私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語 」 細谷の流れ

2007-02-27 23:37:59 | Weblog
 小雪は、そっと目を開けました。障子を通して、まだ明けやらぬ朝の光りが薄ぼんやりと浮かび上がってきます。夕べの客も早立ちして、部屋は深々として、布団から一寸出した手にさえ如月の寒さが寄せ来ます。
 男を送り出した後のややなんとなく薄ぼんやりとした気だるい気分で、布団に、自分の体を人ごとのように横たえています。
 そして、いつも、無意識のように体の何処から出るのか分らないような「あーあ」とも[アーン」ともつかない言葉にならない言葉が、口を付いて出るのでした。
 この宮内に流れ着いてからもう早いもので七ヶ月年が過ぎようとしています。
 ふと今でも、京のあの「尊王だ、やれ、佐幕だ」と、わけも分らない男の人達の身勝手な空騒ぎの中に、否応なく自分も押し込められていったあの時が、頭に飛び込んできます。
 お人が、至る所で、『正義だ』とか、やれ『天誅だ』とかで、いとも簡単に切り殺されています。三条大橋の袂の高札場に人様のお首が、毎日のように無惨にかけられています。薄笑みを浮かべて平然と、お人をお切りになるお武家さんの噂も耳にしたこともありました。
 「まこというのは、平気でお人を殺してしまわれることでっしゃろか」
 と、おしげさんが出っ歯を突き出しながら小さく笑っていって言ったことも思い出されます。
 「天子さまの御為とか何とかと言っても、やっている事は、江戸のお人と同じこ とどす。人をあやめて得意げになっているだけのことどす」
 「人を殺すのが男の生きがいだなんて、へんてこな世の中でおす」
 「みんな男の身勝手どす。まちがいおへん」
 「口では、偉そうにお前達、女どものためだなんて言っているくせに、結局、男 さんたちの自分勝手でおます」
 「男さんたちは、だれもかれもがしたい放題のことがやれて、ほんとうにうらや ましい世の中どすな」 
 「私も男に生まれてきとうおましたなー」
 「そうどす。そうどす。女なんてつまんのうおす」
 と、いつもここに話が落ち着きます。

 どうしてそんな世の中になってしまたのかしらと、小雪たち京の女達はみんな思っているのです。そんな騒ぎの中にとっぷりと溶け込んでしまった小雪の心が、朝の布団での「あーあ」の言葉の中に入っているようです。


 こんな風にして「小雪」の物語は始まります。

我家のお雛様

2007-02-27 21:19:24 | Weblog
 我家のことについて書きます。
 というのは、今日2月27日は、去年、もう40にもなろうという長男が、酒を飲みながら、[僕、結婚するよ」といって家族を驚かせた記念の日です。
 その今日、我家では、長女が誕生してからずーっと飾り続けてきた雛人形を、飾り付けました。その役目は、我家にこの雛人形が来てから、もう35,6年ぐらいになると思いますが、私が一手に引き受けています。
 途中、彼女が高校生頃にになってからは内裏雛だけしかお飾りしていなかったのですが、その子に孫娘「花奈」が誕生してから、又、以前の7段の人形飾りを復活しました。
 毎年この季節が来るのを、私は知らず知らずのうちに随分と楽しみに待っているようになって来ました。
 孫娘も、
 [じいちゃん、可愛いね」
と、愛らしい笑顔をいつも見せてくれます。
 今、一年生になった孫が、今年も、お飾りしたお雛様を見て、どう言って喜んでくれるか楽しみです。
 
 ちょっと我家の「じじばか」を紹介しました。
 今日、その「はな」から
 「おじいちゃん大好きよ」という手紙が届きました。
 今晩は、このお雛様と孫娘の手紙で、お酒が少々余計に要りました。
 
 

誰かリールを知らないか あっ 間違えました。小雪でした

2007-02-26 21:48:47 | Weblog
 戦後、すぐ歌謡界をリードした歌手に、津村 謙という人がいました、この人のヒット曲がタイトルの「誰かリールを知らないか」です。
 
 吉備の中山の一番西側に、お魚の尻尾(おにぎり型)みたいな形をしているお山があります。飯山と呼ばれています。
 頼山陽が、この山を鯉山と命名しただそうです。ちなみに、吉備津の小学校は[鯉山小学校」と名前がついています。
 この飯山の麓に、はいつくばうようにして「片山墓地」が広がっています。この墓地には、先にあげた熊次郎のお墓もあります。
 その側には、この大親分を守るようにして熊次郎の4天王の一人、片嶋屋万五郎の墓も見ることが出来ます。
 ここには、また、高さがたった41センチというごく小さなお墓を見ることも出来ます。「玉樹涼陰信女」京都俗名小雪行年21才と刻されています。
 藤井駿先生は、昭和44年に、この「小雪」というのは。宮内に居った遊女だという事を発見されました。

 この小雪とは一体誰でしょうか。誰か知っている人はいませんか。

 当時、宮内にいた「遊女」の数は100人は下らなかっただろうといわれています。当然、若くして命を失った遊女も相当多くいたと思われます。
 それなのに、なぜ、この小雪だけのお墓が小さいながらにも建っているのでしょうか。他の大勢の命を落したと思われる遊女は、名もなく無縁仏となって、この片山墓地に葬られています。
 小雪とは一体誰なのでしょうか、知っている人はいませんか?  
       [誰か小雪を知ら~ないか]

熊次郎のお墓

2007-02-23 20:47:15 | Weblog
 
 良しにつけ、悪しきにつけ、この宮内の闇の帝王として、幕末の山陽道を股に懸けて生き抜いて行った熊次郎親分も、やくざの親分としては長寿をまっとうして、75歳で入寂して、片山墓地に「蓮光院冷嶽道泉居士」の戒名とともに葬られました(嘉永5年)。
 片山町には、彼が寄進した立派な常夜灯があります。かっては、灯明皿が置いてあり、よっぴて明かりが点され、周りを照らしていたという事です。

熊次郎大親分って

2007-02-20 19:30:11 | Weblog
 文化文政、天保、嘉永などの幕末を、強かに通り抜けた山陽道随一と謳われた侠客熊次郎は乾分を300人も抱え、一ヶ月の稼ぎは300両もあったという。
 
 一時、熊次郎には1万両もの借金があり、それを一気に返済したという、その処理方法が奇抜で、今でもこの地方の話しの種になっています。
 その解決方法として、熊次郎は、全国の各地の名だたる親分を、総てこの宮内に招き(幾人の親分を招待したかは不明ですが)「借金万両祝い」と銘打って大賭博会を催し、それなどで一気に借銭を返したといわれています。この時、清水の次郎長が来たかどうかも記録にありません。
 もし、次郎長が来たとして、小説にでも、この場面を描くとしたら相当面白いものになるのではと思います。小説家の皆さんで誰か書いて下さる人はいませんでしょうか。
 
 まあ、熊次郎は出がやくざですから、相当なあこぎな事は平気でやってのけたのではと思われますし、チンピラどもも多くいたと思います。当時の、熊次郎が、チンピラどもをどう統制し、町人に迷惑をかけないように心配りがあったかどうかは分りませんが、熊次郎たちヤクザを、相当多くの毛嫌いしていた町人もいたと思われますが、そんな記録も皆無です。ただ、「大親分」だったとだけが、今に尚、言い伝えられています。
 
 普通なら「博打」は、何処でも、日本全国ご禁制だったはずですが、この宮内だけは「常内バクチ」と呼ばれ、お上からもお咎めなしで、おけんたいに毎日、賭場を開く事ができたという事です。
 それは、熊次郎が、何処へどう手を回したのか分らないのですが、京都の九条関白家と関わりを持ったためではないかといわれています。

 色々と手を替え品を変えて親分としての威厳を保ったのではないかと考えられますが、今は、吉備津の人たちはみんな「偉い親分だった」とほめています。
 でも若い人には、それだれ?と嘯く人も沢山見受けられます。時代は、いいか悪いか知らないのですが、随分と変化しています。

 なお、当時宮内を差配していたと思われる、藤井高尚、真野竹堂等の知識人の書いたものの中には、この熊五郎の事は一行たりとも見えないのは確かです。
 「我は我、お前はお前へ」と、見て見ぬ振りをしていたのかもしれませんが、はっきり区別して、没交渉みたいなものがあったのではと思われます。
 身分制度の厳然としていた江戸時代のお話のように私には思われます。
           
      (昭和62年5月2日のオカニチ新聞を参考にして)
 

栄西の母は田氏の出?

2007-02-19 20:56:07 | Weblog
 栄西の母親は田氏の出だということです。
 この田氏とは、一体何者でしょうか。
 古い記録によりますと、備前吉備津彦神社の宮司は「難波氏」で、備前国の豪族だったという事です。例の成親卿虐殺にも一族である難波経遠が関わったとされています。
 当時は瀬戸内海がこの中山付近(花尻から現在の大安寺あたり)まで入り込んでいました。花は端で、尻はどん詰まりで「海の入り込んだ一番奥のところ」という意味があるそうです。この難波氏は、この辺りの海を支配して、相当大きな勢力を得ていたものと思われます。
 記録によりますと、この地に、長江葦原、比美葦原の名が見えますが、これも海がこの辺りまであったということを物語っています。
 この難波氏は大守氏、大藤内、田使(たじ)氏などの名で呼ばれていたということです。
 栄西の母の田氏も、この田使氏の出ではないかと思われます。
「田使首」という名が平安の歴史書の中にも出ています。
 おかやま歴史塾のお話にもあったのですが、栄西は、博多で中国人通事と交渉があたということですが、これは瀬戸内に勢力を持っていた田使氏(難波氏)の力が大きく関わったのではと想像がつきます。
 兎に角、栄西の入宋には、この父方母方の経済力があったことは確かです。

重源と栄西

2007-02-17 20:48:36 | Weblog

 重源の影響を受けた吉備津神社の建築様式について、12月27日に書いたのですが、過ちがありましたので訂正いたします。
 というのは、新装成った山陽新聞社のサンタホールで、後期「岡山歴史塾」の第一回が今日開かれました。
 第一回のテーマが
 「栄西 鎌倉新時代に中国禅をもたらした祖師」
 で、講師は岡山大学の久野修義先生でした。
 その講義を聴き、私の記述に誤りがあったことが分りましたので、ここに訂正します。

 私は、栄西が老齢になったため、弟子の重源にその役目を換わってもらったのだとばかり思い込んでいました。今日の講演で、実は、それは全く逆で、なんと年齢が21歳も、重源のほうが年長でした。また、東大寺の大勧進職の第一代目が重源で、二代目が栄西だという事でした。

 この2人は、南宋の天台山万年寺で逢い、1168年に一緒に帰国しています。

  なお、今日の講座から、栄西自身が吉備津神社の禰宜の子息であったということと、母も田氏の出であり、備前備中の権力者であったため、二回も宋の国に行くだけの経済的に豊かな財力が、その背後にあったということが栄西の栄達を物語るのだとうことでした。

 


宮内の遊郭

2007-02-16 19:06:14 | Weblog
 
 熊次郎が市頭として活躍していた「宮内」は、文政時代、山陽道随一の歓楽街であったと、ここ吉備津では当時を懐かしむ事しきりですが、本当にそうであったか調べてみました。
 寛文年間に出た「燕石十種」という本の中の、色道大鏡巻第12に、当時の日本遊郭総目として、25の遊郭の名が上げられていますが、その中には、この宮内は出ていません。
 この近くでは、播磨の国室、備後の鞆、安芸の広島、宮島が上げられています。
 遊郭地としてはそれほどではなかったにせよ、歓楽街としては相当有名であったと思われます。芝居小屋、ばくち場、女郎屋などの相当大きな「遊び地」であったらしいということは確かです。
 なお、この鞆の遊郭については、雨月物語にある「吉備津の鳴る釜」にも登場します。

清水の次郎長か岡田屋の熊次郎か

2007-02-15 21:05:12 | Weblog
    「もしもし、おめェが次郎長か。わしゃあなー、岡田屋の熊次郎じゃ」

 もし、その当時、電話があったとしたら、こんな会話がなされたのではないでしょうか。
 これからお話しする、わが町 吉備津が生んだ任侠の人「熊次郎親分」は、当時といっても、江戸は末期「11代家斉」将軍の時代(文化文政時代)に、山陽道随一の遊郭地「宮内」を牛耳った、やくざ世界に君臨した闇の帝王でした。
 この二人は出会うこともなく、幕末という、今までの価値基準が完全に崩れ去ろうとしていく波乱万丈の世界に生き、又、それを巧みに使い分けしながら、西と東に相別れ、お互いを知る事もなく、自分の力を精一杯に発揮して、自分の思うままに、己の生を存分に己の世界に埋没させていったと思われます。
 この熊次郎は、次郎長と違って、西の勇として、映画にも講談にも取り上げられず、歴史の中から完全に消え去り、忘れ去られてしまっています。
 その点から言えば、熊次郎は、一寸ばかり損をしたかなという事はありますが、彼は、今、彼の墓なの中から「そんな事こんめえ、こんめえ」と嘯いているのではと思います。
 でも、当時、この吉備津の宮内を起点として、山陽随一の大親分として、全国にその名を知らしめた人であったことは確かです。

 こんな人がいたのかということを、これから数回に分けて語っていこうと思います。  
                 

 なお、「こんめえー」とは、吉備地方の方言で、
 「小さな些細な事で取り上げてもどうにでもなるということにはならない、自然の成り行きにまかせればいいことじゃ、ほっとけばよい」
と、いうぐらいの意味です。

パソコンに出会った時、「おやなに、こんなもの」と思う

2007-02-13 21:26:13 | Weblog
 今日の陽気、いったいなんでーなー。4月じゃがなー

 さてーと、今日のテーマ、題に入ります。 
 「ワープロ」が出て、ガリ版印刷、タイプライターともおさらばして、なんて便利な世の中だろうと、近代化の波をありがたく思いながら、ワープロの世界に浸っていました。
 ハードデスクだの何だのと、いろんな声を聞きながら、パソコンなんてと思ってるうちに、またもや、知らぬ間に、この世界に足を踏み込んでしまっていました。
 今では「これなくて何で己かな」の世界になっいます。

 まあ、これで「古希」を迎えた自分を、それなりに、結構楽しんでいます。
    
 

普賢院の護摩供

2007-02-12 21:20:30 | Weblog
 昨日、普賢院の会陽について書きましたが、もう60~70年ぐらい前からこの行事はなくなっています。
 でも、昔から変わらないで、今も、続けられている大祭もあります。その一つが今日行われた「福力柴燈大護摩供」です。
 温かい如月の太陽が燦燦と降り注ぐ中、沢山の檀家の人たちに見守られながら、特別にしつらえた境内の祭壇の前で、荘厳かつ粛々と執り行われました。
 僧侶とともに唱え奉った般若心経の熱祷が、後ろの吉備の中山に、大きくゆったりと木霊して、吉備の野に一杯に広がって流れ流れしており、この一年の平安を護摩の煙とともに、十分に受け取ることが出来ました。
 護摩供養の燃え尽きた炭火の上を渡る「火渡りの行(火生三昧という)」にも、老若男女檀家の人たちが沢山参加していました。

 

鼓山の草刈

2007-02-11 17:12:40 | Weblog
 2月です。
 普通なら、更に服を着なくてはならないような寒さが普通なのですが、今年は、一枚上着を脱がなくてはならないような陽気な如月です。
 
 そんな今朝、8時より、吉備津の有志の人たちによる鼓山(吉備の中山と高松最上稲荷のほぼ中間に位置するお山です)の草刈作業が行われました。(吉備津老人会の人が中心に、大橋の須和さんや西町の平松さんなど)

 これはもう大分前から続けられているという事です。私は今年始めて参加させていただきました。
 3月の初めに行っている吉備津保育園児達の登山のための道作りです。
 笹が1年間に生い茂り道を塞いで、折角の園児達の楽しみを邪魔しています。そのための道作りなのです。2時間で本当にきれいに草刈が出来ました。これで、今年も園児達のあの顔一杯に浮かべた笑みを見ることが出来ます。

 この鼓山は、秀吉の高松城水攻めの時に、羽柴秀長が陣取った陣屋跡です。当時武将達が自分の馬を慣らした馬場跡も、この丘を取り囲むような形で今に伝えられて残っています。
 その辺りまできれいに草刈をしました。今ではクヌギの木が大木になり見晴らしを悪くしていますが、普通なら、そこから高松城はもとより岡山倉敷辺りまで見通せる小高い丘です(標高118mとあり)
 なお、この麓には、太閤が水を飲んだと言い伝えられている「太閤井戸」も見ることが出来ます。
 この頂上には、2ヶ所、古墳時代後期の古墳もあります(盗掘済み)。
 
 こんな人情の厚い、また、歴史的遺跡がいたるところに見られる、わが町吉備津です。

吉備津風訪誌よりー交通の巻ー

2007-02-11 16:16:10 | Weblog
 この本の筆者は「赤木政夫」さんです。石屋を営みながら郷土史の研究に打ち込み、遠の昔に忘れ去られてしまった、この吉備津のあった諸々の行事や習慣風習、制度等を、自分の足を使って、掻き集めら、記されています。
 
 文政元年(1818)に出た「人馬賃銭覚之書」によれば、
 ⑴板倉宿から岡山宿まで2里(やく8km)間
 ・人足ー61文1歩。
 ・人一人尻馬ー102文(尻馬とは、人が乗っている後ろに同乗させてもらうこ   と)  「帰り馬」とは又違うのですが、この値は書かれていません。
 ・一人本馬ー126文二歩
 ⑵板倉宿から川辺宿まで3里(12km)の間
 ・人足ー74文
 ・人一人尻馬ー126文
 ・人一人本馬ー154文

 この前行われた「吉備津寄席」の金友写真館の辺りに、馬小屋があって、いつでも直ぐ間に合っていたという事です。その前にある金友商店の辺りにが、相当大きな飛脚宿だったという事です。
 明治になって、人力車が入り、100台以上もあり、向畑に1軒、大橋に2軒,中町に1軒、西町に2軒、6軒もの人力車夫の宿が板倉宿にあったということです。鉄道網が整備される明治20年台ごろまで隆盛を極めたという事です。
 なお、この当時の人力車賃は、1里が3銭5厘だったそうです。(当時米1升の値段は4銭1厘だったとのこと)

 なお、この他に、車大工、自転車による交通事故、自動車と汽車の衝突などの話が、当時の珍しい板倉の風景として事細かに文章で書き込まれています


チイー、コネェーダ(コニャーダ)のように-政夫記よりーその2-

2007-02-08 21:12:53 | Weblog
 風訪記を読んでいくと、「そんな行事」が吉備津の昔にはあったのかと思うようなことが沢山載せられています。
 タイトルにある「コネェーダ」という意味がお分かりの人はいますか。
 きっと、岡山に住む若い人でさえ、理解に苦しむのではと思われます。それぐらい時代が激変しております。たった5,60年ぐらい昔なら誰でも知っていた言葉が、この吉備津からでも消え去ってしまっています。
 この本の中には、そんな、今ではもうとっくに人口に膾炙されなくなったお話が数多く載せてあります。
 「天秤棒を担ぐ」「米俵を積む」「ヤレボー」「オハヤシ」「ヒテェー正月」「普賢院の会陽」「初薬師・寅・大師・庚申」「さぬき入道雲」といった言葉が入り乱れて使われています。
 
 これはこの本には出てないのですが、一寸と一息入れて「セーマをかつぐな」という言葉を聞いた事がありますか。念のため。
 
 兎に角。面白い本です。そんなお話を数回に分けてお届けします。

 私が育った所と吉備津では距離にすると10里(40km)ぐらいしか離れていないのですが、コニャーとコネェーのちがいがあるようにイントネーションやアクセントニに随分の違いが見えます。川一筋違っても、言葉に随分の相違があったようです。
 「こっちの水はあ甘いぞ」という言葉の意味が分るような気がします。
 
 タイトルの言葉の持つ意味は、「つい最近のことですが、ついこの前のように思うのですが」というような意味です。
 
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 それはそうとして、私の孫が7ヶ月を迎えました。かわいいこと仕切りなしです。写真を見てください。でも、未だ「はいはい」ができませんが。
 可愛いでしょう。

赤木政夫の記録

2007-02-07 20:08:39 | Weblog
 『幸運期の巻』から

 宿場が最も栄えていた頃の板倉(この本には、何時頃とは書いてないのですが多分元禄頃から幕末にかけて150年ぐらい続いたのでは?)には、宿屋が百八十数軒も立ち並び、大橋から宮内にかけて川沿いに柳が植えられていたそうです。この柳沿いに、板倉に宿した旅人は、夜な夜な宮内に一夜の憩いを求めて通って行ったということです。
 その宮内遊郭では、飲み屋と称する家が百数十軒もあり、所謂女郎、舞奴、芸奴等が約200名、又、板倉の宿屋にも飯盛り女の称するうかれめの類の怪しげな女の人が百名はいたという事だそうです