へは帰らず、山口で生涯を終えています。

 まあ、そんな大内政弘は、自身守護大名としても、また、武人としても超一級の人であったのですが、同時に、相当な教養を適えた非常に高い文化人でもあったのです。山口市に残る多くの文化遺産がこの政弘侯によると言われています。
 室町期には、それまでにはなかった全く新しい日本文化を象徴するような俳諧という和歌から独立した世界で最も短い5・7・5の詩の形式が生まれますが、この和歌と俳諧を分ける分岐点ともなるような画期的な連歌としての歌集「新撰菟玖波集」があります。その作者の一人として大内政弘もその名を留めています。
 彼の歌として
    

 “かへらはさくら 恨みやもせん
       ふるさとと 都をおもえ 春の雁”


 というのが見えますが、この下の句が政弘侯の一句です。

 この意味は“ようやく春が来て桜が咲こうとしています。それを見ずにあなたは帰られるのですか。桜が恨らむじゃありませんか”
 という句を受けて、政弘侯が
 “花を見ずに帰って行かれる雁たちよ、いまいるこの都を故郷と思って、せめて桜が咲いてからでもいいのですから、それまでは、どうぞ、ここにと止まっていてください。そんなに急がないで帰らなくてもいいでしょう。今、私もその故郷に帰りたいのは山々なのですが、どうしても帰れません。この私一緒に都の春を楽しんではもわえませんか、どうか私の気持ちを察してくださいね。春の雁よ”
 と、まあこんな気持ちを詠みこんだ秀歌ではないかと思います。
 当時、政弘侯は、この戦いの後始末のため、春の京都に留まっていなくてはならないのです。どうしても京都に居なくてはならない役目がありました。故郷の春を、そうです。懐かしい山口の桜を見たくて仕方がありません。でも、今は、「帰りたくても帰れない」と歌っ歌手がいましたが、どうしても帰ることはかないません。そんなやるせない気持ちを詠みこんだのです。

 環境に違いはあるのですが、こんな政弘侯の思いと全く同じだったのが、元禄元年の春の蕃山先生の思いだったのです。そこで、政弘侯のその歌を本歌取りとして、蕃山先生が作ったのがこの歌です。
 もう一度、声に出して蕃山先生の歌を呼んでみてください。

    老の身の 見んことかたき ふるさとに
            春をまちえてや かへる雁かね



 なお、この大内政弘の人となりを、私は高校時代頃からだったと思いますが、何時も尊敬の念を持って特別視していました。特に、雪舟が、我が町吉備津のすぐ隣に生まれていますから余計にそんな気持ちになったのだろうとは思います。それでというわけではないのですが、長男が誕生した時に、真っ先に、この政弘という文字が浮かび上がり、そのままほかの名前は考えることなく命名しました。

 その我が長男「政弘」が、こんな私の思いを知ってか知らでか、明日、しばらくぶりに帰ると連絡ははいてきました。

口に世事を絶つ

2010-02-18 18:15:04 | Weblog
 貞享4年12月幕府の命で禁錮の刑を言い渡された蕃山先生は、結局、蟄居の処分を受けられます。
 それから以後の蕃山先生の生活について、永山卯一郎は、「是より口に世事を絶つ、人と語りて隅々世事に及べば黙然として答えず」だったと、お書きになっておられます。
 そして笙と琵琶を友として、和歌を詠ずる毎日のようでした。
 その翌年の春、元禄元年です。帰雁をみて読んだ歌が残っています。

  老の身の 見んことかたき ふるさとに
            はるをまちえてや かへる雁かね

 「ふるさと」ですから、やっぱり蕃山先生が生まれた京あたりでしょうか、岡山ではないと思います。誰とも気軽に世間話もできないような環境に置かれ、しかも老い先短いこの身です。思い出すのは、何に付けても、やっぱりあの故郷の事です。事あるごとに自然とその故郷の自然や友の事が、まなかいに去来してきます。そんな時、ふと目にしたのが、大空を羽ばたくように、待ちに待ったのでしょうか、そんな故郷の春を見に、あの雁がねは自分の故郷目指して勢いよく帰っていることだ。自分の身に引き換えてみて、雁がねたちの何と自由であることかや、本当にうらやましい限りだ。と、いう思いが詰まった歌っだと思います。

 鳥たちの限りない自由な行動に比べて、人間の世の、なんて儚いことだろうかと、69歳の今になって初めて味わった自分に対するどうしようのない悔恨の念が込められている好い歌だと思います

 

蕃山先生の頗緩な蟄居

2010-02-17 21:46:21 | Weblog
貞享4年秋八月、蕃山先生が幕府の命によって下総国古河に移されますが、その年の12月になって、突然に幕府の用番老中であった戸田忠昌から古河藩主松平忠之に対して先生を禁錮するようにと沙汰があったのです。なお、この蕃山先生が受けた禁錮禁錮刑というのは、監獄に閉じ込める刑罰の事で、当時としては、大変重い処罰だったのです。
 突然でしたので、先生はもとより藩主忠之侯も相当驚かれます。そのように思い禁錮刑になせ処されたのかという理由ははっきりとはしていないのですが、大体、次の3つがあげられます。

 第一の理由は:
 先生が、時事について幕府に上書にしたのですが、それが幕府の方針に反していた為に罰せられたと言う説です。
 第二の理由は:
 先生の著述の中に、幕府の機密政策と相似た所があったため、秘密保持のために刑に処されたという説です。
 第三の理由は:(これが本当だろうと言われています)
 先生の門人に田中孫十郎という人がいたのですが、その人が幕府の大目付に任じられた時、先生に「政務上の心得を、是非、お聞かせください」と言って手紙を寄こします。その返事に書かれている内容が幕府に咎められたのだそうです。
 その先生からの返書を、最初は、この田中孫十郎という人は、自分ひとりの物として有難く押し抱いていたのですが、何かの機会に、つい、それを老中に見せてしまいます。その内容が幕府の方針と大いに違い、人心を惑わす元凶にもなりかねないと、禁錮刑に処されたと言う説です。
 
 この田中孫十郎に宛てた先生の手紙が今も残っています。それを見ると、そんな禁錮等の刑に処する程でもないように思えますが、先生の陽明学と対立していた幕府御用学問となっていた朱子学の宗家林家が、此の事件に関与していたのではないかという噂もあったようです。70歳にもなった老人の先生に対する処分です。いかに先生の陽明学に対して林家が恐れおののいていたのかを物語る一側面でもあると思われます。

 先生はこの嫌疑によって禁錮の刑に処されるのですが、それまでの先生の言動からしても、調べて見ると、それほど大げさな大騒動をするまでもないような、事件ではあったのですが、そこは封建社会の事です。一度、有罪を言い渡した者に対して、突然に無罪というわけにはいかず、結局、蟄居という処分にはなります。
 しかし、その処分は、刀は帯びてもよい、用人も置いてよい、屋敷内は自由に出歩いてもよいと言う頗緩な蟄居であったようです。
 夫人の亡くなる前の年の12月の事でした。

能く終りぬ

2010-02-16 20:39:12 | Weblog
 蕃山先生が古河に移られた次の年に、その夫人イチも亡くなられております。その夫人が亡くなられる時の逸話が伝わっております。

 元禄元年8月です。夫人が病に罹り危篤に陥られた時の事です。先生が奥様の枕もとにお座りになって「心静かに終わられよ」と言われたのだそうです。奥様は「常にのたまふ所を心得たれば気遣したまうな」と、答えられたのだそうです。
 「あなたが日頃言われていることが分かっているので、そんなに御心配してくださいますな」
 そんな夫婦の最後の会話があったのだそうです。「生きる」という事を、この夫婦は一体どう話していたのでしょうか。でも、「心静か」といい「気遣したまうな」といい、臨終の場で二人ともよく言えたものだと感心せずにはいられません。心静かなる最期だったと思います。
 そして、奥様が安らかに息を御引き取りになった時、蕃山先生は哭して
 「能く終りぬ」
 と、言われ、心色はいつもの通りであったといわれています。
 この言葉は、蕃山先生の奥様に対する深い愛情の表れであり、心静かに終わった奥様の死に対する[ああよかった。何という静かなる死であるか、わしもその内行くよ、待っていてくれ」という安堵の心が詰まっているように思われます。更に、この言葉は、人の死という何物にも代えがたい最大の悲しみを通り越した、ここまで二人で伴に歩んできたこれまでの生に対する感謝の念すら伺えるように思われます。なんと清々しい人生の終焉の場面でしょうか。奥様55年の生涯でした。でも、先生もやはり人の子です。哭して言われたのだそうです。人間としての蕃山先生の姿をそこに見いだせます。

どうしても蕃山を江戸に呼べ

2010-02-15 17:04:28 | Weblog
 貞享2年(1685年)松平信之侯が老中になり古河に国替を命じられます。しかし、その後を受けて郡山藩主になられた本多忠平侯との関係で、蕃山先生は、そのまま郡山に留まっていたのです。しかし、貞享4年の8月に、一応は、幕府の命令によって、松平侯の古河に移られています。
 その理由はよくは分からないのですが、噂によると、その前年に松平信之侯が亡くなられ、その子忠之侯が藩主になられています。この忠之侯の立っての望みという事で来られたとも、将軍綱吉公が「蕃山を江戸に呼べ」と強く要望したためであるとか、いろいろな話が残っているのだそうです。

 まあ、いかなる理由かははっきりしないのですが、もう69歳にもなった蕃山先生は岡山を出てから6回目の転居になります。

 なお、古河に先生が移られる前ですが、先生を師と仰いだ保科正之、酒井忠清、板倉重矩、父母や長男の継明、妻のイチまでも、更に池田光政も、堀田正俊、松平信之も相次いでこの世から去っています。

蕃山が郡山に留まったのは

2010-02-13 16:54:16 | Weblog
 松平信之侯が老中になられて、郡山から奥州白河に国替されますが、蕃山は、以前明石から郡山に移られた時のように、今回は、白河へは行かれなかったようです。そのまま郡山に留まられます。
 それは、松平信之侯に代わって、新しく郡山城主になられた本多下野守忠平侯と蕃山先生と深い関係があったからです。
 
 この本多忠平侯の夫人が、池田光政侯の長女だったお方だったのです。当時、岡山藩では津田永忠と泉仲愛の二人が協議しながら、藩内の農民救済等のために[社倉法]を作っておりますが、その財源として、この本多忠平侯の奥方の湯沐料を利用します。
 夫人には、毎年五〇貫目宛ての銀を湯沐料として送付していたのですが、まだ送付されずにそのままになって倉に眠っていた銀があるのです。これを、凶作時等で生活に困っている農民を救うための資金にしたらと、目を付けたのです。それを借りて資金にして、一石について三升の利子という低利で農民に貸し付け、藩内の貧農の救済資金として運用していく方法を考え付いたのです。それが、中国の朱熹が考えた「社倉法」です。記録にはないのですが、多分、泉忠愛の智恵から出たものではないかと考えられます。
 寛文11年の永忠が光政侯に出した建議書の中に見える
 [泉八右衛門と私両人にて・・・」からも、このようなことが予想されます。
 その中で、永忠は言うのです。
 「大阪などの金融業者から借りると多くの利息は藩外に出るのですが、藩内にある資金を使うのですがら、利息等がそのまま藩内で流用され、延いては藩内の経済に潤いを与える結果になる」
 と。
 素晴らしき経済学者です。それを助けたのが蕃山の弟泉忠愛だったのです。

 こんな関係があったからでしょうが、新藩主本多忠平侯と蕃山先生との信頼関係も生まれ、藩士たちからの尊信も、また、あったのでしょう、居心地も前の信之侯の時と何ら変わることもなく、そのまま貞享四年八月まで、郡山に居られます。

蕃山の六回の転居

2010-02-13 15:07:27 | Weblog
 寛文9年7月、岡山藩の藩学校の開校式に招かれた蕃山先生でしたが、約一年たらずの間、岡山に滞在しておられます。
 寛文10年の正月には講堂で諸生と孝経を読み、特別講義も行っています。それからしばらくは岡山に留まって、光政侯が、初めて藩学校に御参校になられた時等にはお側に侍っていますが、それから一月後の6月には、再び、明石に帰られています。それから9年間、明石の太山寺の傍らに建てた「息游軒」となずけた庵に住んでおられます。

 ところが、延寶7年に明石城主松平信之侯が大和郡山に封され、その時、蕃山先生も、やっぱり信之侯と共に明石から郡山に移られ、矢田山に住まいされます。
 郡山にあった天和3年には、大老掘田正俊侯の招きで、一時江戸へ下り、しばらく江戸への滞在しておりますが、「もうしばらくの間・・・」と、大老達に、江戸滞在を請われたのですが、固辞して矢田山へ帰ります。その後すぐ、松平信之侯は老中に任じられ、封を郡山から下総の国古河に移されます。でも、蕃山先生は、「この度は」と、そのまま矢田山に一人留まります。しかし、幕府の要人の中に、経済に長じている蕃山先生の噂を聞いて、信之侯に、是非、古河の地に招くようにと強く要請されます。そこで、先生も、致し方なくだろうとは思いますが、信之侯の御膝下の古河に住まわれるようになったのです。
 なお、信之侯の後を受けた郡山藩主になられた本多忠平侯も、やはり、蕃山先生を厚く敬服されて厚遇されていたのです。だから、先生にとっては、以前と変わらずに、ここは居心地の良い場所であったことには違いありません。でも、結局、古河へ転居されることになります。たっての愛弟子、信之侯からの要請があったのではと思われますが、そこらあたりの詳しい事情は分かりません。

 備前の自分の采邑である蕃山村を出てから、京都・吉野・山城鹿背山・明石・郡山・古河と6回目の転居になります。この事は、蕃山先生が、それだけの波乱万丈の人生を送ったと言う証拠にもなる事なのです。貞享4年(1687年)の8月でした。69歳の時です。