私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

伯継の人となり

2010-01-31 11:44:58 | Weblog
 「先生温良寛弘にして家人といえども、曾って喜の色を見ず・・」
 と、「熊沢了介先生事跡集」に書いています。
 また、ある本には
 「・・・威儀厳正なり、王侯夫人もこれを望めば粛然として容を改め、児女もこれに侍すれば温乎として笑話す、文雅にして、客を好み、賓客及隊士を会し、文を論じ武を談じ、相視る事骨肉の如し・・・」
 と、あります。
 
 このように伯継先生は、雅やかにして、お客を好んで、誰とでもよく会って、儒教などの学問について論じ、また、武芸についても激論が交わされていたという。又、家では喜怒哀楽を顔に出さず、いつも穏やかに暮らしており、常に倹約にこころがけ、つつましやかな暮しであったのだそうです(家法甚倹なり)家族は早寝早起きに徹して、女中さんも少なく、衣服もいたって質素で、飲酒はしなかったのだそうです。「泊然として営むことなし」と書かかれていまので、敢て、飲めたにもかかわらず呑まなかったのではないかと思われます。
 
 このように先生の家では、いつも行儀作法は正しく、家として当然守らなければならこと(家道)がきちんと斉い、周りの人々の家庭生活のお手本であったと言われています。その為か、周りの家々でも、その先生の家庭を見習って、誠につつましやかな規律ある家庭が多かったと、当時の蕃山村の人々が語っていたという話が、今に伝わっているのだそうです。

 

伯継の声名藉甚

2010-01-30 13:03:39 | Weblog
 「声名藉甚」、こんなへんてこりんな文字が、清水臥遊隠士の書、「蕃山了介先生事跡」の中に出てきます。私には始めて目にする文字です。又、例の珍聞漢文先生のご高説を賜ろうかとも思ったのですが、彼も寄る年波、風邪をこじらせたという事で、広辞苑のお世話になりませいた。
 ありました。「声名」というのは[よい評判]のことで、「藉甚」は[名声の盛んに世に広まる]という意味だそうです。

 これは慶安2年31歳の時に、藩主光政侯に従って江戸に下った時の話として出ています。
 「・・・公に従ひて江戸に行く、声名藉甚にして、道を慕う人多し紀伊大納言頼宣卿、宗室の尊を以て、先生を敬礼し、送迎門に及ぶ・・・・」と書いています。それに続いて、伊豆侯信綱、板倉重宗、久世広之、松平信之、掘田正俊、板倉重矩等の当時の幕閣達の名が連ねられています。更に、「・・・その門に遊ぶ人枚挙すべからず。」とあり、その他、多くの大名や旗本の名前も挙がっております。
 
 なお、この中にあります「宗室の尊」とはどういう意味かよく分かりません。徳川本家と伯継、もしくは陽明学と、どんな関係があったのか知っているお方があれば教えて頂くと幸いです。

 前にも書いたのですが、例の由井正雪の事件に、岡山藩も関かわったのではという疑いがあったのも、この紀州侯と伯継との繋がりから起こったのではと言う気もします。此の事件は、結局、光政侯の夫人勝姫様のお陰で大事には至らなかったのですが、多少なりとも関わりがあったのではという思いが私にはしてならないのです。
 

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、この光政侯に従って江戸へ行って以降、岡山藩における熊沢伯継の存在が、急に、大きくなります。禄が300石から3000石と、一機に、10倍も加増された事からも分かります。10倍の加増です。破格の待遇です。この事は、一方では、藩の重役たちから相当なねたみを持たれる結果にもなったのです。
          

 なお、この時は、まだ、彼は「熊沢助右衛門」と名乗っていたのですが、敢て、ここでは、「伯継」の名を使いました。「蕃山了介」は、この後、引退してからの名ですが、今では、[蕃山」の名が、一般的な彼の代名詞みたいな名になってつかわれています。

書を繙ず

2010-01-29 17:39:38 | Weblog
 正保二年(1646年)、伯継が岡山藩主光政侯に招かれ、三百石を賜っています。
 それから三年間は専ら心を練って、書は一切開かなかったのだそうです。だからではないと思いますが、人々は熊沢伯継に、そんなにも学があるという事など全く知らなかったといわれています。しかし、日々の彼の言動を見聞きしている内に、伯継の人となりを人の知るところとなり、進んで彼の教えを受けようとする人が漸次増えていったという事です。
 慶安2年(1649年)、31歳の時です。光政侯に従って江戸に下ります。その時、大名や旗本たちの間に、何処でどう聞いたのかわ分かりませんが、熊沢伯継の教えを受けるものが多く出たのです。こんなことがあり、備前岡山藩に「この人あり」と、熊沢氏の噂が広まります。光政侯は、彼を番頭(ある本に曰く、太夫)として抜擢して、特別に「三千石」を与えまられます。3年間に、一機に十倍に跳ね上がった禄を賜るのです。破格の扱いです。それほどの有能な岡山藩になくてはならない家臣となり、以後の備前藩の国政に深く関与することになるのです。

熊沢伯継

2010-01-28 09:36:33 | Weblog
 永忠の業績を訪ねていると、どうしても、熊沢蕃山こと伯継を無視して、岡山藩の政治をといいますか、光政侯の藩政を語ることはできません。そこで、時代的には永忠とは逆になりますが、暫く、蕃山先生にお付き合いください。
 
 先生の名は伯継といいます。初めは熊沢左七郎と、次に次郎八、助左衛門、蕃山了介と順次称して、最後に使われた名は息遊軒でした。号は蕃山、不敢散人、有終庵主など使っています。
 元和元年(1615年)京都の稲荷に生まれています。

 この伯継が16歳の時に、寛永11年、先生の遠族に当る板倉重昌等の薦めにより備前藩主池田光政侯に仕えます。この頃、大いに体を鍛えて、万一の変に備えたのです。
 其の辺りの様子を、永山卯三郎は、その「岡山通史」で

 「・・・体貌豊肥なり、自ら思えらく堅を被りて戦いに臨まば、恐らく馳駆するには難からんと、ここに於て滋味を斥け日夜武芸を演じ、宿直に当るも猶ほ深夜に之を習う・・・」

 と、書いています。ここからでも分かるように、最初は、武芸を以て仕えようと身体の鍛錬に励みます。
 
 寛永15年に、一度、光政侯の仕えを辞して、祖母の里、近江へ行きます。数年そこで独学していたのですが、当時、近江聖人と呼ばれていた中江藤樹の門が有名でした。そこに入門して己の学問を磨こうと思い立ち願い出ますが、どうしても許されず、仕方なく伯継は、2昼夜も、藤樹の家の軒下に寝泊まりして入門を請うたのだそうです。その余りにもの熱心さを見た藤樹の母が憐れんで、藤樹に入門を許すように計らってくれたのです。その御蔭で入門出来た伯継は、刻苦精励し、孝経、大学、中庸等を研鑽しします。約半年の間、藤樹からみっちりと教えを受け、更に、家に帰ってからも5年間、独学で勉強します。
 この間、伯継の家では、母を始め妹たちの面倒もよく見て、生活は窘窮だったのですが、少しも学を惰らず、自らを高めます。

 27歳になった正保2年、再び、京極高通の薦めにより、池田光政侯に仕えます。そして、隊伍士長となって300石を賜っています。

津田永忠

2010-01-27 16:09:09 | Weblog
 後楽園から始まった永忠の業績の数々を記して来たのですが、一応今日で最後とします。
 
 津田永忠は寛永17年岡山に生まれています。父は永貞という。重次郎、左源太と呼ばれていました。幼い時から、利発な子供でみんなから一目置かれていたのです。14歳の時に光政侯の側児小姓に列しています。光政侯はその材幹を察して、何時もお側近くへ侍らせて政務を見させておられました。
 光政侯のたっての要望により熊沢蕃山が、18年間も岡山藩の政務を補ひつしていたのですが、永忠が18歳の時に致仕して岡山を去ります。その後を受けて、寛文4年、永忠が大横目に任じられて評定席に列します。
 此の時の逸話が、前に挙げた会議の後の御重役たちの余談話にクレームを付けたあの事件です。
 数々の業績を残し宝永4年2月5日病を得て卒しています。68歳でした。
 明治43年、特旨で従4位を追贈せられています。

永思其功

2010-01-26 22:35:22 | Weblog
 永忠の業績について、池田章政侯の著した後楽園の碑文の文字に随って、記してきましたが、此の碑文の最後に、四言の、16句の詩が見えます。
 
 何故、章政侯が、此の碑文の最後に、唐詩にみられるような一般的な五言や七言の詩でなく、わざわざ、中国の古代堯の時代に用いられていた四言の詩を、此の碑文に入れたのかは不明なのですが、多分、後楽園にある「井田」など古い中国(周時代)の風習・制度を取り入れた、永忠の企画に対して、特別なる敬意を現わして、唐詩ではない、それ以前の中国古代の詩の形式を、敢て、取り入れて、作詩したのではと考えられます。

 なお、これも蛇足になるのですが、中国における最初の詩は、堯帝の時の歌だとされている
 ・日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食・・・・
 があります。
 また、魏の曹操の詩だと言われています、
 ・対酒当歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多 慨当以慷・・・
 の四言の詩も見ることが出来ますと。
 これからも分かるように、中国での殷や周といった古い時代の歌には四言の詩が多く見られます。
 
 さて、後楽園にある章政侯の碑文にある詩です。

 新田怱々 無年不豊 倉安之水 灌漑四通 社倉遺法 以救民窮 造舩牧馬 軍須立供
 況創学校 興礼譲風 凡百事業 輔我先公 施至今日 余沢何空 宰此土者 永思其功

鴨越用水

2010-01-25 11:05:00 | Weblog
 上道郡史によると、倉安川・祇園用水の他に、永忠が開鑿した用水には、このほかに鴨越用水があります。

 この用水は西大寺久保(旧雄神村)の鴨越の一の口から吉井川の水を取り入れ、原を通り西大寺の中を流れ金岡・金田を通り九蟠に入るものと、久保から浅越に至る二つの用水が造られたのです。

 このような数々の業績を残した津田永忠でしたが、章政侯は其の碑文に曰く、

 「・・・今君之功業如此 而無一書片碑以表于世 豈非可恨乎 皆曰然将建碑・・・・」
 と。

 要するに、永忠の功績はこのようにいっぱいにあるのですが、如何せん、其の功績を記した1書も一碑もありません。それは大変に残念である。だから、この碑を立てることになったのだというのです。

 このように永忠の業績を訪ねてみますと、政治・経済は勿論の事、社会福祉、土木建築、教育・文化と、あらゆる分野に渡ったて、これが一人の人間がやった事業であるかと、驚くほどの才能を発揮して、岡山藩池田光政・綱政侯二君主に使え、藩の繁栄に寄与したことが分かります。まさに、永忠は、当時の、スーパースター的な存在だったのです。
 
 そのような永忠でしたが、その業績は、何故だかわ分かりませんが、あまり人々の間には知られてはいなかったのです。それを明らかにすべく、章政侯が、此の碑文を書いて、岡山県民一般に広く知らしめたのです。明治19年、永忠の死より180年後の事でした。

 現在では、此の永忠の、後楽園・閑谷学校・倉安川などを含めた数々の業績を「世界遺産に」という運動も起こっています。是非、実現してもらいたいものです。 

祇園用水について

2010-01-24 11:15:14 | Weblog
 津田永忠が開鑿した用水は倉安川だけではありません。「祇園用水」と呼ばれているの用水も、その内の一つです。
 この用水は新田用水とも呼ばれ、旭川の水を利用して作られた用水です。当時の祇園(岡山市)の一ノ口から取り入れています。そこから南に流れて三蟠の藤埼に至り、児島湾へ注ぐ延長12kmの用水でした。この水は江並の干拓地も潤しています。

 この江並こそ、池田章政侯の永忠遺績碑に見える「江並村即沖也。長堤亘数里 平田数万頃 茫々連天 其土肥 其稼豊 其民殷富」の「江並」です。なお、ここにある数万頃の「頃」とは約1町歩(100㎡)です。中国の周代の面積の単位を使って漢詩風な味を匂わせたのだと思います。また、殷富とは、豊かで栄えているという意味です。
 
 永忠が開発した沖新田を指しています。

 この用水の灌漑区域は、北から岡山市高島・宇野・幡多・財田・古都・浮田・可知・富山・操陽・平井・三蟠に至る広範囲に及んでいます。

永忠は、ノ-ベル経済賞を受賞していたのでは

2010-01-23 20:06:00 | Weblog
 再び。、後楽園にある、池田章政侯の撰ぶ所の永忠の遺績碑に戻ります。
 「開墾幸島福浦沖倉田等」の次に、「及疏鑿倉安川」とあります。
 疏鑿、これは〈そさく〉と読みます、土地を切り開いて水や川を通すことです。碑文では「疏」という字が使われていますが「疎」という意味だと思います。

 さて、そんなことはどうでもいいのですが、永忠の業績の中で、新田開発と共に、この新田にはどうしても必要な用水の確保をどうしただろうかという問題が浮かび上がります。
 
 例えば、備中の「万寿の庄」新田や宇喜多堤による「早島・中庄」等の新田の開発には高梁川の酒津から取りいてた「八ヶ郷用水」が開鑿されています。
 
 永忠が行った倉田新田の為の用水として開鑿されたのが「倉安川」なのです。

 この倉安川は、当時の御休村吉井に水門を作り、吉井川から水を取り入れます。
 村の中央を西南に通し、角山村・雄神村を通り、芳野村浅越に至り芥子山麓を西流して芳野・可知の両村を経て富山村海吉に入り、そこから操山の山麓に沿うて平井村に入り、北折れして岡山にいたり旭川に合流する、総延長20km(5里)に及ぶ、人工川です。
 延寶7年(1673年)2月朔日から工事に入ります。貞享3年(1686年)には、それまでは新川と呼ばれていたのですが、この年になって倉安川と命名されています。それまでは物資の輸送は馬が中心だったのですが、此の川が出来たために馬の利用が少なくなり、それによって、馬の背にある鞍が不要になり、その為に馬の鞍が軽く安くなったという意味で「鞍安川」、それが「倉安川」になった元々の意味だという事です。
 この川の命名に関しても分かるように、この用水は、農業用水としてだけでなく、吉井川から旭川までの運河ともなり、物資の輸送等の運輸に関しても大変大きな役目を果たし経済的な効果を生む原因にもなっています。
 
 藩主光政侯は、ある時、江戸からの参勤交代の帰路、此の運河「倉安川」を、わざわざ利用して、船でお国入りした事があります。藩主自らが率先して、この倉安川を利用したお国入りは、此の川の宣伝に大きな影響を及ぼし、以後利用が急速に増大したということです。
 せっかく作った運河兼農業用水です。利用されて初めて、その効用が生かされるのです。宣伝のために藩主をも使った経済学者としての永忠の腕の見せ所でもあったのです。
 こんなことを考えると、永忠というお人は、日本では、未だかって誰も貰ってないノーベル経済賞を、当時、もしこの賞があったなら、真っ先に貰っていたのではと考えられるのですが????

備中干拓史の古地図

2010-01-22 11:09:14 | Weblog
 永忠の備前平野の干拓につい調べて居りますと、こんな古地図に付き当りました。
 江戸時代の備中新田略図です。
 この略図の説明によると、宇喜多氏が高松城の水攻め後、天正12年に早島に潮止め堤防(宇喜多堤)を築いて、福島・中庄・早島の地域が干拓されます。これが岡山平野の干拓の先駆けとなったのです。用水は「8ヶ郷用水」から引水されていました。この宇喜多堤の作られる前には、16世紀以前ですが、既に浜村・子位庄等が含まれていた「万寿の庄」と呼ばれていた新田開発もおこなわれていたのです。
 これ等から考えると、千原九右衛門勝則の築堤の技術は、高松の水攻め以前からの小規模な数々のこれらの干拓事業によって培われていたことは確かです。それが一機に公になったのが、たまたま起こった高松城の水攻めだったのです。
 
 古地図を見てください。地図の一番上の部分が16世紀以前に開発された万寿の庄新田などです。西阿知から東大川(古東高梁川)を挟んで、日吉・浜・西坂・平田・生坂・三田・二子・庄等の地名が見えます。            
 この地図にある「宇喜多開墾」が天正12年に出来た千原勝則が作った「宇喜多堤」です。地図を見ても、この干拓がいかに広大なもだったかがよく分かります。現在の国道2号線の無津・早島中・金田・西田・加須山の信号までの北側に広がる広大な土地が生まれたのです。 更に、その北側に広がる倉敷、福島、中庄、鳥羽(マスカット球場の辺り)徳芳・栗坂などの現JR山陽線の沿線なども、すべて、この時の堤によって生まれた干拓地なのです。

 なお、この地域の干拓は、岡山藩と備中松山藩(高梁)の二つ藩が協力して開発に当った珍しい例です。それは、当時、生坂は岡山藩の支藩の一つになっていて、共同作業によるしか干拓の目的が達成することが出来なかったからです。
 

永忠の干拓事業が与えた社会的影響

2010-01-21 10:51:40 | Weblog
 千原九右衛門勝則の築堤技術の普及により大規模干拓が可能になって、岡山の平野には様々な干拓が行われます。
 その中で、備前の干拓は、岡山藩が中心となって藩営で行われた大規模なものでした。その為のに、藩の新田石高も、漸次増加していきます。
  
 寛永年間(1630年頃)から寛文年間(1660年頃)にかけては、大体2~3.4万石の新田石高があったそうですが、それが、永忠が関わった倉田・幸島・沖の新田開発の完成した貞享年間(1680年)頃から岡山藩の干拓が飛躍的に石高が増加して、石高も10万石を超えるようになり、藩の財政もそれだけ豊かになってきます。その後、一時、開発の停滞気味な時代もあったのですが、幕末の安政年間になると、出来上がった総ての新田から上がる石高は12万石を越すようになります。邑久・上道・児島地方の海に面した土地の干拓面積が広くなったからです。中でも一番多いのは上道郡の干拓で34万石にも達したそうです。

 このような新田開発による藩経済の活況化に、多分、影響されたのではないだろうかと思われるものに、寺子屋や私塾などの個人的教育施設の数を上げることが出来ます。

 日本教育史資料に、江戸末期に於ける各県の寺子屋と私塾の数字が出ていますが、岡山の数が他の県に比べて著しく多いのです。私塾の数は江戸末期には144か所もあったのだそうです。周りの県を比べても一段と多いのです。これなども、この干拓とまったく無関係ではないと思われます。
 生活に余裕がなくては子弟の教育等に関心を示すはずがありません。それだけ、岡山藩の人々の生活は経済的に豊かになっていた証拠です。

 岡山藩の、一般の人々の生活の豊かさを物語る、もう一つの例としてあげられているものに「渋染一揆」を上げることが出来ます。
 この一揆は、我が国の差別史の中で、特異な存在として、教科書にも取り上げられているのですが、その首謀者達、一揆の指導者が綴ったこの経緯や内容等を書いた文章など見ると、その人たちの十分なる教養の高さが伺われます。
 学問が藩の隅々まで、被差別にまで行き届いたためだと思われます。これも、藩の経済的な余裕が物語る一側面ではないかと考えられます。
 また、この一揆とは直接関係はないのですが、一揆の人たちに、途中で、水や食料を積極的に提供したある普通の農家の人がいたという記録も残っています。彼は、当時、邑久郡長船にある私塾に通っていた相当の教養人で、儒教をよくしていたのだそうです。差別とはなにか、人間とはなにかとか、深く考えていたと言われています。
 そんな余裕を持っていた人だったから、被差別民に対して、当時、誰でも持っていた差別意識を持たずに、人としての平等な接触をしたのだそうです。
 その人の孫に当たるお方よりお聞きしたお話です。

 これらは、総て、干拓による経済的な余裕と共に出来た塾などの成果が生み出したものであると考えられます。

高松城の水攻めと岡山の干拓

2010-01-20 16:06:16 | Weblog
 我が国に於ける近世の干拓事業を語る時に、岡山平野の開拓をおいては決して語れないと言われております。それぐらい早くから大々的な干拓が始まっていたのです。これを見習ってから他地域の干拓も手が付けられるようになったのです。岡山平野が干拓の先鞭となったのです。
 
 何故、岡山平野が干拓に適していた土地であったのかといいますと、高梁川・旭川・吉井川の3大河川による土砂の堆積によって遠浅の海岸線が長く伸びていたという自然的条件があった事は言うまでもありません。が、その原因が、他に、もう一つあったということは、今までは、ほとんどの人から忘れられていて、あまり注目はされてはいません。でも、確実にあるのです。そこに一人の人物が挙げられるのです

 岡山県の干拓の歴史は、天正10年の豊臣秀吉の高松城の水攻めを起源としているのです。
 高松城の水攻めの時、たった12日間で3kmにも及ぶ堤防を作った技術が、後に干拓の堤防作りに生かされたのです。
 この水攻めの堤防は、宇喜多氏の家臣、千原九右衛門勝則が奉行となって作り上げたものです。規模は高さが8m、堤防の基部は24mで上部は12mの大きさでした。
 
 此の時に培った技術を応用して、はっきりとした記録にはないのですが、この戦いの後に、千原九右衛門の指導によって、倉敷市向山東側にあったと伝えられる榜示ヶ鼻から六間川・早島町宮崎山(宮崎弁財天)を経て早島町塩津の多聞ヶ鼻までの潮止め堤防が築かれています。これが岡山の干拓の始まりでした。天正十二年(1584年)です。
 現在、早島の街筋がこの時に作られた締め切り堤防の一部であると言い伝えられています。宇喜多堤の名で、早島町史に彩りを添えています。
 なお、これも記録的には、明確ではないのですが、水攻めの後、秀吉に命じられて千原九右衛門勝則は、此の早島一帯の堤防を作る前に、既に、酒津を起点にして向山まで、五〇町の堤を築いたと言う言い伝えも残っています。
 
 まあ、何はともあれ、岡山県の数々干拓は、この勝則を抜きにしては語りえないのです。

 この水攻めの時に活躍した勝則の築いた「宇喜多堤」の技術が、基本的には干拓400年の歴史を支えていたのですが、今では、歴史の中っから消え去ってしまった重要人物の一人になってしまっています。

 その人の名は、もう一度書きますが、「千原九右衛門勝則」です。

 ちなみに、この天正一二年当時の海岸線は高梁川が酒津で海に入り、子位庄・生坂・西坂・平田・大島・福島・三田・二子等がそうでした。現在の川崎医大のある松島は、完全に、その字の通り松「島」であったのです。山陽本線沿いに海岸線が延びていたのです。
 そうしてみますと、400年の干拓が、如何に広大な土地をもたらしたかという事がよく分かります。

強かな経済学者 永忠

2010-01-19 19:42:37 | Weblog
 この干拓に関わった人数は一日に千人、土積船・石積船は数百艘が、昼夜の区別なく、幸島山の釣鐘を合図に出向いたと言われています。誰がその釣鐘を何を根拠に撞いたのかは記されてはいませんが、潮時を見計らってのことだと思われます。満干潮を見定めての、的確くなる合図が出される必要があります。其の辺りの計算のできる人物を配していたのではと思います。
 出来上がった堤防の総延長は一里半、およそ6kmあります。この締め切り堤防で出来上がった耕地の総面積は560町歩です。岡山後楽園の40倍の広さの干拓地が出来上がったのです。

 とにかく、干拓地は、今まで海であった場所が陸地になればそれでいいというわけにはいきません。そこに稲などの食料が生産できなくては何にもなりません。その為に灌漑用水路の整備が整わなくてはなりません。その為に造られたのが倉安川です。

 なお、この干拓に当っての延就労者は、一日千人というだけで、果たして幾人であったかの記録はないのですが、永忠が此の新田の開発の後、綱政侯の時に行った「沖新田」の干拓の時の延べ人数が約100万人であったという記録があります。それと比べてみますと、この幸島新田の規模は、その4分の1程度ですので、述べ25万人ぐらいの人が働いたのではないかと思います。
 この干拓事業は、岡山藩に住む人々の生活にも多くの影響を与えています。この干拓は、単なる藩財政に潤いを与えたというだけではなく、岡山藩内に住む多くの農民だけでなく町人の生活までも豊かにした原因になったのです。
 藩内に住む人々全体の経済活動が、風吹けばおけ屋がもうかるの例の通り、活発となり人々に経済的余裕を与える結果にもなったのです。
 此の永忠という人は、このように経済活動の原則といいますか、資本主義経済の原理に深く精通していた高度な経済学者であったといっても過言ではありません。
 17世紀の中ごろに、こんな日本人もいたのです。将に驚き以上の何物でもありません。ルーズベルトのニューデール政策より280年も前にです。

正月返上で行った永忠たちの新田開発計画

2010-01-18 13:20:48 | Weblog
 十五日の左義長(とんど)が終わったら正月行事も終了したのかと思いきや、今は全くそんな行事は知られてはいないのですが、まだまだ続いて数々の行事が行われていたのだそうです。
 本当に日本人ってのはお祭り好きな人種だと思われます。

 この十五日は左義長の日は、又、上元日(じょうげんのひ)といって、神々に灯をともしてお祭りをしたと言い伝えられています。
 なお、この日、粥を炊いた余りの卯枝を削って、女の人の尻を打てば男の子が生まれると言われ、男の子が女の子を追いかけて求愛したという風習だったそうです。何時の間にやら廃れてしまいましたが、誠に原始的なその起源は分からないのですが古るから伝わっていたのです。多分縄文の名残のような匂いがする行事だと思います。此の行事は、男女の逆はありますが、西洋のバレンタインデーと相通じるものだったようです。旧暦ですので、季節も大体同じ冬の行事だったのです。
 
 十六日になれば、これは宮中の行事でしたが「あらればしり」又は、踏歌(とうか)と言って、足で土地を踏み歌を歌いながら舞歌って宮中を歩いた行事も伝えられています。一般市民の間にはあったのかどうかは分かりませんが。
 
 十七日になると、これも前の「あらればしり」と同じように、宮中の行事であったのですが「射礼(じゃらい)」という行事も行われていたようです。弓を射る行事だったようです。。
 十八日になると「賭弓(のりゆみ)」という、これも弓の競争であったようです。勝者には贈り物を賜ったと伝えられています。

 これらのいづれかの行事が、現在、三十三堂で行われている「通し矢」の行事に繋がったのではないでしょうか。
 
 十九日には、厄神参りもあります。
 また、二十日は二十日(はつか)正月といって、二度目かの正月を楽しんだのです。

 このように十五日が過ぎても、当分は、人々の間には正月気分が抜けきらなくて、色々な行事をこしらえて、冬の生活というより、農閑期の生活を楽しんでいたのではないでしょうか。
 そんな正月気分と縁が断ち切れるのは二月になってからです。そんな所から一月をみんなで睦み合う月だという事で「睦月」と呼んだのではなでしょうか。だから日を追って行事を次から次へと考えだしたのではにでしょうか???

 このように比較的のんびりとした正月を過ごすのが一般的だったのですがが、永忠が行った幸島新田開発の時は、何人の役人が関わったのかは分かりませんが、岡山藩の多くの役人は、正月返上で、その計画を練っていたことが分かります。
 十二月十九日に永忠が、図面で以て干拓の計画を藩主光政侯に言上します。すると、光政侯から「直ぐ計画せよ」とのご命令。幾人の役人が関わったのかは不明ですが、正月十日には、諸役まで決めております。綿密な計画のもとに人の配置までを決めています。相当の仕事量だったことが予想されます。
 正月も何もあったものではありません。懸命に計画書の策定に関わったものと考えられます。それぐらい役人にやる気がみなぎっていた当時の岡山藩でした。それが光政侯の政治でもあったのです。

幸島新田

2010-01-17 12:15:28 | Weblog
 倉田新田に続いて、45歳の永忠が手掛けた藩営の新田が「邑久郡幸島新田」です。562町歩という広さでした。工事費は、米にして一万石で、此の費用も、やはり倉田新田と同じように、社倉米を使ったのだそうです。
 ここへの入植者は、計画では、領内の貧農の者を充てようとしたのですが、地代が高くてそれらの者には支払い能力が不足しており、計画通りにはいかなかったようです。結局、閑谷村などから入植を募って、ある程度の余裕のある農民を入植させています。

 これに続いて永忠53歳の時の「沖新田」の開墾があります。この時に造られた新田の面積は1540町歩の広さでした。この工事は元禄元年の正月に起こし、その年の7月には出来上がると言う速さでした。

 計画から完成まで極めて短期間で、1500町の広さを持つ干拓が、どうしてそんなに早急に出来上がったか不思議に思われます。
 多分、これらの地域が、地形的にも、干拓条件が大変に良かったという事も上げられるとは思いますが、事前の永忠の計画そのものが、しっかりとしていたのが一番の大きな原因だと考えられています。

 例えば、幸島新田の場合でも、次のような書きつけも残っています(池田家履歴略記)
 「邑久郡幸島新田開くべき旨津田十次郎図此を以て去年天和三年十二月十九日言上しければ早々普請すべしと正月十日仰有て諸役を定める」

 更に、この中には、六か所の築切堤奉行を決めたりに、諸道具請払届松木伐り方共、日雇請払見届、医師、諸買物値段極等の役人を定めた事が記されています。

 ここに見られるように工事区域を6箇所にはっきりと区切って、その責任者を明確にして、競争的ではないにしても、請け負わせた各場所で、責任者に独立した監督権を持たせて実施させったことが、早期実現が可能になった一つの原因ではなかったと考えられます。
 また、工事現場に医師を配するなどして、干拓人夫の精神的な働き安さを満たすような配慮が見られ、それも短期間で工事を終わらせた原因ではなかったかと思われます。