私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 9

2008-09-30 15:27:02 | Weblog
 今日取り上げる兄媛は、日本武尊の妃になった吉備穴戸武媛(吉備津媛とも)の妹です。
 
 本題に入る前に、面白い事実に気がつきましたので、最初に、この姉妹2人、吉備津媛と兄媛の年齢差をちょっと考えて見ます。
 景行ー成務(日本武尊の弟){在位60年}ー仲哀(神功){在位78年)ー応神と天皇は続きます。
 すると、景行天皇の子日本武尊と応神天皇との年齢差はざっと考えても150年以上は離れている計算になります。
 すると、この姉妹の年齢差も、やはり、150くらいあったのではないかと推察されます。現代では考えられない話ですが。

 まあ、そんなことは兎も角として、日本書紀の語る「兄媛」は応神天皇の妃です。
 応神天皇が難波の大隈宮に行幸して高台に上り遠望していた時のことです。お側に控えておりました妃「兄媛}が遠く西の方を望み深くため息をつきます。妃のため息を見られた天皇は不思議に思われ、なぜか、と問う。媛は
 「もう長いこと生まれ故郷の葉田の足守にいる親に会っていない、親が恋しいのです」 
 と、言う。愛しい媛を憐れに思われた天皇は、早速、淡路島の海人八十八人を水手(水夫)として遣わし、吉備に媛を送ります。
 兄媛を吉備に送った応神はその愛しさが忘られず“吉備なる妹を会い見つるもの”と歌に詠んで、淡路島、小豆島を経て吉備の葉田葦守宮にやってきます。
 その葦守宮で天皇をもてなしたのが吉備武彦のお子である吉備津媛、兄媛の御兄弟の御友別(みともわけ)命、鴨別(かもわけ)命、浦凝別(うらこりわけ)命などでした。
 「膳夫となして 饗(みあへ)奉る」 と、あります。これに対して応神天皇いたくお喜びになり「悦情(よろこびたまうみこころ)がありて」その一族を吉備の国を分けて恩賞として。御友別命の長子稲速別を川嶋県主などにしたのです。
 天皇が自分の恋人のためにわざわざ遠い吉備の国まで行幸されるのは大変珍しい事です。
 何度でも言いますが、兄媛というのは、姉吉備津媛と同様、男を虜にしては放さないほどの魅力的な、いわゆる「いい女」であったことには間違いありません。

 なお、この時、天皇を饗応した人たちは総て神々となって吉備津神社にお祭りしてありますが、兄媛だけは織部縣は天皇より授かってはいるのもの、吉備津神社にもお祭りされてもいませんし、勿論、県主などの名前もありません。「織部縣を以って兄媛に賜う」としか日本書紀には書かれていません。女性が神になれないということはないのですが。どうしてでしょうか?

吉備って知っている 8

2008-09-29 17:22:03 | Weblog
 あまり日本の神代のお話に興味ない方には気の毒ですが、もう少し吉備の国について話します。
 吉備と四国の関係です。讃岐と伊予と吉備はそれぞれに古い書物(記紀など正史)をたどっていけば、かなり深い関係があることが分ります。
 日本書紀によると、吉備を平定したのは吉備津彦命と若日子建吉備津彦命ですが、その後の吉備を支配したのは吉備武彦命などの若日子建吉備津彦命の子孫だそうです。
 なお、吉備津彦命のお子は三井根子命だけで、この人は葦北国造になって、吉備の国とは縁が切れてしまったのだそうです。
 この吉備武彦命の女吉備穴戸武媛が日本武尊のお妃になって武卵王(たけのかひこきみ)と十城王(とおきわけのぎみ)をお生みになります。
 その内、武殻卵王が讃岐綾君の祖になり、十別城王は伊予別君の祖であると言う。
 なお、日本武尊の母君は若日子建吉備津彦命の女播磨稲目大郎媛(吉備武彦命の兄)です。

 吉備と讃岐と伊予との関わりは日本の歴史から言うと無関係なように思われていますが、このように深い関係があるなのです。

吉備って知っている 7

2008-09-28 08:15:10 | Weblog
 桃太郎のお話は岡山だけでなく各地にあります。あって当たり前な話です。“むかしむかし、あるところに”で始まるのですから当然です。
 その当然の話を、今度はこんな話をすると、出雲の人は怒るだろうなと思いながらします。
 素盞鳴命の大蛇退治の場所が出雲でなく備前だと言うのです。日本書紀に出ている簸川は出雲ではない備前の川(現在の旭川)なのだそうです。念のため、出雲にある川は肥川なのだそうです。
 だから、当然、素盞鳴命は高天原から吉備の国に降りてこられます。そこで例の足名椎・手名椎(あしなつち・てなつち)の老夫婦に出会い、八岐(やまた)の大蛇を退治して、その尾の部分から天叢雲剣を見つけます。この剣が後に日本武尊に渡り、吉備武彦と共に蝦夷征伐に行きます。蝦夷を焼き殺した剣です。それが廻りに廻って、今は、備前の神部のもとにあるといわれています。
 「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)となずけられて、備前国赤阪郡石上布都之魂神社にあると伝えられています。現在はどうなっているのか、私は確かめてはいませんが。
 
 まあ、色々と異説があって神話は成り立つものです。余り深く信頼は出来ないにしても、素盞鳴命が得た大蛇の中にあった剣も、足名椎・手名椎・稲田姫も吉備の国にあったことというのも何かほのぼのとして面白いお話ではあります。
 (この説は江戸の後期の学者土肥氏による。)
 備前長船の名刀や真金吹く吉備などから考えても、大蛇から得た草薙剣の出所は出雲でなく、やはり鉄を生む吉備地方であったと考えるのは吉備人としてはいいのではないでしょうか。
 そして、土肥氏は、また、当時、出雲にそんなに大蛇が酔っ払ってしまうほどのいい酒はないはずだとも言います。
 それに対して吉備には、万葉集に
   古人の 飲(たま)へしめたる 吉備の酒
        病(や)まばすべなし 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
 という歌があるような大変にいい酒が大昔からあったのです。
 
 “昔からある吉備の酒は大変美味しくて、ついつい沢山飲んで酔っ払ってしまい、戻しそうになります。それが服に掛からないようにするために、洗い物をする時に水が飛び散らないようにするために使う竹で編んだ簾をついでに贈ってくださいな”
  と、いうぐらいの意味です。吉備の酒が特に美味かったのです。灘でもなく伏見でもなく吉備にです。

 そんなの美味い酒が吉備(特に備後地方に)にあったからこそ大蛇が酔いつぶれ退治することが出来たのだと、この土肥氏は言うのです。
 出雲では、とてもそんな大蛇が酔いつぶれるほどの、うまい酒は作れない。だから、大蛇退治は吉備でなくてはならないと言うのです。
 なかなか細かい所までに視点を当てて、大蛇退治が、出雲でなく吉備で行われた道理を土肥さんは言うのです。
 皆さん、どう思われます。
 面白い説ですのでご紹介しました。

吉備って知っている 6

2008-09-27 21:07:59 | Weblog
 吉備を代表する「桃太郎」のお話しはご存知と思います。
 岡山だけでなく讃岐など他の地方にも、桃太朗伝説あるようですが、やはり、桃太郎」と言えば、直ぐ「きびだんご」の岡山を思い起させます。
 どうして鬼退治に「桃」が引っ付いたと思われますか。
 古事記に伊邪那岐命が愛する妻を失って黄泉の国に逢いに行く話が出ています。黄泉でこっそりと見た伊邪那美命の余りの醜さに驚いて伊邪那岐命が逃げ帰ります。怒った伊邪那美命は「豫母都志許売(よもつしこめ)」に追わしたのです。
 この豫母都志許売というのは黄泉の国の鬼だそうです。志許売(しこめ)というのは醜女の事ですが、これは姿形がおそろしく醜くて鬼のような女だそうです。とにかく掴まったら食い殺される事は明らかです。だから、伊邪那岐命は懸命に逃げるのです。
 伊邪那岐命が逃げる時に、まず、頭に載せていたカツラの蔓(かずら)を、次に櫛をなげつけます。それでも、なお、襲用に追って来る鬼達から懸命に逃れます。最後に桃の実を3こ投げつけます。するとどうでしょう、追い来る醜女は一斉にどうしたことが追うことを止め、黄泉の国へ我先にと逃げ帰ります。
 最後に投げつけた桃の実には醜女の鬼達を悉く逃げ帰えすだけの魔力があったということです。見ただけで逃げ帰ったのですから。

 この例から、この世の鬼を退治できるのは「桃」しかないのです。だから桃太郎なのです。梨でも栗でも柿でもない、桃しかないのです。それと黍、即ち、吉備が結びついて、更に、吉備津彦命の話が入り混じって、桃太郎の話が出来上がったのです。
 現代の白桃に代表される桃の里として、その昔からこの吉備地方が黍と共に有名だったということは間違いありません。


 それは兎も角として、今年の桃は近年にない最高級品が出来上がりました。太陽と土と栽培人の心というか気が作り上げた最高傑作の作品に仕上がりました。芸術品そのものです。作品です。芸術品は人の腕だけで作り上げますが、農産物だけは人の腕だけでは決して作りえません。自然というか神の心がなかったら決して作ることは出来ません。芸術品以上の品物だと思っています。
 今年は初めて、妹の依頼を受けて、東京の彼女の知り人にも送りました。絶賛の言葉を貰いました。
 「こんなのに美味しい果物って生まれて初めてよ。最高よ」
 と。
 なお、念のために、私が桃を作っているわけではありません。知り人が丹精込めて、吉備高原で汗しながら、それこそ一生懸命に作り上げてくれます。太陽の恵みを頂いてというか、常に神に感謝しながら。それだから余計に美味しいのです。

吉備って知っている 5

2008-09-26 12:20:52 | Weblog
 今朝早くから、例のお節介屋さんから、また、お叱りのメールを頂きました。
 というのは、昨日の石碑についてです。「黄薇啓国」についてです。
 「この右側の石碑の文字は、神武までは写真で分るのだが、その後はどんな字があるのか。最後の字まで写した写真をどうして載せないのか」
 という、お叱りです。最もな話しだと思い、早速写してまいりました。
  
 神武以下の字です。
 「黄薇啓国神武昭耀千古」と書かれてあります。
 太古の昔から開けていた黄薇、即ち、吉備の国は、神武以来日本ができた時から「昭耀千古」光り輝いているという意味です。
 この「千古」というも字があるからこそ、余計に、左側にある「中山鎮地黍稷馨香四時」の「四時」の字が一層に光輝満ちるのです。

 竣功なったお屋根もついでに写してきました。
  

 10月24日から26日まで竣功記念の奉祝行事があります。お屋根と一緒に見てください。
 

吉備って知っている 4

2008-09-25 19:38:04 | Weblog
 吉備が「黄薇」とも呼ばれてるという例を写真で紹介します。
 吉備津神社の入り口の階段にある「中山鎮地黍稷馨香四時]の石碑のもう一方の(右側)石碑には、「黄薇啓国」(世にも珍しい黄薇の生えた開けた国)という字が見えます、吉備でなくこれもやはり「黄薇」です。
 
          
 犬養毅が、吉備ではなく、「黄薇」という字を気に入っていたかと言う事が分ります。だからこそ「黍稷馨香(しょしょくけいか)四時」なのです。そう考えると、四時という字が神々しいぐらいに光って見えます。

 この石碑の前に立って、この石碑に書かれてある意味を思い浮かべた後に、ゆっくりと一歩ずつ階段を登り、神社に参拝すると、一層神寂びて、一際身の引きしまる思いがするように感じられます。
 

吉備って知っている 3

2008-09-24 19:56:14 | Weblog
 吉備てなんでしょう
 伊弉諾伊弉册(いざなぎいざなみ)の二神の国生みの中にも、吉備子洲という言葉がありました。何時頃かははっきりした数字は不明なのですが、相当古くから「吉備」という名はこの国に存在していたようです。
 この「きび」には、いろいろな漢字が当てはめられています。漢字が入ってくる前からあった国ですから当たり前の話ですが、「寸簸(きび)」「岐備」「岐比」「黄薇」、中には「夜叉国」「広遠国」といった名も見られるそうです(永山卯三郎)。
 さて、吉備津神社にお参りしますと、矢置石を目にします。そこからいよいよ神社の入り口の階段があります。その左右には犬養木堂が書いた石碑が立っています。左側の石碑には[中山鎮地黍稷馨香四時]という字が刻み込まれています。
 
 今日は、ここに書かれています「黍稷馨香」の字を頼りにして、この吉備の起源を探ってみます。
 まず、その石碑を見てください。
      
“吉備の中山は平らけき安らけき地です。そしてきび(黍稷しょしょく)のよい香(馨香けいか)でいつも包まれている”というぐらいの意味だそうです。(例の漢文の先生の説明による)
 では、どうして、犬養木堂は、わざわざ神社の正面の入り口の石碑の中に、こんな字を入れたのでしょうか。
 その昔、神武天皇が九州から大和を目指して東征した時、古事記ではと八年間(日本書紀には三年)も、この吉備の国に留まって、勢力を整えられたと伝えられています。その仮御所が、記紀には「高島」とはっきり書かれています。この「高」が「尊」だと私は思っています。
 さて、神武天皇が、この地にお着きになられた最初の夜です。朝起きてみると一晩の内に、吉備の中山近くに設けられた仮御所の庭に、大変珍しいここだけにしかない異草である八本の蕨(わらび)がはえていたという。長さが一丈二尺(約3.8m)、太さが二尺5寸(約80cm)のとてつもない大きな濃い黄色の蕨が生えていたそうです。この見たこともないような黄色いおおきな蕨が生えたことは、これから先にきっといいこと「瑞祥」であること間違いないと、ここの神人が神武天皇に申し上げます。それを聞いて、天皇は大いに喜び、この国を「黄薇(きわらび)国」とすると言われたのだそうです。最初は「黄薇国」でしたが、次第にきわらびの{わら}が略され「きび」になり、それがいつしか「吉備」になったのだそうです。
 木堂もこんな話を知っていたためにこの漢詩が出来たのではと思われます。

 でも、大方の人の説は、やはり吉備は黍で、粟【安房・阿波】や木【紀】の国と同じように黍【吉備】から付いたとしています。
 古事記伝の中で本居宣長も、「名は黍(きみ)より出たるなるべし」しています。【古事記伝5二十二葉】

 でも、黄薇国のお話の方が何かほのぼのとした面白みがあるように私には思えるのですが、いかがです。黍が吉備では当たり前すぎて味も素っ気もありませんもの。
 

吉備って知っている 2

2008-09-23 15:24:29 | Weblog
 もう少し吉備について考えて見ます。
 岡山県には、東から吉井川。朝日川(現在の旭川、神代では「あさひ」でなく、たんに「ひ」川と呼ばれていたらしいのです。簸川です)、高梁川があり、この川から流れ出す大量の土砂が肥沃な沖積平野を作り、南部の河口付近に広がっていました。
 総社市、高松、一宮、岡山の津島・三野、瀬戸、和気など現在の岡山平野の一番北のあたりです。
 人口も希薄であった時代です。故里を戦いに敗れて追われた多くの渡来人(中国人や朝鮮人)が、この肥沃な土地に移り住み、自分達の小さな村を作りました。
 その集落に自分達の出身の地域の名前をつけます。「はた」「から」「とう」「あや」と言ったを作ったのです。その地名が現在までに生き残っているのです。こんな発音のある地名が、当時の岡山平野の海岸線に沿っていくらでも見ることが出来ます。わが町「むかいばた」もお隣の「からかわ」もその例です。
 私がかって勤めていた倉敷市庄でも見ることが出来ました。現在、川崎医大のある辺りに「投町」と言う小字の地名がありました(知る人がだんだん減って来てはいますが)。もしやと、思い両児神社(ふたご)にもお参りしてを見たのですが何もそれらしい形跡はありませんでした。でも、渡来人の「とう」との関係がありそうに思えるのですが。

 そんな大陸からの落人でもある渡来人(現代語で言うと「避難民」です)をも受け入れる融通の利くおおらかな人柄が当時の吉備人の特長でもあったのではと思えます。そんな気質が現代にまで受け継がれてきているのです。風土とは面白いものですね。
 まあ、そんな吉備人の気質を表す吉備言葉が、「ここらへんにゃあ いっぺえあるんでぇ、しっとんさったか」と、いうわけでもないのですが
  
 ・「どうでもええわぁ」
 ・「そうじゃのう。まあええわぁー」
 ・「そげんなことばあいわんと、ええかげんにしてぇたりゃぁええがなぁ」
 ・「くよくよしんさんなぁ」
 ・「そげんこたぁこんめぇこっちゃ」
 ・「かまやぁへんがなぁ これぇてやりゃぁええがなぁ・・・・ そげんいわん   とこれぇておやりんしぇ」

 そんな言葉も、総て吉備の風土(気候温暖で天災も少なく作物も豊穣な風土)が、生き馬の目を抜くようなぎすぎすした人間関係でない、おおらかないたってのんびりとした気質を生み出したのだと思われます。
 この吉備人気質は「ぼっけぇめぇから」そうじゃ、縄文のころからから続いているのです。


 わたしは、今日一日かけて、これだけやっと探しだしました。だれか、こんな悠長な雰囲気を持つ吉備言葉もありますと、教えて欲しいものです。是非お願いします。

吉備って知っている 1

2008-09-22 21:58:15 | Weblog
 吉備津だけではなく、吉備津神社に関係のありそうな吉備の国の昔語りは、まだまだいっぱい歴史(記紀などの正史)の中に散らばっています。
 日本書紀には、
 “伊弉諾伊弉册(いざなぎいざなみ)の二神が、まず、淡路洲を、それから大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)、伊予二名洲、筑紫洲、隠岐洲、佐渡洲、越洲、大洲と次々に大八洲(おおやしま)を生み給ひて還座の時、吉備子洲、又名建日方別(たけひかたのわけ)命を生み、次に小豆島、又名大野手比売(おおてのひめ)命を生み給う”
 とあります。
 この吉備小洲こそ現在の児島半島そのものです。江戸のはじめ頃までは島だったのです。児島が、神話の時代でも、大変重要視されていた証拠です。
 吉備子洲を支配する神は建日方別命と呼ばれていました。
 その神がどうしてか知らないのですが、吉備津神社にお祭りされています。回廊の横にある石の階段の一番上に鎮座しておられます。岩山宮です。
 このお宮さんのご神体は、「おせん」の中でも書いたとおり、岩です。その岩が建日方別命そのものなのです。吉備子洲の神様なのです。
 当時、このあたりまで吉備の穴海が入り込んでいたらしいのです。(わが町向畑にも極小規模な貝塚も目にすることが出来ます)もしかして、吉備の中山も、伊弉諾伊弉册の二神がお造りになった吉備小洲の中の一つであったのかもしれません?すると、当然、その吉備小洲は吉備の中山が中心であったのではと考えられすが?
 建日方別命が住まわれている島、だから、尊い神の島即ち尊島、「たかしま」だったのではないかと思います。「たか」とは、今までの歴史家は総て「たか」という字を先入観から「高」としか考えなかったようです。だから、当然、神武天皇が立ち寄られたたかしまは笠岡にある「高島」だと思い込み、「尊」なんて字はでんで端からはねつけられてしまい、見向きもされないままに終わってしまったようです。
 もう一度言います。あの日本の初代の天皇、神武天皇の吉備地方にいた3年間の仮宮御所を、こんなちっぽけな文化的な匂いも何もないような、それこそ吹けば飛ぶような辺鄙な笠岡の「高島」に作るれるはずがありません。こんな小さな島におって、どうして2万も3万もの兵隊が集められましょうか、大和を目指す強大な軍隊を造れるはずがありません
 こう考えていくと、記紀に出てくる「たかしま」は、将に、この吉備の中山です。ここを除いて、どこに「たかしま」がありましょうぞ。足守川の河口をおいてしか、というより吉備津をおいて、神武天皇か3年間に渡って鎮座した場所は考えられませんが。
 「吉備こそわが命」とばかりに、天皇がお考えになっていたのではと思われます。高千穂から大和の到る年月の内に3年も滞在したという例はほかにはどこにもありません。吉備だけなのです。
 あんまり人のことをとやかく干渉はしないで、人は人、自分は自分という、でも非協力かというと、どっこいそうでもなく、いい加減あしらってどっちつかずの関係しか作れないという「まあまあ主義」のあやふやな自己主張の少ないのが岡山県民の特色ですが、その特性が出来上がったのはこの神武の時で、今までもずっと続いてその特長を持ち続けています。
 当時、吉備に住んでいた人は、この神武がとほうもない強国の「すめらみこと」になるお方だとは誰も思わないで、この神武に積極的に随うものはいなかったようです。何か腰につけている黍団子という、まこっとお粗末なものでも、それも半分でも貰うと、へいへいと無批判についていくのもこの吉備の国人の性質なのです。
 こんなどっちつかずのいいかげんな人の集まりであったらこそ吉備がいち早く大和勢力の中に組み入れられる原因になったのではと思います。渡来人が多く住んでいたという事から来る特性かもしれません。
 今日はこれまで、吉備の国人についてもう少々語ります。

吉備津町内運動会

2008-09-21 22:31:10 | Weblog
 町内運動会がありました。町内体育会役員さんや子供会の人たちが中心となって選手を人選して今日に臨みました。沢山ある種目の中には対抗競争があり、各町内の精鋭選手が出て得点を争います。今年も、わが町内、向畑も幸先のよいスタートを切ることが出来ました。この分なら、ここ数年来の念願の優勝も今年こそ夢ではないと思って応援に演技に張り切っています。若いお父さんお母さんも子供の前で、懸命に自分の姿を投げ打つかのように現して頑張っています。
 プログラムが進むにつれて、昨日から心配されていた何か不安を暗示するような西の空からの怪しげな黒雲が音もなくこちらに立ち向かってくるではありませんか。そしてどこからともなく稲妻の光とともにゴロゴロという音さえも近づいてくるではありませんか。悪い予感が人々の中を流れます。
 ピヵーと、ものすごい閃光と共に恐ろしげな雷鳴もいよいよ空の真上で鳴り響きます。と、思った途端にぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきてテントの屋根を叩きます。いつのまにか空は真っ暗な不気味な雲で覆われてきています。と思うまもなく、運動場の向こうにある体育館の屋根を激しく鳴らしながら、雨が怒涛のように運動場で演技している選手にも、容赦なく襲いかかります。
 そこでプログラムは、それ以外の選択の余地はないぐらいに完全に停止されます。
 見る見る間に今まで競技されていた運動場は恰も怒涛渦巻く大河に変わりますす。
 ものの2、3分はあったでしょうか、演技も何もあったものではありません。数日来報道されている集中豪雨、将にそのとおりの、言い尽くされてはいますが、バケツをひっくり返したような大雨です。大会本部のあるテントも雨脚で煙るようにみえます。一瞬の静寂が流れます。途端に、バリバリという今まで聞いた事もないような異常の雷音が轟きます。子供達だけではありません、大人までも「きゃあ」というものすごい悲鳴。大会本部からの拡声器の声もでも止まります。
 雨脚はものすごく、テントの中まで、運動場を流れる水が容赦なく押し寄せてきます。
 豪雨は降り続きます。
 拡声器が大会の中止をがなりたてるように雨の中に響きます。
 「これなら仕方ない」
 と、参加者全員を納得させるだけの雷を伴う集中豪雨でした。
 大変な今日の集中豪雨でした。
 これで町内体育会が終わりました。なんとなくうら寂しい憂いを降り続く雨の中に残しながら。

長寿の話 8 吉備建彦命

2008-09-20 10:57:53 | Weblog
 吉備の国の古代史もそうですが、当時の歴史書を紐解いてみますと、昨日お話したように、読む者をして、この名前は前に出ていたのにと、迷わしめるようなややこしいよく似たような名前があちらこちらから顔を覗けています。若建吉備津彦命と吉備武彦命もそうです。

 まあそれは兎に角として、吉備の国の長寿の人を、記紀や氏姓録等の本から拾ってみたのですが、最後になりましたが「吉備津武彦命」を取りあけなければば、話が終わりません。
 それだけ、天皇の大和政権と吉備の王権とが深いつながりにあったことを物語る貴重な資料にもなるのです。

 さて、吉備武彦命も若日子建吉備津彦命の子であるとする日本書紀に従いますと、即ち、播磨稲目大郎媛とご姉弟になります。すると、景行天皇妃になられた大郎媛と同じように、そのお子日本武尊の蝦夷征伐の時に副官になっていますが、その時の御歳は、優に三百歳を越えていたと考えねばなりません。
 ちなみに「氏姓録」では、若日子武吉備津彦命の孫だと書いて、調整を取っています。
 なお、藤井駿先生の「吉備津神社」(岡山文庫52)には、
 「若日子建吉備津彦命の子に御鉏友耳建日子命がある。その子に吉備武彦命があった」
 として、年齢的に整合させております。

 まあ、それでも驚くような年齢です。わが町吉備津と関係のある古代の歴史的な人物を年齢的に見た人物像を紹介しました。2~3人と思っていたのですが8回のシリーズになりました。

 これで「私の町 吉備津」も“the end”にと思っていたのですが、長寿の記録を日本書紀から探していますと、この他、私の知らない吉備の国に関するおもしろい歴史が見つかりました。それもついでに紹介してみたらという、メイユウの意見にも従って、あと少しの間書き続けていきたいと思います。引き続き見ていただければ幸いです。
筆者biryo




長寿の話 7 大郎媛その2

2008-09-19 20:08:46 | Weblog
 300歳で結婚したとされる播磨稲目大郎媛の話は余りにも突拍子過ぎます。そこで、次のような経緯があって、年齢に間違いが起きたのではないかとも想像して見ました。
 この媛の父君の名前は若日子建吉備津彦命で、大郎媛の兄に吉備建彦命がいます。この時代には、このように父子でよく似た名前の付いた人が多くおったようで、それを聞いて記憶した人が二世三世を一世だと勘違いしたために、予想以上の年齢になったのではとも思われます。当時は文字がなかったので当然そんな誤りも起ると思えますが、どうでしょう。
 大郎媛が若日子建吉備津彦命の媛でなく孫媛ぐらいだったら年齢的に辻褄が合うのではと思います。

 それにしても、この当時の人は、今の人の2倍以上も長生きしています。歴史的に見ても、どんな国にも例を見ない程、異常な長寿と言うのは少々おかしな話だと言わざるをえません。
 大体六七十歳で始めて皇長子が生まれるなんてことがあるはずがありません。生物的に見ても常軌を逸しています。
 その辺りを考えながら日本の古代社会の歴史は見ていかなければならないということは当然ですが、やっぱり基本は、本居宣長の言うように「深く疑ふべきことに非ず」で、古代の歴史は読むべしです。

 これで長寿の話はひとまず終えようかと思ったのですが、どうしても「あっしをお忘れではないでしょうか」と喧しく私の胸に分け入ってくるお人がお出ででした。その人を紹介してこのお話を終わりにしたいと思います。
 では、又、明日にでも。

長寿 6 日本武尊の母;播磨稲目大郎媛

2008-09-18 14:02:47 | Weblog
 まあ聞いてください。故水野晴朗(高梁市出身)ではないのですが、映画ではない「歴史って」本当に面白いですね。
 何時の頃かは定かではないのですが、昔々、吉備津のあたりに、この世のものとは思われないような非常に妖婉な女性が二人もいました。一人は姉の播磨稲目大郎媛であり、もう一人は妹の播磨稲目稚郎媛です。余りの美しさに、時の景行天皇に特に召されて、吉備津から都の後宮に入ります。
 その後、大郎媛は皇后に御立ちになられ、大碓命・小碓命など3人の皇子をお生みになられます。この小碓命こそ、後の日本武尊なのです。
 この2人の非常に妖婉な女性の父親こそ、わが吉備津彦命と一緒に吉備平定のために孝霊天皇が使わしたもう一人の皇子“若日子建吉備津彦命”なのです。
 
 それはさておき、記紀を読んでいますと、誠に珍奇な記事に出くわし、これって本当?と思うようなことにたくさんあります。
 その一つが、孝霊天皇の御子の若日子建吉備津彦命(兄吉備津彦命と伴に吉備地方に留まって、この地方を納めていました)の娘が、この天皇の五世の御孫景行天皇の皇后になるということです。
 ちなみに
   ⑦孝霊―在位年数  76年 -御歳128歳
   ⑧孝元― 〃    57年 -御歳117歳
   ⑨開化― 〃    60年 -御歳115歳
   ⑩崇神― 〃    68年 -御歳120歳
   ⑪垂仁― 〃    99年 -御歳140歳
   ⑫景行― 〃    60年 -御歳106歳

 ⑧代から⑪代まででも単純に計算しても、天皇在位年数は284年にもなります。すると、⑫代景行天皇に⑦代の孝霊天皇の孫娘、播磨稲目大郎媛(はりまのいなねのおおいらつめ)がお嫁に行くってことがあるでしょうか。もしそれが事実であるなら、大郎媛かお嫁に行った年齢は、当然300歳を優に超えていなくては計算が合わなくなります。
 吉備津彦命の姉;百襲姫命が大物主命にお嫁入りたと伝えられている年齢180歳を知り大いに驚いたのですが、この300歳と言う大郎媛の年齢には、更に、大驚きに驚かされます。 
 これも、又、「深く疑うべきに非ず」なことなのでしょうが。

名月

2008-09-17 16:40:13 | Weblog
 昨日は立待ち月でした。
 ブログ通信簿に俳人になったらと、いうコメントを頂きましたのでついその気になって、また、17夜の朧月にも誘われるように、吉備津神社に詣でてきました。
 俳句三昧の立待ちの朧月夜の散歩です。

   ・名月や 吉備の中山 とりひしぐ
   ・名月や 吉備の山風 うちとけて
   ・のぼり行く 名月隠すか 松並木
   ・朧月 石灯篭を 照らしおり
   ・朧月 吉備の中山 おぼろげに   
   ・名月や 月と二人で 行く野道
   ・名月や 稲穂の中の われ一人
   ・ヤエムグラ ブタクサ照らし 月に雲
   ・オヒシバの 一粒照らし 月上る
   ・名月や 飲む酒美味し 古女房
   ・酒美味し 立待ち月も 待ちきれず
    ・新装の お屋根の千木の 朧月
   ・太鼓橋 上から下から 月明かり
   ・こをえがく たちしょんべんに おぼろつき
   ・名月を 乗せて電車の 遠ざかり
   ・名月や 空即是色 夜半に鐘 

長寿の話 5 住吉大社の祭られている神功皇后

2008-09-16 11:30:18 | Weblog
 吉備津神社氏子会では毎年9月15日に研修旅行に出かけます。厳島神社、大神神社、出雲大社などに参りました。今年は摂津の一宮でもある住吉大社への正式参拝です。
 このお宮もまた吉備津神社と同様に国宝に指定されており、神官の説明によりますと、神殿には底筒男命・中筒男命(写真)・表筒男命・底筒男命・神功皇后の4柱の神をお祭りしてあるそうです。底筒男命(そこつつのおのみこと)などの神は伊邪那岐神が禊した時に生まれた神だそうです。神功皇后は仲哀天皇の皇后で、この神を厚く信仰していたので神として祭られるようになったと言い伝えられてます。
 なお、余談ごとですが、仲哀天皇は熊襲征伐の時、敵の矢に当り52歳でお亡くなりになられ、その後、お子様の応神天皇が即位されるま69年間、神功皇后が国の政務をお担いなられ、100歳で崩御されています。

 どうでもよいことなのですが、ちょっと横道に反れ、また、私の独り言を言います。
 というのは、「摂津のすみよしさん」と「吉備のきびつさん」の関係についてです。
 ここにお祭りされているという神功皇后の夫君14代仲哀天皇は、実は日本武尊のお子様なのです。この日本武尊は、12代景行天皇と播磨稲目大郎女(皇后さなです)の間にお生まれになった皇子です。ということは、仲哀天皇の祖母は、当然、播磨稲目大郎媛ということになります。神功皇后からすると義理のおばあさまに当るお人です。
 ここで、「摂津のすみよしさん」と「吉備のきびつさん」の関係について知ろうと思えば、どうしても、この「播磨稲目大郎媛」という女性はだれかを知る必要があります。
 播磨稲目大郎媛という人は、吉備津彦命と一緒に吉備に派遣した弟の若日子建吉備津彦命の媛なのです。吉備で生まれて吉備で育った媛なのです。この媛の弟、吉備武彦命が日本武尊の蝦夷征伐の副将となっています。また、この人の娘である吉備穴戸建媛が日本武尊の妃にもなっています。神功皇后から言えば沢山おられるのですが義理の母親でもあります。吉備武彦命は吉備津神社の新宮にお祭りしてあります。

 このような関係から考えるとだから、神功皇后をお祭りしている住吉神社と若日子吉備津彦尊をお祭りしている吉備津神社とは、お互いに深く関わりのあるお宮さんでもあるのです。誰もそのことには気付いてはいませんが

 古い古い本を紐解くと、こんなどうでもよいようなことまでもが分り、大いに自己満足のような日を送ることができます。敬老の日は過ぎましたが、何もすることがない日かな一日の老人にとっては楽しい時を過す事が出来ます。