私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

金銀島

2011-08-31 10:14:22 | Weblog
 イスパニア(現在のスペイン)のビスカイノと云う人の書いた「金銀島探検報告」の中、慶長年間発生した東北地方の大津波についての報告があります。

 その地震について書く前に、少しく、この「金銀島探検」とは、一体何かさぐってみます。

 「日本の東方に金銀を多量に産する国がある」と云う噂話が、16,7世紀にスペインやポルトガルの船員の中に広がっていたのです。
 ある時。ポルトガルの一船員が伝えた話が広まっていたのだそうです。マルコポーロの「東方見聞録」より400年ぐらい後のことです。
 17世紀の始頃ですが、ポルトガルの船員が太平洋上を漂流して、たまたま、漂着した島に金銀が沢山あったと報告します。鍋釜にいたるまで金銀使われていたと云う。また、上陸用の小舟の底にも砂金がいっぱいに付いていたのを発見して、随分と驚いたと書かれています。

 これはあくまでも当時の人が空想的に作りだしたものですが、それらの話を聞いたヨーロッパの人々の間に此の話が広がります。

 このような金銀島を見つけ、金銀を持ち帰りたいとする思いは個人だけではありません。当時の最強国イスパニヤでも取り上げられ、王様によって「金銀等探検」の計画が立てられます。その時、その隊長に選任されたのが「ビスカイノ」なのです。彼が日本に来た時は六十歳だと云います。徳川家康や将軍秀忠にも謁見しています。彼の日記によりますと1611年6月11日浦賀に到着しております。
 この時、ビスカイノの通事として従っていたイスパニアの人ですが、日本語を話し、通訳として活躍しています。どのようにして日本語をマスターしたのでしょうかね。ヨーロッパ人が始めて日本に来てから、ザビエルなどのヨーロッパ人との行き来も相当あったので、その間に習ったのでしょうが?

筆敬氏からのメール

2011-08-29 17:58:08 | Weblog
 昨日で一応地震につて終わりにしたいと思っていたのですが、久しぶりに、筆敬氏よりメールが届きました。

 「なげえ ええだ、くそおもしろうもねえものを ようけんたもんだ。それだきゃあ ほめてやらあ。そりゃあ そうとして、おめえはこげな本をみたことあるけえ」

 と云われるのです、その本の名前は「ビスカイノ金銀島探検報告」というのです。このビスカイノと云う人は、スペインの人で1611年、来日して、当時の仙台藩主伊達政宗に会ったり、江戸では将軍の徳川家康徳川秀忠とも面会しています。

 捜してみ見ると、その「ビスカイノ金銀島探検報告」があ見つかりました。昭和4年に、駿南社から出版されたていました、その中に筆敬氏の云われた慶長時代に発生した東北地方を襲った地震の記録が報告されています。
 吉備から離れること幾久しいのですが、目を通してみると、一寸、この本も面白いので、その中に書かれている地震も取り上げながら、又、暫くの間底に書かれている江戸初期の、外国人の見た日本に付いて書いてみたいと思います。
 
 なお、この報告書を書いたビスカイノと云う人について、仙台藩の伊達貞山と云う人の記録によりますと
 「慶長十八年八月二十一日丁未、南蛮人楚天呂登城、大広間に於て御対面、楚天呂進上物あり、語音通事を以て相通ず、礼儀には幾度も起居す、白く縮たる手拭を以て度々唇を拭く、其長高く、鼻隆し、年齢六十余と見ゆ、従者二十四五人あり、何れも年若し、長卑く、鼻隆し」
 とあります。この楚天呂こそが「ビスカイノ」なのです。

 この中で「通事を以て相通ず」とありますが、1600年代、既に、スペインでは日本語の堪能な人がいて、通訳の役をしていたのです。その人がどのように日本語をマスターしたのかわ分からないのですが。なお、ヨーロッパ人が最初に、日本に来たのが1543年の鉄砲伝来の時です。それからわずか50年位で、日本語の堪能な通事までいると云うのには、如何に、17世紀のヨーロッパの人々が全世界を視野に入れた生活をしていたかと云うことが分かります。大航海時代と云うのはそんな時代でも、又、あったのです。
 「身長が高く鼻が高く」恰好がよかったのでしょう。また「白く縮たる手拭」ですから。現在のタオルでしょうが、それが、ま、日本人には、大変、奇異に感じられたのでしょうか、その接待に当たった人が書いております。

 江戸幕府かとった鎖国政策は1637年ですから、このビスカイノが活躍した時代は、まさに、日本にとっても、ヨーロッパ同様に、大変な地球規模の世界的視野に立った活動行われた時代でもあったのです。伊達政宗もその一人であったことにはまちがいありません。

「なゐの日並」も最後です。

2011-08-28 18:04:38 | Weblog
 安政2年10月2日に発生した江戸の町を壊滅的に破壊し尽くした安政の大地震は、江戸幕府倒壊の間接的な原因にたったとされています。此の大震災の浅草を中心とした記録が、笠亭仙果の「なゐの日並」に、克明に記されています。それを発生時から順に追ってまいりました。まだ梅雨も明けやらぬ6月19日からでしたが、今日まで、知らない間にもう2が月半になりました。
 この「なゐの日並」は、発生時10月2日から、その終焉が明らかになった11月16日まで、約一か月半にも及ぶ、一人の戯作者の貴重な記録です。この中で仙果先生は、一江戸市民として見聞きした地震騒動の一尾始終を書き表しており、これによって、19世紀中ごろの江戸の世相をも色濃く知ることが出来ます。あまり知られてはいないのですが、まあ珍しい書物だと思われます。

 その最後を書き出して終わりとします。

 「一六日も風あらき中に一ツゆすり。亀井戸あたりの家つぶれしなどいふ。虚実をしらず。けふ尾州家の御くらやしき鬼頭氏のいはるゝよう、市ヶ谷の上やしきこゝもすべて所々そこなはれつれど、指一本きづつきしものなし。またおはら焼の陶器をうる江戸の問屋十七軒あり、ちかきころあつたのおほん神を7うやまい信じて大々かぐらなど奉る事也。こたびの大変に十七軒のもの一人死傷もなく、しなものもそこなわれざりしとて、悦びのぬさ奉りなどしたりよし。いといとたうとき事なり」

 この仙果先生、生まれが三河者ですから、相当に熱田神宮に肩入れしていたのではと思われます。最後にその熱田神宮の霊験新たかな事例を取り上げて、この地震記録の最後を飾っています。

 本当に、6月19日から二か月半にも渡って、今回の東北地方の大震災の早期復興を祈願してと云うこともあって、吉備とは何らかかわりのない、今から150年も前に起きた江戸の地震のお話に終始しましたが、このへんで終わりにします。長い間お読みくださってありがとうございました。また、明日からは、吉備のお話に戻りたいと思いますので、こりずにお付き合いください。

ナマズ様々の画

2011-08-27 09:55:40 | Weblog
 地震火災の書戯作ものはすべて、お上からの御達しで、商店の棚から降ろして、下と云いますから、土間に並べて売ったのだと思いますが、それでも、なお、このての物は売れたのです。四百種以上も出廻ったのだそうです。そのほとんどは、昨日あげた「鹿島大明神と要石」や「マナズを懲らしめている」絵であったのですが、中には、次の画のような摺りものも出廻ったのだそうです。

      

 この絵は何だとお思いですか。


 ナマズを懲らしめている絵ではありません。                                                
 江戸庶民にとっては、大変、こにくきナマズを、この絵では、懲らしめているのではありません、反対に「ありがとうございます」と感謝し、拝んでいる絵なのです。一体、このナマズを拝み奉っているいるのは、どこのどなたでしょうかね。

 そうです。云わずとしれた、大工や左官などの建設関係の人々なのです。それまでは仕事があまりなくて喰うのにも困っていたのですが、地震や火災などによって、家の建設需要が一気に高まり、いくらでも仕事にありつけたのです。彼らにとっては、この地震を引き起こしてくれたナマズ様は大変有難い救世主になったのです。だから、皆して奉っているのです。こんな絵も出ているのです。この絵をこしらえた人は誰か分からないのですが、この地震で大儲けした一部の人へのいやみだと思われます。
 1850年代、百万人の人が住んでいたと云われる江戸です。こんな風刺的な物までが売り出されます。貧しいながらも楽しい世の中ではなかったのかともこんな物を見ていると想像が次から次へと湧きだしてくるから不思議ではありませんか。                          
 なお、この絵の中に書かれているのは、ここに集まっている沢山の商人たちが、それぞれにナマズ様にお礼を言っている言葉です。
 余り細かくてよくは分からないのですが、一番最初には次のように書かれています。ご参考までに。

 「ヘイごめんなさいやー。わちきはとびのかしらでごせへヱすがこのたびはいろいろおせはくださり、おかげさまでもうかりました。これはあげでごぜいす。ほんのしるしばかり。とびにあぶらげとはこのことでございます」
 
「さかんぬり」「材木や」「だいく」「やねや」等の名前が見えます。



鹿島大明神となまず

2011-08-26 18:41:13 | Weblog
 安政江戸大地震がどうして起きたかという、当時の江戸市民の面白いお話が残っています。

     

 これが、そのことを物語る絵です。
 鯰の上に乗って、ナマズが暴れないように押さえつけて居られるのが鹿島大明神とその要石です。この鹿島大明神様だけにが唯一ナマズを押さえつける力を持っておいでなのです。だから、この神様が鹿島にいらっしゃる時は、ナマズたちは、決して、あばれることが出来ないのです。ということは、この世の中には地震が起こらないという仕組みになっていると云うのです。しかし、決して起きないはずの安政大地震が、10月2日に起きます。どうしてでしょうかね?????

 その答えはです。それは、今度の地震が起きた日は十月二日です。この十月は、所謂、神無月です。鹿島大明神も、出雲大社に出向いていかなくてはなりませんから、留守をしていて鹿島にはいらっしゃらなかったのです。要石はあったのですが、留守番を、これまた、どうしてだか分からないのですが、恵比寿様にお願いして、出雲に出かけられています。でも、それをいいことに、大ナマズは、恵比寿様をからかうように暴れ出したのです。この恵比寿様でも、さしもの大ナマズの力は抑えきれなかったのだそうです。それをよい事に、このナマズは二日になって、大暴れしたのです。
 
 こんな噂話が市中を飛び跳ねるように伝わります。すると、その話は、直に、絵に摺られて、市中へ出廻ります。誰がどこでどう作り出したのかわ分かりませんが、上を下への地震騒動の中でも、そのようなたわいもないと云ったら叱られるかもしれませんが、一か月が経過すると、こんなウェットに富んだ噂話が作られ売られるのです。それだけ人々の心には余裕があったわけではないでしょうが、何か面白い話題に、すぐに飛び付くというミイハー的な市民感覚を形成されていたのかもしれんね。それが江戸の活力だとは思いますが。少々のことでは、決して、へこたれない日本人の力だと云ってもいいのではないでしょうか。

 東北地方の人々の、今回、世界から称賛された、あの粘り強い活力も、また、この江戸の活力と同じだったのではないかと思われます。日本人の良さではないでしょうか。改めて、「東北の人たちよ頑張れ」と、エールを送りたいものです。

かしまの御神像と大なまずをせめなやます図

2011-08-25 12:32:13 | Weblog
 11月10日になっても、まだ、江戸市民の間には、この地震火災に関心はあったのでしょうか、興味本位の出鱈目な出版物を含めると相当の数の、400種以上とも、物が売られていたのです。
 それがこの日を境に、あれほどまでに人々に買われていた地震火災の書戯作もの、すべての商店で棚から降ろして、「よのつね」と言いますから、商店の脇にでも置いて売っていたのでしょう。これは、どうも、その筋の御役人からそうしろと命令があったのではないかと云われています。そのような処置が取られても、相当数のそれらの戯作などの出版物が売れたと云うのです。
 中でもよく売れたのが、鹿島大明神を拝む画や大なまずを責め立てているような画が売れ筋だったようです。中には飛ぶように売れたので十版二〇版と重刻する物まで出たと云うことです。

      

 これらの絵を肌身離さず持っておれば地震に遭わないのだとして、多くの人々に買われたらしいのです。

地震火事の彫刻ものその数三百八十余種あり

2011-08-24 15:38:46 | Weblog
 地震後一ヶ月が過ぎたと云うのに、いまだに、地震火事についての彫刻ものが三百八十余種も出廻っているとのことです。中には、一度刷った者ものを、再び、重版して売り出しているものもあったのです。十枚の内、一枚か二枚はあたったのだそうです。そこで幕府は、地震火事に関する彫刻ものは禁止されたと云うのです。そうなると、版木屋などそれによって暮らしを立てている者にとっては死活問題です。

 「いづかたへもまいりて強訴せんなどいひさわぐよし、・・・」

 そんなに特別なことでも、何でもないような瓦板などの出版物に対して、このような厳しい規制措置が講じられていたのだと云うことが分かります。水野忠邦の天保の時代などでも、相当厳しい、発禁本などの処置も取られたと云うことは知っていましたが、このような瓦板にもあったとは驚くべきことです。何人の版木屋が、安政の時代当時いたのかわ知りませんが、相当困ったのでしょうね。
 これも地震による社会現象なのです。

 これは五日の仙果先生の記録です。その後九日まで何も書かれてはいません。4日間の空白です。次に見られるのが11月9日です。この日も
 「夜、小ゆすりありという。我はしらず」
 とのみです。

今日は、お地蔵さんのせがきです

2011-08-23 09:56:53 | Weblog
 11月2日、丁度一か月めです。この地震で亡くなった人のために「施餓鬼」が行われたのだそうです。それを仙果先生は

 「けふ台命ありて、諸寺にて枉死人のために大せがきあり」と。

 「枉死」というのは、非業の最期を遂げる事をいうのです。「おうし」です。今は「横死」と書くようです。幕府(将軍)の命令によって、今回の地震によって非業の死を遂げられた人のために、各お寺さんで、その人たちのために法要を営んだのです。それほど多くの人がなくなったと云う事だと思います。正式な記録はないので明らかではないのですが、大体4000人(この数が幕府の記録にはあるのだそうですが)だと云われていますが、実際は数万人に及ぶ江戸市民の枉死があったのではないかともいわれています。

 今回の東北地方震災では2万人を超す人達がお亡くなりになったと報じられています

 なお、今日は八月二三日で、お地蔵様の日です。この日には、我が町内にあるお地蔵さまを祀っている小さな祠でも「施餓鬼」が行われます。町内の小字地区に大体一か所にこのお地蔵さまが祀られています。十か所近くもありますが、今でも昔ながらのそれぞれの場所で、お掃除してきれいになったお地蔵さまのお祭りをしております。 中には、平生は、めったに人も訪れにないようなへんっぴな山際に六体の地蔵さまを祀ってるあるのですが、今日だけ特別に、その中から三体だけ選んで町中の公会堂の中にお出まし頂いて、綺麗に着飾ってもらって、お化粧までしていただいて、お祭りをしてもらっている所もあります。更に、そこでは、夜には盆踊りなども催されると云うことです。
 わたしも、我が町内のお地蔵さんにお参りして、あの東北の震災で亡くなられたそれらの人たちの為にその御冥福を祈って、手を合わせておきました。それから帰って、机の前ですがお経を静かに唱えておきました。

      
 
 その時、おかんきをあげているある一人の老婦人に聞いたのですが、、

 「むかしゃあなあ、朝も、早ようから、ぎょうさんの人が お参りにきょんさったんでー。だけえ、ぼっけいこと、お接待にだすものこしらようたんでえ。せえから、近所の子供さんもなあ、ぎょうさん、きてつかあさって、それぐれえ、この日は、ここらへんもなあ、にぎわようたんでー。今はこげえに、ぼっけいさびしゅうなてしもうてな、近所のもんが2,3人よって、おかんきをするだけでえ・・・」

 と、さも昔を懐かしむかのように、静かに話されていました。

朝顔や。3度蕪村

2011-08-21 09:31:37 | Weblog
 昨日の朝日新聞のコラムに蕪村の朝顔の句が載っていました。

 〈朝がほや一輪深き淵のいろ〉

 です。このコラム氏によると「此の絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。」そうです。藍色でしょうか淵色の朝顔を愛でている句だと云うことは分かりますが、どうして絶品なのでしょうかね。

 変なことから、三度も、このブログに蕪村の句を取り上げようとは思わなかったのですが、芭蕉同様に蕪村のそれにも数多の秀句があることには間違いない事ですが、一寸この句に興味がありましたので、取り上げました。

 朝顔が秋の季語だと云うことも知らないでいた私の無学さを恥じながらですが、この句について考えてみました。

           

 先ずは、「澗水湛如藍」から行きます。禅語だそうで 、「かんすいたたえてあいのごとし」と読み、「水は無色だが満々と湛えた 淵では深い藍のような色になる。変化の中に不変の真理が宿っていること」という意味なのだそうです。

 本来は無色透明で、色などあるはずがない水も深い淵にたまると、何も加えないでも、又、何もしないでも、自然と藍色という神秘な色が生まれ出て来ます。水を湛えた深い淵の色と同じような藍色を呈している朝顔を見た蕪村は、その広大無辺なる無限な不変な色を、たった一輪の朝顔という有限なる狭小の変化の世界に引き込んで、そこに描かれている色を水墨画的に捉えて、蕪村独特の薄墨色をした句にしつらえたのです。無と有の一瞬を感覚的に捉え、それらを無窮の世界まで広げた凛とした句だと思われます。

 話は変わりますが、「群青」という谷村新司の歌を久しぶりに聞きました。その歌の感じと、この句の感じがどことなく似通った点があるのではないかとも思いながら。淵のいろというのはこの群青でもいいのではないでしょうか???

 猶、句集にある「淵のいろ」の次の句には、「朝皃や手拭のはしの藍をかこつ」と、ありますから、この淵の色を、蕪村は「藍」と捉えていたのではないかと思われます。

「おぢゐる」!!。まさか仙果先生の思い違い??

2011-08-20 10:26:01 | Weblog
 十一月二日の記述より、

 「またけふ一めぐるにあたる日なればとて、いたくおぢゐる人おほし。されどゆるがず」

 そうです。今日があの震災から、丁度、一か月目に当たる日ですから、人々は、再び、あのような大震れが起きるのではにかと、噂し合い、大層心配して胸騒ぎがしたのではと、この文章の記述から思いました。
 特に、「おぢゐる」とは、どうしても、再び、あのような大地震が起こるのでなないかと不安な気持ちになって生活する、と云う意味ではないかと勝手に想像出来ますよね。でも、その十一月二日は、多くの人々が痛く心配していたような震りはなく、平穏な日だったのだそうです。「されどゆるがず」と云う言葉の中から、江戸市民の安堵の様子が推測できます。
 
 「まあ、わざわざ辞書で調べてみる必要もないのだが、一応確かめておこうか」というぐらいに、ごく軽い気持ちで、辞書を捲ってみました。すると、どうでしょう。そこには私の思いとは、全く違う、「おぢゐる」とは「心が静まる・安心する・落ち着く」と云う意味だと出ているではありませんか。どうなっているのでしょうか?????。これはどう理解したらいいのでしょうかね。私の解釈の違いでしょうかね。もしかして、これは、仙果先生の完全なる思い違いなのでしょうかね。

 なお、一日の仙果先生は
 「午上刻ごろ、まためずらしく震すという・・・」
 と、書いてあるます。その翌日に、再び、二月二日のような大地震が起きるのではと、誰しも思うのは普通だと思われます。安心することなど到底できなかったのでなないかと思われます。そんな事を思うと、どうも仙果先生ともあろうお方でも、こんなミスをするのかとも思いました。

 「一月後に、再び」。こんな噂が、もしかして、今回の大地震でもと、四月十一日の新聞記事を注意深く見たのですが、そこにはそれらしいものは何も書かれてはいませんでしたが。250年経過した時代の進展の影響でしょうかね。

 

地震火事方角付の類

2011-08-19 07:54:40 | Weblog
 十一月二日になりました。震災後ちょうど一ヶ月目ですが、地震火事方角付の類や戯作の一枚画をほり売る者が沢山出たのだそうです。まともなものならいいのですが、仙果先生でも「心まかせにはゞかりなく彫りたる」ものが多かったと感じられておられます。版元に規制の通達も出て取り締まったのだそうですが、それを上回る数のそれらの地震に関する出鱈目な記事を彫った摺り物が江戸市中に出回ったのだそうです。その数百数種にも及んだと云われます。

 このように、江戸市民の地震時の右往左往していたその様子を見こんでのいい加減な地震情報にまでに多くの市民が飛び付いて買ったのでした。それだけ新しい何かの情報が欲しかったのでしょうか、如何に情報が少なかったか分かります。それほど情報に飢えていたのでしょう。強かに、何でもいいから自分の力で生きていくよりほかに手段のなかったのです。そのような力強い庶民力と云ってもいいでしょうか、官憲の取り締まりをも超えるほどの力が市民の間に自然と長い間に備わってたのです。取り締まっても取り締まっても、猶、それだけの数のありもしないようないい加減な、中には、全く出鱈目な地震情報もあったのでしょう、そんな出版物が売れたのです。と云うことは、江戸の町では、寺子屋などによる庶民に対する識字教育が行きき届いていて、人々が瓦板などの摺り物が飛ぶように読まれ、それによる情報しか、此の大震災の情報を得る手段がなかったのです。人の伝言だけでなく直接、物を知ることが出来る方法を当時の人々は身に付けていたのです。それだけ、人々の文化生活が深く生活に根付いていたと云う証拠です。一方、そのような庶民の文化力が、又、浮世絵などの絵の世界にも広がったと云うことはまちがいありませんし、また、間接的には江戸幕府を破滅に招く大きな一原因にもなったのではと思われます。
 更に、その教育力こそが明治以降のしたたかに生き抜いた日本の基となった原因ではないでしょうか。文化が国を強くするのです。そんなことを考えると、江戸の町の教育の現状を、もう少し日本歴史上に取り上げて、学校教育の場でも、大いに考えることの必要があるのではないでしょうか。

 

蕪村の句 その2

2011-08-18 08:18:24 | Weblog
 昨日の続きです。
 蕪村を読んでいますと、思いもかけぬ、私の昔を思い出すような楽しい句に出逢うことがあります。

     “蚊屋の内に ほたる放して アゝ楽や”

 どうでしょうか。戦後の何もない世の中でしたが、緑色をした麻で作られた蚊帳を吊って寝ていたのですが、その中に裏の小溝から捕って来た平家蛍を数匹ですが、放して何もない夏の夜の一時を楽しんだことが今のように思い出されます。いくらでも蛍は取れたのですが、母の、何時も、「2,3匹がええんじゃど」と云う言葉に従って、蚊帳の中にな放して、それを見ながら眼ていました。毎晩ではなく、長い夏休みに1日か2日かぐらいだったと思えますが、電気を消されて、寝間は、深緑色と云うか鉄色と云ったらいいのかもしれませんがほとんど真っ暗に代わります。そんな蚊帳の中に光る幻想的な淡い蛍の光によって、留まっている蚊帳一部だけに緑が映し出されます。それが何とも云われないようなとてもきれいでなかなか寝付かれず、「はようねにゃあ」と幾度どなく、母からお叱りを受けたことが、つい昨日のように感じられます。
 
 蕪村の句の「アゝ」という言葉にも、随分と、そのような蕪村の幼年時代の思い出が込められているのではないかと思われます。

 しかし、子供時分にこんな経験をしたことのない近代の俳人達には、この句の持つ深い意味は、到底、理解しがたくなってしまっているのではと思われますが、どうでしょうかね。


  蕪村には、蚊屋を詠んだこんな句もあります。

   ・蚊屋つりて 翆微つくらむ 家の内
   ・あら涼し 裾吹蚊屋も 根なし草
   ・蚊屋を出て 内に居ぬ身の 夜ハ明ぬ
   ・蚊屋を出て 奈良を立ち行く 若葉哉

蕪村の句

2011-08-17 10:02:18 | Weblog
 一寸、又、寄り道をします。

 私は、今、持てあます時間にかまけてではないのですが、その昔、手に入れた几董の「蕪翁句集」のページを捲っています。
 その中に、たまたま地震を詠んだ蕪村の句がありましたので、ちょこっと趣を変えて、この句について考えてみました。なお、この本は天保8年に出版されたものです。
           

   おろし置 笈に地震 なつ野哉  (地震にはナヘフルとルビが符ってあります)
 です。
 何時、どこで地震に遭ったのかは知りませんが、地震を詠んだ珍しい蕪村の句ではないかと思います。あの文政13年に起きた京都の大地震の時に詠んだ句ではありません。念のためにですが。
 
 土間か長屋かそこら辺りに置いていた笈が地震で揺れる程度ですから、そんなに大きな地震ではないと思います。でも、その震れの面白さを水墨画のように捉えた蕪村の直截的な感性には感心させられます。そのあるかないかの揺れ動く笈の向こうに広がる夏の野や、更に、小さく震れる笈の上に広がるの夏空が大変印象深かかったのでしょうか。なんでもない平凡な句のようですが味わってみると大変な秀句だと思われます。
 その辺りが千楯先生や仙果先生とは、一味も二味も違う地震に対する感覚的な捉え方をしていると思われます。

 なお、この写真にある蕪村の句ですが
        ・いづこより礫うちけむ夏木立
        ・酒十駄ゆりもて行や夏こだち
        ・
        ・行々てこゝに行々夏野哉
           みちのくの吾友に草扉をたゝかれて
        ・葉がくれに枕さがせよ瓜はたけ
        ・離別れたる身を蹈込んで田植哉
 
 と、読むのだそうです。書かずもがなですが?

猶命はをしきものになん

2011-08-16 11:10:12 | Weblog
 十一月朔になります。仙果先生、地震後初めて上野を訪れています。「いづこもいづこも石垣くゑ壊れたるぞ多き」と云う有様です。知り合いだったのでしょうか一人の僧を尋ねます。その僧は、地震の時に余所にいて幸に命にも別条がなかったのだそうです。地震後すぐに自分の坊に帰ってみると、地火炉と云いますから囲炉裏でしょうが、そこに懸けておいた鉄瓶がひっくり返り、おかげで火は消えていたのですが、そこら中が灰神楽といった状態で、本箱等すべて倒れ、「あしふみ入べうも覚えず」で、もし、あの時、ここにいたならば、到底無事ではおられなかっただろうと思うと、

 「世はすてながらも猶命はをしきものになんとやうものがたり、さすがにあわれなり」

 と書いています。
 世捨人同然の身にあってもやはり自分の命は大事なのでしょうかと云う言葉を聞きながら、人は生きることにそんない執着心があるのだろうか、それが人間の本性だろうかと、しみじみとした思いがふっかったのでしょうか「あわれなり」と、書いております。嗚呼、本当にという深い思いがしたのだろうと思われます。同情するだとか、かわいそうに思うだとか云うものではなくて、しみじみとそんな感じが突然に心の底から浮かび上がっ想いではないでしょうか。
 「人間て、だれでも、所詮こんなものではないでしょうか」という思いだと思われます。
 さらに、仙果先生、地震当初から感心事であった「よしはら」についても書いておりますので、そのくだりを

 「かくて根岸へゆかんとて谷中門を出る。このあたりよしはら京町のくつわども立退たる家おほし。すでに店はりたるもありとぞいふ。なまめくものほのめくも、地震の事おもへばふさわしからぬこことぞする。」

 ほとんどの遊女屋は立退きしているのですが、中には、すでに、はやくも店を開いているのもある。もう開いているのかと、何となくうれしいようなわくわくする気にもなるのだが、此の大地震の事を思うと、何だか少々早すぎるようであり、どっちかと、云うと感心したことではないのではないかと、書いています。

浅草の伝法院の僧も圧死す。

2011-08-15 07:35:05 | Weblog
 二十六日には浅草の伝法院の僧もこの地震で圧死したことについて触れています。伝法院は二王門のすぐ手前にあった大きなお寺です。今は有るのかどうかは知りませんが、江戸名所図会にも描きこまれていますが、これも噂でしょうが、この地震によって方丈が潰れ、「寺持金とりにかへりて、ものにうたれむなしくなられたり」とあります。寺持金ですから、寺の運営に関する大切なお金だったのでしょうか、取りに帰ったばかりに、「ものにうたれて」とありますから、落ちてきた棟にでしょうか?押し潰されて死んだと云うのです。

 また、これも仙果先生が取材していて耳にした事でしょうが、
 「少年三日ばかりものの下におされ居たるが、猶死なで餓鬼のようになりて、ものの下よりはい出でたすかりとぞいう」
 このような助かったと云う例も載せています。
 まあそれくらい二六日にもなると、人々の暮らしに落ち着きがで始めるのです。

  尚、伝法院は次の絵の右下にある大きなお寺です。