私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

きになるはなし

2007-07-31 10:30:25 | Weblog
 もう選挙の話はうんざりしていますが。昨夜、岡山県人として気になる話をききましたので、書いてみます。
 ある民間テレビ局で、今回の参院選の結果の分析を、各方面の人達がしていました。当然、岡山の片山虎之助さんの惨敗も話題になっていました。その中で、評論家のはまこうさんが、
 「岡山県の人は何も分ってない。今まで、片山虎之助さんが、国の政治の中心にいたからこそ、千葉県の何倍もの補助金を岡山は貰っていた。それだけ得していたのに。そんなことも知らないで、岡山県の人は、とらさんを落として・・・・」
 と。
 具体的な金額まで上げて千葉県と対比されながら批判されていました。あたかも、岡山県民は、そんなことも知らないで、落選させて「本当に馬鹿者だ」とは直接言わないまでにしろ、そんな感じが漂うような発言をなさっておられました。
 
 『古い古い政治気質の 何処までいっても いたちごっこかな』
 と、思いながらも、それでも聞いてた私って本当に馬鹿者?馬鹿だよね。

 これは、後々に聞いた話ですが、高谷岡山市長も、今度の片山虎之助の選挙の応援の時、
 『この人を落せば、後で皆に笑われる。損をする』
 とか、なんとか言ったとかで、物議を醸しているそうです。(8/5の山陽新聞より)

姫が虎退治をしました

2007-07-30 19:08:46 | Weblog
  
    姫が退治する

  昨夜からこの話で持ちきりです。
 27日の私のブログに、友達のお話として、こうなったら面白いだろうという話を紹介しました。易経の“雲は龍に従い、風は虎に従う”です。
 昨夜から、正に風雲急を告げて、山が崩れました。私は、まさか、それほどにもと、軽い気持ちで聞き流し、ここに書いたのですが、その通りの話しなり、本当にびっくりしています。また、この友人の「先見の明」の確かさに、いささか驚いたりもしています。
 これからの政界は一体どんな方向にいくのか、再度この友人に尋ねてみたいものだと思います。いかなる格言が飛び出すことやら。サプライズとはこんなことをいうのかしら?

お竈殿と世界遺産「石見銀山」

2007-07-26 19:11:29 | Weblog
 吉備津の鬼について書いていますと、吉備津神社のお竈殿の屋根の鬼瓦について教えてくださった方がありました。この建物は、瓦葺の入母屋作りで、そのお屋根には、それぞれ一匹ずつ容貌の違った10枚の鬼瓦が乗っています。温羅を祭ったお社だけのことはあります。これらの鬼瓦は温羅の家来か?。南随神門も同じ瓦葺の入母屋作りの建物ですが鬼瓦はありません。

 話は違いますが、このお竈殿を寄進した人は、安原備中守知種という早島の人だそうです。今回、世界遺産に登録された『石見銀山』は「神屋寿禎」という博多の人により、大永六年(1526)に発見されたそうなのですが、江戸時代の初めに、倉敷の帯江銅山の経営者として、鉱山開発の技術を身に付けていた知種が、どんないきさつがあったのかは分らないのですが、兎も角、石見銀山に、彼の仲間と一緒に出かけて、鉱山経験者としての今までの知識を生かして、この銀山最大の坑道を発見したのだそうです。その坑道は、年間3,600貫の銀を産出した釜屋間歩(かまやまぶ)です。
 この結果、新たに徳川幕府の直轄地になった石見銀山を、飛躍的に発展させます。その最大の功労者が、安原知種です。(当時の世界の銀の3分の1を産出していたという) その功績により、徳川家康から、武士でもないのに「備中守」という称号を慶長8年(1603)に授かったと言い伝えられています。山師として成功し、大金持ちになったのだそうです。
 その知種が、慶長17年(1612)に、250年ぶりに、お釜殿を再建します。なお、早島にある鶴崎神社も寄進したそうです。
 
 私事(ひとりごと);
 安原備中守知種は、「釜屋間歩」という、石見銀山一の鉱脈発見という大成功を見るのですが、もしかして、この銀山の開発に当り吉兆を、ここ吉備津神社で占って貰ったのではないでしょうか。
 釜の音が高く鳴り響く「吉」のお告げを受けて、銀山開発に着手します。そして『釜屋』という釜の名が付く間歩を見つけ、家康から、「備中守」を授からるような大成功を収めます。それが、後に、このお釜殿再建の寄進を思いくきっかけになったのではないでしょうか。
 資料等皆無なのですが、『釜屋』と『お釜殿』という字を見て、私の頭の中で勝手に想像してみました。

 なお、現在この『釜屋間歩』見学は許可されていないようですが、石見銀山の資料によりますと、近い将来見学可能とのことです。見学できるようになったら行ってみたいと思っています。
 これもごく最近になって分った、吉備津神社の特色のひとつにいれてよいのではと思って書いてみました。

吉備津にも愉快な鬼がいました。

2007-07-24 13:12:56 | Weblog
  知り合いの人から、
 「吉備津には、鬼が、今までもいてはりますよ。富田新聞店さんの表の塀にちゃんとおりますよ」
 と、教えていただきました。早速、行って写真に写してきました。
 いました。いました。3匹いました。でも、この鬼、一寸変った鬼でした。鬼といっても、人を食い殺したり、物を取ったり騙かしたりして人を随分の悩ますような、あの恐ろしい鬼ではありません。「陽鬼」や「元鬼」や「勇鬼」という愛嬌たっぷりの鬼でした。佐藤たかあきさんが描いた絵だそうです。ユーモアーあふれたその表情を見ていますと、独りでに笑いがこみ上げてくるような愉快な鬼たちです。こんな鬼さんなら、いくら沢山いても歓迎ですね。
 梅雨明けの真っ盛りの夏の太陽がぎらぎら輝いています。鬼たちが、その光を浴びてますます「元気」に「陽気」に踊っているようでした。その時、国道のあたりからでしょうか、今日も、参議院議員の選挙カーがしきりに「・・をよろしく。・・党に力を」と、大声を張り上げて通り過ぎて行っています。
 「ああ、選挙も終盤だなー。週刊誌などで、しきりに囃し立てられている姫と虎の戦いの結末はどうなるのかなー。元鬼、陽鬼、勇鬼の国になるためには、この間の講演会で、桂歌丸さんが、力説していたように投票率が、うんと上がったらいいのになー」
 と、なんとなく、この佐藤さんの絵を見ながら思いました。
 まあ、そんな選挙とは直接関係はないのですが、昨日、私は野暮用で、長いこと学生相手に漢文の講義をしていました友を訪ねました。この友人がこんな面白い事を言っていましたのでご紹介して見ます。 
 曰;
 「君、今、岡山では、虎と姫がどえりぇー競争をしているらしいな。週刊誌にしきりに書きたてられているように、姫が、虎退治でもしようものなら、来週の月曜の朝は、このニュースが日本全国を飛び跳ねる事だろう。大騒ぎになるどー」
 と、さも面白そうに、奥さんが用意してくれたコーヒーを一口飲んでから、また、
 「四書五経の中の『易経』という本に、少々意は異にするが、『雲は龍に従い、風は虎に従う』という言葉がある。面白いではないか。過去の亡霊今に生きるか。あははは・・。風も雲になるか。新潟の地震のように、山も崩れるか』
 再び、あはははは・・と高笑い。この高笑いには、私は、何時も驚かされるばかりしています。
 


今の世に、鬼がいたという話

2007-07-22 12:35:37 | Weblog
 入梅して間もない頃でした。今にも振り出しそうな梅雨空が大きく吉備の中山に懸かっています。
 私は、吉備津神社の参道付け替えに伴い、国道180号線沿いの大きな松の木が数本切り倒されると言う事を聞き、散歩がてらに、最後の松の勇姿をカメラに収めようと思い出かけていきました。
 それらの松の木は、大きく空に向かって己の枝を、誇示するように、一杯に伸ばしています。昆虫や車の排気ガスと必死に戦いながら、これまでに育った松の大木が、人間の勝手さのため切り倒されなくてはならない、植物自身の、此の世に存在する生の姿に哀れさをも感じながら、石灯篭をバックにしながらシャッターを切っていました。
 「この木は切るのだ」と、目印に付かられた、薄汚く色褪せた赤いビニールテープのわずかな端切れが、中山颪の山風にひらひらと揺れています。文明と伝統の間にあって、儚く消え去ろうとしている数本の松の木に、余計に去りがたい神聖さを感じながらシャッターを遠慮がちに切らせてもらいました。
 しばらく、それら数本の松を、その場に佇みながら眺めておりました。
 「はしにならん」「はしにならん」という、怒るのでもなく悲しむのでもなく、自分自身に語りかけるのでもなく独り言のような、年老いたご婦人の声が私の耳に飛び込んできました。
 「入れ歯でも落とされたのですか」と尋ねてみました。
 誠に品のよさそうなその老婦人は、はっとしたのか、
 「いやいや、ありがとうございます。聞こえましたか。つい周りのことにまで気をつけもしないで変なことを言ったようでしたね、驚きになられたでしょう。・・・・・・・。
 いやねー、入れ歯はちゃんとありますよ」
 お笑いになりながら、「どうにも腹がたって仕方がないので今、吉備津神社におまいりしているのです」
 と、その老婦人は、初対面の私に、切り倒されるだろう松の木の下で、次のようなお話を、ゆっくりと聞かせてくださいました。
 そのお話によると、自分の兄弟が死んで3周忌になるので、その法要について、甥の家に訪ねて行ったということです。すると、甥夫婦は、その老婦人に対して、今回は、わたしだけで、家族だけで簡単に法要をするから、皆さんは誰もお呼びしてはないと説明がありました。あまりにもびっくりしたものですから、
 「家族だけで法事をするなんて聞いた事がない。このあたりの家では何処もそんなことはしていない。第一仏が喜ぶとでも思っているのですか。そんなことをするとこの家の恥になる。よくない事なのだ。家族だけでの法事は止めなさい」
 と、死者に対する法要の意味やこの辺り一般の世間の常識を、懇々と言い聞かせたそうです。
 「これは私の家で、私達夫婦で決めたことなのです。他の人がとやかく嘴を差し挟むことではありません。もう決めたことなのです。こんな独りよがりの自分勝手な分らない事を言う人は、お父さん追い出して頂戴」
 甥のお嫁さんが声を高めて言うのだそうです。
 「追い出せとは、まあなんてことを、私が自分が生まれ育った家から追い出されるなんて。開いた口も塞がりません。話にも何もあったものではありません。話しになりません」
 私は、その老婦人の目をじっと見ていたのですが、涙もありませんでした。悲しみを通り越して、ご自分の生を静かに見つめられていられるようでした。
 「この吉備津には鬼はいないと信じていたのですがねー。去来さんが“鬼とりひしぐ吉備の山”と詠んでおられるように、ここには、鬼はいないと思っていたのですが、これって鬼の世界の話ではないでしょうか。それも女の。鬼は本当にいるのでしょうかね。話しにならん話でしょう。・・・・・・・・知らないあなたに愚痴を長々と聞いてもらってごめんなさい。・・・・・少しは気が治まったようです。ありがとう」
 あまり丈夫そうでない足を引きずるように、お宮さんに向かって歩んで行かれました。でも、やっぱりその後姿には、今までに、ついぞ体験したことのない人生の哀感みたいなものが私には漂っているように感じられました。
 倒される松の木と、次第に遠くなっていかれるやや前かがみにお歩きになるその老婦人のお姿を見比べながら、私は、何かやりきれない気持ちに駆られるような気分に陥りました。

 「鬼って」本当に、この世の中にいるのでしょうか?
 

鬼について-2

2007-07-21 09:31:08 | Weblog
 再び、「松の落葉」に戻ります。
 我、高尚先生は、前回にもご説明したとおり、「鬼」について書いてあります。
 始は、鬼は「もの」と読んでいて、「もののけ」というのはその名残で、化け物のたぐいであったようです。
 書紀では、神代の巻には、『葦原中ツ国の邪鬼(あしきもの)』とあり、また、景行天皇の巻には、 『山に邪神(あしきかみ)あり。郊(さと)に姦鬼(かたましきおに)あり』と書いて、鬼という字を「もの」「おに」という異なった読み方で言い表しています。
 鬼というものは、最初は、荒ぶる神の類なもの、しなくだれるもの(下品で見劣りするもの)であったのが、次第に姿を変じて、次のような形になってきたのです。
 恐ろしい形をしてく、妙(くす)しき技を使って、形を現したり、隠したりして色々その時に応じて変化して、人を食ったり、人を困らせ苦しめたりする者を鬼と呼んでいたようです。
 具体的にどんな形をしていたかということは本により色々と異なって記述されています。
 「毛がむくむくと生え、つめは刀のように伸びていたとか、また、顔の面は朱色で円座のように広く、目は一つあり、丈は9尺(約3m)ばかりで、指は3本、爪は5寸(約17cm)あり刀のようであり。体の色は緑青色で、目は琥珀色で、頭の髪は蓬のように乱れている」
 と。まあ大変ないでたち姿をしていたようです。
 又、この中で高尚先生は、鬼は男だけではないのだ、女の鬼もいるということをお書きになっていらっしゃいます。念のために。
 
 
 どうして、前に、一度取り上げた鬼を、再び取り上げたかというと、今も、この吉備津に、誠に奇天烈な鬼が、どうも居るらしいという事を耳にしたからです。
 その現代の鬼については、明日お話しましょう。

一人忘れていました。吉備の国の美女達-7

2007-07-20 08:47:26 | Weblog
 昨夜の夢見がどうも悪いようだったので、このシリーズを終わるに当って、もう一度、吉備の美女について思い巡らせて見ました。
 朝方、吉備津神社の明け六つの太鼓の音を聞いていました。するとその音の中から、
 「顔いと青ざめて たゆき眼(焦点の定まらない疲れきった眼)すさまじく 指し出だしたるその手の青く細りたるは恐ろしく」
 
 と書いている雨月物語「吉備津の釜」の女『磯良』(いそら)が顔を覗かせて言います。
 「どうして、私をお忘れなのでしょうか」
 と、さもうらめしそうに。

 「ついうっかり忘れていた」ともでも言おうものなら、たちまちに、その場で呪い殺されそうです。うやむにゃと口ごもりながら、今早速に、この文を書いています。

 そうです。この磯良も美人だったのです。
 この人は吉備津の神主香央造酒(かさだみき)の女子で、うまれだち秀麗(秋成はこれを“みやびやか”と読ませています)で、当時の吉備を代表する美女であったようです。
 
 少々夏らしく怪談じみてはいましたが、これが本当に、このシリーズ最後となりました。

吉備の国の美女達-6

2007-07-19 10:17:19 | Weblog
 美女シリーズは今回で終わります。
 歴史書に載っている程の美女を一国だけに見付けることが出来るのは相当難しいのですが。吉備の国では、その点は有難い事に6人も見つけることが出来ました。
 今回は、厳密に言えば「吉備の国の美女」のお話ではありません。「細谷川」という吉備の国の川が、一組の美女と美男を結び付けたお話がありますので紹介して、吉備の国の美人シリーズの中に入れさせていただきます。

「細谷川の丸木橋」という余り目に付きにくい小さな石碑が、成親卿の墓を下ったところに、ひっそりと立っています。
 「・・・細谷川の丸木橋 渡ればこわし わたらねば 恋しいお方に・・・・」と、この川は、平安の終わりごろ、「都」での流行り歌になっていたようです。

 この流行り歌を、恋文に取り入れて送った平家の若き公達、平通盛が居ました。相手の人は、禁中第一の美人とうたわれた「小宰相」と言う上西門院の女房です。
 平家物語によると、通盛はこの小宰相を見初めてから3年間も懸想文を送るばかりで、色よい返事は未だかって貰ったことはなかったのです。
 もうこれを最後にしようと出した通盛の恋文を、置き所なく、懐に入れていた小宰相が、偶然に女院の前に落としてしまいます。その恋文に書いてあったのが

   我恋は 細谷川の丸木橋 踏み返されて ぬるる袖かな

 でした。
 この文をご覧なされた女院は、小宰相に、
 「これは逢わぬを恨んだ文だ、あまりにも情が強いのも、かえってあだとなる」
とお諭としになり、ご自分でご返事をあそばれました。
 その歌が
  ただたのめ 細谷川の丸木橋 踏み返しては 落ちざらめやは

 これ以後、二人は深く愛し合うようになり、結婚します。細谷川が仲人となったようなものですから、吉備の美女の中に入れました。

 なお、この二つの歌は、平家物語の別本「長門本」では、

 通盛の歌;
  ふみかえす 谷の浮き橋 うき世ぞと 思い知りても ぬるる袖かな
 女院の御歌;
  谷水の 下に流れて まろきばし 踏みみてあとぞ くやしかりける
 
 となっていて、これも、まあ、読み方からすれば「細谷川」という言葉はありませんが、この歌の背景にある当時の流行り歌、細谷川の浮き橋やまろきばしが、二人を結びつける仲人みたいなものになっているようです。

 私は、どちらかというと、この長門本の歌が好きです。

吉備の国の美女達-5

2007-07-18 11:15:29 | Weblog
吉備の美女のお話も、後2つになりました。歴史書に載るということは、稀なることだともいます。「小野小町」も吉備の国で生まれたとされる説もありますが、諸説ぷんぷんで確証がありませんので、この記事では取り上げません。

 さて、今日取り上げる美女は、万葉集にある歌です。217に、“吉備津采女が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并せて短歌”としてあります。

 『秋山の したえる妹 なよ竹の とをよる児らは いかさまに 思い居れか 栲縄(たくなわ)の 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝には 失すといへ 梓弓 音聞く我も 凡(おほ)に見し
こと悔しきを しきたへの 手枕まきて 剣太刀(つるぎたち) 身に副へ寝けむ
 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思い恋ふらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露のごと 夕霧のごと』

 「したえる」とは優雅で大変美しいと、言う意味だそうです。また「とおよる」とは、しなやかな、たおやかなと、いう意味です。
 万葉時代の、人目につく吉備津出身の美女の一人であったのではないでしょうか。人麻呂が歌に詠むぐらいなのですから。

 まあ、1、300年前にも、人に噂されながら、きっと恋のためだろうと推察される自からの命を絶った、たおやかな美しい乙女が居たと言う事を心に描きながら、是非、声に出して読んでください。なんとも言われない爽やかな気分にしたる事が出来ますよ。

 もう一度載せておきます。

 『秋山の したえる妹 なよ竹の とをよる児らは いかさまに 思い居れか 栲縄(たくなわ)の 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝には 失すといへ 梓弓 音聞く我も  凡(おほ)に見し こと悔しきを しきたへの 手枕まきて 剣太刀(つるぎたち) 身に副へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思い恋ふらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露のごと 夕霧のごと』


吉備の国の美女達-4

2007-07-17 11:33:01 | Weblog
 仁徳天皇より五代後の雄略天皇の時に、また、吉備から絶世の美女が生まれています。
 これも、「書紀」からですが、吉備の上道臣田狭(たさ)が、朝廷の役人として政務を取っていたのですが、その役所で、自分の妻『稚媛』を随分と褒めて、同僚に紹介しています。

 「今、天下の麗人を挙げと言われれば、我、婦(妻)稚媛だ。細やかにさわやかに諸好(もろがお)が備わり、うららかに、にこやかであり、広き世にたぐい稀な当代随一の美人です」

 この麗と言う字は「記」では(よかりき)と読ましています。麗人とは“かおいとよかりきひと”と読んでもよさそうです。
 とても誇らしげに紹介しています。その顔が浮ぶようですが、ここで物語が終わらないのが、歴史なのです。
 その話を柱の影か何かのところへ隠れて聞いていたのが、雄略天皇です。『それほどの美人なら、自分のものにしたい』と思われて策略をめぐらさせます。
 まず始に、その美人妻を自分のものにするために、その夫の田狭を日本から追い払う事から実践に取り掛かります。任那の国司に任命して朝鮮へ遣ります。その留守の間に、まんまと、その時、既に、二人の子持ちだった稚媛を、天皇は自分の思い人にします。それでも、なお、その夫が何時朝鮮から帰って来て、稚媛を取り返すか分りません、『えい、いっそひとおもいに殺してしまへ「邪魔者は殺せ」とばかりに、田狭暗殺の計画を立て、刺客として、田狭の子を任那へ派遣します。
 さてこの結末はいかに、またの機会にでもお話します。
 
 なお、この事件については古事記にはありません。

 

吉備の国の美女達-3

2007-07-16 12:03:58 | Weblog
今日ご紹介する吉備の美女は、ただ名前しか書紀には出ていませんが、私の推量ですが,きっと、絶世の美女に間違いなかったのではと思います。
 その人の名前は、『吉備穴戸武媛』です。最初に紹介した兄媛のお姉さんです。昨日の播磨稲目大郎媛は伯母さんです。
 この穴戸武媛は日本武尊の妃になっています。結婚したのは、尊が熊襲を征伐した後、大和へお帰りになる途中で、現在の福山・鞆の辺りに巣くっていた穴済(あなわたり)の賊を退治された後ではないかと、藤井駿先生はお書きになっています。
 きっと、母の里、吉備にお立ち寄りになた時に見初めらて、その場で、美女と美男子のご結婚があったのではと思いますが、そこら当りの事を含めて、その後の二人について、歴史は、何も語ってくれてはいません。
 その後、穴戸武媛の父君の吉備武彦が、日本武尊の副将に任命され、蝦夷征伐に行かれます。

吉備の国の美女達-2

2007-07-15 17:19:39 | Weblog
兄媛と黒媛は大変な美女で、時の天皇が恋して已まなかったのですが、今日の美女は、時代的に言えば,それよりも200年も前のお話になります。十二代景行天皇の時代です。
 この景行天皇の皇后になられたのが、若日子建吉備津日子命の媛の播磨稲目大郎媛と言われたお方です。この媛もこれまた、言い伝えによりますと、天下を騒がすにたる絶世の美女だったということです。
 歴史書には何も書いてはないのですが、彼女の息子が、あの日本武尊です。書紀の中で、尊のことを、次のように書いています。

 「尊が16歳の時に、九州の熊襲が、大和に反旗を翻して反乱を起します。その熊襲征伐に日本武尊を遣わします。その熊襲の長「取石鹿文(とりいしがや)」亦の名を川上梟帥(かわかみのたける)と言います。この敵将を討ち取るために、尊は、自らの髪を解き、人々がはっとするほど美しい童女になり、川上梟帥の宴席に侍ります。川上梟帥は、童女の容姿を感(め)で、手を携えて席を同じくし、杯を挙げて酒を飲ましつつ、戯れて弄る(まさぐる)。そのうち、その席から人もだんだんにいなくなったのを見計らって、尊は袂に隠し持っていた刀で、川上梟帥を殺します」
 と。
 
 それぐらい見目麗しい美しい女姿に変身できるのですから、その母の、稲目大郎媛も、どんなに美しかったことだろうかと、ぞくぞくしたくなるようなその姿が目に浮びます。
 吉備にはこんなに美しい人が、天皇から愛されるような絶世の美女が過去にも沢山いたようです。楽しい話ですね。
 もう2、3人、「吉備」に関係がある美女のお話をさせていただきます。

吉備の国の美女達

2007-07-14 16:33:15 | Weblog
 吉備武彦の娘、兄媛が大変美人であったと言う事を書きましたが、この吉備地方からは当時相当の美女が生まれていたようです。正史に残る吉備の美女達を。松の落葉は置いといて、しばらくご紹介していきます。
 兄媛は「書紀」ですが、今日は古事記にある吉備の美女を取り上げます。
 時代は応神の後の十七代仁徳天皇の時代です。
 この天皇は、ある時、高台に登られて四方の国々をみると、人々の家から煙が立ってないのに気付かれたそうです。人々が困窮している様子を察して。3年間も税をとらなかったそうです。そのため天皇の大殿は雨漏りがしてその修理もしなかったそうです。しかし、3年後、再び、高台に上がられて見るに、人々の家から煙がしきりに立ち上っているのを見て、再び税を課したと言う事です。誰かさんに聞かせたいですね。

 さて、この天皇を有名にしたのは、この他に、磐(石)媛と言われた大后があります。
 この后、誠に嫉妬深かったそうです。「記」には、『甚多嫉妬』とあります。その天皇の側に仕えていた(采女として)のが、吉備海部直(きびのあまのあたい)の娘で黒媛です。仁徳もこの黒媛を深く愛していたのでした。そんな二人の関係を知った磐媛の嫉妬を恐れて、黒媛は、急遽、吉備の国へ船で逃げ帰ります。それを知った磐媛は家来を遣って、船に積んである黒媛の荷物を陸揚げさせて、徒歩(かち)で吉備まで追い返します。
 そのようにして別れた黒媛のことが、仁徳には愛しくてたまりません。何とかして逢いたいと思ってもどうする事も出来ません。そこで何か、后の磐媛を欺いて黒媛に逢いに行く手段はないかと思案の末に、思いついたのが、瀬戸内の島々を視察すると言う名目て吉備の国に行くと言う計画です。そして、ついに念願かなって、吉備の黒媛にお会いになります。しかし、「記」には、黒媛が住んでいたのは、「山方」(やまがた)だとしていますが、その山方は吉備のどの辺りかは分りません。
 なお、『山上』と言う地名は足守の福谷の上にあることはあるのですが、地形的に見て其処があそこだとは言い切れません。
 その時歌った御歌が、
   山縣に蒔ける青菜も吉備人とともにし摘めば楽しくもあるかな
 です。
 なお、『たのしくも』は『多怒斯久母』と書かれています。『楽し』は『たぬし』と読んでいたようです。

 なお、このとき黒媛も、天皇に「大和辺に西吹き上げて・・」と、二首返歌していますが、長くなりますので省きます。

 なお、宣長は古事記伝の中で、仁徳天皇は、他に丹波の桑田の玖賀媛にも恋したと言う記事もあり、この「くが」媛が「くろ」媛になったのではとも書いおいでです。結局、兄媛も黒媛も玖賀媛も出は一つではないかとお書きになっていらっしゃいます。同一の人物ではないかと。
 でも、読む者としては、美人は多い方がたのしいですね。
 
 蛇足;この本居宣長の十大高弟の一人が、我;高尚先生です。

 

笠臣について

2007-07-13 14:25:32 | Weblog
 書紀によりますと、兄媛を慕って、大和の国から、はるばる葦守(現在の足守)に行幸なされた応神天皇を、御友別命一族が、深く親身になって饗応します。その奉公に対して天皇は、この一族の者を、吉備の国々に安堵します。
 長男の稲速別(いなはやわけ)を川嶋県主に、また、御友別命の弟の鴨別を「波区芸(はくき)」県主にしたとあります。これが笠臣の祖だそうせす。
 この波区芸県が何処にあったのか、はっきりとわかっていません。笠岡のあたりだ、いや鳥取県日野郡あたりだ、いや旧御津郡(一宮)のあたりだ、と、諸説ふんぷんとして定まらずです。
 まあ、川嶋河の虬退治のお話にも出てくるのですから、浅口・笠岡辺り(岡山県の西南部)であったのが本当なのではないかと思います。

 なお、蛇足ですが、上田秋成の雨月物語の『吉備津の釜』の中に出てくる吉備津の神主の女子も、この鴨別の裔だとあります。これは物語ですが、笠臣(鴨別)というのもかっての吉備の名家であったことは確かです。

 万葉歌人笠朝臣金村も、この笠臣の出身だと言う事だそうです。

こんな本が手に入りました

2007-07-12 20:56:31 | Weblog
 「犬の歩けば棒に当る」ためし、近頃「徒然草」の文政時代に発行された古書を手に入れました。今、その本を現代訳の本(新潮日本古典集成)と比べながら読んでいます。毎日の楽しみの一つです。
 さて、今日は、166段のあたりを何気なく開いて目を通していました。これは一寸兼好らしい、やや皮肉っぽい感想を書いてありましたのでご紹介します。

 「人が会うとき、言葉が必ずあり、その言葉のなんて無益な事。そんなものを聞くのはなんて無駄な事か、得する事なし」と。

 さて、明日の虎さんの演説会には行くべきか否か?
 
     誰か教えてほしい!!