私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

お籠

2011-11-29 10:51:05 | Weblog
 又また寄り道です。

 吉備津神社とその氏子との毎日の関わり行事として「お籠」の制度があります。
 何時ごろから、どうして、このような仕来りが生まれたのかははっきりとはしてないのですが、多分、江戸の頃には既にあったのではないかと思われるのですが、吉備津神社の総ての氏子と言いますから吉備津だけではありません、庭瀬の川入や加茂辺りに在る総ての氏子が含まれているようですが、毎日およそご近所の3軒が一組になって、其々の家で採れた野菜など数個を廻って来た籠に入れて神社に捧げ行き、祝詞をあげてもらい、その家の安泰をお祈りしてもらうのです。数年に一回ぐらいの回数でその番が廻ってきます。どうして3軒なのかも分かりません。
 丁度昨日、私の家にそのお籠が廻って来たので、本来は、3軒からそれぞれ一人づつ3人でお参りして御祈祷していただくのですが、都合で、今回は私が代表となってお参りしてきました。
 
 まず、拝殿でお祓いを受け、神官が神殿に私が持参したお籠を捧げ、それから、恭しく祝詞を捧上してくれるます。

 何回か説明しましたが、この吉備津神社ではお祓いを受ける場所は、普通のお宮さんなら拝殿ですが、神殿まで上がって行われます。向拝の間(朱の壇)と呼ばれている所です。

   
 ちなみに、今回、私が持って行った3軒での捧げ物は大根、ニンジン、さつまいも、ホーレンソウ、白米、シイタケ、高野豆腐、おふ、はるさめ等で、お籠は一杯になります。それらの総てのものは、神官に依って神殿の前に在る壇の上に並べられ、その後、お祈りが始まります。(写真の一番奥に在る壇上にです)

 このようの神殿の前には、毎日例外なしに、季節季節の新鮮な野菜を中心にした氏子から奉納物が奉られ、神に対する感謝の念が捧げられます。

 又、一風変わった吉備津神社独特の面白い日毎の神事をご紹介しました。

1611年(慶長16年)当時の京都市民の特権

2011-11-27 11:32:27 | Weblog
 再び、「ビスカイノ金銀島報告」に戻ります。

 今から丁度400年前の事です。ビスカイノは内裏(天皇)が居住している京都市民が持っていた特権について書いています。慶長17年5月に西に向ったビスカイノ達一行は京都に着きます。20日間ほど京都に滞在していますが、そこでも数々の日本独特の文化に接したと思われますが、それについては一切触れていません。
 この京で見たものは、前の「神に対してのみなすべき崇拝を受くべき偶像」と、その他には前皇帝太閤様(Taycosama)の墓だけしか書いていません。しかも、その墓は何処に在り、その他、その大きさも何も説明はありません。ただ、「甚だ壮麗なり」としか書いていません。 

 さらに、之に付け加えて京都について書いているのは

 「市内に多数のテラ、即ち、彼等の堂宇あり。市には種々の特権を有し市民は租税を納めず、又戦争にも出でず、又何れの党派をも援助せず。国王も司令官も武力に依り市に入ることを得ず。若し之を犯せば破門せらる」

 この報告にも、ビスカイノが見た当時の京都市民の特権について聊か誤りがあるようです。
 当時、ここに書かれているようなそのような特権を京都市民が持っていたなどと聞いたことがありません。京都所司代を通じた幕府の直接支配があり、ここに書かれているような市民には何ら特権は認められていはいなかったのではないでしょうか?

 「戦争にも出でず」ですが、戦争は武士の専門の仕事ですから之は当然ですし、また、「何れの党派をも援助せず」も当然です。幕府の監視が厳しく天皇等が誰かに味方するなどといったことはできないシステムになっていたのです。


 しかし、此の天皇と将軍がいる日本独特の政治組織を、どう説明していいのやら、その理解に相当苦慮したのではと、私はビスカイノに同情しています。
 たった400年前のビスカイノが見た日本は、彼も書いているように、相当文化の進んだ安易に侵略できそうな強国に映ったことには違いないと思います。又、イスパニアの東洋における貿易相手国として相応しいと映ったことは確かだと思われます。

渡辺きみさんと「庭の千草」

2011-11-26 12:19:16 | Weblog
 またちょっと、例の通り、寄り道をします。
 私の小さな畑の隅には、誰がいつごろ植えたのかは知りませんが、もう大分昔からあったようですが白い小菊が11月初旬から可憐な花を付け私の目を楽しませてくれます。置きまどわせる白菊の花の時期には、今少しですが、いつしかそのような季節を迎えました。

 もう何十年も昔から「これっていたいどんな意味??」と考えていたのですが、未だに、その意味が分からないままになっているものがあります。それがこの時季になりますと、不思議なのですが、いつも頭に浮かんでくるのです。

 それは、多分、中学2年生ぐらいの時だったと思いますが、音楽の先生に“渡辺のきみさん“と呼ばれていた大変美人の先生が、といっても、年はもう40歳はとっくに過ぎていたのでしょうが、いました。スタンドピアノと瀧錬太郎・ベートーベン等数枚の音楽家の顔写真しかなかった音楽教室だったのですが、秋も深まったある寒い日だったと思います。そのきみさん先生が音楽の教科書に載っていたのでしょう「庭の千草」の曲を教えてくれました。その時、きみ先生は2番の最後の歌詞「人のみさおも かくてこそ」と、黒板にお書きになって、

 「この部分をどう解釈したらいいのか、私にもにもよくわからないのです。だから、皆さんに教えてあげることはできません。何時か機会あったら調べてみてくださいね」
 と。


 中学生の餓鬼どもです。そんな事を何時までも覚えているはずありません。又、私の周りには、先生に云われたからといって特別にそれを直ぐに調べてみようなどとするような好学心の燃えているような者はいません。私もとっくの昔にきれいさっぱりと忘れていたのですが、もう社会人になっていたと思いますが、ある時、カラオケか何かでこの歌をみんなで歌ったことがありました。その時、どうしたことか、この歌詞と渡辺きみさん先生の事が急に頭の中に飛び出してきました。
 それから、事あるごとに、この意味について調べてみたのですが、それらしい解答を見付けることはできないままに今に至っています。

 それが今朝の朝日新聞の「高橋睦郎 花をひろう」ー晩菊-の中に書いてあるではありませんか。そうか菅原道真にその源があったのかと、何年ぶりかの心のわだかまりがすーと消えます。何処となく清々しい今朝の寒さの中に在る白菊の貞節な姿の中にその意味がこめられているのかと、感慨一入です。
 

尚武の国民にして武技に熟したれば

2011-11-25 09:13:50 | Weblog
 陸前の諸港湾の測量に向っていたブスカイノ一行は、到来する冬将軍に備えて引き返し、1611年の12月30日に江戸に到着します。その江戸で徳川秀忠等の幕府の要人と逢いますが、其の時、江戸にいたイギリス人やオランダ人たちから聞いた話として、次のような話をビスカイノに語ったたのだそうです。

 「イスパニア人は尚武の国民にして武技に熟したれば大艦隊を率ゐ来りて其国を奪はんとすることあるべし。己等の国に於ては此の如き許可を与へずと述べたり」
 
 そして、将軍はそのイギリス人に対して
 「若し之を許るさずば他国を恐れるヽものなるが故に卑怯なり。・・・・もしイスパニア全国来たりて彼に当るも彼は己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」
 と言ったと云うのです。

 此の話を聞いて、ビスカイノは

 「我の重要なりとするは貿易の事の外になし」と答えたのだそうです。そしてそれに付けく加えて

 「オランダ人は甚だ悪しき国民にして其王に叛起し、嘘言を吐き中傷をなすが故に之を信用すべからずと述べたり。彼等は我等と親密なりしが故に此の言を喜びたる」

 当時のイスパニアとイギリスやオランダが相当いがみ合っていたのでしょうか、日本にまでその影響を及ぼしていたのでしょう。

 でも、この文章から、特に面白いと思われるものは
 「己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」

 です。このように言わしめた徳川幕府の姿勢には驚かされますよね。此の自信は何処から来ているのでしょうかね。まさか、鎌倉時代の蒙古襲来以来の日本国の強がりでなないと思いますが。
 時は、まだ、徳川幕府が成立して間もない1611年です。関ヶ原以後の騒乱がまだ依然として続いており、徳川幕府も未だに盤石な体制をなしてない時なのです。

 私は、この文章は、どうも、ビスカイノが眼にした当時の日本の国力の高さから推察して、そう書かしめたのではないかと思うのですが、どうでしょうかね????徳川幕府には、当時、そうと言い切るだけの自信は、まだ、なかったのではと思われますが。

 それは京都での人々の生活を目にしてから余計にそう思ったのではないかと強く心に残ったのではないでしょうか。それがこの文章になったと私は思うのですが????

京都でのビスカイノ2

2011-11-22 18:20:39 | Weblog
 ビスカイノ達の一行が「都」に向って進みます。都というのは京都の事です、そこのいる「天皇」を、どうイスパニア王に説明したらいいのかその判断に随分困ったのでしょうか、「内裏」という言葉で説明しています。それを[Dayle]と書いています。

 ビスカイノ達は此の都に、半月ぐらいいたのですが、其の時に感じた都の人達について次のように書いています。
 
 「住民は甚だ明敏にして礼儀正し」

 と。何か洗練された落ち着きのある都の人々の暮らしについて、江戸のそれとはまた違った生活態度をその生活の中に読みとったのではないでしょうか。江戸はまだ街ができて間もない時です、そこにいる人々も随分と荒々しい開拓精神丸出しの即物的生活態度でおよそ礼儀正しい生活なんてとても考えられないような生活ではなかったのではないでしょうか。なお、明敏というのは“物事に明るく頭の働きが早い”と辞書に書いています。
 それから内裏についても記しています。
 
 「其堂宇の広大なるもの並に只神に対してのみなすべき崇拝を受くる偶像を観たり」
 
 と。ここで言う偶像というのは何かよく分からないのですが、公式行事に参列するための正式衣装を纏った天皇のお姿を実際に見たのかもしれません。日本独特なあでやかな衣装です。それを偶像という言葉で書き現わしたのではないでしょうか。始めて目にするヨーロッパ人は驚き、そして、日本国民の精神的な文化の高さにまで目を見張ったのではと想像されます。
    

 どうでしょうか????このお姿の中に日本古来からの伝統のある天皇の神祗儀式を、「神に対してのみなすべき崇拝を受くる偶像」と見たのではないでしょうかね??????

ビスカイノ西に行く

2011-11-22 18:20:39 | Weblog
 江戸に着いた後、ビスカイノ達は金銀島探検の為、慶長17年(1612年)5月1日に浦川(浦賀)を出発して西に進みます。

 「同月二十一日に我等は都の市に向ひて出発し、途中十分の給与を受け、多数の甚だ大なる町を通過せり。中には城を有し領主の居たるもありしが司令官は贈るべき品物を所持せざりしが故に彼らを訪問することを避けたり。・・・」

 このように長崎までを沿岸を測量しながら旅します。贈答用に所持する羅紗やワイン等がなかったのでしょうか、多くの領主がいたのですが挨拶もせず都に到着しています。

 「二十八日、帝国の最大の市にして最も富商品多く商業盛なり。同市には内裏居住し諸王侯は彼より祝福を受け、官位を授けられ。皇帝其他大に彼を尊敬せり。彼は決して宮中から出づることなく、常に其血統の婦人を入れて寵幸す。而して子は父の職を継承し、彼等は帝国の正当なる王にして之に叛起したる者其位を奪ひ彼等を幽閉せり」

 ここで言う内裏とは、当然ながら天皇の事です。皇帝とは徳川将軍です。このような政治の二重構造をどう表現したらいいのか随分とまやったと思われますが。象徴とした天皇の姿を、ビスカイノはこのように書き表しています。

吉備津宮の雨

2011-11-19 21:46:04 | Weblog
 久しぶりに雨の吉備津宮に参拝しました。

 この秋雨の中でも、吉備津様は、今日も、七五三のお参りを始め、大勢の観光客で賑わっていました。
 
 観光に訪れた名古屋のおしとやかそうなお嬢さんに、この国宝;吉備津神社とそのカメラアイのスポットを紹介しながら、私自身の吉備津宮の行く秋をひとりで静かに楽しみ、そして、降る雨の吉備津神社をカメラに納めてみました。丁度、回廊にカメラを構えた時に、雨が激しく音を立てながら瓦を打ちつけ、晩秋の雨があたかも夏の簾のように下垂れ落ちて秋色を大きく映し出しており、ちょっとした哀愁のある情趣があるように思えて急いでシャッターを切りました。

    

 写真の撮りながら、降る雨の吉備津様の秋にも、又、このようなおつで重々しい情緒が至る所に転がっているように思われ、この「おもい」をテーマに、句にはならないのでしょうが、駄作と洒落てみました。

  ・降る雨や 吉備津に秋の 思い在り 
  ・行く秋の そぞろ雨降り 人思う 
  ・一人行く 秋の吉備路の 重さかな
  ・まかねふく きびのなかやま あきおもひ
  


   どうでしょうかね

江戸に着く

2011-11-17 16:45:52 | Weblog
 仙台を出て、東北各地の測量などしながら水戸などを経て、12月30日に江戸に到着しいます。 
 この江戸の仙台藩邸で政宗はビスカイノと会談しています。この時ビスカイノの持って居た剣と政宗の刀と交換したとあります。更に、食事の時、ビスカイノは基督教について語るのですが、其の時の政宗は

 「彼が網に近寄りたり」
 
 と、あります。この意味は、政宗が基督教に帰依するのが近ずいていると言う意味だそうです。でも、そんなことが実際に、あったのでしょうか。日本一の寺院だとビスカイノに云わせたように、あの瑞巌寺を建立した政宗がです。そんなに簡単に宗旨替えが行われるはずはないと思うのですが。どうでしょうかね。
 これはビスカイノの独りよがりの報告書の為の思いではなかったのかと思われるのですが。どうでしょうかね。????。

 後世の人の噂話として伝わっている、<徳川幕府倒幕の陰謀政宗の胸の内に在り>の論拠の元になったものかもしれませんねが。

再び、仙台でのビスカイノ達

2011-11-16 17:28:04 | Weblog
 12月に入り寒さも厳しくなったため、根白に至ったビスカイノ達は、そこから北への探検は止めて、再び、仙台へと引き返します。そして8日に仙台まで帰りますが、すでに政宗は「オレー」のために仙台には居ませんでした。

 この仙台で、ビスカイノはどうしてかは知らないのですが、仏教僧侶と会って、
 「坊主等と議論し、彼らの悪行殊に男色其の他に付きて責め、或者は論破され又恥を感じたることににつきても述べず。彼らは言い訳として、彼等の神の外に神あることを聞かず、祖先の教えたる事をなしたるなりと言へり。彼等の曖昧なることは大に憐れむべし」
 と、感じたと書いています。

 坊主は基督教など聞いたことがないというのだそうです。又、男色などという誠に罪深い行為に付いても、祖先の教えたることをしているのだから何も悪いことではないとしか答えなかったのです。「大いに憐れむべし」としか書いていませんが、この場で、ビスカイノは、仏教の奥義などに付いては議論せず、男色などの当時の僧侶の実生活における悪行に付いてのみ議論したのではなかったのでしょうか。なんて憐れな宗教であろうかという思いがしたのではと思います。

 このビスカイノは、最初に訪れた仙台で会見した伊達政宗の勧めで見た瑞巌寺に対して、「木造にては当寺を以って世界に並ぶものなし」と言わしめたのですが。その坊主ドモのやっていることは、仏教寺院の建物とはずいぶん違って、下品でお粗末なものだという思いが強くしたのではないでしょうか。

 残念ですが、ビスカイノの私的な思いが書き綴られた書きものではありません。この書はあくまでもイスパニア国王に対する探検報告書という公文書なのでから、個人的な思いなどは思いも及ばないものなのです。

Ore、オレー

2011-11-14 08:52:38 | Weblog
 この報告の中には、「Ore、オレー」こんな言葉が数か所に見ることができます。

 何の事かわかりますか?。スペイン語か何処かの国の言葉だろうと思って読んでいくと、日本語ということが分かりました。

  
 「十二月八日、木曜日、我等は旅程を倍にして同市に到着せり。蓋し国王より皇帝にオレーをなさんとて将に駿河の市に向けて出発せんとするの通知ありしが故に、彼が同市滞在の間に合はんが為なりき」

 皇帝というのは徳川家康の事で、国王とは伊達政宗です。従って、ここにある同市とは仙台の町を指します。これだけでは、まだ、このオレーとは何か分かりません。次に

 「皇帝部下の領主は皆此の如き月に宮中に出づるの例にして、之をなすは三つの目的の為めなりといふ。第一は皇帝に服従を表し進物を呈するが為めなり。進物は高価の品似て又多額の金銀を持参する。第二は人質として江戸に在る兄弟又は親戚を扶養すべき金品を持参する為めにして、第三は旅中並びに城下に於いて其の収入を消費せんが為なり。これ等の領主は戦いを好めるが故に余分の金銭を有するときは戦争を行い、帝国を乱すべきが故なり」

 と、書かれています。

 この文章を読みますと、この「オレー」というのは参勤交代の事だと云うことが分かります。このオレーについて、少々の聞き間違いはあるにしても、例えば「駿河の市に向けて」とか、「此の如き月に」とか等の誤りですが、其の目的まではっきりと記しています。当時の日本には、好戦的な領主ばかりいて、金銭があると、直ぐ、戦いを始める故に、金銭をもたせないようにするためだなんて、誰が教えたのかは知れませんが、参勤交代の主目的までをちゃんと把握して書いているのには驚かされます。よほどの情報網をもっていたのではと思われますが。

 それにしても、参勤交代の事を、「オレー」だなんて、よくその習慣を適切な日本語的な表現方法で云い現わしているなと感心させられます。なお,「おれー」は御礼という意味です。その時の通詞の日本独特な制度や習慣をどう訳せばいいか言葉の選択には随分と苦労しただろうか想像がつきます。第一、参勤交代なんて制度はヨーロッパにはありませんもの。

蝦夷の人

2011-11-13 10:58:25 | Weblog
 ビスカイノは書いています。

 「彼等は一年の一定時期即ち七八月に日本に来り、魚類動物の皮其他交易品を持参し、綿其他彼の島に必要なる品を求むるの習慣なり。年中他の期設には此の海峡を渡航する能はず、暴風及び潮流船を転覆し難破せしむるが故なり。この海岸の最も強き風は西及び南東にして潮の干満は・・・・」

 とあります。夏の時期だけ交易していたのでしょう。綿その他の必要な品物を物々交換でしょうがしていたらしいのです。松前藩の独占だろうと思いますが。夏季だけの短期間の交易ですからおのずとその量は限られていると思います。どのような品々であったか具体的には残念ですが書かれていません。

ネアンデルタール人ではありません。ホモ・サピエンスです

2011-11-12 13:01:17 | Weblog
 此処に書かれている「蝦夷」の地理的位置は、現在の地図と比べると、少々おかしいと思われるのですが、多分、北海道でしょうが、渡島半島が、まだ島だった太古の昔話が、そのままビスカイノに伝わったのではないでしょうか。

 まあ、兎も角も、この文章から読みとれるのは、この渡島半島が「蝦夷」の地でではなく、松前藩の領土だったのだろうと思われます。江差に藩邸があり、そこに松前藩主がおってその地を支配していたのです。その先は、現在の石狩平野ですが、そこは海で、その先にある旭川等がある所を「蝦夷」と呼んでいたのではないでしょうか?????。そうすると「韃靼」というのは、どうしても樺太(サハリン)しか考えが浮かびません。

 此の蝦夷に住んでいる人達がアイヌ人ですが、この探検報告書にはアイヌ人という名前は出てきていません。その特色だけが記されています。でも、現在では、此の渡島半島を含めての北海道全体が蝦夷だったのだと云われています。

 「生蕃の如き人民居住し、全身毛を生じ只眼のみを露出せり」
 と、余りそこに住む人達についての詳細は知る必要もなかったのか、簡単にこれだけで終わっています。しかし、これだけの記述から想像できるのは、最近、ロシアのシベリアで、世界数カ国の学者か大挙して、ネアンデルタール人が「雪男」ではないかと探しているそうですが、あたかも、その雪男ではないかと思われるような書きぶりです。でも、アイヌ人はれっきとしているホモサピエンスなのです。ネアンデルタール人ではありません。文字こそ持っていなかったのですが、高度な生活文化をもった立派な文明人なのです。お間違いにならないように。

 そのアイヌ人を、言葉ではなく、写真でもなく、カラーの絵によってホモ・サピエンスである事を、最初に紹介したのが、明治35年に出版された、この前、筆敬氏に御忠告を受け取り上げたあの坪井正五郎の世界風俗写真貼です。
 

  その絵をお見せします。

  

 「全身毛を生じ只眼のみを露出せり』とは、随分違っています。
 

根白で

2011-11-11 20:25:43 | Weblog
 1611年12月3日、ビスカイノ達は、高台にあった為、津波の被害に遭わなかった「根白」の村に宿泊します。村人に、「これから、更に、北ないし北西に進むと何処に行くことができるのか」と、尋ねます。すると、彼等は

 「更に進んで二国あり。第一は南部殿、又一つは松前殿の所領なり。土地は甚だ広大にして三十日以内に国の終端に達すること能はず。又、両国を過ぐれば海岸は西に転ずと言えり。又此の国の端より高麗(Coria)の端に到るまでの距離は短く六十レグワ以内にして、韃靻に至る前の海峡に大なる島あり「蝦夷」と称し。生蕃の如き人民居住し・・・」

と記されています。

 此処に書かれています「生蕃」というのは未開地に生活する野蛮人という意味のこれも差別語だと思いますが、敢て、その言葉を取り上げたのは、この時代は、まだまだ人種差別の意識が激しく、このような公文書にも、前述の「土人」と同じように、平気でこんな差別語を使っていたという事を知ってもらいたかったのです。今の世界とは雲泥の差がある事を。

 なお、この「生蕃」という言葉には未開な状態にある人々の生活程度の低さゆえに卑下した先進国の高慢さが見え隠れしているように思われます。日本でも戦前までは、台湾にいた高砂族等を平気でこのような差別言葉を使って呼んでいたのではと思われます。

 また、この文章の中に「韃靻」「蝦夷」などの地名が出て来ますが、果たして、此の地は何処にあったのがよく分かりません。蝦夷は北海道だろうと思われますが、韃靻は何処にあったのかよく分かりません。サハリンかとも思えるのですがどうでしょうかね。『韃靻に至る前の海峡に大なる島あり「蝦夷」と称し』という文章から、皆さんはどう判断されますか。
 もう一つ分からない事があります。一レグワというのは5.6kmだそうですが、それを基準にして南部藩、又は、松前藩の端から高麗(Coria)までの距離が60レグワというのも、どうも理解しがたいのですが。そんなに近いはずがありません。少々見当外れのようですね。まあ17世紀という時代がそんなところでしょうが。

坪井正五郎という先生

2011-11-10 14:54:22 | Weblog
 また、筆敬氏からメールが入りました。

 「なにゅう、かきょうさるんか しらんが、せえにしちゃあ えろうながたらしいのう。ええかげんにしとけえよ」と、おっしゃるのですが、「いっぺん始めたら、終わりまでかかかにゃ、おえりゃあせめえが」と、いうことでもないのですが、もう少し、このビスカイノにお付き合いください。

 此のメールで彼は言うのです。

 「おいおい「坪井正五郎」っていって何者何じゃ」とご質問いただきましたので、ちょっと、彼について説明してみます。

 「坪井正五郎」と、いう名前は、一度、このブログで取り上げたことがあるのではないかと思いますが、再度、簡単に説明いたします。もうご存じではないかと思いますが、彼は、あの津山が生んだ箕作阮甫一族の一人として有名です。東京大学教授で、日本での人類学会の創設者としても有名です。
 石器時代に日本に住んでいた原日本人は蕗の葉の下に住んでいた「コルポックスだ」と云う説を唱えた人でもあいます。

 なお、この人の妻が箕作阮甫の養子秋坪の娘直です。その息子たちに坪井誠太郎、忠二兄弟がいます。此の二人はいずれも東大教授で、特に、誠太郎は文化功労賞をもらています。

 この箕作一族は優性遺伝の例として、多くの医学部で紹介されているそうです。

土人

2011-11-08 10:37:52 | Weblog
 ビスカイノのこの探検報告書には、日本に住む者を、日本人とか、あるいは、農夫または住民という言葉で言い現わしていたのですが、越喜来で、始めて「土人」という言葉が出て来ました。

 「海水はこの間に3回進退し、土人は其財産を救う能はず」とあります。さらに、次に行った根白でも「「猪皮の靴を履き領主に対しては甚だ従順ならざる土人に・・」

 どうしてここにきて、この「土人」という言葉が出てきたのは不明です。

 そもそも「土人」という言葉の持つ意味は未開の非文明社会に居住する人達の事を云ったのですが、1611年頃の日本の東北地方の人達は、奥地に入るとそのような非文化的な暮しをしていたのかも知れませんが。

 私の持っている本を、又、ご紹介します。そん本は坪井正五郎という人が書いた「世界風俗写真帳第一集」という本です。(明治34年版)なお、この本には「6円」という値段がついています。当時の6円と言うと、物の本によると、当時の小学校の先生の初任給が8円だったそうですから、相当高価な本だったと言えます。この本にはアイヌ、台湾、朝鮮、支那、マレー、南洋諸島の、そこに住んでいる人々の生活が絵や写真で紹介されています

 この本によりますと、今では使われてはいないのですが、この「土人」という言葉を使って紹介されている人達がいます。「ボルネオ土人」「南洋諸島土人」等がそれです。

 之から見ても分かる通り、17世紀では当然のこととして、近代に入った明治34年の出版された本にも、それもあの坪井正五郎先生でさへ、まだ、「土人」という言葉を使っているのですから驚きです。