私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

頼政の灯篭

2006-11-30 21:40:15 | Weblog
  

   



          
                 

 すっかり葉を落とした、県の特別記念物に指定されている樹齢600年の銀杏が、簫条として晩秋の青空に向かって枝を広げています。
 その大木に近寄ってみますと、小枝に鉄製の灯篭が懸けてありました。説明の掛札によると、この灯篭は、平家物語に出てくる、あの源三位頼政が寄進したと言う事です。
 どうして、頼政何でしょうか?
 この人も、後白河上皇の皇子以仁王、俊寛、藤原親成らと共に、清盛暗殺を謀って、平等院近くで戦死した源氏の流れを汲む武将でした。
 また、この人は、百人1首の中の一人「二条院讃岐」の父親としても有名な歌人でもあったのです。
  讃岐の歌は
     “わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
           人こそしらね かわくまもなし”です。
 

 一方、頼政の歌としては、
 庭の面は まだ乾かぬに 夕立の
           空さりげなく 澄める月かな
 が、新古今集にも取り上げられています。

 頼政は、また、宮中で、鵺(ぬえ)退治した話も、平家物語の中に出ています。
 そんな人がどうして、吉備津神社とかかわりがありのかよく分りませんが、その人が寄進したと伝えられている灯篭が、吉備津神社にあることは確かです。
 案外、難波経遠と、何らかのかかわりがあるのかもしれないと、私は想像しています。
                  

銀杏の木が2本?

2006-11-30 08:21:13 | Weblog
 吉備津神社には。樹齢が5~600年の大銀杏があります。
 もう、秋の真っ黄色の葉は全部散って仕舞い、寒々とした立ち木だけが蕭条と立っているはずです。
 でも、今年は、修理中の大屋根を覆っている青のカバーをバックに、依然として銀杏の真っ黄色の葉っぱを一杯に付け、山本 正のキャンバスを、後ろにある吉備の中山に大きく描き出しているではありませんか。
 早速、カメラ片手にお参り方々、夕方の散歩としゃれ込みました。
 なんと、大銀杏の葉っぱだとばかり思っていたのですが、お宮さんには、もう一本、別の銀杏があるではありませんか。今までは私の目には映らなかった、映ったとしても,あの大銀杏の葉っぱとばかり思って、全然気にも留めなかった木が。
 思い込みって本当に恐ろしいものですね。
 今までの、この木に対する私の無礼を詫びながら、そっとカメラから覗く真っ黄色の葉っぱを写し撮りました。
 1枚か二枚か、風もないのにはらりと散り掛かる秋の夕暮れって本当にいいものですね。
 「いいものですね」としか、私には言いようがないように思えます。
 蕪村ならどんな表現するかな。寂や無為や(あじきなや)を使うかな?

小宰相の恋、細谷川の丸木橋

2006-11-18 15:22:19 | Weblog


     
 
 成親卿の墓を後にして、しばらく急峻な坂道を下ると、有木別所の高麗寺の山門の跡だと言われています礎石が見えます。
 そこを少し下ると、細谷川に差し掛かり、「細谷川の丸木橋」と刻まれた標石があります。ご丁寧に、朽ちかけた丸木橋までちゃんとしつらえてあるではありませんか。
 この「細谷川の丸木橋」と言う言葉は、どうも、当時、都での流行り歌の一つとして、人々の間で歌われていたらしく、その言葉を利用して、平 通盛という平家の公達が、自分の恋を達成させようとして使ったのが、平家物語の中に出てきます。
 その物語によりますと、 
 平家の公達の中でも優男と言われた平 通盛は、当代一の美女とうわさされていた上西門院(鳥羽天皇の第二皇女)の女房、小宰相という人に深い思いを募ら、3年もの間、恋の手紙を出し続けていたそうです。でも、彼女からの色よい返事は届かなかったそうです。
 これを最後にして、もし思いが通じなかったなら、我恋は諦めようとして手紙を書きました。でも、その気のない小宰相は、手紙の置き場に困り、直ぐそこに捨てるのもと思い、内懐に入れていたのですが、事もあろうか、女院の部屋に落として、それも女院に拾われてしまったそうです。

 その手紙の中に書いてあった歌が
   わがこひは 細谷川の丸木橋 
          ふみ返されて ぬるる袖かな
 でした。
 
 この手紙をお拾いになられた女院は、甚く、通盛に同情されて、小宰相に代わって返事を出して上げられたそうです。

 その中で、女院が戯れにお書きになった歌が
   ただ憑め 細谷川の丸木橋
         ふみ返しては 落ちざらめやは
 と言うのだそうです。
 
 でも、これが縁となって、二人に恋が芽生え、後には人もうらやむ程の相思相愛の夫婦になるのです。
 でも、この恋は、結局、悲劇に終わります。
 通盛は一の谷の合戦で戦死し、それを聞いた小宰相は、船から海に身を投げ死んでしまいます。
 
 話は変わりますが、小宰相を、通盛と同じように「是非、我が物に」と思った当時の平家の公達は多くいたようです。建礼門院右京太夫の恋人、平 資盛もそのうちの一人だと言う事です。

                        

成親の北の方京極殿

2006-11-16 22:21:22 | Weblog
 平資盛との恋を通して見た、歴史から追いやられていった平家の人々の波乱万丈の出来事を、和歌を中心にして書き綴った「建礼門院右京太夫集」という本があります。
 この中には、平家討滅を企てた鹿谷の密議に加わった成親を取り巻く女性達の姿も多く見られます。
 これら女性達の姿を通して、悲喜交々とした哀切たる思いを余すところなく書き綴るながら、人間の阿呆らしさと言いましょうか、歴史の中にしょうことなく流され去ってしまった人間のいい加減さにうんざりした、鋭い女性の感性みたいなものを感じさせられます。
 そんな歴史の彼方に繰り込まれていった女性達を、女性たるがゆえの哀れさを、何か一歩退いて見た、愚かしい、虚しい人間の生を切々と訴えているように思われます。


 この「太夫集」に、成親の北の方、京極殿とのやり取りの文が見えます。

 ・いかばかり 枕の下も こほるらむ 
              なべての袖も さゆるこのごろ
  
 (どんなにか流れる涙であなたの袖は凍り付いてしまっている事でしょう。事 件と関係のない私みたいな者の袖も、この頃はしきりに冷たく凍り付いてしまっていますよ)

  なお、成親が捕らえられたのは冶承元年(1177年)5月29日で、難波 経遠の手の者によって有木山中で惨殺されたのは、7月9日であるとされています。経遠は、一宮にいて、当時、海であった備前の穴海を支配していた平氏の武将です。

 この右京太夫のこの歌に対して、京極殿は、次のような歌を「かへし」ています。
  
  ・ 床のうえも 袖も涙の つららにて 
              明かす思ひの やるかたもなし
 
 「やるかたもなし」と、たった7字の文字で、この歌を結んではいますが、あきらめきれない女の思いと言うよりも、人としての尊厳の尊さを、時の権力に対して一杯に主張してるように、私には思われます。

 いい加減にしてください。男も女も、みんな一生懸命に、この浮世に生きているのですよと。そんなに簡単に、人が殺されてたまるものですか、と。

 又もう一首
  
 ・ 日に添えて あれゆく宿を 思いやれ 人を偲ぶの 露にやつれて
 
 (日に日に住まいは荒れていきます。それとともに、夫を偲ぶ思いが日毎に深くなってゆきます。そんな思いは、荒れゆく庭に咲く「しのぶ草」にも通じたのか 私の涙となった露が、いっぱいにその上に置いていることですこと。
 露にさへ負けそうな今の私の気持ち誰か分ってくださる)
 
 なお、この京極殿は藤原俊成の娘です。定家の姉です。
 

 
 今日はちょっぴり和歌の世界に入っていき過ぎたようです。

 これは余計な事ですが、私は、この建礼門院右京太夫が、平安の女性の中では最も好きな人です。

 写真は、成親の墓にお供えしていた銅貨です。


権大納言藤原成親卿の処刑跡

2006-11-15 20:34:12 | Weblog
 細谷川を遡ってしばらく行くと、平家追討を謀議して清盛に捕らえられ、この地で惨殺されたとされている権大納言藤原成親卿のお墓がひっそりと建っています。
 誰が置いたのでしょうか、お墓にお供えしている真新しい二枚の十円銅貨が、晩秋の朝の光に反射して、鈍く金色に輝いていました。その光りが、なにもない寂寞(じゃくまく)とした墓地に余計に哀愁を演出しているようでした。ただ、露のみが成親の昔を静かに語らっているかのごとくに、周りの草々の葉の上に置いていました。

 「平家物語」には、成親が流されたのは、「備前備中両国の堺、庭瀬の郷、有木の別所と言う山寺に置奉る」とあり、寺名までは記されてはないのですが、「源平盛衰記」には、有木の別所高麗寺に流されたと書かれてあります。
 なお、この寺の「山門だ」とされる場所も成親のお墓に登る途中にみることが出来ます。礎石が残っています。

有木山

2006-11-13 21:54:24 | Weblog
 備前と備中の境を流れる細谷川に沿った辺りの山を有木山と呼んでいます。
 藤井駿先生によりますと、この有木という地名は、中山、細谷と言う名前とともに、平安の昔から、都人の間に知られ渡っていたという事です。
 この地は、古くから天皇が即位さてた時に催される大嘗祭に用いられるお米を栽培した所=主基(すき)国として知られていました。
 後三条天皇や土御門天皇の大嘗祭の主基地となったようです。
(岡山県でも何箇所か資料に現れています。倉敷市長尾、真庭市中津井、吉備中央町豊野などに見ることが出来ます。)
 この2人の天皇の大嘗祭主基方屏風絵の中に、有木と言う名が見えるそうです。
 また、大嘗祭和歌集の中にも
   祈ること しるし有木の山なれば 
              千とせの程のたのもしき哉
 と載っています。
 特に、後三条天皇の屏風絵には、「山祠」の風景が描かれているそうです。このお社が、今もあります有木神社です。
 「針間海自加直之神父子三神」を、また、別の本によりますと、「巨智麿」「針間牛鹿直」をお祭りしているとしています。
 どちらにしても、吉備津神社の末社であろう事には間違いはないようです。
 古事記に、「若日子健吉備津日子命」の兄「日子寤間命」が針間牛鹿臣の祖になったと記されていますので、何かそのあたりからでも、この神を考えていけばいいのではないかと思います。「海自加」も「牛鹿」も、「umijika-usika=うしか」と読めると思います。
 詳しくは、薬師寺慎一先生の「吉備の中山と古代吉備」を見てください。


 

細谷川って、聞いたことあります?

2006-11-11 21:50:55 | Weblog
 「細谷川」
 平安の昔より、地名として、都にまで聞こえていた川なのです。古今和歌集にも、枕草子にも見ることが出来ます。
 写真は、三蹟の一人、藤原佐里の筆によるものです。
 現在、吉備津神社の西側を流れ下っている川が細谷川だとされているようですが、平安・鎌倉などの古い本によると、備前と備中の境を流れている川が細谷川と記されていますので。この川は違っています。本当の細谷川は、有木を流れているもう一つの川のようです。
 この川には、多くの物語があります。それについて、2,3、次回より、説明し体と思います。

なお、古今集にある和歌は
  真金吹く 吉備の中山 帯にせる
              細谷川の 音のさやけさ
   です。