私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

明日から二月です

2008-01-31 10:33:16 | Weblog
 「早いもんだですね。明日からもう二月ですね」
 吐息の漏れそうな言葉があちらこちらから聞こえて来る今日は一月尽日でした。
 「正月も夢の内にぞ通り過ぎ、はや如月の空を見んとは・・・」
 そんな芝居のことばも頭を掠めます。
 明日は如月です。
 この「きさらぎ」とは、あまりの寒さゆえに着物を着た上にも更に重ねてもう一枚服を着重ねるので、「着更着」で「きさらぎ」になったと言う説が有力ですが、この他に、「時気(余寒)更に来る」で「キサラキ」となったという説もあります。又、珍しいものに「伎佐良芸月」(きさらぎつき)というのもあります。これは「久佐伎波里月」(くさきはりつき)で草木の張り出すつきという意味だそうです。
 その他いろいろとこの二月の名はあるのですが、一年のうちで一番寒い月であることだけは間違いありません。
 昔からこのつきは如月、梅見月、初花月、小草生月(おぐさおひつき)、早緑月、令月、仲春等と呼ばれていたようです。それぞれの呼び名に、昔の人の節気に対する感覚の鋭さを感じずにはいられません。
 
 今日家の近くで「鶯を見た」という老母の言葉に、又「いい加減な年寄りの思い違いをして」と、適当にあしらっておいたのですが、考えてみるともう鶯の我家近くまで飛び来る時節になっているのです。本当に早いもんですね。

 鶯の 口元寒き 二月かな
 
 

鯉山小学校へ

2008-01-30 15:11:34 | Weblog
 今朝、頼山陽が名付け親だという「鯉山」の名を頂いた小学校の1,2年生の「むかしあそび」という授業に参加しました。
 お手玉、独楽まわし、おはじき、竹馬などの授業が計画されていて、それに地域のお年寄り達が参加して、子供達と一緒に遊ぶのです。
 
 私は、今年は竹馬で子供達と遊びました。60年も昔の経験です、果たして出来るかなと、いささか不安はあったのですが、やってみれば昔の感は直ぐ戻り、「昔取った杵柄」とはよく言ったもんだなと感心しながら子供達としばらくの時間を楽しみました。
 考えてみれば、誰でも何処でも普通にしていた遊びが今では影も形もなくなってしまっています。この前書きました西行が
    いしなごの 玉の落ち来る ほどなさに
             過ぐる月日は 変はりやはする
 と、詠んだこの「いしなご」という遊びなどは平安鎌倉の時代から江戸明治昭和と、800年以上も昔からずっと続いてきた子供達の代表的な遊びも、今では知る人ぞ知るぐらいの遊びにしか過ぎなくなってしまっています。この50~60年の間に完全に消えてしまっているのです。
 そうそう、冬の代表的遊びに「肉弾」なんてのもあったように覚えています。
 そんな、今では子供達の生活の中から完全に消えてしまった昔遊びを現代の子供達に体験させる意義があるのかないのかは知りませんが、私の町の鯉山小学校では、毎年、続けておられるようです。
 私が参加させていただいた「たけうま」遊びも考えてみれば「竹馬の友」の語源の通り生まれは中国ですが、奈良に都が置かれていたか、そのあたりの時に伝わってきて以来の子供達の遊びですが、今では、学校で体験するしか経験できない遊びに成り下がってしまったいます。我々の時代に、もしも、こんな遊びを「学校で習う」とでも言おうなら皆に馬鹿にされるのが落ちだろうなと思いながら、子供達と一緒に楽しく遊ばせて頂きました。

 一面の雪景色です

2008-01-29 08:49:15 | Weblog
 朝方から雨になり昨夜来の雪も踏めばすぐ水になりそうな、誠に淡い雪景色です。窓から見える吉備の中山の木々に掛かった雪も重そうに冬独特の色のない花を咲かせて、一段と趣向を凝らした風景を展開しています。「雪もまたいいものですね」と誰かに呼びかけ、高尚先生ではないのですが、朝から雪見酒と洒落込みたい気分にさせてくれます。
 中山の麓にある吉備津神社はお屋根替えの最中です。今朝、工事用の覆いの上に積もった雪が面白い模様を作っていました。恰も鳳凰が羽を広げて大空に舞い立っているようでもあります。この里の瑞兆のようでもあります。

    鳳凰の 形を載せて 残雪は
         社の屋根に 冬を嵌め込み

高尚先生と雪

2008-01-28 21:57:20 | Weblog
 今、外は雪です。この吉備津では大変珍しいのですが、早や今年二回目の積雪です。そこで今日は、「高尚先生と雪」を取り上げます。

 先生の歌の中で、雪を題にしたものはごく少ないのですが、かって山陽の題字の額が掲げられていたといわれる「鶏頭樹園」に関係ある歌の中に数首見えます。

  雪ふりける日にかへでの園にゆきて
   かへる手は雪にかくれて白玉の林の園とみゆるけふかな
   あはれはれかえでの園の冬かれを花の林となせる雪かな
   春秋のもみちもあれといいしらぬ雪の花さくかえるでの園
   山まつにとひかうけさの朝からす見はやす雪をうちちらしつつ 
   花ならは色そはましを朝づくひにほへはきゆる木々の雪かな

 なお、「かてる手」は楓の古語です。「見はやす」は見ているとぐらいの意味でしょうか。又、「朝づくひにほへは」は朝日に当ってという意味ではないかと思いますが。

 めったに降らないこの地方の雪と、ご自分手ずからお植えになられた冬枯れの殺風景な楓との組み合わせが、いかに先生のお心をお慰めしたかと言う事がこの歌から分るように思います。
 回りの障子窓を全部開け放されて、お好きなお酒でもちびりちびりと召し上がりながら、お作りになられたお歌ではなかったのでしょうか。

失礼しました山陽先生

2008-01-27 15:24:25 | Weblog
 「山陽と吉備津 3」に、当時、香川景樹は「介」ではなく「守」で、これは山陽先生のミスだと、私は書きました。
 「山陽先生たるもの、そんな簡単な事には決してミスしない人だ。きちんと調べたのか」
 と、いう例のお節介さんからのメールが届きました。
 早速、あちらこちらから本を取り出して調べてみました。
 ありましたありました。
 調べた本(南天荘雑筆と頼山陽の百年祭を迎へて)によりますと、景樹が長門介(従六位下)に任じられたのは、山陽先生が広島藩を脱藩した罪を許された享和三年三月だということです。肥後守(従五位下)に任じられたのは、景樹の七十四歳の時の天保十二年のことです。この時、既に山陽先生は鬼籍に入られて十年近くなっていたいました。
 このことを考えて見ますと、竹堂の事を山陽先生が知らせた時(天保元年)には、まだ景樹は「介」でだったのです。山陽先生のミスでも何でもありません、私のミスなのでした。お粗末な話です。相すみません。
 「ぴょっこん」「ぴょっこん」「ぴょっこん」


 なお、わが高尚先生は寛政十一年五月に「従五位下 長門守」に任じられています(三十六歳)。

頼山陽と吉備津4 鶏頭樹園

2008-01-26 10:30:41 | Weblog
 わが高尚先生は、五十一歳の時、社務と家督を嫡子『高豊』に譲り隠居され、悠々自適の生活をするために別荘「鶏頭樹園(かえでのその)」を、宮内の吉野町お建てになっておられます。そのあたりの様子は詳しく『松屋文後集』にあります。

 「おなじ宮の郷のうちながら、松の屋とははなれて、吉野まちというまちのひんがし。普賢院という寺の北隣におのがおり所をつくれり。さるは年老て、御社の事とるわざ、家のことども、みな高豊にゆずりて、いとまもあり、今はのこりのよはひもわずかなれば、をりをりにゆきて心をやり、つれつれをもまぎらはさんとての事なりけり。めもはるかにおもしろき所にて、かへでの園とぞいう。しかいふゆゑはかへでの木数をつくしてうゑつればなり。此木とさくらとはよその国にたえてなく、み国に名たたるうゑ木なるに、松桜のなみたてる堤をうしとらのかたにみわたす所なれば、まがきのうちにこれをと思ひよりたるぞ。・・・・・」

 この園も今では跡形もなく取り払われてしまって、その姿すら留めてはいませんが、写真に残っているのでそれを紹介します。
        
 なお、山陽との関係ですが、この庵には、当時、山陽の筆になる「鶏頭樹園」という横額あったと伝えられていますが、今では見られません。どこかにそっと姿を隠しているのではと思い、それとはなしに吉備津内を捜していますが・・・・。

頼山陽と吉備津 3 山陽の手紙の吉備津

2008-01-25 17:08:57 | Weblog
 あまり興味がないかもしれませんが。もう2~3回「山陽と吉備津」にお付き合い願います。
 山陽が、当時、京で有名になってい香川景樹という人の門をくぐったのは文政2年ごろのようです。この山陽が香川景樹にあてた手紙に吉備津と山陽を結びつける文が載っています。それは「備中人竹堂老人」という文字です。この景樹も竹堂を知っていたのかもしれませんが、山陽は、しばしばこの吉備津を訪れています。
 この「真野竹堂」と言う人は、当時、この吉備津でというより山陽道で有名な儒者の素封家として、江戸末期の全国の有名な文人墨客が沢山訪れていたようでした。
 その景樹宛ての山陽の手紙を写真で載せておきます。
 ①は 『今日竹堂(備中人真野老人)御見舞可申と被申候故・・・』

 ②は 『香川長門介様 頼久太郎 備中真野竹堂持参・・・』

 なお、香川長門介とあるのは、山陽の間違いで、本当は「守」なのだそうです。山陽のちょっとしたミスだったようです。







 

頼山陽と吉備津 2 高尚の手紙の山陽

2008-01-24 11:00:50 | Weblog
 藤井高尚先生の歌集に、
   
 みな月十日のひに頼襄がとひ来りければ
     あはだ山 あわれみとせに なりにけり
              高屋のまとゐ きのふと思うに

 と、出ています。
 これからも分るように、高尚先生と頼山陽とは入魂の仲であったという。
 なお、この歌についてですが、その背景はよく分りません。ここにある「あはだやま」も、何処にある山なのか、なにかの枕詞なのか、それとも誰かの号なのか。
 「高屋」も何処の高屋か分りません。ここで誰かと膝を突き合わせて話し合った「まとゐ」したことが昨日のように思われる、というぐらいの意味だと思いますが。高屋と言うのは井原市の高屋かもしれません。菅茶山の「廉塾」が神辺にあり、そこで、山陽は一年ほど教えています。
 推定しますと「あわれみとせに」と言う詞から、誰かが亡くなって3年が経過したのだろうと言う事は想像がつくのです。
 この誰かというのは、山陽の父春水だったという事も考えられます。もしそうだとするなら、この歌が詠まれたのは。父春水の死は文化13年ですので、文政2年の夏だということになります。
 この文政2年、山陽は、春、母と吉野の桜を楽しみ、夏、母を送って広島に帰っています。高尚先生を訪ねたのは、この時ではと推測されます。又この文政2年には、高尚先生撰文の雪舟碑文も書いています。これもこのときの書ではと思われます。
 
 まあそれは兎に角として、山陽がこの吉備津と深い関わりがあったことは確かです。

頼山陽と吉備津1ー普賢院山門の石碑

2008-01-23 14:48:53 | Weblog
 しばらく頼山陽とお付き合いください。
 吉備の中山を山陽が「鯉山」と名付けたとお知らせしましたが、この頼山陽と吉備津との関係は、いろいろな所で非常に深く結びついています。
 前にも、一回「宮内」で、「普賢院の山門に、山陽の書いた『不許葷酒肉入山門』という八文字を彫りこんでいる石碑が建っている」と、ご紹介しました。誠に堂々として見る物をして自然にそんな気分にさせそうな見事な山陽の字です。
          
 
(どうも写真の撮り方がへたくそで、山陽の書いた字が、この写真からはよく読め取れませんがお許しください。又挑戦してみますが、どうぞ興味のある方は、お寺に参って直接ご覧になられたらきっと驚かれることだと思います。本当に美しい文字です。さすが山陽です)
 
 この石碑の意味は説明の必要はないのですが、葷(クン)とは生臭いものという意味だそうです。元々は禅などの修業に妨げになると言う事で「禅寺」の寺門のそばの戒壇石に、〈不許葷酒入山門〉と刻まれて掲げられているのですが、ここは真言宗のお寺です。だから山陽は、わざと、この中に「肉」という字を入れて、「禅とは関係がないお寺ですが、仏の忌み嫌うものを食べてお寺にお参りすることは随分と不敬な事になりますよ。また、持ち込むこともよくないことですよ」と、人々に知らしめるために書かれたものではないかとも思います。
 また、これとは別に、もともと吉備津神社の氏子では、鹿や猪の肉を、更に鳥の肉までも食べる事は厳しく戒められています。もしかして、その頃より、吉備津の人もそんな肉類をしきりに食べるようになったのかもしれません。だから、高尚先生辺りからの要望もあって書き入れたのかもしれません。
 それは兎も角として、この『肉』という一文字を入れて書かれている普賢院の石碑についても色々と想像を掻き立ててくれます。
 もっともっと多くの人に知ってもらいたいものです。
 
 この石碑の建立については「真野竹堂」あたりと何か関係があるのではと思いますが、そのいわれは聞いていません。普賢院のお和尚様に一度お尋ねしたいものだと思っています

 

降る雪や明治は遠くなりにけり

2008-01-22 10:16:43 | Weblog
 久しぶりに吉備津も雪化粧をしました。踏めば直ぐ消えいりそうな淡い淡いこの地方特有のぼた雪です。電線に積もったその雪は風もないのに,己自身の重さに耐えかねたように「どさっ」と、突然に音を立て道に落ちてきて、肩をすぼめて登校している子供達の甲高い声を誘い出させてます。その子供達は、落ちた反動でなお激しく揺り動いている電線にも、「ほうほう」と声を出し合いながらしばらくそこに佇んで見上げていましたが、あっという間に道側に積もった雪の上を飛び跳ねながら、「ぽっぽっ」と白い息を吐きかけながら道を遠ざかります。

 そんな久しぶりの雪の景色を見ながら「雪の吉備津」でもと、カメラをぶら下げて、
 「この寒いのに物好きじゃなあ、転んで怪我でもしようものなら・・」
 と、冷ややかな家人の目を後ろにしながら家をでます。
 途中、出会う人ごとに互いに、
 「変なものが降りましたなー」
 と声かけをするのですが、そんなどの人も、勿論私もですが、その言葉とは裏腹に何かニコニコとこの雪を楽しんでいるかのようでもあります。踏みつける一歩一歩に、雪に触れる喜びでしょうか何か輝きのようなものが体全体に、足の先から頭のてっぺんにまで、伝わってくるようでもあります。
 
 雪の松並木を通り、神社の広場にでます。そこに立つ木堂の銅像も雪を被って、何かこれもまた楽しげに私の目には映ります。
 「そこから何が見えますか」
 と、たずねたい気になります。
 考えてみれば、もう平成20年です。この像が出来てからも随分と時間がたちました。だんだんと昭和も遠のいています。雪だからこそそんな思いを掻き立てるのでしょうか。

 草田男が、昭和五年頃だったと思いますが、「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠みました。雨でも雲でも夕焼けでもない、雪でなくてはならない何かを、必然みたいなものを見つけたから、この句が出来たのではと思います。そんな鋭い感性は私にはないのですが、今朝のこの雪に立って本堂の像を見ていたら何かこの草田男の句の持つ凄さというか大きさが、ぼんやりながら分るようでもありました。
 それから、神社にお参りし、回廊を通りシャターを切り切りしながら、雪の吉備津を歩きました。

 回廊に来てまたちょっと洒落てみました。お笑いください。

   屋根は伸び 雪に隠れて 白帯の          
             山に入り行く 宮の静けさ
            
           
 

倉稲魂神社

2008-01-21 10:30:18 | Weblog
 久しぶりに不思議な神様を発見しました。それについてお知らせします。

 昨日、県立図書館からの帰りに鶴見橋の西詰めから新鶴見橋(弓之町)に到る旧道を久しぶりに通りました。信号待ちの間に、何気なくこの道の左側にある小さな祠が目に留ります、なんと言う事もない、ごく当たり前の、何処にでもあるような小さな祠です。その祠の案内板には「倉稲魂神社」とあり、何かこのお社のいわれみたいなものが書いてありましたが、信号の関係で、その説明も、ちらっと一瞥しただけで車を進めます。
 この「倉稲魂」は、吉備津の「宇賀神社」の所でもちょっと触れましたが「ウガノミタマ」と読むのだそうです。日本に、最初に稲作技術が入った弥生の昔からいらした神ではないかと思われます。
 この字が出てくる最初は、日本書紀「神代巻」です。
 例のイザナギ・オザナミの二柱の神が沢山の御児をお生みになります。吉備の児島の神である建日方別もそうです。吉備津神社の一番古いとされているお社「岩山宮」にお祭りしてあります。
 この二柱の神様の飢えた時にお生まれになったのが、この「倉稲魂命」です。稲=穀物=食べ物を司る神とされています。
 昔から「ウガ」「ウケ」と読まれていた様です。吉備津命神社にある「保食神」(ウケモチノカミ)と同類の神様のようです。
 それはそうとして、どうしてこんな所に「倉稲魂神社」がお祭りしてあるのか不思議でした。
 お稲荷さんと何か関係がありそうですね?
なお、岡山市の地図には「榎本神社」と出てす。関連が分れば又お知らせします。

燭の火六つ願いこめ・・・

2008-01-17 09:19:49 | Weblog
 16日に、「歌会始の儀」が行われたと今朝の新聞に報じられています。その中の一つ、雅子皇太子妃のお歌です。

 ともさるる 燭の火六つ 願いこめ
         吹きて幼なの 笑みひろがれり
 わが子を思う慈愛満つ母の御歌です。

 この歌会始と御儀の事始は、文明年間(1460年ごろ)後土御門天皇の時からはじまったと伝えられています。
 
 今年は世界各地から二万点以上の歌が寄せられ、入選者の中に、十代の人の歌もありました。

  吉兆を 温羅の声にて 知らすとう
          釜殿の火の 嚇々と跳ね
 
  釜鳴らす 松の割木の ぱちぱちと
          火の粉巻上げ 阿曾女の春に  亮

頼山陽と鯉山

2008-01-16 10:52:40 | Weblog
 今、吉備津の小学校は「鯉山」という名が付けられています。なぜ「鯉山」なのでしょうか。
 言い伝えによりますと。或る時(江戸の末期)、広島の竹原が故郷である頼山陽が、この地を旅して、この吉備津に宿した(おそらく真野竹堂の家か)時、「吉備の中山」が鯉の形に大層似ていたということで、そのお山を
 「まるで鯉のような山だね。鯉山だね」
 と、言ったのが、その由来だとされています。それが伝え伝わって、今では小学校の名前にまで付けられています。
 さて、いったい山陽は、吉備津の何処から眺めて、この山を鯉山だと名付けたのかと、暇に任せてカメラ片手に、吉備津のあちこちを尋ね歩いてみました。明確な場所は分りませんが、多分、現在の吉備線吉備津駅裏を通っている旧山陽道からではないかと思いました。丁度、参道入り口の石の大鳥居付近から眺めた場所が、一番鯉の形に似ているのではと思いました。                 
 (尚、この写真は吉備津駅の直ぐ上の旧山陽道から写したものです)

小豆粥

2008-01-15 10:15:35 | Weblog
 十五日の朝、昔は何処の家で小豆粥を食べていたのですが、この頃はすっかり影を潜めてしまっています、天皇家でもやっていたと言う事ですが現在はどうなのでしょうかね。
 この小豆粥というのは、言われはどうも中国あたりにあった風習が日本に伝わって、それが、一般の家々でも真似られたらしいのです。

 いわれは幾通りかがあるらしいのですが、どうもそれらに共通しているのは、ある人(蚩尤、高辛氏の娘、共工氏の息子など)が死んで祟りが色々とあり、その人が生前好んでいた小豆を十五日に炊いて供えた所、祟りがなくなったと言い伝えられています。
 なぜ小豆なのか、なぜ十五日なのかなどよく分らない事があるのですが、ともかく、その日に小豆粥を食べていたということです。
 こめ、あわ、きび、ひえ、ごま、あずき、みのの7種を入れて、粥を作った、と、本に出でいます。
 この粥を炊いた後の木を削って、女の人をしりを叩くと男の子ができると言う言い伝えも(室町の頃、将軍家でもやったと、これもまた書物に出ています)、日本にはあったようです。

十四日年越

2008-01-14 10:54:03 | Weblog
 これも昔々のお話になって、人々の間から忘れ去られてしまい、全くの過去のものとなってしまっているようですが、ほんの50年ぐらい前までは、この地方でも当たり前の行事として各家ごとで行われていました。
 十五日は、昔流に言えば「小正月」です。その前日は、正月に飾りつけた注連縄などを取り払う「十四日年越」です。この日は大晦日と同じように、又、年越しそばなどを食べていました。
 十五日の朝には「小豆粥」(明日紹介します)を食べ、また、「骨正月」といって、正月に使った鰤の骨などのあら(脯しおもの)に大根や大豆を入れて、糟汁などを作って食べる習慣もありました。この汁に入れた「おおねぎ」の白い部分が甘くて大変美味しかったと、覚えています。この日を境にして正月行事はすべて終了します。
 「若けえもんにゃあ、正月気分をにいて(「抜く」と言う言葉の方言)、ほんごしゅうをいれてもらわにゃあ(本腰を入れて仕事をしてもらはなくては)」
 と、親たちをして言わしめた日でもあったのです。
 
 なお、昭和の初め頃ですが、輪飾りや注連縄などのお飾りをつけた所は、まず、玄関、床の間、神棚、仏壇、おどくうさま(竈の神)、井戸、牛小屋などの小屋、くわなど農具、風呂は勿論便所にまで。また、お墓、祖先神、田畑にあるどんな神がいるのか分らないような小さな焼き物で出来た祠(それぞれの家で分担があったように思われます)これがまあ4~5所、そのほか観音・太子堂などの祠にも、堤防の上にあったお地蔵さん、今では水も何もなくなっている石組みだけが残っているような昔誰かが使っていた古ぼけた井戸、椋や榎のような大木にまでにも備え付けた記憶があります。これら取り付けに行くのは子供の仕事でしたので、年末の30日には、結構、子供達も朝から大張きりで働いていたように記憶しています。特に、自分の家の田圃が遠くにある子は大変だったよでした。
 それら年末の30日に取り付けたお飾りを取り外しに駆けずり回るのも、又、子供達の役目でした。でも、明日の「とんど」があるので、毎年張り切ってやっていたようでした。
 だから、お飾りといっても、近年のようにたった一つか二つではなく、大変沢山の数と種類があったようです。神棚、玄関などの出入り口等その種類も掲げる場所ごとに特色がありそれぞれに違っていたようでした。そんなの沢山の飾りが近所隣5~6軒一緒で川原に出て焼くのですから、それはそれは大変な量になったように思えます。それこそ小山のようになっていて、子供心に「ぎょうさんあるなー」と感心した事を覚えています。
 その火に翳した小ぶりの橡の木の二股の枝の間に挟みこんだ3つも4つもの大きな真ん丸なお鏡餅が、立ち上るとんどの炎の中で真っ黒くすすけることなく、段々と焼け上がる大人の人達の仕草を見るのも、また、「とんど」の日の楽しさでもありました。 焼きあがったとんどもちを家に持ち帰り、神に捧げた後で、皆で頂きます。心をわくわくさせながら、その時の到るまで、じっと食べたいのを我慢しながらを「待つ」という時間を子供達に自然に会得させてくれていました。「待てば海路の日和あり」ということを、社会がみんなして身をもって教えてくれていました。このような社会のしきたりを、常識というものを、子供達に理屈ではなしに、実戦を通して教えてくれた先生が何処にでも転がっるようにしていたのではと思います。
 それなど皆、昔は、今から50年ほど前までは、神が、我々の身近な生活の中に何時もいたからこそ出来たのではと思います。今は、そんな神が、第一我々の生活の中からいなくなり消えてしまって、それに比例して、社会の教育力が低下しているように思われます。