私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

御殿女中の髪型

2011-09-30 11:54:52 | Weblog
 久しぶりに筆敬さんよりメールを頂きました。

 「江戸城にいた御殿女中の髪型にちいて しりゃへんとおもうんで おせえたら」
 と。

 彼によりますと、御殿女中の髪型は、身分の上下もなく、唯「椎茸髱(しいたけたぼ)」と云う髪型であったと一般には信じられていて、現代の映画などでも、ほとんど、其の髷は「肩はずし」と呼ばれていたものを使っているのだそうです。
 でも、実際には、此の他「しの字」「もみじ」の髷もあったのだそうです。なお、この「しの字」と云う髪型は、御殿女中でも一番下層の身分の者の結う髪型であり、大方の奥女中は肩はずしに結っていたのだそうです。
 その違いをくどくどと説明してありましたが、其の三つの髪型の図がご丁寧に付けてりましたのでありましたので、それから判断して頂ければと思います。

          

 この3通りだそうです。どれがどれやら時代劇を見ていても分かりませんが、とにかく上下関係の厳しかった当時としては当然な髪の結い方であったと思われます。

  それにしても筆敬さんを、改めて「ようしっとるのう」と思いました。

 こんな江戸の女性の髪型を見て、ビスカイノたちヨーロッパ人が見て驚いたのも分かりませんよね。遊女などの髪形などは特にですね。あの長い鼈甲で作られた笄等を見たら何と思いますかね。

煩を受けず

2011-09-29 10:21:50 | Weblog
 その翌日、ビスカオノは主だった幕閣を尋ね、彼等に緋羅紗硝子器及び石鹸を贈ったのだそうですが、その中の本多佐渡守正信のみは、どうしても、「判官は正しき裁判を行うに付」と、贈物を受けたらないのだうです。

 現代でも、中国のような後進国でもですが、先進国と呼ばれている国々でも、役人の賄賂は当り前のような世の中です。この正信の世は1611年です。公正な裁判を行う者が後で自分を煩わすような贈り物など絶対に受けることはできないと、また、自分は徳川将軍に仕える身であり、その義務を果たすに妨げになると思われる贈り物など一切受け取らないのだと云って断ったのだそうです。
 そこでビスカイノは言います。
 「私は、この日本で、何かしてほしいとか等の幕府に対しての訴願をしません。此の贈り物は私の国とあなたの国の友好の印として贈る物です。だから是非お受け取り下さい」

 すると、この「善き老人は満足して之を納めた」のだそうです。
 こんな一徹な人が幕府内にいたことを、ビスカイノはきっと驚いた事だと思います。この本多正信は本多正純の父で、最も尊敬されていた人であるとも書いています。

江戸の女性像

2011-09-28 10:10:15 | Weblog
 ビスカイノ一行が持参したイスパニア国王や王妃の肖像画を見た秀忠はその夫人(お江さんです)にも見せています。その秀忠についてビスカイノは、さも不思議とでも思ったのでしょうが、次のように書いています。
 「此皇太子(秀忠)については種々善行聞こえたるが唯一人の夫人を有することも其一なり」と。

 此の最愛の夫人に、寄贈されたイスパニア国王とその妃の肖像画をみせます。すると
「・・・・其綺麗なること及び装飾は皇太子妃並に宮中の貴婦人等の皆驚きたる」 
 とあります。

 それから彼はその時であったのかどうかは分からないのですが、日本の婦人を見てその感想も書いています。

 「妃より最も賤しき婦人に至るまで彼等の着するは甚だ薄き絹のキモンと帯の下方には女の下袴の如き下衣にしてキモンの上には種々の色及び絵ある人形の外套(内掛け)の如きものを着し、頭には不思議なる形を束ねたる髪を頂窩に戴けるに過ぎざるが故なり」

 日本女性の着物の美しさに目を見張ったのでしょう「絵ある人形の外套の如き」と書いています。内掛けのような衣装の習慣を始めて目にしたのでしょうか、大変な驚きようだったのではなかったかと思われます。 

    

 この絵は御殿女中の浮世絵です。お江さんとビスカイノは逢ってはいないのですが、絹の着物をお城の女性は総て着ていたと云うのも亦大いなる驚きであったことでしょう。

 このように宮中で秀忠と会見して後、再び、宿泊に指定された旅館に戻りますが、その道中も亦多くの見学者で満ち溢れていたのです。その道筋で、ビスカイノ一行は、その旅館に着くまで一時間にわたって、その持っている鉄砲を空に向って打ち続けたのだそうです。お陰で「火薬1樽を消費せり」と書いています。

 その往来の素晴らしかった事を、また、
 「若し道あらば只此一日を見んが為めローマより江戸の市まで徒歩にて来る者あるべし」
 とも書いています。

ビスカイノが持参した肖像画

2011-09-27 14:54:11 | Weblog
 江戸城内に上ったビスカイノは秀忠と会見しますが、その謁見の様子を詳しく書き表しています。何回となくその身を低くして敬礼したとも書いてありますが、あまり長くなりますのでそれは省きます。でもこの謁見で面白いのは、将軍に贈るために携えてきた肖像画です。秀忠はその絵(イスパニア国王の一家を書いた物)を見て、ぜひ自分の妻にも見せたいと所望します。
 その絵について秀忠はその色彩にも触れ、「甚だ喜び驚き」とあります。特にその王妃の絵を見て大変興味を示されたとも書いてあります。油絵でしょう、その色彩のつややかなるを見たのでしょうか大変感激しています。
 また、この謁見で目にしたビスカイノの日本女性の着物やその髪の形にも大変興味を注いでいます。

江戸城へ;其の清潔にしありしことは述べ尽くすこと能はず

2011-09-25 07:48:38 | Weblog
 いよいよビスカイノ達イスパニア人の一行が江戸城にに入ります。その出迎えぶりについて書いています。

 五個の門を通り城に入ります。大勢の出迎えを受け、一の広間に入ります。「其の清潔にしありしことは述べ尽くすこと能はず」。
 ここで待つこと暫し、更に次の間に案内され束、そこも亦、「一層美麗なるものなり」その時、ビスカイノの傍には、武器と国旗を携えた数人の部下が控えていたのだそうです。此の広間にはすでに千余人の貴族(大名)が控えていた。彼らはそれぞれに所領及び身分に相当する徽章の衣服を着て、頭には身分を認めるべき徽章を付けた三つの角ある帽子、木沓のようなもの、赤い頭布のような物等色々な帽子を付けをかぶっていた。と書いています。徽章とは家紋だと思います。千余人の大名が控えていたと云うのは少々誇張だとは思いますが、その謁見に呼ばれたのでしょうが、今だ正式な国交も無い国の、それも一介の旅人だと思いますが、そんなに大歓迎の式典がとり行われたと云うのは、いささか、ビスカイノの大げさすぎる表現ではないかと思われます。第一そんなお城の中に、いかに、遠い異国から来たイスパニア人であろうとも、日本の掟を無視してまでの、彼らの武器等を城内への持ち込みませることはしてないのではないと思われますす。
 まあそのような中での皇太子と云いますから秀忠との謁見です。ビスカイノ達の横に並んでいた大名たちの挨拶の作法も書いてあります。

 「国風に従って、手を組み頭を床まで下げて敬礼をした」大名たちの間を通ってビスカイノは秀忠の前に進み出ます。
 

日本国の先進性

2011-09-24 09:33:36 | Weblog
 このような行列の有りようを読むと、当時の江戸幕府が、如何に此のイスパニアの一行の江戸城内へ迎え入れるための行列に心を砕いていたかよく分かります。
 その行列を迎え入れるために整列していた江戸の市民に対しての注意指導も大変だったのではと思われます。「そこには人がいなかったかのような静粛さがあった」と書いています。突然の計画性のないその場だけの見学態度を演出しなければなりません。役人のピリピリした厳重な指導が為されたのではないかと考えられます。それが出来る当時の役人の有能さもその指導を素直に聞き入れるだけの能力と云いましょうか統制される能力を持ち備えている、文明国ヨーロッパに負けないような優秀な日本民族だということも、この時のイスパニア人には理解できたのではないでしょうか。
 この秩序ある規律などから、日本人は、当時のヨーロッパ人と比べても、決して、ひけを取らない文化的政治的先進性の富んだ国民であると云う印象をビスカイノ達のイスパニア人が感じ取ったのです。当時一般化されていたアジアに対するヨーロッパの人たちの見方は、野蛮国であり非文明国だと云う印象です。でも、今見る目の前の現実の日本人は、言われていたようなアジア一般の人に対する見方とはかなり違った、かなり高度な文化を持つ優秀な国民だと云うの印象を持ったのではないかと思われます。
 この17世紀の初めに受けたイスパニア人の「文明国日本」という印象が、その後のヨーロッパの日本に対する考え方に影響したのは疑いない事です。そんな考え方があったからこそ日本には、あのアヘン戦争のような悲惨な紛争が起らなかったのではないでしょうか。
 ペリーもその辺りの日本の歴史を十分に分かっていたのではないでしょうか。

再び、ビスカイノ。彼の見た江戸初期の日本

2011-09-23 13:35:14 | Weblog
 江戸に来たビスカイノ達の一行を幕府は歓待します。その様子について簡単に説明しておきます。
 ビスカイノ一行が江戸に着いてから、その宿舎に皇太子の御殿(秀忠)より料理番を寄こしています。先ず、イスパニア人を驚かしたものは、魚類が豊富な事でした。江戸市中にはイスパニアのどこの港よりも、沢山魚が至る所に並べてあった事です。日本人は肉よりも此の魚を沢山食べていると報告しています。
 このビスカイノ達の調理のために派遣された料理人は日本風とトイスパニア風の2通りの料理を作っいます。この時、スペイン人たちが日本食を好のんで食べたかどうかまでには言及しておりません。
 此の調理人が作った料理を調べるためにも御城から役人が2人も来て、作られた料理について色々と注文通りの調理が出来たか調べたのだそうです。この調査のために派遣されてきた役人にビスカイノ側でも饗応しています。その時の観察から、日本人はあまり肉料理は好まないが、ヘレス酒(スペイン産の葡萄酒で、シェリー酒のこと)を出したら、大変喜んで、大いに飲み、「沈没せり」とあります。(6月21日)酔いつぶれたのです。
 そして、その翌日、いよいよビスカイノ一行は将軍に謁見すべく江戸城に向います。先頭は、長銃を捧げ持った制服を着込んだ男性、その後に、色あでやかな国王旗や国旗等等が行進します。さらに、その中央には太鼓を配置して、それを打ち鳴らしながら歩調を合わせて整然と行列し、江戸城に向います。余りの珍しさに江戸の町民は多数見学に出ていた。その模様を

 「通過せし市街は甚だ清潔にして整頓し男女及び児童多数の人群集せり。・・・・当日出たる人は少しも誇張することなく百万を超えたるべし、蓋し皇太子(秀忠)が其威勢を示さん為め特に此の如くならんことを命じたればなり。我等の行列の前後に護衛兵四千余人列を正して行進せしが、甚だ静粛にして、此の如く多数の人ありしに拘らず、全く人なきが如く語る者なく又さわぐ者なかりき」
 と。

 「百万を超えたるべし」とあるのは、少々大げさすぎますが、この時、その沿道を人々で埋め尽くしたと云うことからも、いかに多くの江戸市民を動員したかよく分かります。でも、当時の江戸の人口から推測して、この時沿道を埋めた人の数は、数千人集まっておればいい方ではないかと思われます。何せこの行列は1611年です。幕府が江戸に開かれて、10年も経過してはいない時代ですもの、江戸の総人口も、まだ、4,5万ぐらいではなかったかと思われます。すると、どう考えても1万人の者を集めるのは、到底、不可能のことです。でも、沿道には一杯の人が出ており、ビスカイノにはその人の多さに、その数を百万だと云わしめたのです。「百万どりのえくぼ」等の言葉があるように、この「百万」書いてあるのは、沢山の人と云う意味でだと思います。でも、そんな多さに目を見はらすような演出を、当時の江戸幕府の役人は施したのでしょうね。そのために活躍したのが向井将監等だったのではと思われます。
 

堀家喜智子

2011-09-22 10:39:41 | Weblog
 1週間ほど前から小学校から依頼があって、子供たちに、道徳の時間に言って聞かせる「ちょっといいお話」の原稿を数点書いていました。
 どなの話がいいのか分からないのですが、この吉備津に伝わる堀家喜智子と云う人の話などはどうでしょうかと書いてみました。
              
                          ― ☆ ―
 
 江戸末期に、私の町に堀家喜智子という大変聡明な婦人のお方がおられました。
 大阪で適塾を開き、福沢諭吉等の明治の多くの賢人を育てた、あの緒方洪庵の姉です。
 後になって、その洪庵が
 「姉上は、物事の判断が常に正しく、何時も、その物静かに言うそれには寸分の間違いもなく、だから、決して、逆らうことはできませんでした」
と、福沢諭吉に語ったそうです。
 この喜智子が、足守から備中宮内村の堀家徳政に嫁いで来て、輔政・高雅2人の子をもうけます。
 兄、輔政は、早世した父の後を受け、母喜智子を助け立派に堀家家切り盛りします。一方、弟高雅は、藤井高尚の養子となり、吉備津神社の宮司なども務めますが、叔父である緒方洪庵などの影響を受けたのでしょうか、後に、尊王攘夷の思想に深く傾倒して、晩年には、京都に上り、志士として天皇家のために活躍します。しかし、文久三年七月二十五日の夜、その志半ばにして激徒のために暗殺され、三条大橋の高札所に梟首されます。
 当時の京では暗殺などの殺傷事件が毎日のように繰り返されて起こっていて、この高雅の事件も、特別に、珍しい事件ではありませんでした。しかし、この備中宮内村では、その事件を知ると、それこそ上を下への大騒ぎで、よるとさわると、この話で持ち切りだったのです。
「高雅、3条大橋に梟首される」という知らせに、その母の受けた衝撃はいかほどばかりであったでしょうか。喜智子は高雅の母親です。どのような理由があれ、暗殺され、しかも、梟首までされ辱めを受けている我が子の死体を、早急に、その故郷に連れて帰り、丁重に埋葬してやりたいのは山々です。
 でも、喜智子は、静かに、いつもと変わらない口調で、孫の藤井紀一郎に言います。
 「決してそなたの父高雅の亡骸を取りに京に上ってはなりませぬ。」
 事実はどうあれ、今は、極悪の反逆者として暗殺された息子の母親です。世間さまに顔向けできないという気持ちが強くその胸中にあったに違いありません。子を思う親の情愛よりも、そうすることが、その時の一番の正しい事であると思ったからです。その上、堀家家は宮内でも伝統ある大旧家です。だからこそ、余計に涙を押し殺してまでも、敢えて、「取りに行ってはならぬ」と、言ったのです。その時の喜智子の心情は、いかばかりであったのか想像を絶します。
 このように、封建の世を、何が正しいことであるか、常に、見つめながら辛抱強く生きた一人の女性の悲しくも哀れな物語です。
 なお、その亡骸は現在もまだ京都市三条の行心寺に埋められたままになっているのだそうです。

 

「しょうらしい」吉備の酒

2011-09-21 10:46:42 | Weblog
 台風が、また、日本列島を襲って日本各地に災害を巻き起こしています。今度は愛知県など中部地方が狙い撃ちされているようです。その為のでしょうか、昨日から急に気温が下がり、随分と涼しい気温になりましたった。
 それにしても、どうしてこうもまでも自然の猛威が日本ばかりを襲うのでしょうかね。やっぱり、散々な悪評を醸し出した誰かさんの発言ではないのですが、これは神による日本に対する「天罰」そのものではないのでしょうかね。人の傲慢さに対する神の見せしめではないでしょうか。

 とまあ少々「しょうらしい」事を書いてみました。なお、この「しょうらしい」と云う言葉は吉備の方言で、「将にその通りで、真っ当な理に適っている」というぐらいな意味です。
 「あいつぁ ちかごろ しょうらしゅうに よう はたれえて おるのう」

 彼岸までの例えで、ようやく秋が来ました。というわけではないのですが、昨夜、本当に久しぶりに日本酒を飲んでみました、まあ、その何とまあうまいこと。その時、テレビのローカル放送で、哲多町のワインの放送があり、女性アナウンサーが「おいしい」と顔をほころばせていましたが、
 「そんあもんよりよっぽどこれのほうがうめえぞ」
 と、教えてあげたいような気分に浸りながら、ちびりちびりと、牧水ではないのですが「静かにのむべかりけり」と、久しぶりに秋になった夜を楽しみました。

 「やっぱりさけはうめえのう」何回となく、ただ、ひとりごとを言いながら、我が家の山上様の御前でせす。

 そうそう、吉備には、古来よりこんな歌があります(万葉集より)

     ふるひとの たまへしめたる 吉備の酒
                     病めばすべなし ぬきすたばらむ

 「古人乃 令食有吉備酒 痛者為便無 貫簀賜牟」を「フルヒトノ ノマセルキビノサケ ヤモハスエナ ムキスタマハム」と、契沖は読ませています。

 ここにある吉備の酒と云うのは、今でも有名な備後の西条辺りのお酒ではないだろうかと云う人もいますが、ここで言うお酒は黍から醸造した吉備酒だと思われます、黍の取れる地方と云う意味で吉備になったのです。阿波国や安房国は粟の国です。また、紀の国は木の国なのです。黍が沢山収穫さる国です。その吉備から当然お酒が作られていたのです、それが吉備の酒として有名だったのです。だから、特に備後の酒をと云うことではなく、吉備の国の何処にでもあるおいしい酒と云う意味です。
 なお、蛇足ですが、あのスサノウノミコトがオロチ退治した場所は本当は出雲ではなく、吉備地方だと云う学者のいます。その根拠は、当時、日本はまだ縄文の時代ですから、当然、米などはまだ作られてはおらず、出雲でもそうですが、日本中の何処をさがしても、あのような大量の酒を作る所はなく、従って、スサノウノミコトノのオロチ退治用のお酒が作れるのは、唯一の吉備の国だけしかなかったのです。だから、八頭の大蛇(おろち)が出没していた所は吉備の国でなくてははならないと主張されるのです。
 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、要するに、この歌の意味は、あなたが送ってくれた吉備の酒は、うま過ぎて、それこそへどを吐くほどいくらでも飲めますよ。だから、お酒とついでに、吐いた時に、それが飛び散らないようにするための簀の子も一緒に送っていただきたいものだと、余りにもおいしかった吉備の酒に対する感謝の意を表する歌らしいのです。       
 念のために、古人とは大友旅人で、六四歳の時のことらしいです。

出迎えの

2011-09-15 06:33:15 | Weblog
 ビスカイノ一行は6月17日の朝8時に浦川を出発して、その日の午後5時には江戸の河口に着いています。前述の向井正綱やその他幕府の役人等大勢で出迎え、これはそんなことがあったのかと思われるのですが、
 「其の風習に従ひ飲食物を持参せり」
 と書かれています。此の飲食物がどんなものか分かりませんが、船に持ってきたようです。
 それに対してイスパニア側でも、船に国旗や国王の紋省等の旗を掲げ、船に整列して、祝砲など鳴らして敬意を称します。すると
 「日本人は兵士王旗国旗を見、又祝砲を聞きて歓喜せり」
 したのだそうです。
 「この時海岸には男女非常の群集出で、水上には多数の舟集まり、川も陸地も覆はれ、通行する路なく、城郭並びに宮殿及び市内の家に於ても亦同様なりき」
 と、その歓迎ぶりです。それから、上陸したビスカイノ達の一行は、先ず、向井邸に向います。そこで一泊します。ここでも大いなる歓迎ぶりがあり、彼らその夜は「甚だ良く過ごしたり」と書かれています。 

徳川秀忠からビスカオノへ

2011-09-13 18:45:43 | Weblog
  六月十日に浦川に上陸したビスカイノはそこから江戸の将軍家康と秀忠に書簡を送ります。その返事が届いたのが六月十四日のことです。その内容は、
 ・あなたからの書簡に接して、全国民と共に大いに満足している。
 ・あなたの長旅、暴風にあわれたりして、さぞお疲れのことでしょう。
 ・日本に着いたからには、皆して歓待します。
 ・あなたには、直ぐ江戸にまで出てきてください。
 ・あなたは、何でも自由に振舞ってください。
 ・あなたが、江戸に来るまでの総ての費用は将軍が用意します。

 まあ、ざっとこんな内容だったと書いてあります。之を読みますと、ビスカイノのイスパニアに対してあまりにも寛大すぎるのではないかとも思われますが、そこら辺りの江戸幕府の記録はないので、詳らかなる事は分かりまけますが、もうとっくに諦めかけていた金銭が急遽返却されること知った幕府の役人たちがイスパニアを十分信用する気に変っていたのかもしれませんね。
 
 どう思われますか????? 

 まあ、それはともかくとして、このような秀忠からの許可書を貰ったビスカイノは、17日朝、その隋員三十名と日本人の遭難者数人と一緒に「舟5艘」で江戸に上ります。

 舟と書いていますので、日本の幕府か水戸藩が用意したものでしょう。

 ちょっと変わったヨーロッパ人のお江戸入りの様子を詳しく記録しています。それを、暫くの間、ご紹介してみます。

江戸時代も人口の推移

2011-09-12 09:56:04 | Weblog
 ブスカイノの日本に上陸して、「住民の数多きことは殆ど信すべからざる程なり」と、書いていますが、当時の江戸の人口を調べてみました。

 家康が江戸に入った当時、天正18年(1590年)には、「江戸には茅ぶきの家百ばかりも有かなし」と云う状態だったようです。この年は秀吉が北條氏の小田原城を攻め滅ぼし、天下統一を成し遂げた年です。

 その後家康が天下統一の事業を完成させて江戸に幕府を開き、御家人や諸大名を参勤交代制度の元に江戸に住まわせたことによって、江戸の人口は著しく増大していきます。慶長14年(1609年)ロドリゴが家康からお金を借りた年です。その時には、既に、江戸の人口は15万にもいたとロドリゴは「日本見聞録」の中で書いています。「お江戸八百八町」と呼ばれるのですが、慶長年間にはそれほどの多く戸数はなかったようです。

 なお、その後の人口の推移を追ってみました。
 ・享保六年(1721年) (将軍吉宗の改革)    50万人
 ・天保十四年(1843年)(水野忠邦の改革)    55万 
 ・慶応三年(1867年) (江戸幕府の崩壊)    53万

 これからも分かるように江戸時代を通じて人口は現在のように少子時代ではありません。250年間を通じて、大体日本の人口は4、000万人と同じぐらいだったのではに化と云われています。

ビスカイノの日本上陸

2011-09-11 10:03:27 | Weblog
 漸くにして日本に上陸したビスカイノ一行は、早速に、到着の旨を江戸の家康宛に書簡を送ります。その返事が還ってくる間に、この浦川にいて、見聞きした当時の日本について書いています。

 先ず書いたのは、イスパニアについての噂話です。
 ・1909年ドン・ロドリゲス達が乗っていた船「サン・フランシスコ号」が遭難して日本に流れついた時、将軍家康と彼らとの間に交わした約束を  反古にした不埒千万な者だ
 ・その時にロドリゴに貸した金銭は結局払ってもらえなかった。丸まる損をした。
 ・其の時彼らに同行した日本人は、皆、奴隷にさせられた
 などなどです。
 こんなイスパニアに対する悪評は、日本にいたキリシタン人の迫害を招ねき、数々の苦しみをもたらしました。

 しかし、今回のビスカイノ達の日本への到着はそなんイスパニアに対する偏見が一切になくなり、宣教師などに対して尊敬の念すら持つようになったのだそうです。そして、次のように書いております。

 「当国とイスパニヤとの交通貿易継続せば神祐により帰依者は増加し、神は悪魔の掌中より当国に在る多数の霊魂を救ひ給ふべきこと疑ひなし。」
 
 更に、次のようなことも書いております。

 「当国及び付近の多数の島の住民の数多きことは殆ど信ずべからざる程なり」と見えます。
 小さな島国と思っていたのでしょうが、上陸してみて、その人口の多さに驚いたのでしょうか。
 
 

 又も横道、ドン・ロドリゴ

2011-09-10 14:35:07 | Weblog
 ビスカイノの航海日誌を見ていますと、時々、ドン・ロドリゴと云う人の名前が出て来ます。 
 1611年、メキシコのアカプルコ港から出発して、マニラでなく、直接、日本に向かったのは、即ち、ビスカイノはある任務を脊負って、日本に来たのです。その原因を作ったのがこのドン・ロドリゴと云う人なのです。それについて、又横道ですが、あらましを書いておきます。
 
 17世紀の始めのことです。当時、イスパニアは、現在のフイリッピンであるルソン島を占拠して、そこを中心にアジア経営をしていました。その長官として派遣されていたのが「ドン・ロドリゴ」と云う人です。この人は、1609年、その長官の任務を終えて、メキシコ経由で、帆船「サン・フランシスコ号」に乗って帰国していました。ところが、生憎のことに、その乗っていた「サン・フランシスコ号」は、日本付近で、暴風に遭遇して、船は大破して乗っていた人は、命からがら陸地に非難したのです。その場所が総州の海岸だったのです。このあたりも「小説を読むより奇なり」の感があり、とても興味ある所ですが、それは、またの事にします。

 此の時、長官ロドリゴは、江戸まで出かけ、家康や秀忠と交渉して、新たに購入した船を仕立てて、再び、メキシコへ航海していきます。この時の船の代金など江戸幕府から相当な借金をします。此の借りたお金は「必ず返す」と約束したのだそうです。

 ビスカイノが日本に来たのは、此のドン・ロドリゴが家康から借りたお金(銀)を返金する為の航海でもあったのです。太平洋上で遭難して、メキシコに来ていた日本人を帰国させるという目的もあったのだそうですが、やはり、17世紀の世界の海を航海して、イギリスなどと覇権を争っていたイスパニアの強かな下心は見え見えだと思われますが。でも、当時の世界で最強国であったイスパニアが採った日本に対する最恵国的な政策はちょっと不気味な感じがしないでもありません。その心は何か分かりませんが????。日本を野蛮な国でないと認めていたのでしょうか、こまた疑問です。

浦川でのイスパニアとの約束事

2011-09-09 09:52:37 | Weblog
 浦川に着いた翌朝、ビスカイノ達は上陸します。それを出迎えたのは江戸からやって来た幕府の船舶司令官向井正綱です。
 この港で一番良い旅館で会見します。この時会見した人は
 「同所の長官、船舶司令官と大使」だと書いてあります。同所の長官とは水戸藩主徳川頼房ではなく、此の浦川にいた水戸藩の家老級の人ではないかと思います。

 日本人とイスパニア人との間に平和が保たれ、喧嘩や騒擾が起らないような取り決めを結んでいます。日本だ最初の条約ではないでしょうか???
  その取り決め
 「1)イスパニア人は日本人に対して剣又は他の武器に手を掛くべからず
  2)日本婦人に暴行を加ふべからず
  3)何品たりとも其意に反して之を取るべからず
   若し之に背く者は死刑に処すべき旨命令を発せしめたり」
 と書かれてあります。

 なお、ビスカイノは船舶司令官向井氏の同意を得て其の会見が行われた旅館にイスパニアの国旗を掲げ、毎日太鼓を打ったのだそうです。
 どうです。この条約を見る限りでは、イスパニア人の日本人に対する派違反行為だけしか書かれてはいないのですが、日本人のイスパニア人に対する不法行為についても、当然あったとは思いますが、これには何も書かれていません。習慣の違いにより不法行為が起きるのではと懸念されるのですが????。

 それから後、此のイスパニアの船には、多くの日本人が見学に押し掛けたようです、それに対して、ビスカイノは「寝食の暇をも得ざりき」と書かれています。特に、藩の御偉方に対しては、これを「Tonos(殿達)即ち、我がカバリエロ(貴族)に対しては席を与えて菓子を供し、ヘレス酒を以て湿せるが、既に・・・・彼らは之を好み・・」

 このように大使ビスカイノが心を配って接待したので、日本人は一般的に言うと、安易に人に物を人に与えない風習があるが、この大使に対しては
 「鶏魚果物其他土地の産物を多量に贈れり」
 と書いてあります。

 「人にものを贈る習慣がない」と書いているのですが、日本人の生活習慣を余り知りもせずに、中元やお歳暮等の贈答習慣がいっぱいにあるのを知らないで書いたのではないかと思われます。