私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

孫娘への手紙

2009-01-31 20:50:58 | Weblog
 我可愛い孫娘(鯉山小3年生)から、夜、次のような質問の電話がありました。
 「人は火はどうやっておっこしていたのでのでしょうか?」と、云うのです。

 さていかに答えればいいとお考えですか。

 私は次のように答えておきました。

 「人がまだ火を見つけていない30~50万年前のことです。ある時、かみなりさんか何かで山火事が起きました。それまでは、ただ、火は恐(おそ)ろしいものとばっかり思っていたのですが、この火をじょうずに使かえば、人にたくさんのいいことしてくれるということを教えてくれました。
 ・あたたかいこと。
 ・おそろしい強い動物からみをまもってくれること。
 ・やけあとにあったやけた動物の肉や植物の種を食べてみると、今まで生のまま  食べていたのとはちがって、とてもおいしかったこと。
 ・やけた後から育つものには、たくさん実をつけること。
 ばど、たくさんの火をつかうと人間に役に立つことを知ったのです。
 そこで、人々は、どうにかして、この火を自分たちで作りたいと考えるようになります。
 さいしょは山火じや火山のばくはつなど、しぜんにおこった火をとってきて使(つか)っていたのですが、しだいに自分たちでこの便利(べんり)な火を作りたいものだと思うようになりました。一番初めに作った人の名前は分からないのですが、ものすごく、おそらく何10万年もの長い間、人々がああでもないこうでもないと考え考えて、考え抜いて思いついたのです。それは木と木をこすりつけると、たいへんあつい熱(ねつ)が出てきて、それを長い時間かけて、くりかえしてやっていると、ついには煙(けむり)がでます。そのようなことをくりかえしてやっていくうちに、やがて火ができるということを見つけるのです。
 それを見つけた時の人の顔をそうぞうしてみてくださいね。こんなかおを「したりかお」というのです。花奈だからおしえるのですよ。覚(おぼ)えておいてほしいな。
 なんかいも、なんかいも、しっぱいをかさねながらようやく見つけ出した火なのです。
 はっきりしたことは分からないのですが、たぶん、30万年も、それいじょうもかかってようやく見つけたのだろうと考えられています。
 「考える」ことができる人間だから出来たことなのです。サルやトラではできないことなのです。人しかできない力なのです。
 
 花菜は人です。なんでも、どうしてかな、どうすればいいかな、と、いつも考えることができる人になってください。人間だもの。考えて考えて、これが一番いい方法だというものを見つけてくださいな。

吉備って知っている  96 藤原保則⑫

2009-01-31 15:02:52 | Weblog
 私の計算間違いがありました。先に、藤原保則は、今だ、備前の国司の任期途中に蝦夷の討伐に向かったと書きましたが、そうではなかったのです。
 それを、ちょっとしつこいようですが詳しく申し上げますと、保則が備中の国司に任ぜられたのは貞観8年です。それから貞観17年まで備中の、そして、その後備前の国主も兼ねたようです。そしてようやくその任が切れた貞観17年(877年)「秩満ちて京に帰る」とあります。蝦夷の反乱が起きるのは元慶元年(877年)です。そして、その2年に、保則は出羽の国司に任じられ、蝦夷との戦いが始められます。

 そんな保則のもうひとつの備前時代の、だから貞観17年の事です。エピソードとして言い伝わっていることがありますので、少々長くはなりましたが、お聞きください。

 「ある時、安芸の賊が、備後の国の調として国に納めなければならない「絹」四十匹(一匹=二反、一反は30cmと10mの着物一人分の布)を盗んで備前の石梨郡(今の和気の辺り)の旅館に泊まります。どうしてそんなことを訪ねたのかはわかりませんが、多分、備中から備前にかけて旅している間に、いろいろな人から国主保則の噂を聞いたのではないかと思います。賊は亭主に聞きます。
 「備前の国主は一体どんな人で、どんな政治をしていますか」
 と。すると、亭主が答えます。
 「はい左様でございます。わが国主様のなさっておられます政(まつりごと)は一口で申し上げますと「仁義」による政です。寛い心で人を見て、民を信じて、民に誤ちがあっても大概の事は許すような、おおらかな政治をしています。だから、人々もこの国主様の尊い御慈悲におすがりして、決して悪いことはしなくなり、恩義を感じてつつましやかに誠実を旨として暮らしており、誠に住みよい国になっております」
 続けて、亭主は、更に、言います。
 「その国主様の「仁義」あるお心は神にも通じていて、何か国に人々を悩ますような悪い出来事や災難でも起ころうものならば、たちまちのうちに、その神「吉備津彦命」がお出ましになり、悪事の基を断ち切って、悪を退治してくれるのです」
 と、説明します。
 安芸の賊は、その話を聞くと途端に顔色を失い、一晩中、自分はこれからどうなることかと心配で胸が塞がれ眠れず、大息ばかり吐いていたそうです。そして、暁になると、その宿を飛び出して、国府に駆けり込み、叩頭自首します。
 「自分は今までよい行いをしたことはありません。此の度も備後の国府の倉庫にあった「調」の官絹四〇匹を盗み出し、今、持っています。昨夜、旅館の亭主様からご領主さまの事を聞き、自分のこれまでの誤まちを改め罪に服しなくてはならないと思いました。どうぞ命だけはお助けください」
 それに対し、保則は
 「あいわかった。悔いを改め、罪に服す覚悟じゃな。許す」
 と、その盗賊の罪を、即刻、許したばかりでなく、いくばくかのお金まで与えて、
 「お前は今からは悪人ではない。今後は、決して悪いことはしない善人になる。これからお前は、ここを出て、その盗んだ物を備後の国府に持って行き、返しなさい。ここに添え条をつけておいてやったから、それと一緒に持っていきなさい。それで全部今までのお前の罪は消える。よいなわかったか」
 と、その盗賊を国府の外に放ったそうです。
 その時、備前の国府の役人たちは口々に
 「なんてバカな、あ奴はきっとそのまま、どこかへずらかるに違いない。なんて人がいい御屋形様だろう」
 と言ったという。
 それを聞いた保則は
 「彼は既に心を改め、誠に帰す。豈に更に変あらん」
 と言ったという。
 それから数日後、備後の国主「小野喬査」が、わざわざ備前にまで詣できて、その後の顛末を聞かせて拝謝し、その徳をたたえたという。彼の政治はことごとくこのようであったと伝えています。
 そこで改めて、備前の国の役人たちも人たちも、すべて国主様の偉大な力に感激して、いよいよ廉潔な暮らしに励んだということです
 人を見る目が確かなことです。この人を処するにはこうするのが最高なのだという方策を熟慮して事にあったのだそうです。
 法は法として、法以上の、他の人が決して真似ることのできない最高の統治能力を兼ね備えていた平安期の最高の為政者ではなかったかと思われます。人そのものを見て政治を行うことができた人であったと思えます。その後の歴史の中にもそんな偉大な政治家は一人たりとも見当たりません。
 そんな人を国司として迎えた備中備前の人は、一時ですが、僥倖な幸運をつかんだといっていいと思います。
 

吉備って知っている  95 藤原保則⑪

2009-01-30 11:43:36 | Weblog
 出羽の国に入ってから小野春風が、まず、やったことは、大胆にも自分ひとりで、蝦夷賊軍の中に入って行き、蝦夷の領袖たちに、今度新しい国司になって入国した保則の言葉を伝えるのです。
 「今の戦いは、前任の秋田城司の悪政に耐えかねての叛逆であり、今度、新しく来た国司は天皇の命に従って寛政(緩やかな政治)をします。どうかしばらく矛を収め、保則の政治がどんなものかを見てください」
 と。
 この大胆な春風の行動に大いに驚いたいたり感嘆したりした蝦夷の領袖たちは、それに応えるかのように、蝦夷の酒食を持って官軍を饗したのです。それから、そこにいた蝦夷の首領数十人と一緒に小野春風は出羽国府に藤原保則を訪ねます。その時、大勢いる蝦夷の首領の中に、2名の首領が加わってなかったのに保則は気がつき、
 「あなたたちの他にまだ2人の首領がいるはずだが、彼らは、この中にいないのでしょうか」
 と、詰問します。すると、蝦夷の酋長たちは「今しばらくお待ちください」と、言うのだそうです。
 その数日後、その時加わってなかった首長2人の首を持ってきます。天皇に統治されるのを快く思ってなかった蝦夷の首長もいたのです。それを保則は目ざとく厳しく見つけます。どのような結果、そんな事になったのかはわかりませんが、とにかくその2人の首を持ってきます。きっと保則の鋭い観察力に驚き、これ以上の反攻の難しさを悟った結果だろうと思います。
 そのようにして、しばらくすると津軽から渡島(北海道南部)までの多くの蝦夷の人たちが、いままでかって一度たりともそんなにやすやすと朝廷の命に従うことはなかったのですが、反乱が治まるのです。それだけ保則の統治が蝦夷に犯行を呼ぶ基いを与えなかったからではないでしょうか。

 備中における国司としての保則の政治は、それまでは国中に盗賊が横行していたが、しばらくすると、戸締りをしなくても安心して暮らせるようになったとしか書いていませんが、この出羽の国の働きぶりをみるとおおよそどのような政治をしたか予測がつきます。
 「徳」を中心として「悪」を憎む政治を心がけたのではないかと思えます。不正をただし仁政を施したのです。これが保則の政治の基本なのだと思います。不正を厳重に取締るからこそ、仁政(寛政)が生きてくるのです。悪が存在する世の中には寛政は育つことはないのです。その的確な判断を保則はできたのです。何が正で何か悪かを。その場その場で判断したのです。
 自分の使う役人の悪に対しても、どれなら許されるかどれなら許せないかと言うことを的確に判断して対処したからこそ、他の大勢の役人を統制出来たのです。誰でもすべて許したわけではありません。「これなら許せ」「これは許せない」ということを確実につかんで対処したのではと思えます。
 春風が連れてきた蝦夷の首長がたちが数十人も出羽の国府にきて保則と謁見しますが、その中に付き従わない2人の蝦夷の頭目がいることをどうして知ったのかも不思議な話です。よほど事前の情報網を広くに敷いていたのでなくては決してわかることではないと思えます。周到な事前の調査する組織も持っていたのではと思えます。
 そこら辺りの保則の戦略は、もしかしてあの吉備真備から出ているのでではと思えるのですが?。時代がちょっと離れすぎてはいますが、保則の曽祖父に当たる人が藤原種継(真備が右大臣の時の左大臣です)ですから、なんかそんな関係で書物か何かで知っていたのではないかと思われます。なお、真備は仲麻呂たちと一緒に行った遣唐使です。その時、唐で「孫氏の兵法」について相当勉強したと伝えられていますから、ふとそんなことが頭を衝いて出てきました。

吉備って知っている  94 藤原保則⑩

2009-01-29 15:48:00 | Weblog
 再び、保則は、摂政の藤原基経に申し出ます
 「出羽で仁政を施せば、朝廷の威信で多くの蝦夷は従いましょう。でも、何時までも今までの禍根から朝廷の威信に従わない蝦夷も、きっと多くいると思われます。それには兵威(武力)を以て当たらなければなりんせん。そこで「小野春風」を持ってして、朝廷の精兵を率いさせて鎮圧させようと思います。この小野春風はご存じないかも知れませんが、「驍勇(ぎょうゆう)-強くて勇猛な」な武人なのです。しかし、2、3年前人の「讒謗(ざんぼう)ーわるくち」によってその官を辞めさせられて、今、家に閉じこもっています。この人を使って、未だに従わないいくつかの蝦夷を取り押さえ、以後、寛政を出羽の国に敷けば数月の内に反乱は治まるでしょう」
 と。
 「基経大悦」と、書いてあります。
 そして、保則を正五位下右中弁・出羽権守にして、小野春風を鎮守将軍として出羽に派遣します。
 直ちに、「昼夜兼行」して出羽に向かいます。しかし、その道中の駅々で耳にする蝦夷の噂は、強靭なる蝦夷の戦いぶりだけです。朝廷の砦が次次々と襲われ、ことごとく敗れて、今は十幾人ぐらいの兵隊しか残っていないというのです。それを聞いて、保則の援軍の兵士は顔色を失い意気消沈するのです。しかし、保則は顔色の一つ変えずに平然として「略無畏憚之意」だったと書かれています。おおおよそ怖れはばかることがなかったというのです。いかに勇猛な人であったかということが分かります。
 あの貴族の藤原氏の中にあって、これだけの武勇を持っていたというのも何か不思議な感がします。

吉備って知っている  93 藤原保則⑨

2009-01-28 09:51:45 | Weblog
 まだまだ保則を続けます。というのも、この保則を調べていきますと、調べれば調べるほどその人物の面白さに出くわします。
 「三代実録」に、この保則と、当時朝廷で「飛ぶ鳥を落とす」と言われた摂政藤原基経とのやり取りが出ています。
 元慶二年(878)の出羽での蝦夷の反乱で、秋田城が焼き打ちされ朝廷の威信が全く失墜した時の事です。
 当時、右大臣の職にあった基経は、この反乱を憂慮して鎮撫のために白矢を立てたのが、備中の国司で名を上げていた同門の藤原保則です。密かに京に呼び寄せて言います。
 「蝦夷を討て」と。
  すると、保則は、即座に
 「お断りします。それはわが身が可愛いから言うのではありません。私みたいな若輩者が出向いて負けようものなら天皇の、国家の、朝廷の、いや藤原一門の恥になります」
 と。
 すると、基経は、さらに、つけ加えて
 「吾藤原一族は天智天皇の時より何時も天皇のために尽くしてまいったのだ。お前の家は代々朝廷の要職に就いている。この天下の一大事の時(内慙外懼)にこそ、お前の持てるその力を全部出しきって、国家のために働くべきである。いたずらに遠慮している場合ではありませんよ(願わくば智謀を尽して、飾譲〈遠慮するという意味〉を為すこと勿れ)」 と。
 そこまで言われた保則は
 「右大臣からそのように言われては仕方ありません、自信のありませんが、自分の愚計を使って全力を傾けて頑張ってみます。ご期待に添えるか分かりませんが」
 と答えたのだそうです。
 そこで、また、基経は誠に丁寧いに尋ねます。
 「そなたの対蝦夷に対する戦略戦術を聞かせてほしい」
 と。
 すると、保則は
 「蝦夷が、わが朝廷に従うようになってからようやく200年がたちます。最初は、この蝦夷も朝廷の威に畏れ服しており、反逆の心は決して持ってはいなかったのです。でも、聞くところによると、秋田城司は近頃重い税を課して容赦なく取り立てている(聚斂して厭することなし)と聞きます。あらゆる手段を講じて取りたてているそうです。 長年の、あまりの厳しい取り立てに、出羽の人々の怨みや怒りが積もりに積もり、沢山ある蝦夷族が総て一緒になって、数万と言う人々の反乱に広がったのだそうです。それだけ追い詰められた者の戦いですから、死をも覚悟した戦いになり、たとえあの坂上将軍であっても、この反乱を平らげることはできないでしょう。そんな反乱を収めるために、今、行うべきは、蝦夷の人々に善悪の判断する正しい方向(義方)を教え、朝廷の威信を示すことです、そんなに多くの兵力を遣わずに、この評判を聞いて反乱は瞬く間に鎮圧できると思います」
 と。それを聞いて基経は、ただ「善し」とのみ応える。
 さらに、保則は付け加えます。

 また少しばかり長くなりましたので、続きは明日にでも。
 

吉備って知っている  92 藤原保則⑧

2009-01-27 11:22:34 | Weblog
 ちょっとしつこいようですが保則の蝦夷征伐について書きます。
 本朝通鑑いはたった4文字で「討出羽賊」とあるだけですが「日本王代一覧」によると保則によるこの蝦夷征伐について、もう少し詳しく、書いていますので説明します。

 陽成天皇の元慶二年、出羽国の夷賊千人余りが秋田城(城と言っても朝廷方のあのアメリカの西部劇に出てくるような簡単な木の柵などで設えた砦と言った方が正しいのかも知れませんが)を焼き壊しています。この戦いで朝廷方の兵士500人ぐらいが殺されています。将にあのインデアンと白人の騎兵隊との戦いそのものです。西部劇ではありません。日本の東部劇です。
 官軍は、その後も出羽の各地に設置している小さな砦での戦いにもうち続いて打ち負かさ、反乱は収まるどころか、いよいよ風雲急を告げてきます。
 そんな所に、5月に、備中での戦乱平定の実績を重くみた朝廷は、藤原保則を出羽に遣わします。7月に出羽の国に着いた保則は、どう戦術を組み立てたのかは書いてはいませんが、兎も角も賊を討って小利を得るのです。しかし、蝦夷は津軽などに一杯いてなかなか打ち破ることができません。それらの夷賊と保則は半年渡って戦い、ついに3年の正月に降参させ、出羽の国もようやく無事になったと伝えてきたとあります。
 出羽の反乱に対処するにも、その保則の政治の信念である備中の国司になって民に施したと同じ「専ら仁恵を以って之を化す」を忘れなかったようです。だからこそあれほど長年に渡って続けられていた戦いも無事になったのだと思います
 

吉備って知っている  91 藤原保則⑦

2009-01-26 17:15:13 | Weblog
 備中の国司になった「藤原保則」と言う人が、歴史的にどう記述されているのだろうかと、例の「本朝通鑑」を紐解くと、この中に保則の記事が一か所ですが見つかりました。
 保則の伝記(大日本記)によると、備中の国司なったのは貞観八年で、少なくともそれ以後十七年間、備中備前の国司を務めているようになっていますが、「本朝通鑑」には、保則は国司になった年より十二年目の元慶二年に「それまでさんざんに手を焼いていた出羽の国の賊を討つ」と、あります。
 その記事が正しいなら、その伝記とつなぎ合わせてみると、奥州の蝦夷を征伐して帰って、保則は、再度、備前備中の国司に任じられて、更に、五年間も政務を司っています。
 このように、任期途中で、備中の国司を解任されて、出羽の国の反乱を鎮圧するため「右中辨」に任命されて奥州に派遣されるのは、やはり保則のそれまでの備中における政治が「その類を見ない」と、中央に認められていたためではないかと思われます。
 なお、桓武天皇の時代から、この蝦夷ではしばしば反乱が起き、朝廷でも相当手を焼いていたのは事実です。坂上田村麻呂を遣わしたのですが、その後も反乱はやむことはなかったのです。
 その蝦夷を平定するために、それまでは、ただ、朝廷の「武力」だけを持って鎮圧していましたが、一時的な鎮圧となっても、しばらくすると、また、あちらこちらから反乱の火の粉が舞いあがります。沈静したかのように思っていても、しばらくするとまた別の火の手が上がります。決して根本的な和平の解決への道はなかったのです。
 そこで考えられたのが、あのオバマさんのような価値観の転換です。即ち、人民の心を根本的に変える施策を取ることなのです。その方法として取り上げられたのが、保則の考えた「吉備津神社」方式です。即ち、お上と人々が祭る共通の神を作りあげて、それを敬うことです。「神」を仲立ちとして人民を融和する方法です。
 そこで、延喜式の「名神大」のお宮さんを奥州にたくさん作ったのです。
 吉備津神社など吉備の国にも三社しかないのですが、驚くことに陸奥国には「一五社」、出羽国には「二社」も設置します。
 奥州の土地々の神々を「天皇」も敬う証しが「名神大」の神社だということを人々に知らせて、天皇と人民を融和させようとしたのです。これらは総て保則が実施した備中の国での経験から生まれ出たものではないかと思われます。
 
 こんなことを考えてみると、この保則と言う人の人物としての大きさがわかります。それだからこそ34年の借金が11年で返せるのです。
 
 こんな人が今から1,200年も前に、この吉備の国で活躍していたかと思うと何かしら吉備人として誇らしげに感じられます。

吉備って知っている  90 藤原保則6

2009-01-25 13:00:34 | Weblog
 藤原保則が備中の国司として下野してきたのは貞観8年(867年)です。当時の国は荒れ果てて(丘墟)、村里には働き手はほどんどよその国に逃げていて、物寂しく(蕭条)さびれてしまっていました。黒澤さんの「七人の侍」よりもっとひどい所でした。なにせ働ける人はいないのですから。いても子供と女と年寄りだけと言った状態だったようです(単丁ある無し)
 そんなどうしようもない国をこの保則はまたたく間に立て直したのです。物の本によると、保則は「施すに寛政を以てし、小過を宥し、大体を存す。徒隷を放散して綏撫賑恤す。農桑を勧め、遊費を禁ず」と書いてあるだけで、実際どん政策をしたのか詳しくは書いていません。綏撫賑恤(すいぶしんじゅつ)とは、いたわって救う、という意味の言葉だそうです。
 これだけの言葉から彼のとった政策を考えてみました。
 1、働く場所を提供する。
 2、食べ物や住居を確保する。
 3、治安を安定させる。
 4、心の安寧を与える。
 まず1、ですが、考えられるのは、新田開発をして人々に働く場の提供したのではないかと考えられます。そして、それに伴う河川改修や道路の設置、灌漑用のダムなどの大がかりな土木工事も必要になります。雇用の場がどんどんと広がり、人々の暮らしもそれだけ豊かになってきます。今、当時の記録は何にひとつ残っていないのですが、十分想像がつきます。でなかったら、43年間たまっていた国への借財を、どうして11年間で返抄できるものですか。租税が何倍も急激に増えて初めてそれが可能になるのです。それには耕地の増加しか考えることができないからです。
 労働の対価として賃金の支払いは、また、生活の安定へとつながります。すると物の需要が高まり、供給量も増加し、働く場も広範に広がり、衣食住が安定します。人々の安心した生活はすべては雇用の安定から始まるのです。それが経済の鉄則なのです。その経済学を保則は熟知していたのだと思います、もし当時ノーベル賞があったなら必ずや経済賞を頂いているのではないかとも思います。あのルーズベルトがやったニューディール政策の先駆けです。「列島改造論」をひっさげて登場した田中角栄ばりの農政を行ったのです。ちょっとばかり違っているのはロッキード事件が彼にはありませんでした。これも歴史に残ってないのですから分からないのですが、最後まで身ぎれいな政治家だったようです。
 そして、彼がやったと思われる、この他ですごいことは、国の警察力を整備したのではないかということです。
 戦術を熟知していたのではと思える歴史的事実があります。軍事力を養うと国の治安はほっといても回復します。今イラクで試されようとしています。アメリカ軍では不可能でも、イラク人だけならそんなに懸念することでなく、案外簡単なイラクの治安は回復しするのではとも考えられます。
 どんな方法を保則はとったのかは知りませんが、前の国司朝野氏の時には、あれほど群盗がおおっぴらに横行して乱れに乱れていた国が、この時代になると人々は「夜、門を扄(とざさ)ず」の生活ができるようになったのです。
 いかに保則の政治が素晴らしかったということがわかります。
 そこら辺りのことはまた明日にでも。

吉備って知っている  89 藤原保則⑤

2009-01-24 10:43:41 | Weblog
 この保則は、又、神を深く敬ったのだそうです。
 次のように書かれています。

 「備前、備中の境目に吉備津彦神あり。国に水旱干あれば、即ち自ら往きて之を祈る。必ず観応を致す。もし境中(備中の国)に姦(禍)あれば神必ず之を罰す。神甞(かっ)て形を見はして語りて曰く、『公の徳化に感ず、こいながわくば公の冶を為すを助け、この善積(徳政)を終らしめん』
 と。
 是によって、両国(備中と備前)を治化し年荐(しきり)に豊穣し百姓和楽す」

 吉備津宮も保則の政治を助けたもうたと言うのです。

 当時の政治は、今と違って、その重要な部分は天地の神々を祭る「神祗」というものに重きがおかれていました。特に10世紀の初めに決められた延喜式神名帳に記載された神社を「式内社」と呼ばれ、朝廷から官社として認識されていた神社でした。県内にも55社があります。これらの神社では毎年の祈年(きねん)祭(毎年二月四日)に、朝廷からの使者から直接に幣帛を受け、その一年の豊穣を祈願したのです。その中で、古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社があります。古代社格制度における大社(官幣大社)に列しているので、「名神大社」とも、「名神大(みょうじんだい)」とも呼ばれている神社があります。  調べてみると吉備の国では、備前の安仁神社、備中の吉備津神社、美作の中山神社の3社しかありません。備後にはありません。それにしてもあれほど古代から勢力を持っていた吉備の国にどうして3社しかなかったのか不思議です。大和には29、摂津には9、近江には10、隠岐にさへ3つもあるのにです。
 まあ兎に角として、国司として備中にやってきた「藤原保則」が、名神大吉備津神社を大変に大切に敬慕したのは、人々の心を和らげるに最も大きな作用を及ぼしたものであると想像がつきます。
 彼は、それまでに持っていた国民の国司に対する不信感と言うかそんなな感情を和らげ、「今度の国司は前の国司とは全然違う、信頼してもいい」という気持ちを住民にもたせる掌握方法を熟知していたのではないかと思えます。国司である支配者の自分と被支配者の国民の共通の「神」に対する尊崇と言う手段を使ったのです。
 神、吉備津彦命が姿を見せて保則に語ったというのも、その辺の保則の住民掌握の演出ではなかったかと思われます。
 あたかも、オバマが語ったリンカーンと同じ効果を使ったのではと思います。
 当時は国民に伝える国司の報道手段はごくごく限られた範囲にしか働きません。人の口から口だけの手段しかありません。識字能力も0に近い時代ですから、想像以上に、その効果が大きく深く広くゆったりと大波のように国中を、それもあまり時間をかけずに急激に駆け巡って行ったように思えて仕方なりません。
 口から口へと言う手段は、尾鰭羽鰭がくっついて、時としては話に真実味が一段と増してくるものでもあるのです。そんな事をも計算に入れてやったことではないかもしれませんが、国司としては最高の人を当時の備中国の人々は偶然にも享受したのでした。
 

吉備って知っている  88 藤原保則④

2009-01-23 20:52:49 | Weblog
 保則の話をもう2、3回聞いて頂きたいと思います。
 オバマ新大統領ほどの汎世界的な注目はなかったにせよ、平安初期の備中の人たちは、それはそれはそれまで見たことも聞いたこともないような「仁政」に出会うのです。民主主義なんて言葉のひとかけらもないような時代にです。自分のことよりまず人民のことを考えてまつりごとを行ったのです。その業績を考えればオバマ以上の人物だったかもしれません。今、日本に生きているとするならば、どれほどの施策を打ち出したのかとも思えます。
 この藤原保則と言う人は、今は、歴史の中に完全に埋もれてしまって、誰の口にも決して上らないような忘れ去られてしまっている人ですが、こんな人が、それも、都からです。藤原氏からです。「藤原氏」しか人ではないと考えていた都の「藤原氏」の一人として備中にやってきます。
 人々は国司とは、貴族とはこんなものだろうと誰もが考えていたのですが。この人は違ったのです。国の人の驚きは目を見張ったのではないかと思います。ことあるごとに「なぜどうして」と言う思いがあったことは確かです。
 その藤原保則の国司としての政治は、自分一人の損得を忘れ、それこそ、オバマが言ったリンカーンの「人民のため」の政治をしたのです。リンカーンの生まれる1000年も前の人なのです。驚きの政治家です。当時の人が驚いて、どう保則の政治と立ち向かえばよいか随分迷ったのではないかと想像がつきます。
 
 岡山の人であっても、こんな人が今から1200年も前に、岡山で政治をしていたなんてことは知る人が、さびしい限りですが、ほとんどいないのです。

 彼のエピソードを一つ紹介してみます。

 ある時備中の国府の役人で、ご多分にもれず、今でもしばしば見られるのですか、公金をちょろまかして私腹を肥やしていた男がいたそうです。それを知った国司としての保則は、そのお役人を、ものの本には「竊(ひそ)かに」と書かれています、呼んで語って諭したのだそうです。
 「あなたは長年の間、官吏として精を出して励んでくれた(廉節)。そして親や子供を育てきた。しかし、ついこの世の穢れの中に飲み込まれてしまった。これも全て貧しさが故である」
 書物には、ちょっと難しくてその意味が私には分からないのですが次のように書かれています。
 「是れ皆貧窶(ひんく)の憂にして善人を覊累(きるい)する」と。
 それから、保則はいくらかのお金をその役人に与え、
 「以後、決して公のものには手を付けるな」
 と、強く戒めてその罪を密かに許したとあります。

 国民からだけでなく役人からも、この国司のためなばと大いに信頼を得てこの国が俄かに栄えていったと伝えられています。
 「国の父母」と称えられたそうです。

オバマ大統領、価値観の転換を訴える。

2009-01-22 21:57:09 | Weblog
 
        
 
 今日の朝刊の新聞写真です。
 新大統領の記事でいっぱいですが、その中にこんな寂しげな写真が目につきました。去りゆく者の寂しさでしょうか悲哀までもが一枚の写真の中に見出されました。
 写しだされた人の心までもが、私にまで響いてきました。自分の大統領としての8年という歳月はいったいなんだったのであろうかというブッシュの心がにじみ出ています。こんな心が 今までに彼にもあったのだろうかと一瞬思いました。
 「写真は人の心を写す」ということは今まで聞いていましたが、こんなにはっきりと描き出されたのを見たのは初めてです。
 今までの自負心がまだこの時に彼の心に残っていたのでしょうか。満足感では決してなかったと言う顔のように思えます。去りゆく人の寂しげな顔ではないと思えます。8年間の苦渋の心が、この写真の中に滲みだしているように見えました。アメリカ大統領の自分と言う一個人が作り上げた、まさに「人間の思わく、いや悲哀かも知れません」が込められているとおもいます。 
 人とは、いや、もっと大きく地球とは、いや宇宙とは、といった思いに駆られます。
 本当に写真って面白いものですね。

 それにしてもアメリカと言う国はなんて大きいのでしょう。日本はどうでしょうか。足元にも及ばないように私には思えて仕方ありませんでした。
 この国には決してオバマ氏は生まれないのではとも思います。
 こんなオバマ氏と比較はできませんが、藤原保則の政治もこのオバマ氏とちょっと似ているのではないかと思われるようなところが、規模や方法は異なってはいますが、あるように思えます。
 それまで続いた今までの政治体制とは何かしら別の、誰もが思いつかなかったような、価値観の転換があるように思われます。

 次の言葉は、昨日演説したオバマ氏のことばです。ちょっと長いのですがここに書いてみます。

 “私たちの挑戦は新しいものかも知れない。立ち向かう手段も新しいものかも知れない。だが、成否を左右する価値観は、勤労と誠実さ、勇気と公正さ、寛容と好奇心、忠誠と愛国心、といたったのもだ。これらは古くから変わらない。そしてこれらは真理だ。私たちの歴史を通じて、これからは前に進む静かな力となってきた。必要なのは、こうした真理に立ち返ることだ。・・・・・・”
 
 たった150字にも満たない言葉で堂々と、人間のこれからのあるべき姿を歌い上げています。

 相当深みのある、玄人向きの演説であったと、ある評論家は言っていますが、アメリカの人だけでなく、全世界の人に向って、人々の持つこれまでの価値観の転換を訴えているようでもありました。
 

吉備って知っている  87 藤原保則③

2009-01-21 18:11:30 | Weblog
 さて、再び、藤原保則について続けます。
 前守 朝野貞吉の「まつりごと」があまりにも苛刻なため国民は疲弊し切っていました。そんな状態の中に藤原保則は赴任します。
 備中の国に入った途端、道には生き倒れの人で溢れています。「僵戸路を塞ぐ」と書かれてあります。
 備中に国司(備中権介)として「藤原保則」は、そんな見るも悲惨な状態の中へ入ってきます。
 彼が入国してまず最初やった事は、道路にまで満ち溢れている浮浪者の飢えを救うことから始めます。と同時に、牢獄につながれていた無数の因徒を解き放ち釈放します。
 そして、備中の氏神である吉備津神社に参り、自分の国司としての政治の目的を「寛政」すなわち、のんびりとした広い心でゆったりと政治をしようと神に誓います。
 「小さな誤ちは誰にでもあるのだから大目に見て、大所から物を見たまつりごとを行う」
 と決めたのです。
 国民には「綏撫(すいぶ)・賑恤(しんじゅつ)」政策を施しました。これは、国民か安心してくらせるようにいと一人一人を大切にする政治をするというのです。働く環境を整えてやることから始めます。要するに、貧をなくするためにの政治を行うのです。
 これまでは苛刻な税や労役などのため農民は、それまで持っていた自分の田畑を捨てて逃げて(逃散)、村に男たちがいなくなってしまっていました。
 それが保則の政治が始まると、その寛政を聞きつけて、それまで村から逃散していた百姓が、後から後からと列を連ねるようにして、自分たちの村々に帰ってきたのです。
 あれほど物淋しかった。蕭条(しょうじょう)としていた村々に人影が増え、活気が戻り、田畑が耕され、盗賊がいなくなって、夜になったも戸口に鍵をしなくても安全に暮らしてゆけるようにななったのだすです。
 安心して農作業に精出すものですから、数年の内に租税もきちんと納められるようになり、次第に村は豊になって来たのです。そうなると国の力も強くなり租税としての米も倉庫に満ち満ちてきます。それまで、貧しかったため国に対する租税の納入が、34年も滞ってきていたのですが、保則は、実に、11年で全部返還しています。
 「古より以来、未だ甞て此の類あらざる也」と書かれています。稀有なことだったらしいのです。
 まだまだ保則の功績は続きます。

お正月をもう少々②

2009-01-19 20:24:49 | Weblog
 明日は一月二十日です。きまりきったことです。今日では、「それって何ですか」と聞き返されるだけです。当たり前のことですが、それくらいの普通の日なのです。
 でも、私が子供のころは、この日は特別な日なのです。と、言いますのは、明日は「ハツカショウガツ」なのです。正月の最後の日と言うより、今年食べるお雑煮の最後の日なのです。
 といっても、我が家みたいな非農家では、そんなに一俵もそれ以上もお餅を搗けるわけがありません。大体、15日の「とんど焼き」の時に、床の間などに飾ってあったお鏡餅を焼いて、それが今年のお餅の最後だったのです。この日までお雑煮にする普通の丸餅があるのが我が家では不思議なのです。
 まあ、普通の百姓でも、20日までお餅が残っている家はそんなにわが村でも沢山はなかったと思いますが。
 それはともかくとして、この「はつかしょうがつ」が、今年の雑煮の食べ終わりなのです。この日を境にして正月気分が一新されて、また、普通の生活にも戻る日だとされていました。
 だから、この「はつかしょうがつ」の朝は私にとってはあまり面白い朝ではありませんでした。だって、友達が
 「今朝雑煮を6個食べた」
 と、言って話しています。その会話の中に私だけが入っていけないのです。後になって聞いた話だと、この日の朝に雑煮を食べてきた友達はそんなには多くはなかったようでした。でも、この「はつかしょうがつ」の日が小学生の私にとって、一年で一番嫌な日であったように思えました。
 当時の小学校では給食はなく、みんな弁当を持参していました。教室の隅がどこかに置いてあった弁当抜くめから匂ってくる焼餅の香ばしいにおいがたまらなく嫌でした。でも、たまにです、大百姓の子が「ひとつやらあ」と言って彼の持ってきたお餅の内から一つを私の弁当のふたの上に置いてくれることばあります。この僥倖にあずかった時のうれしさといったらなかったと、いまでも顔がぼっと火照るような思いがします。

吉備って知っている  86 藤原保則②

2009-01-18 19:58:40 | Weblog
 貞観八年(866年)に備中権介になった「藤原保則」は、国司として備中の国府(今の総社市金井戸付近だと言われていますがはっきりとした位置はいまだに不明です)に下って来ます。
 この時代の備中はと言えば、旱(ひで)りのために農作物はできず、道には生き倒れの人がどこまでも満ち溢れ、盗賊が横行し村里は極度の疲労困憊に陥っていました。
 この藤原保則の前の国司の名も分かっています。「朝野貞吉」と言う人です。
 この人の政治は、苛刻な政治をすることで国が治まると思っていました、強権こそが政治の根本だと考え、徹底的な法治政治を遂行しました。その一方では随分と私腹も肥やしていたらしいとも言われています。
 「地方の小役人に何ができるのだ」と郡司等の部下を信用せず小馬鹿にして、厳しく取り締まることにより、法が施工でき、立派に政治できると信じていました。 もし自分が使っている国府の役人がごくわずかな罪でも犯そうものなら、たちまちに、鉗(かん)釱(てい)-くびかせ、あしかせーの刑に処したのだそうです。全く部下を信頼するという事はなかったのです。また、里人に対しても、彼らがほんのわずかな(繊毫)の過ちを犯しても厳しく取り締まり、罰します。そのため、捕らわれた人がいっぱいで、何時も牢獄は満員だったと言われています
 密告が横行し、人々はお互いに疑心暗鬼になり隣同士仲良くなるということはなく、国中の者がいつも周りに気をとらわれながら汲汲とした生活をしなければならないような、心安くして平和に暮らすなどと言うことは望むべきもあらずという状態だったのです。
 常に周りにばかり目を向けたぎくしゃくとした生活を強いられていました。だから、例え親子でもその本心は決して見せてなならない、本当にいやらしい世の中だったそうです。その上、天変地変も加わり、この藤原保則が国司としてこの国に来るまでは、備中の人々は過酷な生活を強いられていたのです。 

吉備って知っている  85 藤原保則

2009-01-17 14:59:24 | Weblog
  「藤原保則」という人は、和気清麻呂とともに「平安遷都」に深く関わった、当時の右大臣藤原継縄のひい孫に当たる人だそうです。この保則は、吉備の国とは、今まで、全然、関わりがないとばかり思っていたのですが、詳しく歴史を探っていけば、思わぬところから、まんざら全然関係がないこともなく妙なところで繋がっていていることがわかり、ちょっと驚いてもいます。
  
 また例によって、横道にそれるのですが、この時代をちょっと説明しておきます。
 百人一首の「筑波嶺の みねより落つる みなの川 こひぞ積もりて淵となりぬる」を詠まれた陽成天皇の時代です。この天皇は、そのご乱交がたたり摂政「藤原基経」によって光孝天皇に皇位を譲らされたと言われます。この天皇の母は、あの伊勢物語に出てくる「高子」です。
 “月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして”の業平が通って行った女性です。

 京の都では藤原氏の摂関政治が始まり、貴族達がはではでしい遊び中心の雅な生活にうつつを抜かし始めた頃です。そんな都の雅とは打って変わった鄙の備中地方の政治に携わった一貴族のお話です。

 貞観8年に藤原保則が備中権介に任命され、国司として備中の国に下ってきます。
 当時の多くの国司は、その任期中に沢山の私財を貯え、私腹を肥やしていたのだそうです。まあ言ってみれば悪徳国司ですが、これが当時の国司の普通の姿だったそうです
 この保則が、国司として赴任した備中でも、国衙が置かれた国府(総社市金井戸付近と言われております)から遠く離れた英賀・哲多二郡(新見市や高梁市の一部)では、人々が人のものを脅かしてかすめ取ったり、また、相手を平気で殺したりしていました。村里は荒れ果て、働き盛りの者は村から逃げてしまい、さびれてしまっていたのだそうです。 又、そんなに国府から離れていない所でも、山賊や海賊などの群盗がはびこり、村人を困らせていたのだそうです。将に黒沢明の「7人の侍」の通りの世の中であったと、当時の記録書の中に残っているそうです。
 「群盗公行し邑里蕭条たり」と難しい言葉で書いてあります。
 
 こんな状態の備中に、国司になって藤原保則は赴任してきます。