私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

花と細波

2008-03-31 16:16:42 | Weblog
 今日は3月尽です。3月は、又、桜の花を主とした花の季節でもあるのですなのです。江戸の文化年間に出た『四季之詞』の中から花の付く主な言葉を拾ってみました。
 『花の錦、花の雲、花の雪、花吹雪、花の滝、花の波、花鳥、花の笑、花の匂い、花房、花びら、花の輪、花園、花乃心、花の姿、心の花、花衣、花車、花見車、花むすび、花いくさ、花の宴、花筵、花をふらす、花の陰、花の都、花躍(おどり)、花々、飛花、落花、花の縁、花の主、花のあるじ、花守』
 です。これらは、総べて日本で作られた和語なのです。
 これに対して、漢字の国、中国でもやはり沢山の花の付く言葉が出来ています。漢和辞典から、ちょっとも面白い言葉を拾ってみました。
 ・花言(カゲン)ー実のないうわべばかりの言葉
 ・花子(カシ) -こじき
 ・花心(カシン)-うわきごころ
 中国では、大体においては、美しい・きれい・はなやかなものを意味している言葉に使われているですが、上に挙げた様な、ちょっと花のもつ陽気で浮ついた特性から、美しい等とは随分かけ離れたやや花を卑下したような言葉も作られたようです。
 日本の花の付く詞には、そのような陰ある言葉は一つも見つかりません。すべてきれいな美しい事のみに使われています。それだけ日本人は、花をこよなく愛する人種なのでしょう。
 今日、花冷えです。桜の木々もちょっと開花を遅らせています。
 吉備津神社の枝垂桜も花冷えの風が作った竜神池の水面の細波にその影を宿し、ざわざわと揺れながら、水に映る花影も柔らかな春の光を輝かせていました。 

 花びらが二、三片、その水面を滑っていました。若い女性の人が二人、その木の下でお弁当を拡げていました。
 風景になる絵です。昨日は山陽道一といいましたが、今日の景色は、まさに日本一の風景といってもいいでしょう。


山陽道一の吉備津のさくら

2008-03-30 10:15:59 | Weblog
 28日に開花したたった一輪だけの桜の花びらは、一日経つともうこんなにと思うくらいに沢山の花びらがを覗かせています。

 「歳月は人を待たず」です。人の思惑など、どうでもいいのです。己の時に従って確実にしかも自由に自分の生を、恰も自分の意識のごとくに操りながら生きています。桜の木にとっては、直ぐに散ろうとどうであろうとそんなことにはお構いなしのはずです。それが桜自身の当然の本来の生であるのです。
 が、その桜の持つ「ぱっと咲いてぱっと散る」という「あっけなさ」「儚さ」という現象を、人の持つ無常の感情と合致させ、自分を桜の木と置き換えて、本当は自分が歎き悲しんでいるにも拘らずさも、桜が歎いているだろうなどという勝手な解釈をしながら、多くの日本人は昔からこの春の桜の花びらに一喜一憂したのです。
 「のどけからまし」なんてこころは凡人には分らないのですが、この二日間の桜の変わりようを見るだけで、本当に『自然って素晴しいいものだ』という心が自然に湧きあがるようです。

 さて、我町 吉備津のとっておきの桜をお見せします。
 吉備津神社の下にある竜神池の中島(宇賀神社の社の傍)にある一本の枝垂桜です。山陽道一の桜だといってもいいと思います。日本でも指折り数えられる桜の風景です。今が見ごろです。4月の3,4日ごろまでは素敵なさくらの風景をあなたの心に刻み込んでくれます。これが、即ち「のどけからまし」の風景です。説明も何も要りません。池に写った絵をお見せします。
 

 最後に、古今集の小野篁の歌を。

   水の面に しづく花の色 さやかにも
          君はみかげの おもほゆるかな

 もう二、三首
   ひさかたの 光のどけき 春の日に
          しづ心なく 花の散るらむ     紀友則
   花見れば そのいはれとは なけれども
          心のうちぞ 苦しかりける     西行法師
   入相の 鐘はさくらの 何なれや
          音するなへに 散り乱るらん    藤井高尚

 友則や高尚の歌は兎も角として、西行の、桜を見ると心が自然と苦しくなるとは一体何なんだろうかと、このしだれ桜を見て、毎年、心を騒がせています。

おせん 3

2008-03-29 11:46:06 | Weblog
 時は弘化2年弥生、吉備津神社の春の大祭で大江戸歌舞伎の嵐門三郎・浅尾雷助などを配した嵐新蔵一座の興行が、この宮内で4年振り行われている真っ最中でした。岡山城下など近郷近在の多くの老若男女がこの宮内に繰り出し、本当に久しぶりに下へ上への大活況でした。
 立見屋でも多くの客が詰めかけ、猫の手も借る忙しさです。その為に平蔵への接待も後回しにならざるを得ないといった様相を見せています。
 そんな忙しさの最中でしたのでしょう、宿のお園さんまでもが借り出されてお客の応対に当たっていたらしいのです。
 「今晩は。お客さん。・・大変ご迷惑をお掛けいたしております。ごめんなさいね。折角お泊り頂いたのに。こんな目に合わせてしまって申し訳ありません」
 深々と頭を下げてから、遅くなった夕食の用意をします。膳の上には、お酒の徳利も並べてあります。
 「いやなに、こんな時に来た私も悪いのです。構わんでくださいな。お忙しいのでしょう。私は一人が慣れている者ですから、一人でやります。どうぞお気遣いなさらないでくだしな。それだけあれば結構ですから。」
 そんなやり取りをしながら平蔵は善に着きます。
 「おひとつどうぞ」
 お園は徳利を取ります。
 相変わらず宿の内も外も、がやがやとした大層賑わしい声々がこの部屋にまで伝わってきます。
 「平蔵さんだと伺って参ったのですが、いつもご利用していただいているとかで父も後よりごあいさつに参るとは思います、なにぶん今夜、岡山のご城下より何かご重役様がおいでなさっているとかで、余計に心が張り詰めているようでございます。」
 「ご重役様、ははは・・・。大変な時期にお邪魔したものですね。でも、私への気兼ねは結構ですよ。明日からは玉島などに出向きます。3、4日は留守になると思いますが、よろしくお願いしますね」
  「処で、あなたのお名前は、先ほどお父さんといわれましたが、この屋の娘さんですか」
 「はい、お園と申します。よろしくお願いします」
 そんな会話を交わしながら、夕食を終えた平蔵は
 「明朝は早い出で立ちになる」
 と、言って、周りの喧騒をよそに、早々と床に入ります。
 

やっと咲きました

2008-03-28 14:46:42 | Weblog
 吉備津の桜開花宣言をします。20日に28,29日が吉備津の桜の開花予想だとしましたが、今朝、吉備津神社の私の標準木を見てみましたが。花びらが今にもほころびそうでしたが、まだ、花は開いてはいませんでした。
 「今朝はちょっと冷えるから明日かな」
 と思い、吉備津彦命のご稜へ、草餅用の蓬を摘みに登りました。山腹辺りで摘みます。香立つみずみずしい蓬が、瞬く間に、用意した袋一杯になります。
 行き帰りは「細谷川の 音のさやけさ」を聞きながら遊歩道を通ります。柔らかな春の日差しが谷川一帯を覆っている大木の間から漏れて、落葉の中に吸い込まれるように薄々と遠慮しながら地上を這うように注いでいます。そのわずかな日の光を周りの橡などの大木が茂らない今とばかりに貪り取るように、もみじ等の小さな木々は早々とその若芽を差し出して薄みどりの世界をあちらこちらに広げています。
 谷を降りていく風と、小さな木々とせせらぎが入り混じって、早春にしか見せない景色を目の前に展開してくれています。ゆっくりゆっくりと、この季節しかない時間を楽しみながら上り下りします。
 鶯の声はやかましいぐらいに周りの木々の中から聞こえてきます。さえずりだなんてとんでもありません。そこら中が鶯の声で一杯です。
 なんとも贅沢な私だけの春でしょう。
      谷川の 瀬音のうちに 桜咲く
             昨日の風と 今日の空とで
      鶯の 声する梢 入り混じり
             空に弥生の 色を奏でる
 
 そんな辺りの風を全身に受けてゆっくりとお山を下ります。
 今朝見た桜はと、再び、吉備津神社に。
 
 すると、今朝ほどは、まだかなと思われていた木の枝に一輪ですが花をつけているではありませんか。ほんの一時しか時は過ぎてはいないのですが、桜の木は、もう十分に開花の準備を整えたのでしょう、ちゃんと一輪ですが誇らしげに咲いているではありませんか。自然って本当に偉大ですね。風も気温も日差しも何も昨日とも、今朝とも変わっていません。でも、時を待っていたのでしょう、咲くのです。時を知っているのです。と、思って、神社一帯の桜の木々を見ました。どの木にも今朝にない景色が見えるではありませんか。
 これも私だけの楽しみに、今日は幸福なる日になりそうです。   

おせん 2

2008-03-27 09:27:49 | Weblog
 そんな古い宮内の旅籠を大阪の豪商舟木屋が定宿に指定したのは、ある時、舟木屋の先代が、偶然、この宿に泊まり、其処に掛けてあっら円覚大僧正の軸を契機にして、ここの亭主と旧知の仲のように親しくなり、それが契機となり、それ以来ずっと使っているのだそうです。
 また、この宮内の隣の板倉には、両替屋や飛脚などの施設も整い、山陽道の要の場所にあり、商売上の便もいたってよかったということも、この宿を定宿とした見逃すことが出来ない条件だったようです。
 そんな訳で、この宿を基点として平蔵は備前や備中などの綿の買い付けをしていたのです。
 始めの内は、毎年使っていただくごくごく普通の大阪商人のお客さんでありました。
 春の吉備津神社の大祭か何かの折でした。お江戸では老中水野さまが蟄居を命じられて、芝居なども再び自由に見えるようになった人々が喜んでいるという噂がこの宮内にも届いてきます。
 この宮内でも、その年の3月、4年ぶりに江戸から嵐門三郎らの花形役者を迎えて宮内芝居が興行され、街は上へ下への大混乱の様相です。
 そんな大混乱の中で、沢山の客の接待でごった返しておる立見屋に今年も平蔵が宿入りしたのでした。
 もう毎年泊まっているので慣れているとは言え、いつも愛嬌のいい応対をしてくれる仲居のお日奈さんもなかなか顔を見せません。宿中にお客の声でしょうか、なにやら大声が此処彼処から響き渡っています。そんな大声の中に宿の女でしょうか足音もばたばたと家中をゆすっています、喧騒以上の大騒ぎのです
 「聞いてはいたが、凄まじいものだな」
 と思うも、自分まで何かいらいらした気分に掻き立たれます。そんなもやもやとした落ち着かない気分がどのくらい続いたでしょうか、
 「ごめんなさいね」
 と、一人の見慣れない襷掛けの女が障子をゆっくりと開けて、畳に手を付き、あいさつをします。
 「お日奈さんかと思った」
 と平蔵が言う。

おせん 

2008-03-26 13:45:47 | Weblog
 我山神様に御供えしている物についてはごれだけで総べてです。これで終わりです。この二つのお供え物は、どうして「足立」のか「無夫」のか、何も語りかけては呉れません。何かもう少し語って欲しいのですが、
 その時、又、例のへんてこりんな私の心が騒ぎます。その騒ぎの少しを聞いていただけませんか。

 大阪の古広町に舟木屋という、主に西日本の各地で栽培されている綿を商いする大阪でも指折りの大店がありました。特に、備中で栽培されている綿は、この舟木屋が殆ど一手に取り扱っていたのです。
 ここで取れる綿は、他国の綿よりも繊維の長さが長く、それだけ良質なものが多く高級綿として全国の織屋から、特別に『備中綿』をと指名され、注文が殺到していました。
 特に、備中各地の沿岸部や河口付近の平地は、内海で雨が少なく、その上、まさと呼ばれる白っぽい決めの細かい砂が、中国山地から沢山の大小の河川によって運ばれ平地を形造っていました。その上、ここは冬場でもめったに霜も降らない、長い繊維の綿を栽培するのに最適な条件が整った土地だったのでした。
 
 備中綿のその年の出来具合などを見回るために、もう長の間、毎年決まって手代の一人である「平蔵」というを雇い人を舟木屋のご主人は備中に遣わしていました。この平蔵の生まれは、備中連島の百姓の次男で、昔から綿の栽培にもくわしく、廻る先々で綿の栽培方法なども乞われるままに伝授したりして、又、百姓たちからも随分と信頼を得ていたということです。
 この人が、毎年、備中に下ってくる葉月に、必ず、定宿にする旅籠が備中宮内の立見屋です。ここを中心として約一ヶ月も長逗留しながら、備中各地の綿の栽培地を見回って歩くのだそうです。
 この「立見屋」は、太閤の高松城の水攻めの時、いつも高松城内の様子を鼓山から見ていた羽柴秀長の家臣の一人が、戦の無常を悟って武士を辞し、宮内で旅籠屋を始めたのが始まりで、それからもう270年も続けられているという。
 旅籠名も、鼓山の上から立ったままで幾日もただ城内を見つめるだけで、武士らしき働きをする機会もなく、時がただ過ぎ行くだけでむなしさのみが残った体験から『立見屋』とつけたと、言い伝えられているのだそうです。この旅籠は、又、鼓山の巽の方角にあったから初めは『巽屋』であったのが、後に『立見屋』と名を変えたとも言い伝えられているのだそうです。
 その宿にお園さんという出戻りの娘がいました。
 何時の頃かは知らないのですが、そのお園と平蔵が互いに言い交わす仲となったのです。お園が嫁いでいた倉敷と平蔵が生まれた連島が近くだったということが二人を結びつけたのだ、と、お園さんは笑いながら後から話していましたが。 
 立見屋の由来なども総べてこのお園さんから出たことなのでしょう。

 

吉備津保育園の卒園式

2008-03-25 15:11:24 | Weblog
 高等学校・中学校・幼稚園・小学校・大学・保育園。何の順だと思われますか。
 これは3月に入り、卒業式が行われた順序を挙げてみました。
 今日25日、吉備津保育園では卒園式が、地域の人たちを沢山お迎えして盛大に行われました。吉備津地区の一番最後の卒業式です。
 生まれてからたった6年という時間しか経ってないのに、保育園という所は、これほどまでに人を大きくするものかと、今更のように感動を覚えながら式に出席しました。
 人間としての本物の心をしっかりと身に付けた、人間としての基礎を十分に身に付けた子供に育ちました。
 「思いやる」「いたわる」「同情する」「親切にする」「人の立場にたって考える」「差別しない」「だれとでもやさしく仲良くする」などという、現代社会ではややもすれば忘れ去ってしまっているような心が到る所に見えていました。人を愛するという人間にとって一番大切な心を機会あるごとに教えていただいたからだと思います。6歳の幼子なりに日常の生活の中で生かす機会が多く見受けられました。
 『自我』を抑える、我慢する、譲る、一歩さがって自分を見つめるという高度な心的な作用も働かせることが出来るようになったと思います。 また、この「たくましさ」「やさいさ」という相反する心も同時に使い分けられるようになってきました。たくましさも随所に発揮することが出来ました。

 大げさに言うと、「生命の驚くべき飛躍」とでも表現できるほどのものです。人間って素晴しいものですね。
 
 「“万歳!!吉備津保育園”みんな元気ないい子になってね」
 と、久しぶりに心晴れ晴れしい気分になっって上機嫌に、彼岸桜が満開の園を後にしました。

祠の中の古い板切れ

2008-03-24 20:43:42 | Weblog
 向畑の山神様には祠が2つあります。左側が右側より造りといい大きさといい中にある調度品といい、少々立派に出来ています。
 嘉永元年奉納の金属製のご幣があるのは左側の祠です。大阪の「おせん」さんが何のために、わざわざこんな辺鄙な、しかも吉備津様ではない、吉備津の向畑の吹けば飛ぶような、ちっぽけな山神様にこんなご幣を奉ったのかは、今となっては知る由もありません。
 「足立」という文字も気になります。「おせんさん」18歳になって始めて足が立つようになったとも思われません。また、「無夫」と読めるような気がする文字も何を意味しているのかも分りません。
 考えれば考えるほど分りません。
 さて、もう一方のやや小さめな貧弱な祠を開け中をのぞきます。其処の壁にくっつくように、一枚の1尺半と1尺ばかりの古っぽい板切れが立てかけてありました。その板を取り外します。その後ろには、冬眠中でしょうか「やもり」2、30匹グロデスクに固まってうごめいていました。
 取り出した板をみると、やもりが固まっていた辺りの表側に、何やら怪しげな記号でもない絵でもない、これ又意味の全く分らない墨で書かれた符号みたいなものが書き込まれています。
 
 又、よくみると、この板切れの中央の部分に、今は錆び付いてぼろぼとになっていますが、一本の釘がこの板にへばりつくようにしてくっ付いています。全く不思議な絵柄です。ねこの中に入っている赤子の顔のようでもあり、左右に伸びている紐のようなもの何を意味するやら、立ち上る煙のようなものは果たしていかなる物か。陰陽師が描く何かのまじないの符号か。中央にある釘は何でしょうかね。
 
 あなたならどう解き明かしますか?「おせん」さんとこの絵とは関係があるのでしょうか。

山神様の中のミステリアス

2008-03-23 09:16:04 | Weblog
この向畑地域にも山神さまがお祭りされています。当然、この祠の直ぐ下に、ここにも小さな古墳があります。
 この山神様には祠が2つ並んで祭ってあります。ということは、古墳が2つ存在すると言う事です。一つはこの辺りの古い地図の中に記されてはいますが、もう一つは今の所は見つかってはいませんが、これが多分そうだろうという目安はあります。

 まあ、とにもかくにもこの写真を見てください。

 何処にでもある普通のご幣のお供え物です。誰もは、『ここにこんなものが』というぐらいにあまり注意を払わないのですが、ふと裏側を見ると、次のような文字が並べられているではありませんか。

 まず、時は嘉永元年甲ノ九月、大阪古○町ふなきや内 おせん、戌の年の女18歳とあります。○は読めません。十八歳の上に書かれている文字もよくは分りませんが「無夫」というふうにも読めます。
 なお、この大願成就の下に書かれている『足立』という字が何を意味するのかは分りません。足が立たなかった人が突然に立ったとは思えません。何かのいわくがこの中には隠されているのではと思います。いや、きっとあるはずです。それをとく鍵が二つ目の祠に見ることがで来きるのです。
 「無夫」足立」という二つの言葉からどんな関係があると思われますか。
 ここらあたりから、なにやらミステリヤスな風が心の中を通り過ぎていくようなぞっとする思いに駆られます。
 そのミステリヤスなお話は明日にでも、又。 

呪いの藁人形か?

2008-03-22 09:04:16 | Weblog
 変梃りんなタイトルになりましたが、まあ私の話を聞いてください。
 
 わが町吉備津には『山神様』と称されている祠が所々にあります。そこには大抵小さな古墳がその祠の上か下かにあります。
 一番有名なのが吉備津神社の岩山宮です。
 南隋神門(重文)を少し下った回廊の左側に長い石段が伸びてその一番上に岩山宮があります。
 このお宮さんのご神体は『中山主命(なかやまぬしのみこと)』・『建日方別命』だと、言われています。神官の話ですと、ご神体は大きな岩で、祠の中に座していらっしゃるそうです。なお、岩がご神体というのは日本でも随分珍しいとのことでした。お山がご神体と言うのは昨秋に吉備津神社氏子会で行った三輪神社もそうで、全国にも数々あるのだそうですが。
 この岩山宮への石段を少し登った所に古墳の石室が顔を覗かせています。この祠ももともとは、この古墳を祭った山神様ではないかと思われます。その祠と吉備津彦命のお社が結びついて「中山主命」「建日方命」などという神が、何時しか山神様に取って代わられて祀られるようになたのではと思います。
 「建日方命」と言う神の名前は八世紀に作るれたの古事記などに出てくる神様の名前ですが、それ以前から、この祠はここに建っていたと思われます。まあ、この「吉備の国」という名が付く前から、この土地に土着して人々の間で信仰されていたお社ではと思われます(ももたろうさんの時代から)。

 ちょっと話が横にそれましたが、この岩山宮の祀られている吉備の中山(160m)の反対の側(北側)に「名越山」というお山があります。高さも150mぐらいで、何につけても、吉備の中山に何時も負けてばかりいます。だから、このお山は、何時かその名前を「越してやろう越してやろう」と、思っていたので、いつのまにやらこのお山に「名越山」と言う名が付いたのだそうです。
 
 このお山の裾に這い蹲るようにして広がっているが私の住む『向畑』です。
 これも吉備の中山の向こう側にあって「はた」即ち『傍・端・側』「はっしこのへんっぴ」な場所(この地方の言葉ですと、『ねき』『はな』『はっしこ』『ヘリ』)と言う意味ではないかと思います。
 それとも「はた」は秦かもしれません。「向畑」の東側のは備前ですが「辛川(からかわ)」というです。辛は韓又は唐ではないかとも言われています。
 中国や朝鮮からの渡来人の集落であったのかもしれません。もしそうなら、この辺りは、当時の最高文化を身につけていた人々の住み着いた場所で、言葉も食べ物などの生活様式も総てが高水準のものを使ったくらしをしていたのではないでしょうか。
 当時、吉備の中山の周辺に古くから住み着いていた原日本人がいて、新しく渡来してきたよそ者に対して、それも彼ら持つ高文化(稲作・鉄器・建築や養蚕技術・文字等)に対して少々やっかみ半分な気持ちでもって、その人たちを見下げて卑下するような言い方、「向端」という字を与えたのではないでしょううか。住む所としてはあまり上等でない向こうの方の、「ねき」の方へ追いやられた人たちの住む場所と言うような意味から名が出来上がりそれが段々と『向畑』という名前に定着して行ったのではないかとも考えられます。
 そんな想像が『向畑』という名前から伺えるのです。
 なお、辛川は「韓・唐」が、まず、浮び来ますが、また「空」でなんにもないと言う意味にも通じるようでもあります。
 
 辛川が「なにもないからっぽのほとり」で、向畑が「ねき・はしっこのむこうのほう」ぐらいな意味を含んだ名が一番の由来に相応しい名前であるかもしれません。

 まあ、こんなくだらない事はどうでもいいのですが。この名越山の麓、向畑にも又小さな祠「山神様」が、何時の頃からかはわかりませんがあります。
 その三間社流れ造のお社に一本の真鍮で出来た御幣がお祭りされてあります。
 物語は、この御幣から始まりますが、又、長くなりましたので、明日にします。

帯にせる 細谷川

2008-03-21 08:42:02 | Weblog
 「帯にせる」という言葉聞いたことがありますか。

 吉備の国が仁明天皇の大嘗祭のための主基(すき)になった時の(3月1日の鼓山を詠んだ歌;参照)吉備の国の風俗歌として古今和歌集に取り上げられている、

 真金ふく 吉備の中山 帯にせる
          細谷川の 音のさやけさ
 
 と、言う歌の中に見えるのです。

 昨日のこの欄に、「回廊を下って一番南にある細谷川まで枝を伸ばした桜を私の標準木としている」と記したのですが、早速メール仲間のお節介さんよりお小言を頂戴しました。

 「細谷川と言う川は、備中と備前の境を流れている福田海のほとりを流れている谷川で、江戸時代の古地図にもそう書き込まれている。だから、吉備津神社の南側を流れている谷川は細谷川ではない。
 弘化年間に、石州の人、野之口何某が『吉備中山細谷川古跡』と言う石碑を建てているが、それがそもそもの誤りなのだ。
 お前もそこら辺りを勘違いして、あの川を細谷川といっている。誠にけしからん事だ。間違っている訂正すべきだ」
 と、厳しくおしかりを受けました。

 そうかな。それでいいのかなと、再度、改めて古今集を取り出して読んでみました。
 「帯にせる」と言う字がどうも以前から気になって仕方がありませんでした。
 訳者の窪田章一郎先生の解釈によりますと、帯のように山をぐるっと廻っていると言う意味だそうです。
 そうすると、この細谷川が吉備の中山をぐるっと廻ってと言う事になり、お節介さんが言うように、備中を備前の国境を流れる細谷川だと一直線に流れており、決して中山を廻っているわけではありません。
 だから、私の解釈では、この中山の両側を流れる二つの谷川を総合して細谷川と言って、恰も両方の谷川を一つの川のように思って詠んだのではないでしょうか。
 そう考えると、私が言った細谷川だっていいのではないかと思いますが、どうでしょう。

吉備津での桜の開花日予想

2008-03-20 11:46:59 | Weblog
 今朝の新聞によると、東京の桜開花日は、3月23日頃だそうです。
 もうそんな季節なのですね。ついこの前「ひてえしょうがつ」だなんだかんだと書いたのですが、はや桜の季節を迎えようとしているのです。季節の廻るもがこんなにも速いのかと今更のように驚いています。ちなみに岡山では26日頃だそうです。
 この気象台の開花予報の向こうを張っているわけではないのですが、私は毎年、自分の桜開花を予想しています。
 吉備津神社の拝殿の横を回り、長い回廊を南に進みます。その一番端に石で造られた獅子狛犬があります。そのほとりに生えて枝を細谷川にまで一杯に伸ばしている桜の木を私は「吉備津の桜開花宣言標準木」にして、毎年観察を続けています。今までの予想は的中したりしなかったりで、それ自体大変面白いことだ大いに悦に入って私一人で毎年一喜一憂しながら楽しんでいます。
 その標準木を、雨の上がって西風が少しばかり強くて、わずかに肌寒さの戻った今朝、散歩がてらに『今年はどげえになっているんじゃろうか』と見てきました。まだまだ芽は硬くつぼみも膨らんではいません。これだと3月29、30日ぐらいに「吉備津の開花宣言」を出せるのではないかと思います。
 さあどうなる事やら、私だけの密かなる楽しみです。
 皆さんもどうですか、自分の桜開花予想をしてみては。結構面白いですよ。

さんしゅうの木と卒業式2

2008-03-19 10:26:20 | Weblog
 小さな扇状地を深く削りながら流れる谷川の一画に建っている小学校の講堂から流れてくる『仰げば尊し』の歌声に、摘み取った芹を握り締めたまま、しばらく耳を傾けておりました。白い漆喰で止められている窓ガラスの向こうには卒業式の練習をしているのでしょうか子供達の姿もゆらゆらと見えます。彼らの歌声とピアノの音がハーモニーして、遠い私の卒業式を、たった3人しかいなかった恩師を、そして友を、眼前に瞬時に誘ってくれます。
 その窓辺には屋根ぐらいまであったでしょうか、梅の木と並んで一本の大きなさんしゅうの木がありました。梅の赤い花びらが散ると、待ちかねたように、今度はさんしゅう木が米粒のような黄色い花びらをつけるのです。この黄色い花びらは、「ぼつぼつ鮒がつれるぞ」という時をまた知らせてくれていました。山の子供たちにとってはそれはそれは待ちどうしい水温む春を告げてくれるのです。山には蕨が沢蟹が、時には兎までもが、小川には鮒が子供達を待ってくれていたのです。
 そんな私の昔を、この「仰げば尊し」は思い出させてくれる懐かしいちょっぴり甘酸っぱい歌でもあるのです。この曲を懐かしく聴く者をして、殆どが60歳以上の人だと思いますが、時や場所は異なっていようとも、瞬時に『我母校・竹馬の友・恩師など』の子供の時代を共に思い出させるのではないでしょうか。

 処が、現代の小学校では、この『仰げば尊し』という歌声は
 「歌詞が古臭くて子供達の生活に合わない。故に、卒業式でも歌わない」
 と、いう事になっていると聴いております。その反面、同じように古臭くても『君が代』は堂々と卒業式の歌になりきっているそうです。
 全国一斉に小学生が同じ歌を長年歌い続けていくということも、現代にあっていい事でもあるように思われるのですが?

 まあ、こんなくだらない事を思いながら、『仰げば尊し』という歌も何も聞こえない静まり返った卒業式の小学校を後にしました。
 せめて「さんしゅうの木」だけでもと、吉備津の生んだ最も有名な人茶祖『栄西』の記念碑が立ってある所に歩を進めます。
 相変わらず、春の小川の濁り水の中にメダカの学校の小さな水輪がせわしくが出来たり消えたりしています。
  
 私達が少年時代に春を感じたのと同じくらいの大きさに伸びたさんしゅうの木が真っ青な空に向かって大きく枝を伸ばし黄色い花びらを輝かせていました。
 
 

さんしゅうの木と卒業式

2008-03-18 19:27:13 | Weblog
 今日は鯉山小学校の卒業式です。
 「4月上旬の暖かさです」と、いうテレビについ誘われて、現代の小学生の卒業式の雰囲気でもと思って吉備津の田圃道を通り小学校の近くまで歩いていきました。
 コンクリートで固められた溝には、もう昔の面影は何一つ残ってはなく、生活廃水が各所から流れ込んだ随分と薄汚れた水が流れています。これが、現代の「春の小川」なのです。でも、突然にそなん水面にチィチィと小さな小さな漣が出来るではありませんか。メダカでしょうか、私の歩く影に驚いたのか急いで水藻の中に逃げ込んでいき、その跡が小さな水輪となって水面に漣を打ち立てています。真冬の小川ではこんな光景は目にすることは出来ませんが、春の暖かさ運んでくれた小さな漣です。こんな自分だけの楽しみをそっと懐の中に抱きながら我田圃道をなんとなくそぞろみ歩いてみました。
 しばらく行くと、これも昔、息子達が小鮒を釣っていたやや深めの溝があります。そこには何処から流れ着いたのかもしれませんが白い沢山の梅の花びらが悪水の上の一箇所に漂い、そこだけにほのかな梅の香を残すように留まっています。

 『仰げば尊し わが師の恩 教えの庭にも 早幾年 思えばいと疾し この年月今こそ別れ目 いざさらば・・・・・・蛍の灯火 積む白雪 忘るる間ぞなき 往く年月 今こそ別れ目 いざさらば』

 そんな歌声が、もしかして聞こえてくるかもと思いながら小学校の校門を左手に見ながらゆっくりと通り過ぎます。今は、体育館からは防音装置やらが整っているのでしょう卒業生の発する声一つさえ漏れ聞こえては来ません。
 もう何年も前から同じものを使っていたのでしょうあまり立派ではない少々古ぼけた感のする『卒業証書授与式』という立看板だけがひっそりと玄関に立てかけてあります。紅白の飾りもなく、なんとなく「これがこの学校の卒業式」かとさへ思えるような環境です。これが「現代の卒業式」なのだと主張しているようです。寂しさが胸の辺りになんとなく寄せ来て、「今の世の中ってなんだろうかな」と老人の戯言がまたもや湧き登ってくるのを禁じえません。

 何時だったかははっきりとはしていませんが もう4,50年も前のことだったと思いますが、私は三月の終わり頃、卒業した小学校の側を流れている谷川に沿った道を懐かしさも手伝って歩いた事がありました。
 当時は公害という言葉もなく、小川の水は何処までもきれいに澄み切って、春の柔らかな光を一杯に浴び無数の漣を撒き散らすようにして清らに流れていきます。岸辺に生えている芹の若芽がぎらぎらと愛いらしい緑を輝かせていました。小鮒もメダカもそれはそれはすいすい自分の生を謳歌しながら、そこらじゅうに影を撒き散らすように泳いでいました。岸辺の猫柳も真綿の産毛の中から薄黄色の花を一杯に覗かせて空を突き刺すように咲き誇っていました。
 この小川は辺りの急峻な山々を深く切り込んで真一文字に山裾まで落ち込むように流れ下ってきます。その山裾から川までのわずかな平地を、今度はうねうねと曲がりくねって深いV字形の谷川となって高梁川へと流れ下ります。その急峻なv字形の谷川の崖の上のわずかばかりの平地に私の小学校は建ていたのです。
 ふと屈んで小川に生えている芹に手を伸ばしたその時です。その崖の上に建っている赤みを帯びたセメント瓦の屋根と薄桃色した壁を持つ、その当時としては随分とモダンな感じがしていた小学校の講堂から卒業式の練習でしょうか『仰げば尊し』の歌声が聞こえてきます。
 

孫がまた怪我をしました

2008-03-17 20:06:30 | Weblog
 一歳の孫の顔の傷が完全に治ったと思っていたら、今度は、保育園年長組のその兄がスキーに行って足の骨を折って、今、ギブスをつけて頂いて床を這い回っています。
 
 大好きな保育園にも行けず、イライラを募らせていますが、自業自得でどうしようもなく諦めムードになって毎日なんだかんだと周りを困らせているようです。
 明日も卒園記念遠足で、吉備津彦命の御陵に登るのだそうですが、御陵まで急な階段があり到底登ることは出来ず、残念ながら、しぶしぶ欠席を同意したということです。
 「もう二度とスキーには行かない」
 と、言っていますが・・・・・・