私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

江漢は何故「宗坐」に立ち寄ったか?

2011-04-30 08:27:07 | Weblog

 「画図西遊旅譚」では、江漢は、折角立ち寄った足守には、尋ねる藩主足守侯がいまだに御帰国していなかったので、4日ほどここに滞在してえ、再び長崎へと西遊しています。でも、その足守から板倉に出て山陽道を下るのが道順でしたが、此の時、江漢は、大廻りしてわざわざ「宗坐」に立ち寄ったと書いています。その故が分からなかったのですが、この「春波楼筆記」を読んでいるうちに、なるほどなと云う事に気がつきました。念のために、もう一度、「図画西遊旅譚」のその部分を書いておきます。

 「九月十四日(天明八年のことです)足守を発して長田村を過窪木村より宗坐と云所人家つづけり。富家多有。夫より中原川を渡り岡田に至。伊東侯の陣屋有。程なく矢掛に出る。往還なり。板倉侯領。地人家続く。此間吉備公の墳あり。夫より神辺今津・・・・・・」

 此の宗坐に立ち寄ったのを画聖雪舟の修行の寺である「寶福寺」にでも、立ち寄るためかとも思っていたのですが、春波楼筆記に、この古松軒の事を、二度まで、「天の逆鉾」と「南部の辺地」の事ですが、記しているのを読んで、なるほど、江漢は、古松軒の住んでいる土地を見学する目的で、この伊東侯の陣屋のある岡田に立ちようためだったのだと確信しました。
「備中岡田平治兵衛が東遊雑記に見るに」「古川平治兵衛が西遊雑記に云う」と云う風に「古松軒」の事を江漢は「春波楼筆記」に紹介しています。

 しかし、江漢はその岡田については何も詳しい説明はしていません。「岡田に至 伊東侯の陣屋有』と簡単に書いているだけです。


古松軒の「東遊雑記」

2011-04-29 09:19:20 | Weblog

 備中岡田藩の古川平治兵衛こと古松軒は天明年間、時の老中松平定信と関係があったらしく、天明8年の「幕府巡見使」に随行して東北地方から北海道を巡っています。その時の見聞を元に書かれたのが「東遊雑記」です。
 これについて、江漢は、「東遊雑記を見るに」として、次のように記しています。

 「南部の辺地を通行せしに、米櫃、金匣、帆柱、佗の類波に打ち寄せ渚辺にある事限りなし。所の者に云て曰く、何ぞ拾わざる、取りて薪とせざる、今稀に金銭もあるべしと。所の者答えて曰く、此の物は皆破船したる者の失う所、これを取りて我が物にすれば必ず亡霊祟をなすかつて拾う者なし。北方の辺地愚直なる事を知るべし」

 

 どうです。南部地方に人達は、例え波によって漂着してきたものであろうと、それを己することを潔しとしなかったのです。持ち主はちゃんとどこかにいる。そんな人たちがとりに来るまで手をつけるべきでないと、打っ棄っておいたのです。人のものと自分のものとを断然に区別して、他人の物には、流れついたものであっても、決して、手をつけないという律義さが身に染みついていたのです。
 これを「愚直なる事」として江漢は、単に、済ましていますが、東北地方の人たちは、江漢が云っているような単なる「愚直=馬鹿正直さ」だけではないと思います。己と他を全く同一化して見るというか、自分は何かによって生かされているのであって、他の人と全く同じであるという伝統的な縄文的な心が強く心の内に残っているのだと思います。〝仏の心に近い〟と云っていいのかもしれませんが。
 そんな心が世知辛い現代社会になっているのにもかかわらず、現代にまで生きていたのです。それが証明され、しかも、そんな行動が世界中の人たちの感動をよぶきっかけともなったのが、はからずも、今回の東北地方で起きたあの大震災だったのです。

 「困った時はお互い様だ、自分よりお先にあなたがどうぞ」
 と、云うような日常的な会話が、騒動の間にも、平生の姿である如くに姿を見せたのです。非常時の中に見え隠れしていた人を愛しむという、そんな姿を見て、世界中が感動したのです。宗教だ、道徳だ、更には民主主義がどうのではありません。お互いに誰からともなく譲り合う、そんな想像も出来ないような社会と云うか、コミュニティ-という表現で言い現わしていますが、現実として、日本の東北地方では、どこでも当り前のようにしている人々のそんな生活が、テレビに映って世界中に流れたのです。それを見て、世界中の人々は、此の姿を見て大変な驚きというか、ショックを受けた事は確かだと思います。改めて日本人の素晴らしさ確認したのではないでしょうか。

 このような姿は、この古松軒の「東遊雑記」の中にも見る事が出来ます。今、初めてではないのです。「亡霊の祟り」が、決して、あるのではありません。そんな「けちでいじましい」心は持ってはいけないという、草木にも心があるのだという共生の精神というか、縄文的な心が現代にまで生きていた証拠ではないでしょうか。弥生的な闘争の社会が普通な人間には到底理解できないものであったから、江漢にしても古松軒にしても「祟り」と云う亡霊を出してくる以外に、この行為を説明できなかったのではなかろうかと思われます。

 なお、余談ですが、今朝の新聞にはアメリカの歴史家 ジョン・ダワー氏は、今回の東北地方の人たちの見せた姿を
 「宮澤賢治が残した『雨ニモマケズ』にあるような質実で献身的な精神です」
 と、語って、日本人のしなやかな強さを強調しておられます。
 しかし、此の氏が言う「実質的な献身的な精神」と云うのも、私は何かキリスト教的な臭いがして、その本質からは、聊か、離れているのではないかと思われるのですが。これ等の行為に中に見えるものは献身的であるのでしょうかね。私には、それを越えた日本の社会が長い年月をかけて、地勢や人や太陽や地震や津波、更には,オオカミなどの動物たちや、特に神などによって醸し出された総合的な精神が、共生と云う己と他を同一視した心が、そこらじゅうに横たわっている中から引き起こされた自然的な現象ではなかったかと思われますが。
 
 ご批判を頂ければと思います。


古川平治兵衛の西遊雑記

2011-04-28 11:03:16 | Weblog

 もう少々江漢とお付き合い下さい。
 
 さて、「春波楼筆記」に吉備の国と関係ある記事を捜しながら追ってみましたが、あと二つほど見えます。それは備中岡田藩の古川平治兵衛こと古松軒についての記事です。
 古松軒は江戸中期ごろの総社市新本で生まれ、後に備中岡田藩に仕え、晩年は、有木に隠居所を作り住んだと云われている地理学者です。

 その古松軒の著した「西遊雑記」に触れています。江漢は、この書物に、

 「薩州霧島山は、九州第一の深山にて幽谷嶮岨かぎりなし。人知る者稀にて・・・・・高山というにはあらずなり。躑躅の木あまたにして、花の頃は谷を峯々緋の如し。山一面に赤く段々と山奥は夏まで咲く・・・・・」

 と、記してあると紹介しています。
 さらに、古松軒は、この霧島のさらに山奥にある嶮岨の峯があり、そこに数丈の「天の逆鉾」があり、「石にも非ず、金にもる、神代の文字にて、銘を鐫りてあり」と、言い伝えられているが、今まで、誰も見たものがいないと、この本に書いてあるのですが、それに対して、京都の某は「確かに見た」と云っているが、これをどうも眉唾ものであり、江漢は、どうも、これは胡散臭く
 「埒なき事なり、全く、自然天然と鉾に似たる似象というものなるべし。」
 と、古松軒の書物に書かれているのが本当だと思えると、書いています。
 その理由として、このような事象は、播州にも因州にもあり。又蝦夷地でも、エトロフにも、また、蘭書中にも見える事であり

 「吾日本の人は、僅の天の逆鉾石を見て、奇妙なりとするは、世界の事を知らぬ故なり」

 と、一言の元に切り捨てています。
 
 此の中にも見られるように、既に、江漢のように我が国の事を「日本」と書き表しているのです。之がいつ頃から定着したのかは分かりませんが?なお、江漢と古松軒は、大体同じ年代を生きた人です。18世紀の中ごろから19世紀の始め頃を生きた人です。

 


ケルルン クック ②

2011-04-27 10:25:37 | Weblog

 さて、

  春のうた   草野 心平

  ほっ まぶしいな
  ほっ うれしいな
  
  みずは つるつる
  かぜは そよそよ
  
  ケルルン  クック
  ああいいにおいだ
  ケルルン クック

  ほっ いぬのふぐりが さいている
  ほっ おおきなくもが うごいてくる
  ケルルン クック
  ケルルン クック

 草野心平の春の歌ですが、昨日も書いたように小学4年生の国語の本に載っている詩です。此の詩を4年生の子供に、学校の先生は、どう読ますのでしょうかね。

 まず、一番最初に「ほっ」ていう言葉は何でしょうかね。次の
 みずは つるつる
 かぜは そよそよ
 も、よく分かりません。特に、「つるつる」って。これって?と云う感じではないでしょうか。
 また、「ああいいにおいだ」とは、一体どんな事でしょうかね。何故?何のと云う疑問が小学生には浮かんでくるでしょう。それをどう教えたらいいのだと思われますか。更に、「ケルルン クック」のクックは擬声語でもないし、もしかしたら擬態語かもしれないと思ったりもするのですが、之をどう音読したらいいのか私には分かりませんが、こんなあやふやげなことばを、現場の学校の先生はどう教えているのでしょうかね。
 此の詩は、全体的に云って、七五調の旋律的な詩だと思いますが、五七調ではない語音をどう読ませるか?誠に、先生泣かせの教材ではないでしょうか。何故、「いぬのふぐりり」でなければならないのでしょうかね。タンポポでもれんげでもいいわけでしょう。子供がそれに付いて説明を求めた場合には、先生はどう答えられるのでしょうかね。また。同じ事は「ほっ まぶしいな」でも言えます。何故、「ほっ まぶしいな」の「ほっ」の後を一字空けて書いていますが、これもどうしてでしょうかね?

 そんな事を考えると、此の詩を教えられる四年生の先生の大変な苦労が思いやられますが。

 

 私が教えるとしたら、そんな理屈っぽい事には一切触れずに、兎に角、何回も何回も繰り返して読まして、「どう」と尋ねて、それだけで終わりにしたいと思うのですが、少々乱暴すぎる授業になりますか。

 

 なお。くもが「うごいてくる」が「うごいている」になっているものもありますが。どうでしょうかね?


ケルルン クック ①

2011-04-26 20:05:22 | Weblog

 こんな言葉知っているお人はいないでしょう????

 何だと思いでしょうか。

  春のうた   草野 心平

  ほっ まぶしいな
  ほっ うれしいな
  みずは つるつる
  かぜは そよそよ
  けるるん クック
  ああいいにおいだ
  ケルルン クック

    ほっ いぬのふぐりが さいている
    ほっ おおきなくもが うごいてる
    ケルルン クック
    ケルルン クック

 この前、ご招待がありましたので、鯉山小学校の参観に行きました。4年生の教室から、この歌の一斉の音読の大声が響いてきました。
 「ケルルンクック」。何と不思議な春の喜びそのもののような、まるで天使か何かの歌っているような感覚にとらわれました。

 草野心平の歌なのです。4年生の教科書に出ているのだそうです。

 みなさんも声に出して歌ってみて下さい。3月の初めでしょうか。早春賦そのものであるように思われました。あたかも、志貴皇子の「石激る垂水の上のさ蕨の萌える出づる春になりにけるかも」を十二分に意識した春を待ちわびた、その歓喜に満ち溢れた歌ではないかと思いました。子どもたちの一斉に音読するその声の中に、彼らの意識にはそんな感情は一切にないとは思いますが、あたかも志貴皇子の心が入り込んでいるのではないかとさへ錯覚するような、一斉音読の元気はつらつとした声が聞こえました。

 もう一度その詩を書いておきます。読んでみてください。こんな詩が4年生の教科書うに出ているのです。何と嬉しい事ではありませんか。

     春のうた   草野 心平

  ほっ まぶしいな
  ほっ うれしいな
  みずは つるつる
  かぜは そよそよ
  けるるん クック
  ああいいにおいだ
  ケルルン クック

    ほっ いぬのふぐりが さいている
    ほっ おおきなくもが うごいてる
    ケルルン クック
    ケルルン クック


不得巳として受けたり 

2011-04-25 12:19:43 | Weblog

 60日間も雨が降らず草間村の農婦が大変過酷な労働を強いられているのを見たその村の僧は、7日間断食して雨を祈ったのだそうです。果たして7日目になって、ようやくの事雨が降り、田畑を潤したのだそうです。それを聞いた関侯は、早速、その功に対して金銭米穀を賜ったのだそうですが、僧は「更に受けず」と書いてあります。頑なに、其報償品を辞退したのです。しかし、その僧に祈りによって降った雨は、草間だけではありません。その近隣の村々、昨日の足見村も当然ですが、の田畑にも及びました。その影響を受けた村々でも、この寺に僧を訪ね、お礼として米銭を差し出します。貧しい暮らしの中からいくばくかのお米やお金を持ち寄ってその謝礼に来たのです。それを、藩主からのもののように、無碍には、断ることも出来なく、その僧は、

 「不得巳して受けたり」

 と書いてあります。この文字に付いてのご講義を珍聞漢文先生から昨日受け賜ったのです。「やむをえず」だと教えていただきました。
 貧しい百姓からの心からの感謝だという事は、その僧にも分かっているのですが、そのような人たちの心は酌んでやらなければならないと思われたのでしょう、だから「不得巳」だったのですが、そのいくばくかの金品だったでしょうが受けております。
 その心を藩主も十分に汲んで、その僧の徳について、江漢に語ったのではないでしょうか。
 此の僧の祈りによって雨が降ったという事実は「天の観応したるには非れども、彼の僧正直無心にして、只百姓の困窮を悲しみ、無欲真実なるに因りて、倖に雨の降りたるなり。」と、書いています。
 之は僧が断食して祈ったことに対して、天がその心を読みとって、それで雨を降らしたという事ではなく、思いがけない、たまたま僧の平生からの正直無心な無欲真実によって雨が降ったという事だけだというのです。人の悲しみが自分の悲しみに思われて何かせずには居られないような気持ちになって、それをしたから、確実に雨が降るとは限らない事だったと思われますが、断食を自分自身の僧としての大切なお務めだと考えて、その苦行を断行したのだと思われます。そこに何かが、「是を徳と云う」と、江漢は云っていますが、それがあって、たまたま雨が降っただけのことなのです。特別、人から喜んでもらおうなんて心は、決して、この僧にはなかったのです。困っている人が助かればそれでいいだけなのです。後は何も欲しなかったのです。だから藩主からの報償も受けとらなかったのです。
 でも、近隣の百姓たちにしてみれば、もし、その雨がなかったなら、その年には飢饉が起こっていたに違いありません。多くの人の命がその雨によって救われます。どうしても、その百姓たちからすれば、何らかの形で、その僧の慈しみのある行為に対して、恩と云う事ではないのですが、どうしても謝礼を考えるのは道理です。それを、その僧は考えたから、「不得巳して受けたり」だったのだと考えられます。藩主からの報償とはその心意気が違っていたのです。

 そんな、名もない備中の山奥の僧のそうした徳のある行為を、此の藩主は大層自慢にして、江漢に語ったり、また、江漢もそれを大変美徳なものとして受けとめたのではないでしょうか。

 備中の誰もが、多分、草間というよりか、新見市辺りでも、そんな僧が、こんな大変辺鄙な備北の地方に、江戸の昔に、いたないんてことは知ってはいないのではないかと思われます。もし、このブログを見られた新見地方のお方がおられましたら、お知らせ願えればと思います。


為体と不得巳

2011-04-24 08:18:59 | Weblog

 江漢の新見草間の話の中に「不得巳として受けたり」と、書いてありました。さてです。この「不得巳」ですが、一体どんな意味でしょうか。辞書を引いたのですがありません。

 そこで、あの漢文先生の、久しぶりのお知恵拝借と相成りました。健康をようやく取り戻したという事で、出かけます。話が東北地方の大災害に及び、東電の原発処理にも困ったもんだと云う話にもなりました。例の如く、彼曰く、
 「人のしでかしたもんに、なんかあった時、どうしたらええかと、云う事も分からんような、ひょんなげなもんを こしれえてえて、そうてえげえなことじゃったんで こらえてつかあせえたあ ありゃなんじゃろうかなあ。そげんことあ とうのむかしから分かっておったんじゃろうに。そりょう、みやすうに考げえやがって、とどのつまりが、どうにもでけんのじゃ。なんとも情けねえことじゃあねんかのう」
 とかなんとか、ぶつくさのたまわります。
 「本当に、ていたらくな話じゃんねえか」
 そこで、お茶を一口、ややあって
 「おうそうじゃ。おめえは、このていたらくというのは、どげん書くんか、しっとりんさるんか」
 急に、大学教授に早変わりして、私の返事なんか当てにしないという風に、
 「おせえたらあ。・・・・・・・今はこんな字を、しっとるもんは おりゃあへんとおもよんじゃがなあ。」
 と、云って、彼の愛用の自慢の誠に古臭い旧式な万年筆を、おもむろに取り出し、「為体」と、日本一うまい字だといつも自慢している字で書いてくれました。
 「へえ、それをていたらくと、読ますんですか」と、一応は感心して見せます。すると、教授殿、即座に、「きみいー」と声を一オクターブ高めて云います。
 
 「読ます?とんでもねえ。読むんだ。これもおしえたらあー。ていたらくの〈たら〉は〈たり〉の未然形だ、それに接辞くの字がちいて ていたらくになったんじゃ。ありさま、なりゆきと云う意味につかようたんじゃが、その内に、情けねえ有様を云うようになったんじゃ」

 と、未然形だの何だのと訳の分からない言葉が飛び出してきましたが、そんなことは無視して話を聞いていました。適当な時を見計らって、いよいよ私の質問を云いだす機会が来ましたので、やおらお尋ねしました。
 「不得巳と云う言葉が読んでいた本の中にあったんじゃが、これはどう読んだらええんかのう」
 と 。

 「何じゃなそれは、それがどうしたんなら。読み方。よっしゃよっしゃ」と、又、ふいと立ち上り、本棚の中から、是又、古臭い本を携えて来ます。ペラペラ本を捲っていましたが、「それはここにケエテあるんじゃ」と、私の前に示されます。何時頃の本か知りませんが、随分と古い論語本です。そこに私が出した「不得巳」が燦然と光る様に載っていました。流石わが友、大学教授だけあるなあ。こんなことまでしっとんたんかと、感心しきりでした。

  「これは〈やむをえず〉と読むんじゃ」と、又、ひとしきり、彼のお説教を聞きました。子貢がどうの、孔子がどうのとの講釈です。近頃の政治の、「不得巳」に付いてや、それこそまたまた「為体(ていたらく)」についてのお話を承りました。


新見市草間の話

2011-04-23 17:16:37 | Weblog

 江漢は、新見藩主関侯とお話になった事があるそうです。勿論、江戸での話だったのですが。その時の話が、また、「春波楼筆記」に書いてあります。
 
 それによりますと、ある時、新見地方に60日間も雨が降らず大変な旱害に見舞われたそうです。「草間村と云う所は山田のみにて常に水なし」と、書かれています。ご存じのように、ここは石灰岩の台地で、わずかばかりの田圃に米を育てています。60日も雨が降らなければ、せっかくの稲も枯れてしまいます。だから、この地の農婦は河より水を汲みあげて、稲にやることを日課として働いていました。その河と云ったら、台地から、遥か1里も下の所を流れているのです。しかも、その道は、皆、相当急な坂道です。そのような山道を、一日に何回となく、農婦は水桶を頭上に載せ、「両手にて麻を積む事を常とす」と、書いています。それが其の村の習いだったという。誠に過酷な労働だったと思います。水桶はどのくらいな大きさだったかはわかりませんが、1里もの坂道です。その道を、私も、かって、徒歩で上った事があります。真夏の暑い日だったと覚えています。荷物もなにも持っていなかったのですが、相当汗が出て、途中で何回も、休憩しながら上ったのです。そんな道を一日に何回も水を運ぶなんて、まして女の人がです。とても現代の社会では考えられないような残酷な仕事だったと思います。
 この草間村の隣に「足見」と云うがあります。何故、「足見」。これを「たるみ」と読ませていますが、この地名は、坂道を上る時、前の人の足を見ながら上るという事から付いた地名だと言われています。それくらい急なる坂道なのです。上がるだけでも大変なのです。しかも、此処に書かれているのは、水桶を頭に載せて、しかも、両手で麻を積むぎながらという労働だったのです。そんな意味があったのかもわかりませんが、「草間には嫁にはやるな」なんて言葉が、近年まで、備北地方の村々では、密かに、ささやかれえていたのだそうです 。そんな話を、昔、この地方を歩いていた時、聞いたように思いました。

 まあ、こんな悪条件な土地です。そんな下世話な話まで、新見藩主が知っていたのです。それには理由があるのです。

 さて、そんな嫁びりといってもいいような大変過酷な生活を農婦に押しつけていたと伝えられている草間村に「一寺」があります。何と云うお寺名なのかは分かりませんが、兎に角、その寺に一人の本当に慈悲深い僧が住んでいました。

 江漢が聞いた話はそなんな一人の僧のお話でした。

 これもまた続きは明日にでも。


江漢と云うお人は????

2011-04-22 09:43:05 | Weblog

 江漢が著した「西遊旅譚」の中に足守近辺についての記述が見られるという事を知って、この江漢と備中との関係を色々調べてまいりました。それらを通して読めば読むほど、司馬江漢と云うお人の素晴らしさを知りました。それまでは、ただ、「日本で最初に油絵を描いた人」と、いうくらいの知識しかなかったのですが、その人物の大きさに驚いています。

 絵は勿論ですが、文章を書かせても、当時の先進的科学の知識も、平賀源内などとの交流を通して、相当持っていた人ではないかと思われます。又、特にその知識の豊富さの中には、当時のヨーロッパの知識もあったようです。春波楼筆記の中には“het Stof Slik ard, en is Den Zwizt niet weard"なることばがでてきます。アランだ語か何だか知りませんが、彼には、その知識があったようです。

 そんな彼の人となりをもう少し追求したくなりましたので、後しばらくお付き合いいただければと思います。

 その前に、今日は彼が書いている、どこから仕入れたのかわ知りませんが、備中新見地方に伝わる言い伝えに付いても書きとめていますので、ついでと言ってはなんですが書いてみます。

 「享和三年丙寅秋八月、関侯隠居のはなしけるに・・・・・」と云う書き出しで、次のよな話を載せています。
 この関侯と云うのは、よくは分からないのですが、多分、新見藩五代藩主関長誠だと思われます。先の足守藩主木下利彪もそうですが、江戸で、お目にかかっていたのでしょう。
 それにしても、江漢と云うお人は多くの大小を問わず、全国の諸大名と面識があたのです。それだけ、奇人・変人として名が売れていたのだと思います。

 

 

 


江漢の春波楼筆記

2011-04-21 12:09:32 | Weblog

  江漢の最晩年の随筆「春波楼筆記」に、足守での鹿の生血を吸ったことを知ったものはことごとく「如鬼思ふも尤もぞかし」、人々がそう思うのももっともな事だと書いてあります。
 その随筆を、更に、読んでいくと、この足守に立ち寄った寛政元年に聞いた話かどうかは分かりませんが、もう一つ足守の事に付いて書いていますので、ついでと言ってなんですが、当時(1790年頃)の足守で噂されていた寓話を「備中足守の医者杏庵の曰く、・・・」と、して書いていますので、それを最後にご紹介しておきます。

 それによりますと、足守の医者杏庵は、ここで、いわゆる狐が寓いた者を数回治療したというのです。

 ある時、民家の婦人に狐が寓きます。なかなか体から去らないので、杏庵に診てもらったのだそうです。確かにその婦人の体に狐がついています。そこで、彼は、婦人の体全体を拈(ひ)ねり、寓いた狐を、腕先に「摩り付きたり」。追い詰めます。即刻、杏庵は、その腕に入った狐が、他所に移動しないように、その腕を縛りつけます。すると、その腕はまん丸く曲がってしまいます(瘻の如し)。そして、そこに逃げ込んだ狐を針で付き殺そうとしたのだそうです。すると、そこにいた狐はまるで狂人のように
 「今、ここから出るので、針だけは打たないでください。早く腕をくくった紐をほどいて下さい」
 と、頼むのだそうです。早速、杏庵は腕を縛っていた紐を解いてやります。、どうでしょう、その狐は嘘をついて、知らん顔をして、そのままその婦人の体にいついてしまったのだそうです。そこで、杏庵は、再び、婦人の体を拈ります。今度も、狐は逃げ惑い、ついに婦人の肩に追いやられます。今度も、そこを紐でくくり、丸く膨らんだその肩に鉢を打ちこみ、狐を殺してしまおうとします。すると、またしても、その狐が言います。
 「もう決して嘘は申しません。どうぞこらえてください。その証拠に。家の裏にある竹藪に行って見て下さい。そこに自分の体がありますから」
 と。

 行ってみると狐の体がありました。それなら信用してもいいと思って縛っていた縄を解くと、「狐一声して去りぬ」と、あります。狐が人に寓くと云うのは、狐の気が人の体に入りこむという事なのであって、こんなことは人にはまねのできない事である。小さなん虫さへできる空を飛ぶことは人にはできないように、
 「人之に及ばざる事を知るべし」。「人にもできない事がいっぱいありますよ。そんなことをよく知っておきなさい」と、言っているようです。

 之は、あたかも、この度の地震の対応に右往左往している現代人に言っている警告のようにも受け止められます。

 


江漢の旅日記も終わりにします。

2011-04-20 21:11:07 | Weblog

 これ、又、ほんの4,5回で終了する予定てしたが、ついついあれもこれもと書いているうちに随分と長くなりました。考えてみれば、この江漢を最初に取り上げたのは、一月の頃だと思います、なんやかんやと脱線しながらですが。ついに今日は4月20日です。此処まで司馬江漢の吉備との関わりについて見て来ましたが、ようやく今日で、その最後となります。

 さて2月8日足守と後にして帰途に着きますが。岡山でも相当歓迎されたらしく11日まで滞在しています。其の12日の日記です。

 「・・・・この地白魚沢山、平皿三杯喰う。灰貝・・・サルボウ貝に似て、裏の方までウネあり。この肉を喰う。之は他になきと云う・・・」と。

 この人よっぽど白魚は好きだったのでしょうか、長崎に行く時も岡山に立寄り、この魚に付いて書きとめています。

 


足守から岡山石関町の若林宅へ

2011-04-17 15:41:40 | Weblog

 二月八日、殿に目通りしてから、足守を立っていますが、餞別でしょうか、金五百疋と八丈嶋一反を頂いています。五百疋と言えばどのくらいの金額か分かりませんが、大体、今の金額にすると五万円程度でしょうか、10万円はなかったと思います。その金額は多いのか少ないのかは分かりませんが、一応、餞別を頂いています。その他にも黄八丈でしょうか反物一反もつけて。当時の餞別としてはそれくらいが相場だったのでしょう。
 それから、足守にいたた時お世話になった人たちとの別れもあったのでしょうか、最初は、もう少し早く出発と思っていたよううですが、ついつい時間が立って、その日の八つ時に、宿の主人と例の鹿肉をいやいやながらにも料理した吉備津神社の氏子である料理人二人して、足守の街外れまで見送ります。そこから二里ほど先に有る「宮内から山陽道に出て岡山石関町の若林宅に着く」とありますが。本当は、宮内ではなく板倉の宿だと思われます。当時、宮内村と板倉村が、現在の吉備津ですが、山陽道が通っているのは宮内ではなく、板倉です。念のために。

 だから、その日は行きとは違って、多分、もう一度、帰りにも立ち寄ってみたかったように此の日記からは読み取れるのですが、足守での出発迄の時間が以外とかかり、ついに、宮内には立ち寄ることができなくて、板倉から、そのまま、また二里先に有る岡山の石関町まで行きます。
その岡山では、若林親子の「能く能くお帰り」と、言う言葉と共に、鄭重な出迎えを受けています。その歓迎ぶりに江漢はいたく感激したのでしょうか「何方へ行きても尊敬されるもふしぎな事かな」と、ご丁寧にも書き留めています。

 二月九日 雨とあります。何処へも出歩かずに、若林宅で絵でも描いたのでしょうか。「蝋画」をビイドロに認める」と書いてありますから、多分、ガラスに油絵の具で描いたのでしょうか、その油絵を見て大層、宿の倅喜左衛門が驚くやら感心するやで「吾を信じること如神」とあります。

 十日も、この岡山で方々に人達と逢っています。そしてこの日の日記にも「何方へ行きても吾名を不知者鮮し」と記してあります。即ち、司馬江漢という名を知らないものは至って少ないと自画自賛しているのです。そこら辺りも、又、江漢の江漢らしい所以でしょうか?????


足守侯の足守での「初午」

2011-04-16 14:06:04 | Weblog

 「初午」は稲荷社のお祭りです。よくわ分からないのですが、備中地方では、この2月の初午の日に、お稲荷さんに参るなんて行事はなかったのではないでしょうか。我が町『吉備津』にも、お稲荷さんの社はありますが、初午のお祭りなど聞いたことがありません。なお、高松最上稲荷では、現在、初午のお祭りは3月の第一日曜日に行っていて、昔は2月の初午にしていたのだそうですが、それがいつ頃から現在のような日に代わったのかはよく分からないとのことでした。

 三田村鳶魚の「江戸年中行事」という本には、江戸での初午について、

 「諸所の稲荷の社、或は屋敷町屋の鎮守の宮に、五采の幟を立て奉幣し、神楽を奏す、とりわけ江府は稲荷の社多き所にて参詣群集の人湧くがごとし。・・・・」

 と、その盛況ぶりを書いています。ちなみに、稲荷社は我が国の神社の中では最も多くて、全国には32,000社もあるそうです。

 そんな江戸のような賑やかさは望まないにしても、藩主木下公は、丁度、江戸のすき者江漢が足守にいる此の時、少しでも江戸流にと趣向をこらした初午のお祭りを城内で催したいと思われたのかもしれません。「初午見学して、八日に出立スべし」と、半強制的に言われています。それほどまでに、江漢の足守での初午の指導を思われたのではないでしょうか。
 兎に角、江漢は、そのお祭りを「趣好す」です。何らかの江漢の指導があったのでしょう、より江戸風の初午の祭りが出来たのではないでしょうか。多分、五采の幟なんか所狭しと立てられていたのではと思われます。しかし、この時、藩主木下侯が祀っただろうと思われる城内の稲荷社は、現在では、それは果たしてどこにあったのかは定かではありません。一度、足守を訪ねて、江漢が此の時描いたと伝えられている「さくらに小鳥」「流れに鮎」の絵についても調べてみたいと思います。

 こんな足守での初午でしたが、午後から雪になり「皆々かえる」で、江戸での初午のよう賑わいもなく、期待したほどの大勢の参詣者はいなかったのではないかと思われます。藩主のがっかりした顔が見えるようです。


初午を見学

2011-04-15 09:30:22 | Weblog

 江漢は長崎旅行の帰り道、1月28日に、再び、足守に来て藩主木下侯にお逢いになり、あの人々を驚かした生血事件を起こした狩りのお伴などしています。
 そして、5日には城中に上がり、小襖に2組に「さくらに小鳥」「流れに鮎」の絵を描いています。それを済ましてから、木下侯にお逢いになり、暇乞いしますが、「初午見物して八日に出立すべし」と言われたとかで、後二日も滞在を延しています。その時も鹿の肉と鴨一羽を頂いています。

 6日 頂いたその鹿肉や鴨の御馳走があったのでしょう、それで酒宴を宿でしています。「宿の倅浄瑠璃をかたり一興す」と書いています。此の時の鹿の料理は例の吉備津の料理人がしたのか、違う者であったのかはは書かれていませんがその料理も気に入ったのでしょうか、宿の息子が語った浄瑠璃にも出会え、酒宴を楽しみます。こんな片田舎にも浄瑠璃を語る人が当時は多くいたのです。
 戦前には私の育った村でも浄瑠璃愛好者が相当いて、時々、家でも、祖父は近所の人と一緒になって何か訳のわからない歌でもない、ただ、うんうんと何か腹の底からひねり出すような声を聞いて、うんざりして居たような覚えがあります。
 そんな浄瑠璃を江漢も好きだったのでしょうか楽しんだのでしょう、一興しています。それが済んで、暫くしてからでしょうが、その日も御殿に行きます。そこで「初午趣好をす」とあります。

 此の「初午」の行事は、今では、完全に途絶えて何処にも行われていませんから、どのようなお祭りであるのかは分かりません。私の子供の時にはそんな行事はありませんでした。例の「山井四季之詞」の中には、「二月の初の午日、いなりにまいることなり」と、あります。一月には初子・初寅・初卯・初巳・初亥の祭りがありますが、どうして初牛だけが二月に有るのかも、また、不思議事ですね。
 まあ、それは兎に角として、此の初午の行事を見学して帰れとのお勧めでしたので、江漢も断わりきれません。初午を見学して八日に足守を離れています。
 その6日の記には「初午趣好をす」と書いています。此の趣好というのはどんなものかよく分かりません。明日の初午、即ち、お城のお庭にお祭りされていた稲荷さんの飾り付けでも見ながら、画家としての感覚的な何らかの助言をしたのでしょうか、「八時」と言いますから、今の時間にすると、夜の2時ごろです。旅宿に帰っています。

 翌7日、初午の日、当日です。
 「庭の中、色々かざり物田舎者見学に来る」と書かれています。稲荷神社が、現在の近水園にあったのでしょうか。そこへ近隣の田舎者がその飾り付けられた飾り物の見学方々お参りに来たのでしょうか。武士だけでなく、近郷近在の百姓たち足守の町人もいたのではと思われます。一部の招待された人たちだけではなかったように、この田舎者という言葉のニワンスからは想像されますが、どうでしょうかね。
 それにしては、現在は、この近水園近辺には稲荷神社はないと思うのですが。何処の稲荷様でしょうか???

 なお、


春波楼筆記

2011-04-14 11:21:34 | Weblog

 この足守での鹿の生血をすすったり肉を食べたりする奇行は、「人々懼れをなしける」ともその晩年に書いた「春波楼筆記」(1811年)にも書いてあります。更に、続いて
 「予薄弱なれば、鹿の生血は至りて肉を養う良薬と聞く、然れども得がたき物なり」
 と。

 実際に足守で藩主木下利彪公と一緒に狩りをして鹿の生血を啜ったのは寛政元年(1789)ですから、この「春波楼筆記」は、その20年後に書いたものですが、その時の人々の恐れおののいた記憶が、20年も経った今でも鮮明に残っていたのでしょうか、再度、その事を取り上げて、この本に書いています。それぐらい、奇人・変人として江戸の人々の間にも名を鳴らしていた江漢にしても、特異な出来事であったのではないかと思われます。
 「あの時は面白かったなあ。あれは奇人として、専ら、噂になっている我が生涯でも、最もその名にふさわしい痛快ごとの一つではなかったのだろうか」
 と、思って自慢げに得意なって書いたのでななかったのかと思いますが????
 
 それはそうとして、この前に、鹿の生血は「精を付ける」と、書いたのですが、この本の文章からすると、「肉を養う良薬」ですから、健康を保持するための元になると考えたのかもしれません。又、[得がたき物」ですから、江漢は、めったに手に入らない珍重な物だと考えていたことは確かです。でも、当時の人々が誰もしないような獣である鹿の肉を食べ、しかも、その生血迄啜るのですから、誰だって驚くのは無理からぬことです。
 「如鬼思うぞ尤もかし」と書いて、その行為を江漢自身も
 「そなん事を、誰でも鬼のようだと思うのは当り前だ」と、認めているのですから、そこら辺りが、また、奇人の奇人たる所以ではないでしょうか。

 この司馬江漢という人物、調べれば調べるだけおもしろい人物だと思えます。