私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

藤井高尚

2012-10-26 16:12:59 | Weblog

宮内が他の遊郭とは異なる特色として昨日書いた、此の町中に、どうです。遊郭の家々があるその中に吉備津神社の社頭に仕える七十五社家があったのです。その中でも一際目に付いたのが近世の国学の泰斗であった「藤井高尚」の代々の邸宅が宮内の三日市にありました。この場所は、明治の七,八年ごろから、一時期、鯉山小学校に流用されていました。

 此の高尚について、また、少々といっても、例の通り長ったらしくなると思われますが、明日から、説明してまいります。


貴賤・清濁を併せ持つ町「宮内」

2012-10-25 10:53:11 | Weblog

 熊治郎が市頭として活躍した 宮内ですが、その町名を見てみますと、庭瀬分になるのですが南から東山、片山、三日市、辻小路、熊の小路、大吉野、中吉野、新地、城の内、馬場、白畑など12町に分かれ遊郭が全町に置かれており、特に、宮内の遊郭を象徴する角行燈が軒を並べておったのだそうです。なお、宮内の遊郭が他所の遊廓とことなる点は、これら沢山の遊郭が並んでいる町中に、吉備津神社の社殿が姿を見せ、更に、その社頭として仕える七十五社家の私邸が厳めしいい門扉を、此の町並みの中に姿を見せていたのです。清濁を併せ持つこの宮内でなければ見ることが出来ない独特の雰囲気を兼ね備えていたといわれております。そんなんことからも、この宮内の遊郭が全国に知れ渡り、多くの文人墨客も訪ねております。

 「おみかけしなかったのですが、昨日はどこかに」
 「あ、・・・・そうです。ちょっと宮内に」

 こんな会話が岡山の城下の武士でも、普通なら、公の席では憚られるよな「宮内」と言う言葉も堂々と口にすることが出来たのだと言われています。例へ、宮内の遊郭で、一晩、遊んだとしても、何処か、その町中に有る社家でも訪ねたかのような顔が出来るからだと言われています。
 「貴賤の別なく自由にこの宮内は利用されていたのですよ」
 と、この宮内の自慢を街の古老は、さも心地よさそうにお話になられておりました。


75歳の生涯であった熊治郎

2012-10-23 09:43:54 | Weblog

昨日書いた熊治郎の石碑ですが、<治>の方が正しいとは思いますが、それを確かめるべく庭瀬の松林寺へ、早速、今日は暇なものですから出向いて調べようと思ったのっですが、生憎朝から雨です。またの機会に調べてみようと思いますのでそれまで少々この件については書くのをやめます。

なお、此の熊治郎ですが先の位牌によると、嘉永五年と書かれていますから、生まれた年が安永七年だとされていますから七十五才の生涯であったのです。任侠の世界に生きたにしては随分と長寿だったようです。


色々と誤りが見つかりましたので訂正します。

2012-10-22 17:39:55 | Weblog

 今迄に書いた岡田屋熊次郎についていろいろと誤りが見つかりましたので、今日はその訂正です。
 
 先ず、その1。
 誠に、どうしてこんな初歩的な過ちを犯したのか、私自身も不思議に思っているのですが、その名前です。「くまじろう」には違いはありませんが、その字に違いがあるのです。
 私は熊<次>郎だろうと初めから思いこんでいたので、そう書いていたのですが。本当は熊<治>郎が正しいのだということが分かりました。片山墓地にある彼の墓碑を見れば一目瞭然です。その墓碑の右側に「居士 嘉永五子正月八日岡田屋熊治郎」と刻み込まれています。また、片山町にある彼が寄進した常夜灯の石にも、願主岡田屋熊治郎とあります。彼の位牌にも、やはり『熊治郎』と書きこまれているのだそうです。
 なお、新庄上にある庚申山参道脇(階段の登り口左)に彼が寄進した石造猿がありますが、その台坐の石に彫り込まれている字には「岡田屋熊次郎」と<次>と言う字が書いてあります。念のために 。また、庭瀬にも彼が寄進した常夜灯があると聞いておりますので、その台坐に刻まれている彼の名前があると思いますから一度確かめてみたいと思います。
 
 どうして、場所によって治と次を使い分けていたのかそこらあたりも推理してみたいものだと思います。閑をもて余す年老いた男の思いです。

 続いて、その2
 吉備津神社の回廊脇にある石燈籠(常夜灯)を熊治郎の娘「きくえ」が寄進したと書いたのですが、これも誤りでした。
 その正面に彫り込まれている字には「奉灯 願主橋本屋磯野」とあります。ここに刻まれている「橋本屋磯野」とは熊治郎の妻なのです。妻の名にして常夜灯を寄進した理由は、昨日、私が推理した通りだと私は確信しているのですが。
 
 熊治郎について、大分調べたつもりですが、このような初歩的な過ちが在りましたので訂正して、お詫びします。


熊次郎の和歌を

2012-10-21 10:47:53 | Weblog

 富くじと芝居の入場券のセットで、多くのお金をこの宮内に落とさせたのですが、ただ、それだけであったなら、芝居小屋が開かれている宮内の春秋の大市の時にしか人は集まりません。常に、この宮内に人があふれるためには、どのような企画をすればと言うことを熊次郎は考えます。そして考え付いたのが、前に挙げた、吉備津神社の祭神吉備津彦命の祖先「天児屋根命」と同じ血筋と言う関係を持ち出して、強引にもと言った方がいいと思われるのですが、京の九条関白家と深く関わりを持って、ある熊次郎独特の企画をもくろむのでした。
 そこら辺りの入れ智恵を誰がしたのかは明らかではないのですが、此の熊次郎の学問では到底及びもつかないことではなかったのかと思われます。推測ですが、当時の宮司、藤井高尚の書物「松の落葉』を目にした熊次郎独自の判断ではなかっただろうかと私は思っています。なお、此の熊次郎は、相当高度な読み書きができました。

 熊次郎が詠んだとされる歌が残っています。
        もとの座に  世からもなほる 三番叟
                       よろこびありや 所繁昌

 これを読むと、当時の宮内では ヤクザの親分まで、当たり前のように平気で和歌を詠んでいたのです。これも高尚の手紙からも伺われるのですが、宮内では、相当の文化人だけではなしに、下層な芸者や遊女と言われた人々の間にも、日常の生活の中に気軽に和歌が読まれていたということです。それくらい、この宮内の文化は高等であったのだと今でも語り草になっているのです。だから、やくざの熊五郎親分が作った歌だとしても、この宮内に有っては、そんなに右往左往して驚くべきことではなかったのです。

 さて、この岡田屋熊次郎のもくろみとは、宮内をより<所繁盛>させる為に設けた「宮内の常打ちバクチ場」作りなのです。芝居とはまったく関係なく、太古の昔から続いている人間のギャンブル好きという特性を巧みに利用した私設「博打場」を作くることだったのです。そうすることによって、宮内は、朝から、毎日、決まって、大っぴらに賭博が開けて、芝居がなくても、多くの客をこの宮内に集めることが出来るのです。でも、賭場と言うのは博打をする所ですから、当然、当時でも、ご禁制です。官憲の目が行き届いて、開く事すらできません。それを熊五郎は可能にしたのです。関白九条家と結び付いて、幕府や庭瀬藩などの官憲の目を気にせずに堂々と賭場を開けたのです。
 なお、高尚の家とこの熊次郎の家は一町も離れてない所に有ったにもかかわらず(ほんの数軒の家を隔てているに過ぎませんが)高尚はこの熊次郎の賭場について、見て見ぬふりをしていたのではと思われます。その社会悪について彼の書物でも何も触れていません。ある程度、それを社会の必要悪として容認していたのではと思われます。それに対して、熊次郎は、そのような高尚に対して、その胸中に有る想いを存分に知っていたのでしょうか、「悪いことは分かっていながら見過ごしてくれているな」という感謝心を持っていたのではと思います。そんな熊次郎の思いは、吉備津神社の回廊沿いにある石燈籠にも表れています。沢山ある石燈籠の中に熊次郎の寄進した燈籠はありませんが、彼の娘の寄進したものは見ることができます。熊次郎が吉備津神社と言うより、此の高尚という人に対する尊敬の念が現れた結果ではないかと思われるのです。敬愛していたのだと思います
 この吉備津神社の境内にはないのですが、その代わりといっては何ですが、吉備津神社領ではない片山と東山の境には彼が寄進した大きな石燈籠が、でんと、その姿を大空に向けて建てられています。その燈籠を目にすると、此の熊五郎と言う人の人柄の大きさといいましょうか、そのこころを、何か無言で、指し示しているようにも思われるのですが???

 「どうしてこんな所に熊五郎の石燈籠があるのだろうか。何故、吉備津神社の中にはないのだろうか」と、問いかける人が多くいますが、その理由を私は何時もこのように説明しています


智恵者の熊次郎

2012-10-20 10:38:55 | Weblog

 何をしても熊次郎の知力には群を抜いていました。

 その例として、「富くじ」の発行を企画したのです。
 当時、宮内芝居は、前にも書きましたが、幕府の許可を貰った御朱印芝居でした。江戸・大阪・京以外ではこの宮内にしかない芝居小屋です。それだけ権威のある芝居小屋だったのです。だから、大坂や江戸の人気役者が堂々と、此の宮内の芝居小屋で演技することが出来たのです。普通なら、こんなド田舎の、それも常設の芝居小屋ではない仮設の芝居小屋にです。超一流の大江戸の飛ぶ鳥さへ落とすとさへ言われていた大役者「坂東三津五郎」一行の芸人なんかが、いくらお金を積んだとて来る訳もありません。彼らは、当時の社会では、風習として、相当名誉を重んずる社会に属していたの人々です。いい加減な名もない、それもド田舎の小さな芝居小屋で芝居を見せようものなら、たちまちのうちに「田舎芝居の芸人に落ちこぼれやがって」と噂され、卑下され人気を失ってしまうような社会にいたのです。それくらい最高の立場にいた大役者が、堂々と胸を張って、それも扁額や玉垣まで奉納していたのです。「私はこの宮内で芝居をしました」と宣伝していたのです。それは自分の名誉にもつながることだったのです。それくらい、この宮内の芝居は、当時に有っては、それはそれは大変権威のあるものだったということが分かるのです。 

 その結果、この宮内芝居の見学の為に、岡山を始め近隣の村々からだけでなく、讃岐はもとより、芸州や雲州辺りからも多くの見物人が押し寄せてきたのだそうです。その為の役者招へいの為にも、熊五郎は江戸や大坂を何回も行き来したのだそうです。その為に季節によっては、熊次郎はほどんどこの宮内には居なかったまでと言われています。
 この熊次郎が偉かったのは、ただ、宮内に人気役者を連れてきて芝居を見させるだけではありませんでした。大勢のこの芝居見学にやって来た人々から、いかにして、懐の財布の紐をゆるめさせ、彼等の持つ余分な金を地元に落とさせるか考えます。
 そこで考え付いたのが、「富くじ」です。しかも、芝居の見学するためには、必ず、この富くじの券がなければ見物できないという、所謂、芝居見物と富くじをセットにした興行を考えついたのです。それがまた好評を得て、ますます、盛んになっていたということです。この富くじの発行元が岡田屋と宮内の一市頭と言う個人的な企画ではなくて、ちゃんと権威ある吉備津神社という大きな後ろ盾を利用して信用度を増し、隆盛を究めたのです。このためもこの宮内は今までかってなかったほどの大変繁昌したのだそうです。時は恰も江戸の文化のまっ盛りの文政年間のことです。昨日の三津五郎の扁額方奉納の日も文政九年となっています。念のためですが。


宮内の市頭「熊五郎親分」

2012-10-19 15:30:10 | Weblog

 熊五郎は江戸市消滅後に、大勢の兄貴分を差し置いて宮内の市頭に就いたのは文政二年(1819)で、その時はもう知力・胆力・侠骨の最も充実していた男勝りの42歳と言う年でした。

 この市頭という地位は、宮内の治安はもとより、宮内財政について一切の経営、運用の総責任者であり、この宮内がさびれることなく切り盛りしなくてはならないのです。市の場所割りから、大市の運営、江戸や大坂からの役者の招へいと小屋掛け、更に、平生、いかに宮内にお客を集め、その客から銭をいかに多く落とさせるか、その企画運営まで幅広い役目があったのです。だからこそ、それらの携わる乾分が300名もいたのです。清水次郎長ですらそんなに多くの子分は持ってなかったのではと追われています(伝説的には1000人もいたと大見えを切る講釈師もおったとか???)
 
 現在、吉備津神社の奉納されている江戸役者坂東三津五郎の扁額を見てもそのすごさが伺われます。文政9年ですから、熊五郎が47歳の時に招へいした江戸の人気役者です。このような当代きっての売れっ子人気役者がはるばるこの鄙の地にまでやってきて芝居をしているのです。それを目当てに、岡山の近隣の人だけでなく遠く中四国九州あたりからも、この江戸一の人気役者の芝居見学に人々が集まったといわれています。それぐらいすごい人数を集めたのだそうです。其のもつ彼の胆力、知力には驚かされます。そこら辺りに、ただやくざな親分として、その派手な立ち回りの喧嘩しか伝わってない清水親分と、漢字で書けば同じ「親分」ですが、その人間としても魅力と言うかスケールの大きさに、大きな違いがあるのです。

 

            
   


もう少々熊次郎親分に付いて

2012-10-18 18:03:40 | Weblog

 熊次郎は安永七年(1778年)に片山町の料理屋の息子として生まれていますが、その料理屋も潰れ、熊次郎は十七,八歳の時分にはザルを担いで遠く足守辺りにまで物売りに歩いていた「ぼてふり」だったと言い伝えられています。
 しかし、熊次郎には生来の肝力が座りっており、少々のことにはびくともしない強さが備わっていたのです。それと共に頭もよく何事にも機転がきき、争いなどの解決に打って付け性格で、当時の宮内を仕切っていた親分「江戸市」一家に、二十前後になって、身を寄せていたのです。この彼の性格が、任侠の世界で大変重宝がられ、たちまちのうちに頭角を現します。そうこうしている時、身を寄せていた親分「江戸市」が、何かの事件で、「お上からの命令で」としか書かれてはいないのですが、多分、庭瀬藩だと思いますが、何かの事件に関連して、一家が解散させられてしまいます。
 此の事件の後、熊次郎が、並居ぶ兄貴分を通り越して、江戸市の後を受けて、この宮内の市頭を継承したのです。そこら辺りに付いて、又機会がありますれば、面白可笑しゅう物語を作り上げてみたいと思っていますが。
 が、とにかく、これを契機に、いっきに、江戸市に変って、この宮内を支配する「岡田屋熊次郎親分」の誕生となるのです。と、山陽道一の大親分の誕生なのです。 

 なお、この熊次郎と同時代にです。備中「宮内」に、その人ありと、日本全国にその名を知られた名高き吉備津神社々家頭、宮司です、「藤井高尚」先生ありましたが、先生が生まれたのは明和元年(1764年)ですので、この熊次郎より14歳年上になります。同時代にです。屋敷も一町も離れていません。だから、顔ぐらいはよく知っていて、ことばぐらい交わしたことはあると考えられるのですが、此の熊次郎については、高尚先生はその著書などに壱行たりとも書かれていますん。どんな思いで此の宮内の市頭熊次郎の暮らしぶりを見ておいでであったのかも、これ又、江戸市一家の消滅と同様に全くわからず、何の手がかりすらないのです。なお、市頭の働きがあったからこそ吉備津神社の運営も正常さを保たれていたということには間違いありません。


向畑の千載楽

2012-10-17 17:23:36 | Weblog

 七十五膳据の神事が何時ごろ始まったのかははっきりしないのですが、貞享五年九月の「御祭礼行列之次第」の中にこの祭礼の記録が保存されているそうです。1688年のことです。更に、此の行事について調べてみると、この大祭は「大饗会だいきょうえ」と呼ばれ、備中の各村七十五饗から、吉備津神社に五穀豊穣に感謝する大祭であったとこの記録には記されています。
 なお、この記録書には、現在は行われていないのですが、式の最後に巫子のお神楽があって祭事が終了すると、あります。尚、今年の大祭にはこのお祭りが跳ねて後に、備中神楽の太夫さんが来て、神前で、神楽を奉納していました。昔の名残りが今年に限って、僅かですが、その姿を見せており、懐かしく見せておりました。また、このお祭にわずか五地区からではありますが神輿を奉納して、大祭に色を添えておりました。我が向畑地区からは千載楽を奉納しました。「担ぎ手がいないから」という理由から一つ減り二つ減りして段々とさびしくなっているのが現状ですが、我が向畑の御神輿はまだまだ、力一杯の勢いが辺りに響いて、担ぎ手も年々増加しており、老若男女の顔色が輝いています。


吉備津神社秋の大祭「七十五膳据」神事

2012-10-15 16:22:11 | Weblog

 今年も吉備津神社の秋の大祭が13,14日の2日間ありました。十四日に行われる「七十五膳据」の祭り行事は、全国のお祭の中でも、ちょっと変わった優雅な出し物です。この「七十五」とは、一体なんだろうかといぶかる人が多く、その由来を正しく説明できる人は、地元宮内にもそんない多くはいないのだそうです。由来をたどって見ると、このお祭は昔は、毎年、九月の未日、勿論、旧暦での話ですが、行われたのだそうです。この日は、かの吉備津彦命が四道将軍としてこの吉備の国に来て、反乱軍を平らげ此の吉備の中山の麓(現在の吉備津神社がある所です)に凱旋された祥日のが申の日で、その前日をお祭の日と定めたのだそうです。
 太陽暦が日本の暦に正式に採用された明治以降も、暫くは、其の風習は残っていたのですが、太平洋戦争後、なんでもかんでも、それが民主主義だといって、新暦に従った風習と参加者の関係で、日曜日が選ばれて、いつとはなしに、昔の言い伝えなどは全く無視されて現在に至っているのです。
 現在では、そんな四道将軍の凱旋なんて人々の頭の片隅にもないような、単なるそこらに転がっている平凡なお祭になり下がっていますが、其の形だけは昔のままに残っています。

 では、この七十五とは、一体どんな数字だと思いますか。これも、古老からの言い伝えなのですが、次のような理由が存在しているのだそうです。
 昔から、その時代は分からないのですが、室町以前からあったのではと考えられているようですが、この吉備津神社の秋の大祭には、秋の収穫を感謝して 備中の国々の村々からその年にとれた農作物や魚類を奉納されていたのだそうです。備中国の新嘗祭的なお祭だったようです。それが、この七十五と言う数字に現われています。と言うのは、当時から、この備中の国の中には村の数が七十五あったのだそうです。要するに、此の備中の国の各一村から何処の村からも一品が奉納されたので、その数が七十五膳に上ったのです。そして、その奉納の為の行列がお祭の形として現代に伝わたものではないだろうかとも言われています。

 なお、此の吉備津神社のお祭が備中の新嘗祭tだと仮定するならば、その起源は遠く奈良以前からあったのではとも考えられますが、ご批判ください。


強かな熊次郎親分

2012-10-12 09:23:45 | Weblog

 ご禁制の博打をです。お日さんがお天道様の真上にある時分から堂々と開くのですから吉備津神社の社領にあるとはいえ、普通なら決して出来ない品物なのです。法を破っての行為と言うことには違いないことです。この宮内の警護には庭瀬藩も幾分関わっているのです。藩も名誉にかけてそんな違法行為が行われているみすみす見すごすことなどできるはずもありません。でも、それを可能にするには、庭瀬藩や江戸幕府等の役人が取り締まることが出来ない何かがあればいいのです。平安の不入の制があればいいのです。それを可能にする手立てとして、熊次郎が目を付けたのが、昨日書いた。高尚の「松の落葉」の中にある「・・おのが家は・・・」トいう行です。

 要するに、当時、幕府でも手を付けにくかった公家、それも藤原氏です。この藤原氏も吉備津彦命と共通の神祖「天児屋命」を頂いているのです。江戸期にはいると、藤原鎌足を祖先とした近衛殿と九条殿があり、この二家からわかれた鷹司殿・二条殿・一条殿はあり、この五家を摂政家と呼び、臣下として最高の地位にいたのです。更に、この五摂家下には久我・西園寺・三条・徳大寺などの九家があり、御華族と呼ばれておりました。

 熊次郎はどのようにしてこの摂家と関係をもつようになったのかは分かりませんが、摂家の中でも最高の地位にある九条殿と結びつきその配下になるのです。

 ある時その娘さんが語ったと伝えられる熊次郎伝によると、彼は「男っ振りがよく、話術が巧みであった」とありますが、その話術を使って、言い方が変であるかもしれませんが、下世話的に言うと、九条家の執事でも丸めこんだのかもしれませんね。
 どうでしょうかね。そうでなかったら、それまで何らかかわりのなかった九条家と繋がりを持てること自体が不思議な事だと思えるのですが???


岡田屋熊次郎

2012-10-11 09:28:30 | Weblog

 博打とは賭博のことです、日中、賭場で、それも公然と開いていたならば、当然、お上からお咎めがないわけはありません。幕府のご朱印芝居小屋の運営が認められている宮内だって、禁止されているはずです。それぐらいの規制はある筈です。しかし、それが分かっていながら、大々的に、世間に公表してまで、行われたというのですから、「どうしてと」日本全国の博打うちだけでなく、一般の人々がいぶかしがるのも当然です。

 さて、それを可能にした熊次郎が打った手と言うのが、誠に奇抜といいましょうか、目の付けどころが、普通の博打うちとは違っていたのです。
 目に付けたのが、吉備津神社宮司の藤井家と言う家柄なのです。何処からでた情報であったかは知りませんが、大方、あの藤井高尚先生などの影響があったのではないかと推定されえます。なお、此の高尚先生と熊次郎が直接深く関わっていたという資料はありません。お互いに無干渉の関係であったのではと思われるのですが?

 まあ、熊次郎は、高尚先生のお書きになった随想の「松の落葉」を読んだのだろうと思いますが。その本からの知識であったのではと私は思っているのですが。
 ちなみに、その中で高尚先生は、「大中臣藤井ノ宿禰 松の屋」と題して、ご自分の家の血筋に付いて書いておられます。
 それによると、もともと藤井と言うのは大中臣氏より出た藤井であり、「かしこけれど、おのが家も天児屋見命を神祖とぞ申べき』と書いてあります。この大中臣氏といえば藤原鎌足を祖先とします。その藤原氏と同じ血筋であるということです。そこに目を付けたのです、岡田屋熊次郎は。


借金「万両祝い」

2012-10-10 12:19:20 | Weblog

 借金「万両祝い」と銘打って、大々的に、自分の借金を宣伝の材料に使ったのです。その宣伝効果は上り、当時の人々の大変な人気を博します。そして、その上で行ったのが全国の親分さんたちを一堂に集めて大花会を、この宮内で催したのでした。
 賭博ですよ。博打がお天道様がギラギラと輝いている平日にです、いくら幕府公認のご朱印芝居が出来た宮内で有ったとしても普通なら、天下のご禁制の賭博場がそんなに易々と堂々と開けるものですか。
 この時代、賭博はテレビ等の時代劇においても、夜になってこそこそと役人に見つからないように裏長屋など人目に付かない秘密場所に於いてやるしか、その方法がなかった時にです。それが、この時代に、どうして堂々と全国に宣伝してまでも、宮内においては開けたのでしょうか。不思議ですね。それも文政年間という時代にですよ。清水の次郎長だってやったことはないのですよ。

 なお、この時、宮内の熊次郎の所に駆け付けた全国の親分さんたちの名前の記録は何も残ってないのです。だからあの次郎長が、大前田の英五郎が、いや黒駒の勝造は来たのか来なかったのかは分かってはいません。私の推測では彼等の幾人かはその姿を見せていたのではと思っています。もし、彼等の幾人かが、この時、宮内に来ておれば、また、面白い物語が生まれていたのではないかと思われるのですが????


1萬両もの借金を

2012-10-09 19:37:26 | Weblog

 1萬両もの借金を、此の宮内の大親分岡田屋熊次郎はどのように返したかと言うお話ですが。昨日も書いたのですが、今のお金にすると4000万円にも相当する額です。

 熊次郎がやったことは、1万両と言う借金を、先ず、その返済のための宣伝のトップに据え付けたのです。誰もが考え着かない方法を考えたのです。普通なら、自分の負の事実は隠そうとするのですが、熊次郎は、さも、それを誇らしげに、そうです。「私は、今、借金が1萬両あるのです」と宣言したんです。
 「万両祝い」と銘打って、その溜まりに溜まった借金の祝いをしますと、全国のやくざの親分に知らせたのです。当然それを見て、やくざの世界にいる人達だけでなく、また、備中宮内という吉備地方のごく狭い一部の土地だけに限らず、1萬両と言う借金返済の為の宣伝を全国的規模を視野に入れて、拡大したのです。熊次郎と言う親分の強かさがここに有ります。その規模を広く日本全体を見据えていたのです。現代社会の政治的体たらくを見ておれば、現在、熊次郎が生きていたならと思わずにはいられません。

 この時、熊次郎が計画した特別な祝いは最初はやくざの世界だけに限って行ったのですが、それは噂が噂を呼び。そのことは熊次郎はその考えの中に有ったかそうではなかったのかは分からないのですが、いやがうえにも一般の庶民達も巻き込んでしまったのです。「果たして、熊次郎親分は何を考え、どんな祝いの企画をするのだろうか」と、みんな興味津津として、その方法を驚異の心で見守っていたのだそうです。
 そうです。どんな方法があるのか、1萬両もの金をどのようにして集めるのかと、人々は当然知りたく大いに関心を示したのです。それも全国規模でです。だから、当然人から人へと「今度、熊次郎は1万両の借金をしたことを祝う会をする」のだと伝わります。
 現代のテレビ等よりももっと急速に、現代のマスコミ以上の力で、その宣伝がたちまちのうちに全国に広まって行ったと言われます。そして、日本全国の人々の関心がこの時は、此の宮内の熊次郎一人に集まったかのように思えたと、当時の人は語っていたと言い伝えられています。

 さて熊次郎は何をしたのでしょうかね。


300両の実入りのあった岡田屋

2012-10-08 09:27:37 | Weblog

 一か月に三百両以上の実入りがあったとされる岡田屋熊次郎の家計は、じつは、いつも火の車だったようです。市頭として宮内の大市を支配して莫大な利益があったにもかかわらずです。しかし、此の熊次郎はその大市から上がったお金は、総てきれいさっぱりと乾分や手伝いの者に分配していたのですから、お金がたまるものですか。300人のいた乾分を抱えていたのです。其の食い扶持を賄わなければなりません。その為に借金は溜まるばかりだで、一時、ついにその総額が一万両の大きさに膨れ上がったのだそうです。
 一口に一萬両と言ってもどれほどの金額かよく分かりませんが、この熊次郎が活躍した江戸末期の一両と言えば約4000円程度だったそうですから、今のお金にすると「4000万円」ぐらいになるのではないかと思いますが。
 この一万両、そうです。4000万円の借金の処理に、熊次郎のすごさが有ったのだと、今でも、宮内だけでなくこの界隈に広く云い伝わっています。

 さて、この借金処理の方法を、如何にも熊次郎らしいやり方で解決しています。そのお話は、例の通り、また、明日にでも。