私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

妹尾兼康の戦死について

2006-08-28 23:43:22 | Weblog
 8月25日に取り上げた妹尾兼康の戦いについて。
 兼康は平家方の武将として活躍したことが、平家物語等に書かれています。
 それによりますと、北陸倶利加羅峠での戦いで、兼康は木曽軍の倉満(他書曰、光)次郎成澄に生け捕りになる。
が、木曽義仲は
「この剛なるもの首取ること惜しい」
 と、次郎の弟三郎成氏に身を預ける。それには、今井の四郎らは即刻打ち首にすべきだと主張したが、最後まで義仲が許さなかったという。 
 この兼康,人付き合いもよく、心遣いも優しく、情け深い男であった。
ある時、成氏に言う。
「私の生まれた備中の妹尾は立派な馬の放牧地があり、馬がたくさん飼うことが出来ます」と
 それを信じた木曽殿はこれから攻め上る、未知なる西国で格好の自分に味方してくれる土地になるだろうと大いに喜ぶ。
 成氏は兼康と三十騎ばかりの兵を連れて妹尾へ下る。
 途中、播磨の姫路を過ぎ船坂峠を越え,山陽道三石宿で、一夜の宿を取る。そこで木曽軍の兵士に「慰労する」とて、さんざん酒を飲まして泥酔させ、成氏を始めほとんどの兵士を殺してまう。
 そして、備前の福林寺畷に溝幅二丈、柵二丈の城を構えて、立てこもる。
 この兼康の裏切りを知り、立腹した義仲は今井の四郎、宮崎三郎、海野、望月、諏訪、藤沢などの一騎当千のつわものども三千余騎を差し向ける。木曽軍の兵士どもはこの城に「甲のしころを傾け、おめき叫んで攻め入りたり」とあり。
 そうして、いとも簡単に城は打ち破られてる。兼康たちは備中の板倉川の傍にある板倉城(かい楯を並べただけの簡単な陣地であったと言う)へ引き下がる。この場所詳らかにせず。私考;栄西が生まれたとされている賀陽氏の館ではないかとされている岡山市川入りの高台辺りではないか?)
 そこへ今井の四郎らの木曽軍が攻め込んで、お互いに弓矢で応戦し合う。兼康の矢種が尽き、力及ばずこれまでと思い、我先に逃げ行く。その時、兼康主従は3騎のみであった。緑山(この山は何処にあるかは不明。鼓山かも。又、総社市三須にありとも)に逃れ行き、そこから、兼康郎党と板倉川を渡る。(この場所は、今の岡山市高塚と総社市赤浜の間であると)その馬を見た、北陸で兼康を生け捕りにした倉満成澄が、今度こそ、「にっくき兼康め、弟成氏のあだ討ち」とばかりに、只一騎で、兼康を追う。
 「敵に後ろを見せるとは卑怯なり、かえせかえせ」
と大声で声をかける。
 「卑怯なり」聞いた、兼康もつわもの。川中で成満を待ち構え、「オオたり」と決戦を挑むる。
 両者、刀・やなぐいを放り捨て、無手にて組てして戦う。力は互角なり、お互いに上になり下になりして川岸にまで至る。そこに大いなる淵があり、二人は組み合ったままその淵に入り込む。悲しいかな倉満は山家育ち水練なく、一方兼康は水練の達人にて、ついに倉満は打たれる。
 兼康の嫡子小太郎宗康は歳は20歳なれど肥太りて走ることは出来ないので、見捨てて二丁ばかり落ち延びる。
 しかし、そこで兼康郎等に言う。 
「そんな息子をおめおめと捨て置き、己のみが逃げるとは末代までの物笑いになること間違いなし。私は齢六十余りで、後いくらほど生きられようか。今まで平氏の武将として、これまで数々の軍功を打ち立ててきた。今ここで一人の子を見殺しにしたと、謗りされる事間違いなし。今までの軍功が無と消え去る。それが口惜しい。この際、思い切って、小太郎と一緒に敵と戦って一生を終えたい」
 と。、道の小陰に隠れ伏している小太郎のところまで引き返す。
小太郎泪を打ち流し、
「どうか私を置いて逃げ延びたまえ。もし、私のために父上の御命、ここにて落とされたとあれば、わたしは、『五逆罪』になる、どうぞ私を置いて、とく落ち延びたまえ」
 と訴えるも、兼康、
「思い立ってのことなる」
 と、その場に休み居る。
 そこへ、源氏の五十騎ばかりの荒手が押し寄せる。
 もうこれまでと覚悟をした兼康は残しておいた八筋の矢を、さしつめ引詰め、散々に、生死は知らずにやにはに打ち放し、敵の八騎を射落とす、後は刀を抜き、まず、小太郎の首を刎ね、次に敵の中に打ち入り、散々に戦い、敵を多数討ち取り、その場で討死する。郎党も十分な戦いを見せたが、深手をおい敵に生け捕りにされるが、中一日後に死す。
 この3人の首は備中の「鷺の森」に懸けたということである。
 なお、この兼康の墓とされるのが、現在、鯉山小学校の脇にある。ここはもと「陶山道勝寺」があったとされるところです。陶山道勝つという人が、この兼康を宮内に葬り寺を建てたるという。でも、実際は、当時この辺りは『吉備の穴海』という海にて、この場所に墓を立てるということは不可能であったらしい。

 800年も昔の事にて、今はただ、諸論だけが、ぷんぷんと伝説として言い伝えられているのです。


どんな生き物?

2006-08-25 19:22:07 | Weblog
 どうせ見えるなら、何がいいかなと、しばらく考えました。

 まず、宇宙人です。かって「ヒバゴン」という正体不明の動物が話題になったけ。雪男も面白いな。火星人はいないし、本当に見たい動物、何がいいかな。この頃一寸影が薄い「ライオン○」でもいかがかな。
 ○は○かな?

 

板倉大橋 その2

2006-08-25 18:57:26 | Weblog

  再び板倉橋について、書いてみます。
 この橋の名前が、次に、歴史の中で取り上げられたのが平家物語の妹尾兼康です。その子と一緒に、木曽義仲の軍に敗れて討死したのか,この板倉川のほとりにあった板倉城であったと、書かれています。
 それから約150年後の、楠正成などが活躍する太平記にも出ています。

 太平記によると、倉敷市と総社市との堺に「福山」と言う海抜250mの山があります。
 この山で足利義直の軍三十万騎と後醍醐天皇方の大江田大輔、紀伊常陸、合田以下二万騎の戦さがありました。義直の大群はこの山を取り囲み戦を仕掛けました。この福山城は、四方が急峻な崖や谷に囲まれ、自然の要塞であり防御にはうってつけの城であったと言う。
 城に篭城しても勝ち目はないと悟った大江田大輔らは屈強の兵士千騎でもって、城を出て、播磨と備前の境にある三石にいる新田義貞らの軍に合流しようと、五月十五日の宵闇を利用してして、打って出るのでした。
 一方、義直の軍も「さもあらんと」、警護をおさおさ怠りなく見張っていたので、直ぐこれを見破り。戦と相成ったのです。
 大輔も、「二引両の旗?」のある義直の陣目指して打ち込み、激しい戦いがこの板倉辺りで展開されました。が、多勢に無勢です。
 板倉の橋から唐皮辺りまで十余度戦が戦わされたと、この記
には書かれています。しかし、大輔は3っ日後の十八日に、目的の三石の宿までたどり着いています。
 この板倉橋周辺での戦いで、大江田軍の捕虜、討死者は1352人だと記しています。
 義直は、この勝利を報告に、吉備津神社にお参りしようとしたのですが、多くの死人や怪我人をだし、「触穢の憚ある」と願書だけを奉納して、「翌十九日に唐皮を立給う」とあります。

 なお、吉備津神社は応永年間(1425)、再建され現在に至っているのですが、将軍義満が造営の「規式始」をしたと伝えられてるが、案外この義直の願書が大いに影響したとも考えられます。
 尚、余談ですが、備中国分寺尼寺は、この戦に巻き込まれて全部焼失してしまったということです。

       


岡山弁って、知っている

2006-08-24 15:30:29 | Weblog

 「おえりゃあせんのう」と言う言葉が、テレビに登場するようになってから、岡山弁に感心を御持ちの方が増えたのではないかと思います。 この前、この欄に「殿様の通信簿」の磯田道史さんのお話を載せましたが、再び、岡山弁についてかきます。次に挙げたような岡山弁は、吉備津周辺では日常生活の中に入り込んで、一般化しているようです。                      さて、岡山弁の検定なるものがあるそうです。 そこのテストに次ぎのような問題がありました。 皆さんは、はたして、何問正解できますか?      

   「岡 山 弁」検定検査                        1.はなしゃーわかる  
2.いろがしろけりゃーびじんなんじゃけど   
3.やすけりゃーかおー       
4.こねーなときーうるとらまんがおりゃーなー  
5.かのじょがおりゃーえーのに   
6.はよーれぽーとーださにゃー         
7.どねーすりゃーえーん      
8.あねーなえーが、でーがみりゃー       
9.みりゃーみるほどえーおとこ 
10.そねーなおとことでーがつきあやー   │      
        


旧山陽道 板倉宿

2006-08-21 21:26:41 | Weblog

   

  再び板倉宿について 

 この宿場が出来たのは16世紀の終わり頃だということです。 それまでは、一宮の辛川市場に宿場があり、そこが、この辺りの中心の宿場であったようです、が、天正7年に毛利方の焼き打ちにあって以降衰退したと言う事です。 
 その後、天正20年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、花房道悦と言う人が休憩所として茶屋を作ったのが、この板倉宿の始まりだと言われています。 昔から、この板倉から辛川にかけては、多くの戦いが繰り広げられました。それだけ交通の要所(要の地)でもあったと言う事です。妹尾兼康等の武将の戦いが多く言い伝えられています。 

 板倉宿の仕組みについてですが、それを語る本陣跡等の施設は何も残ってはいません。わずかに、昔を語るのは文献だけがあります。 
 それによりますと、本陣と脇本陣、馬継の宿、目代所があり、そこで御役百姓(162人が交代で)とよばれた人たちによって運営されたそうです。
 旅籠70軒茶屋(料亭)も相当の数に上ったと言う事です。飯盛女といわれたうかれ女も一軒当たり10人程度置く事が許されていたそうでした。
 また。相当数のやくざと呼ばれた渡世人もいて、この宿場を取り仕切っていたようでした。 
 この板倉宿は、隣の宮内の遊興街と並んで山陽道随一の花街であったようです。

 岡田屋熊治郎らがこの界隈で活躍した話しも随所に後を留めています。
 なお、この岡田屋さんは宮内の人です。それは又何時かに。      

 


吉備津の夏祭り

2006-08-20 14:18:01 | Weblog

 吉備津の夏祭り
 7月31日、いわゆる「輪くぐりさま」です。
本来は「夏越の祓」で、陰暦の6月30日に逝く夏を惜しむためのお祈りの行事だったのですが、今では、夏を迎えるための行事に変わったのです。
 家隆の
    風そよぐ ならの小川の ゆうぐれは
               みそぎぞ夏のしるしなりけり
 京都の上賀茂神社の行事が、いつのまにか日本各地に広がって行ったそうです。

 我、吉備津神社でも例外ではありません。町中の人かお参りに来て、萱輪をくぐって、この夏の健康を祈願します。
 このお祭りに合わせて、広場で踊りが披露されるのです。
その踊りが、県の無形文化財に指定されている「宮内おどり」です。
 この踊りは、宝暦年間に(18世紀中頃)に上方から、興行に宮内に来ていた(ここは山陽道随一の花街だったそうです)千両役者、三枡大五郎と言う人が振りつけたものだと言い伝えられています。「なんばん六法」崩しの踊り方が取り入れられているそうです。
 この踊りは、最初はお座敷踊りだったのが、盆踊り形式に変化していってきたそうです。だからかもしれませんが、踊りの手足など体全体の動きに優雅さが、そこはかとなく漂い、なんとなく哀愁を帯びた、細谷川のさやけさにも似た、あるかなしかの物静かな雰囲気を醸し出してくれます。
 現在は、この踊りの保存会も出来、大勢の町人が参加して、大いなる賑わいを見せています。

 この夏祭りには、毎年欠がさず参加しています。私は見る阿呆に徹しています。
  「さやけさのある優雅さがなかなか表現できません」のでと言う理由を表面上は付けていますが、結局は仕草が分らないだけです。
 

 

 


『逃げる』! そんな事人生では当たり前では?

2006-08-14 08:34:08 | Weblog
 逃避、なんかかたぐるしい感じがする言葉です。
 それは兎も角として、簡単に言うと「逃げる」と言う事です。
 今の世の中を見ていると、総て逃げばかりのようです。政治家も財界人も、裁判官までも「逃げ」の一手で世の中は成り立っているのじゃありませんか。
 福田さんをトップに、阿部さん、福井さん等々、総て逃げばかりじゃあないですか。
 
 ここで、「一寸待て、一人お忘れではありませんか」と言いたそうな顔をしておられる御仁があるようです。
 「公約など、たいしたことはない」としゃーしゃーとおっしゃるお方です。それでいながら、一方で、「公約だ。公約だ」と言って何がなんでも、自分の心の問題だと主張されておられます。
 このお方は、今の日本でただ一人の逃げのないお方ではないでしょうか。
 鶴田浩二じゃないのですが、「こう言う馬鹿が一人二人いなきゃー、世間の目は覚めやしねぇえ」とでも言いたそうです。プレスリーの真似をするんだったら、いっそあの場で、鶴田浩二の真似でもしたらよかったのにと、鶴田浩二のフアンなら言いたそうです。
 一億総逃げの中で、彼一人ぐらい、国益が何だかんだと言われても、決してそれに同調しないで、自分の考えどうりに行動できる、逃げない人がいても、結構、面白いのではないでしょうか。

 さーてと、15日は如何に相なりましょうか
 「逃げにゃきゃ損々」と、浮かれに浮かれ、すっとうきょうに狂っているご時世、小説より奇なりと、面白く、毎日を眺め暮らしている者の「はかない」愚痴です



真金十字路

2006-08-12 21:58:37 | Weblog
 ここが、旧山陽道の旧真金本陣跡だという立て札だけが、現在のコミュニテイーハウスの片隅に、夏の陽射しの中にぽつんとわびしく立っています。昔の面影を伝えるものは何一つ残ってはいません。
 ただ、近くの真金十字路にある道標だけが、往時の姿を偲ばせてくれているだけです。
 花びらが幾重にも重なり合って流れる板倉川の春に、日照りにふと足を留めて漱ぎした太閤井戸の夏に、吉備の中山のもみじの秋に、鼓山から吹き降ろす木枯らしの冬に、多くの旅人が悲喜こもごもの旅愁を胸に秘めながら、通り過ぎただろう板倉の宿は、今は何もない、ただ静かな通りとなって、何も語ってはくれません。
 これが、かっての街道一の宿場だったなんて誰も信じるものはないと思います。

岡山の方言

2006-08-06 09:18:48 | Weblog

 
 今朝の山陽新聞を見ていると、今、話題になっています「殿様の通信簿」と言う本の著者、磯田道史さんのお話が出ていました。 その中に「こねえな面白いことがあるんかと、お話しになっている記事がありました。

 これが岡山弁です。

 もっとくだいて言いますと、「面白い」は「おもしれえ」ですが。 まだ、こんな言葉が磯田さんぐらいの年齢の人にも使われていたんだなと、大変ありがたいことだと深く感心しました。 

 文明が日進月歩の進歩を見せています。それと共に、古い昔からの風習と言いましょうか、その地方にしかないような風土に根ざした生活習慣が、段々と姿を消しています。それにつれられて、「昭和」が日に日に遠のいていって、人口に膾炙されなくなってきています。 

 そんな時代を、磯田先生は如何に見ていらっしゃるのでしょうか。こんな言葉を発して、今の時代への警鐘を、敢えてお鳴らしになったのかもしれません。 
 「人に教えたくてむずむずする」とおっしゃていらっしゃる先生の今後にも、大いに期待しています。
              


板倉大橋

2006-08-04 21:04:25 | Weblog
 
 吉備津には「大橋」という字名をもつがあります。なぜ大橋かと言いますと昔、神武天皇が、吉備に3年留まりになり、軍船や兵を増強されたと、日本書紀に書かれています。
その時、天皇は、車で吉備の各地に行幸され、天皇がお乗りになったお車が十分通れるような大通りが、幾筋も整備されていていたと言う事です。大きな川も縦横に流れていたと思われます。
 そんな川には、当時としては、流行の最先端とされる大変珍しい「石」で出来た橋も、当然ありました。
 その橋をお渡りになる天皇のお車は、ガラガラと大きな音を立ててお通りになったそうです。
 それ以後、この橋は「轟橋」と呼ばれたということです。当時では他の場所にはない珍しく大きな石の橋であったので、又の名を『大橋』とも呼んだということです。
 石は、この地方には、万成石と呼ばれる御影石の産地としても有名な土地です。
 なお、一説には、孝霊天皇の行幸の時だとする説もあります。


 この轟橋は、現在では影すらとどめてはいませんが、惣爪にあったと言う事です。惣爪の北隣に「橋向」と言うもあります。それからも、この「とどろき橋」が、この地に存在したと言う事を実証する有力な手がかりではないでしょうか
  
   古歌に
     霰降る 玉ゆりすへて みるばかり しばしなふみそ 轟の橋
     いにしえの ならの都は 現にて 夢路をたどる とどろ木のはし
 と、いう歌もこの地に、まだ残っています。

 その昔、現在の高梁川は総社から山沿いに備中高松付近から3手に別れ、別れた付近に、現在『高松町三手』の名が残っています。
 そこから、一番東側を足守川が合流して、この惣爪の付近で南へ蛇行して、現在の庭瀬の『川入』から、吉備の穴海に入っていたのだと思います。
 この川を板倉川と呼んでいたようです。だから神武天皇の当時、この辺りを流れていたのは、相当大きい川であったことが予想できます。
 だから、「大橋」と言う名のつくこの橋は、当時、相当大規模な土木事業によって成し遂げたものではないかと思います。吉備の人たちの技術だけでは到底出来なかったような大規模国家プロジェクトではなかったかと思います。国際的協力があって初めて出来たものではないかと思います。造山、作山両古墳を造る過程が似ていたのではと想像を高めております。
 当時のわが国にはなかった中国や朝鮮の人たちの技術によってつくられたものではないかと想像できます。
 当時この地方は賀陽(かや)と呼ばれていました、「かや」とは、「伽耶」で朝鮮民族が多く移住してきて、住み着いていた地域でもあったようです。
 彼らの知識・技能を大いに利用して強大な吉備王國を造った原因にもなったと思います。
 そんな地域が我、吉備津なのです。

   板倉橋の 橋をばだれも 渡れとも いなほせ鳥は 過ぎかてにする    

7月の一日参り

2006-08-01 23:08:59 | Weblog

 今朝は、真夏の太陽が一杯に照りつける暑い暑い、夏本番の朝です。孫2人と「吉備津様、七月一日の朝詣会」に参りしました。 
 夕べの「わくくりさま」が、まだそのまま、拝殿の前に残っていましたので、再度、3人で、暑い暑い夏を無事に過ごせますようにお祈りしながら、八の字を描くようくぐりました。
 本来は、昔から、この輪を3回くぐるという言い伝えがありますが、夕べもくぐっていますので、今朝はゆっくりと一回で止めにしました。 

 それから、神殿に昇り、孫と3人で、神にお祈りの榊を奉り、無病息災を祈願して,今朝の直会(なおらいとよみます)を頂きに直会所へ行きました。 

 神社の庭の玉砂利をカシャリかしゃりとゆっくりと踏みながら、3人で手を繋いで進みました。 銀杏の大木の若葉がやさしく匂い発っていました。 7月の太陽も、孫の頭上でやさしくみつめておるように感じられました。  

 

 なお、吉備津様は、拝殿だけでなく、神殿にも朱の壇といわれている遥拝場があり、人々がいつもこの神殿に昇殿しておまいりすることが出来る、他のお宮さんにはみられない拝殿の仕方が取られています。