私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 109 大きな石

2008-08-31 09:42:18 | Weblog
 「昨日、お園さんも知ってのあの大ふくろう先生からから呼び出しがおましてな。なんかへんてこりんなことになってしもうて驚いておるのや。それと言うのも、おせんが死に物狂いで生まれて初めて思いをかけた政之輔とか言う若者を嬲り殺した町奉行の中野とかという与力が尊王方の浪士に暗殺されたと、大先生は言われるや。話は込み入っててややこしいのどすが」
 と、大旦那様は興奮したように経緯をお話になられます。
 
 今、京や大坂の町々では、反幕府の勢力が盛んに倒幕の企て、暗躍していおります。それに対して幕府の役人たちも躍起になって、その浪士たちを厳しく取り締まり弾圧しております。その一人が大坂町奉行所の中野という与力です。この中野という与力は、有無を言わさず、疑いのあるものは総て強引に引き立て取り調べます。あの政之輔という若者もこの人にかかって殺害されたと言われています。その一方では、また、この人、大坂商人などからたくさんの賄賂も取り立て私腹の相当肥やしていると噂されていました。
 そんな中で、つい2,3日前の夜、真承さんの庵を尋ねた夜です。大坂では「天誅」と言う大声と共に、何者かによって町奉行の役人が道の真ん中で数人切り殺される事件が起きます。その中に、この中野様が入っていたのだそうです。また、この人の腰ぎんちゃくと言われていた銀児親分もその時に殺害されたのか、中野という後ろ盾を失って怖気づいて姿を隠したのか、今は容として行くへが分らないのだそうです。
 
 これだけ大旦那様は話されると一息入れます。
 「それはそれでよろしいのでおますが、どう考えても不思議なことがおますのや。吉備津さんというところは不思議な処でおます。それをお園さんに是非話しておこうとおもって来たのどす。・・・・あの朝早く、そうどす、旅立ちの朝です。実の所、お園さんが思っていた通りに、わてはお園さんのおとうはんと二人で向畑の山神様に参っていたのどす。真承さんが描いてくれはった絵の板を持ってな。あの日、わては、お園さんからここで聞いた山神様の憎い人を呪い殺すことができると言う絵の事を真承さんに尋ねてみたのどす。真承さん、なんといわはったかお園さん、・・・わかりますかいな。・・・真承さん、ただ、あははと笑われておられましたのや。なんにもいわはらへんと。すこしたってから、大きな石だ、と言わたように思われましたのや。もしかしてお園さんのどかっと大きな石があると同じ石なのかも知れへんな。それっきりですねん。その後、呪いの「の」の字も真承さんはいわはらへん。その代わりと言ってはなんだが、それから人の持つ生まれながらの運についてあれやこれやお話してくれますのや。そうそう真承さん、若い頃から周易についても勉強しはったそうどす。おせんについて、特別に占ってくれはりました。何処においてあったのかわかりまへんのやが、占いに使う卦木(かぼく)、蓍竹(めど)というのやそうどす、を一握りほど、10本ぐらいはおましたか、取り出して手の中で何かガチャガチャやっておられましたのや。半分にしたり、1本をとりだしたりしながら占ってくれておりますのや。暫らくしておせんの卦(け)は、何といわはったか、あ、そうでおます、地雷復(ちらいふく)と言わはったと思いますねん。この卦の人は下世話に言う福の神なのだそうどす。人々に福徳をもたらすのだそうどす。ほっといても総ての人を善心にする得がたい人であるのだそうどす。また、この卦を持つ人は二たび身を建(おこ)すの象(かたち)があり、何もせんでも自然と立ち直って独歩する事が出来るというのだそうどす。その地雷復の記号を真承さんが板切れに絵にまとめてくれはったのどす。・・・立見屋に帰ってから吉兵衛さんにお話すると、その絵札は向畑の山神様にお供えせにゃあならんといわはります。本人が行ってお供えするのがいいのだそうですが、そんなことをおせんが聞くと、また、政之輔様を思い出したりしてと、思いましてん。そこで内緒で、わてがおせんの代参として山神様にお参りしたのどす。吉兵衛さんに朝早くから案内をお頼みして」 

おせん 108 なんにもないもんにある

2008-08-30 12:51:23 | Weblog
 大坂に戻り、お園は8日間の留守の間に溜まっていた掃除を何時もより時間をかけてします。こんな所からもと思わないところからも出るゴミにも感心しながら。
 「平蔵さん、わたしのだんな様、ご無事でしょうか。伊予からだって飛脚ぐらいあるでしょうに。連絡ぐらいしてもよかりそうに」と、少々愚痴りながら、それでもまた体を動かします。「おっかさんの元気な顔見えてよかった。気になっていたのに。いい旅でした。おせんさんにもよかったかな」旅の色々の事が思い出されます。そんな思いと一緒に溜まっていたゴミも外に出すことが出来ました。
 「はいごめんなさい。おじゃまするで、お園さん。まあまあ、朝からもう掃除ですかいな。長旅の疲れでも出てはおらんかいなと覗いてみたのじゃが。もう掃除してたんかいな」
 大旦那様が、「なんいもいらんさかいな」と、例のように上がり框に腰を下ろされます。
 それでも、お園は急いでお茶と布団を用意します。
 「わたしの家にかてお茶ぐらいありますねん。ここは真承さんの庵ではあらしまへんさかい。お布団をお使いください」
 「はは、真承さんには驚いたさかいに。そうか真承さんではないか。では、使わせてもらいますねん」
 お園の点てたお茶にも手を伸ばされます。
 「ほほう、ここにも備前が、京とは違って素朴ですな。でもいいもんでおますな、こうして見ておると。何とも言われんいい味をしておますな。信楽とも又違うて。丹波と似とりますのやな」
 小さな備前茶碗を改めて手に取られてしげしげと眺めておられます。
 「はい、一目見た感じでは汚い雑器で、余り上品ではないと蔑まされておりますが、私の居りました宮内あたりではどの家でも水瓶として重宝しております。日常の庶民が使う雑器ですが、何回も何回も続けて使っていますと何処となく捨てがたい趣がにじみ出てきて愛着を感じるようになります。立見屋でも、いつもお客様にも使っていただいています」
 「長い伝統がおますのや。だから今まで残っとりますのや。ここにも真承さんのいわはるなんにもないものがありますねん。模様も色も絵も人がつけたようなものは何もおません、ただ、焼ける時に、神さんが何にもなかったら、この器がかわいそうやと標しを付けてくれはったのどす。その他は何にもおへん。だから、なんかあるよりかえって味わいがでてくるのどす。何にもないことがあるよりもかえっていい品になるの喩どす」
 「大旦那さんのような人がおられますから、備前を焼く伊部のお人が精を出せるのではないでしょうか」
 「おうそうじゃ。そんな、なんにもないもんがあるなんてなぞなぞみたいなの話ではおへん。どうも宮内というところは、真承さんみたいな、回廊に開いた大きな穴ぼこみたいなけったいな所じゃという話をお園さんに聞かせてやろうと思ってきたのでおます」

おせん 107 お釜の音が笑っている

2008-08-29 20:38:14 | Weblog
  遅い日の出がおにぎり山から覗きでています。おせんたち3人は立見屋を後にします。
 別れに際して、殊の外、母親の美世は、これが、お園との今生の別れになるかもしれないという気があったのでしょう、
 「体にだけは十分に気をつけて、平蔵さんに可愛がってもらいなさいよ。またお便りもちょうだいな」
 何度も何度も別れがたそうにお園に言います。日奈も先ほどから目にいっぱい涙をため、言葉にならない無言の別れを自分の前掛けを揉むようにしながら体いっぱいに告げています。
 この別れがたい人それぞれの送別の思いを断ち切るように
 「おせん。折角でおす。吉備津様のお釜で占ってもらって帰りまひょ」
 大旦那さまは、勝手知ったる何とかで、未練の残るその場から歩を進めます。
 お竈殿の音は、この度も高く鳴り響き、これからのおせんの幸運を占っているようでした。
 「お釜の音が、今、笑っていましたねん。真承さんの言わはった秋が笑っているというのも、きっとあんな音がするのかもしれへん。秋の風が発てる音かも知れへん。人って不思議なもんでおすな。なんにもなくても、人は秋のように笑えるもんでおますやろか。・・・・考えてみると、何にも無いからかえって笑えるのではおまへんやろか。何にも無いということは人を強うするのとちがいますやろか」
 お日様が参道の松の緑色を浮き立たせながら、おにぎり山の頂上近くに差し掛かっています。おせんの足取りにも来る時と違ってどことなく覇気が見え隠れしているようです。
 この宮内に来る時には、まだ、政之輔の死を心に秘めてたおせんに対して、少しでも話の端にも出さないよう注意深く配慮しながらの何処となくよそよそしさの見える旅でした。しかし、この2泊の宮内での真承さんたちと出会ったり、多くの古い言い伝えを残す盲人塚などの遺跡などを見たりしている間に、何かとははっきりとは言い切れないのですが、おせん自身の中にある今までの生に対する想いとは全然違った想いが生まれたのではないかとお園には思われるのです。
 特に、「総てを超越して、ただ無心に生きる」という真承さんの生き方に驚くと言うよりも、何にも無いあんな小さな小屋にいてよく生きていく事ができるのかという不思議さに強い感心を示していたおせんがお園には印象深く残っています。
 ここでもやっぱり吉備津神社の回廊の時のように「帰りは怖い」でなくて、かえって「帰りはよいよい」の気分にしてくれ、行きとは又格別に違った緊張感が取れて、船越峠のカッパの話にも、姫路のお城の白い壁にも、須磨の夕月にも屈託の無い明るい笑顔の見える帰り旅になりました。
 
 
 

鮎の美学

2008-08-27 13:28:56 | Weblog
 昨日、料理されて食卓に並べられた鮎の姿をより美しく見せるためには、流れを泳ぐ鮎そのものの姿に刺して焼かなければならないと書いたのですが、写真にでも撮っておいてお見せすればと思ったのですが、気がついた時は、その鮎はとっくに頭と骨と尾鰭になっていました。仕方ないので、そのやり方を文章でご紹介したいと思います。
 
 近頃、料理屋などでお目にかかるステンレス制の金刺しでは情緒も何もあったもんではありません。今朝の新聞に「どうしても料理を美味しく作れない人種がある」と北大路魯山人が言ったと、でています。鮎を金刺しで焼き上げる料理人も魯山人の言う料理を美味しく作れない人種の一人だと思います。鮎の塩焼きはどうあっても青竹を使った竹刺しでなくてはなりません。
 まず始めに、鮎の頭が手前になるように持ち、右手の親指と人差し指で腹の辺りを軽く尻の方に押しだします。すると真っ黒い鮎の糞が出できます。それを2、3回繰り返します。それは済むと。今度は、竹串の先の尖った所で腹鰭のあたりから鮎のお尻まで切込みを入れ、内臓を総て別の容器に搾り出すように抜き取ります。このはらわたに塩を絡めたのが「うるか」です。真夏時分の鮎のはらわたにはやや大目の塩を振りかけておきます。秋の落ち鮎の時のはらわたと混ぜて自分の口に合う塩辛さに調節するのです。この塩加減も長年の経験と自らの口にあわせて造りこみます。だから個々の家でそれぞれ異なった味のうるかが出来上がるのです。最上のうるかを作るには何%の塩がいいなどという数字は今まで一度も、もう70年になるのですが、聞いたことがありません。
 さて、ここまで出来上がると、今度はいよいよ串刺しです。糞を取り出した時と同じように左手の手の平の真上に鮎の頭が来るように握ります(タカタカ指の付け根に鮎の背鰭が来るように)鮎の口から例の竹串を斜め上ぐらいの感覚で突っ込み、(口から背鰭の中央部分にめがけて)背骨に竹串が届いたと思われるあたりから、今度はその竹串がお尻の当りに向かって鮎の姿がくの字になるように刺していきます。お尻からちょっと尾鰭よりの辺りに3、4cmぐらい竹串が覗いたら出来上がりです。刺し上がった鮎の尾鰭は扇のように自然にぴんと広がっています。この広がりを作るのにはやはり1,2年では出来ないように思います。この刺し方が、一番鮎の姿を自然なままの美しさに見せるコツなのです。竹串の緑色と鮎の背の薄緑色とが一直線になって無限の鮎の美しさを引き出しています。それを腹側から見ると、今度は一変して竹の実の白と鮎の腹の部分の白とが、恰も交響曲を奏でているような幻想に取り付かれます。
 それらの串刺された鮎を、白でも黒でもどんな色でもいいのです、平べったい大皿に、青串を作った残りの竹のみずみずしい葉の付いた小枝一本を採りその皿に敷きます。そして、その上に串刺しされた鮎を並べていきます。大皿に描き出される鮎の姿は、どんな画家が描いた絵よりも美しさが浮き立ちます。おいしさが幾重にも重なるようです。
 うなぎ等の魚はただ味がよければそれでいいのですが、殊、鮎に限って言えば、味だけではありません、香も姿も3拍子そろった美味しさを兼ね備えております。この3拍子そろった美味しさは魚の王様、鯛も持ち合わせてはいません。ただ鮎だけが持つている特別の性質なのです。そんな高度な食の美を持つ魚なのです。この3つの鮎だけにしかない特性が見えるような調理の仕方が大切なのです。
 それが分らない不精者のなんて多いことか。ごまかすことしかしない不精者のなんて多いことか。それとも無知者なのか。

鮎を食べました

2008-08-26 11:29:41 | Weblog
 昨日、備中高松にある栗原鮮魚店から、高梁川の天然の鮎が入荷したと言う電話を頂きました。
 早速車を走られます。やや小振りの鮎(15,6cmぐらい)でしたが、天然物です。この4,5年、久しく口にすることがなかった鮎です。香魚の別名を持つ鮎が10匹ほど、懐かしい苔の香を匂い立たせて並んでいます。その中大き目のものを3匹いただいて帰ります。
 早速、山から串にする竹を切り出してきます。この鮎用の竹串作りにも一定の決まりがあります。竹の節の部分を7:3に切り落として串を作るのです。勿論、3の部分は焼きあがった時に手に持つ部分です。7に鮎を刺し付けます。その串刺しした鮎の尾びれの方から手の平に載せた塩を鱗の間にこすり付けます。竹串の白と青が鮎の薄緑色と存分にマッチします。出来上がった串刺しの鮎を、どんなに色の器であっても構いません、白でも青でも黒であってもあっても。薄いお皿に串に使った竹の葉を3,4枚付けた小枝をつけ添えます。たまらない美しい絵模様が作り出されて、まず焼く前の一時を目で十分に楽しみます。このお皿の上に並んだ串刺しさてた鮎をより一層美しく見せるためになされている工夫があります。串に刺す鮎の形です。私の生まれた高梁川が直ぐ側を流れている美袋あたりでは、テレビの料理番組に出てくるような鮎の腹が波打つようなような無粋としか言いようの無いようなグロテスクな刺し方ではありません。背骨に沿って、将に急な瀬を勢いよく流れ登っている生きた鮎そのものの姿に刺し込みます。ちょっとこの形に整えるには熟練が要るのですが。そうして用意が出来た鮎を今度は焼きます。炭火が最適なのですが、今日は簡単にガスコンロを使いました。炭火の方が美味しくしかも美しく焼きあがると言う事は科学的にも実証されているそうです。この「簡単」という一語が料理を一番だめにすると言うことは分っているのですが。
 こんがりと適当に焦げ目の付いた焼きあがった鮎の姿は下に敷いた竹の葉っぱの緑と調和しあって、焼く前の串刺しとは又違った美しさを味わうことが出来ます。一口焼きあがった、まだ熱々の鮎の真ん中部分にかぶりつきます。ぷんと何ともいえない香と一緒にはらわたの苦さと身の美味しさが口の中に広がります。その後に飲むグラスに入ったビールの美味さは何に例えられるでしょうか、他の魚では決して味わえない黄金色のおいしさです。
 こんな美しい真夏の夜の夢を、栗原さんの御陰で、今年は味わう事が出来ました。最高の夏です。
 なお、10年もそれ以上も口に出来なかった鮎のはらわたの「うるか」も作りました。二週間後を楽しみにしています。これまたビールとよく合います。
 

おせん 106 ぼっけえ苦労

2008-08-25 17:59:28 | Weblog
 翌朝、目が覚めるとお園の姿はありません。昼前にここ宮内を発って大坂に帰るのです。
 そのお園は、秋口から漸く回復に向かっているという義母美世のもとに出向いております。
 「気をつけておくれよ。おかっかさん。おさとさんがいるんだから任せとけばいいのです。浩吉もしっかりとおとっつあんの跡継ぎをきちんとしているじゃないの。又、秋の吉備津様のお祭りが始まって、宮内で大江戸芝居が興行されると聞いております。そうなると、また、小忙しくなりますよ。それまでにはきちんと直して置いてくださいな。頼みますよ、おっかさん」
 「はいはい、よう分りました。お園に迷惑が掛からないようにします。平蔵さんも大変だね。よう見てあげんといけんよ。帰りにはこっちへ寄って帰るんでしょう」
 「そうそう、おとっつぁんの姿が見えんようだけど」
 「なんか知らんが、昨夜(ゆうべ)も遅うまで話しておられていたんだが、今朝、早くお二人で何処かへ出ていかれんさったよ。もう戻ってくると思うんじゃが」
 「向畑でも行ったのかしら」
 「どうして向畑へ」
 「そんな気がしただけです。おせんさんももう起きておられると思うので、あちへ戻ります。気をつけておくれよ。おっかさん、いいね」
 何べんも言って、お園は戻ります。
 「あの子もぼっけえ苦労したんで、人の心が分ってきたんじゃろう。大人になったな、お園や」
 美世はお園がぴょこんと頭を下げて部屋から出ている後姿を見ながら思いました。
 それから暫らくして大旦那様は吉兵衛と連れ立って帰ってきます。朝食の給仕はお園の母親美世が特別に、最後ということもあって務めてくれました。
 「おかみさん、お美世さんの直々の給仕ですか。すまんこっちゃな」
 朝の清々しい風がおにぎり山から吹き降りてきて、お味噌汁の香が部屋を流れます。
 「大旦那様、朝から父とどこえ・・・・」
 「ああその辺りをぶらぶらさしてもろうとりましたねん。朝の松の並木があんなにきれいだとは知らなんだ。一斉に松の精がおにぎり山のてっぺん目指して空高く舞い上がっておるように見えましたねん。お宮さんの屋根もきれいでおした。朝早いお宮さんもいいもんでっせ。宮内が益々好きになりましたのや」
 「そうですか。私はきっとお二人して山神様へでもと、思う取りましたンやで、違うとりましたのやな。でも、そんなんに宮内を褒めてもろうて案内させてもろうた甲斐がありましたのや。おせんさんにも気に入ってもろうて、ありがたいことですは」
 
 
 
 
 

おせん 105  秋が笑っている

2008-08-24 09:13:58 | Weblog
 大旦那様の歩みは、ここでも「帰りはこわ~いでなく、よいよい」と謳っているような足取りでした。
 「ながいことお話してはりましてんな、何がそんなにぎょうさんありましたのや」
 「あの真承さんと、そんなにはぎょうさん話していたとは思ってなかったのや。今、真上にあるお日さんの顔見てみると、そうやなあ、長いことはなしていたのやなとわかりましてん。何んにも話しとらんように思うておったのやが。・・・真承さんってお人、奥が深うていて、掴み所がおまへん。話していると、いつのまにかあのお人の心の中にいくらでも吸い込まれて行くような気になりますねん。不思議なお人や。・・・心があったら心は見えんとも言われたのじゃが。非心が無一物だとも言っておました。在るということは無いということと根本的には同じことだとも真承さんはいわれるんじゃが。在ることは無いということだなんて言わはること自体がなんかへんてこりんな夢みたいなようわからん事でおます。それが無一物ということだと。ますます分からんように、頭の中がこんがらがってしまいますねん。でも真承さんの話を聞いておると、どうしてかはわからんのじゃが、心の中が膨らんでくるような気持ちいい気になりますねん。不思議なお方どすなあ。・・・そうそう、それから、人の違順ということもいはりました。人はいつも苦楽のために四苦八苦しておる。顚倒の想とか何とか言っておられたようどすが、無一物はそんな人のもつ違順に支配されているものから総てを解放してくれるのだそうどす。全部をです、非心がどす」
 「そんな難しい事はわてには分からへんねんけど。・・・あの真承さんを見ておると、お話している時の目は本当にやさしさ溢れているように感じられました。・・おじいさまと真承さんがそんな難しいお話している間に、わてはお園さんに宗治さんが切腹した辺も見せて貰いましたねん。ええとこがぎょうさんおますねんねこの吉備津さんのお里には」
 赤とんぼが道の小草をするように飛んでいます。
 立見屋に帰ってきてから大旦那様はおせんの前に一枚の紙切れを広げられました。
 「おせんのために真承さんに書いていただいたのじゃ。どうだなお園さん」
 “立つ 歩く なんにもない 秋が笑っている”と、紙いっぱいに流れるような真っ黒い字が飛び出しました。
 おせんのために大旦那様が書いてもらった書です。何で、こんなへたくそな字をわざわざ人のために書くのかと、今まではいつもお園は蔑むように思って、自分に頂いた字さえ粗末にその辺りに投げ捨てていたのは確かです。この立見屋の何処かに今も置いているはずです。端から、真承さんの書かれる書なんかに、いいはずがないだろと思いこんでいたのは確かな事です。
 今おせんのために書かれた書を見ると、なんて、美しい、正々堂々として陰と光の調和した素晴しい字のように思われます。無心の字ということは聞いてはいましたが見るのはこの字が最初のような気がしました。
 「私は“夕立が降るどかっと大きな石がある”と書いて頂きました。なんだこれがどういうことなんだと思って、その中にある意味なんで思わないで、端から馬鹿にして、そこら辺に放り投げていたのですが。今思うとなんだかよく分らないのですが、あの普賢院で修業されたと聞く寂厳さんの書と同じような、見ただけでは分らないような隠れた何か大きな深い意味があるのではないかと思っています。なんにもない 秋が笑っている、と言うのが何か意味があるようです。おせんさんにぴったりの言葉でもあるようです」
 「お園さん。あなたの言ははるように、この“なんにもない 秋が笑っている”これがおせんのためにぴったりの言葉だとわしにも思いますねん。どないでおますやろ」
 大旦那様は静かに言われます。
 「笑っているとは、なんでしゃろ。人は笑ってばっかりでは生きてはいけんよって、わてにはようわからんのどすが、どう立ったらいいのでしゃろ。おせんにはわかりしまへん」
 おせんはどう答えてよいのやら分らず投げやりの言葉を投げかけます。
 「おせんさん。考えておくれやす。誰でも人様が立て歩くというのはそないにはたやすくはないと思われません。ある時は何かにけつまずいて足を怪我するかもしれません。でも、そんなものにいちいち惑わされていたら人さん歩けなくなってしまいます。例え惑わされても、歩かなければなりません。笑うように向こうから来るもんを秋のようになんでも自然に迎えながら歩るかなければいけません。だから、なんにもないのではないでしょうか。意識しないで自然になるように歩きなさいと言う意味ではないでしょうか」
 「ほう、お園さんうまいこといわはるな。そうそう、真承さんが話しの中で、灑々落々(しゃしゃらくらく)という言葉を使われていた。心がさっぱりしていて物事にこだわらない事だそうどす。秋が笑っていると言うのはそんな意味だとわては思ておりますねん」

地蔵盆

2008-08-23 10:49:48 | Weblog
 今日8月23日は地蔵盆です。
 地蔵盆とは、“地蔵のある町内の人々はこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたりお供え物をしたりして祀る。地蔵盆の前後には、地蔵の据えられる家や祠の周囲などに、地蔵盆独特の提灯が多く飾られる”と、説明に在りました。
 わが町吉備津でも道筋にあるお地蔵さま総てで今日お祭りが行われ「おせったい」をお参りした人々が受け取っていました。本来、子供のためのお祭りであったようですが、今は子供の姿が見えないのは淋しし限りです。
 なお、吉備津には向畑、大橋、中町、西町 大吉野などにお地蔵さんがおいでで、お祭りされてあります。地域の人の話によると、道祖神とお地蔵さんの信仰がい何時の頃からか結びついて、こんなお祭りが行われるようになったと話しておられました。
 それにしても、何処のお地蔵さんも頭が丸坊主で可愛らしいお顔をしておいでです。
 お地蔵さんだけどうして頭が丸坊主なのでしょうね。

 なお、今朝は、普賢院でも盂蘭盆会の法要が行われました。僧侶3人による読経が境内に気持ちよく流れ、新しく葺きかえられた比翼のお屋根に届いていました。多くの参詣の老若男女が読経の中に頭を垂れていた神聖な朝の一時でした。

おせん 104    600万個の土俵

2008-08-22 10:33:46 | Weblog
 「本当にたくさんのお金を秀吉さんは使ったと思います。何にもない広っぱにあんなに七~八間もあるような高い塘(つつみ)を造ったのですから。・・・土を入れた土俵を一袋持っていくとお米一升とおかねを百文をくれたので、辺りの百姓は争うようにして土俵を持ち込んだと言うことでした。3里の塘を造るために百姓が持ち込んだ土俵の数は600万個ぐらいはあったのではと言い伝えられています。今のお金に直すとそれがどれくらいだったか分らないのですが、考えてみても大変なお金を使ったのは確かなことです。・・・ぼつぼついにまひょか。宗治さんの城跡は、今は、何にもありません。広い田圃の中に一つだけ大きな石があるだけです。祖母がいう、どうしょうもないあほの跡だけです」
 「おにぎり山といい、細谷川の水といい、盲人塚の真承さんといい、ここの太閤塘といい、こないな狭い所にぎょうさんのええところがおますのやな・・・こないなところで生まれたからお園さんはお人が大きいのやねん。心も広うおます。つれてきてもろうて本当によかったと思っとりますねん。考えてみるとわてら皆が生きていることも、お園さんのおばあさんのいわはる、あの塘と同じで、どうしようもないあほな跡かもしれまへんな。どうしょうもないあほ。ええ言葉ですねんお園さん。ええもんおしえてもろうた」
 おせんは鼓山の上なる2,3片の秋の雲を眺めながら、ふと憂い顔を見せます。
 盲人塚の真承さんの庵は静かです。2人の話し声も聞こえません。
 「ぼつぼつお・・・・」
 おせんが声をかけます。しかし、何もない破れ畳の方丈の中はぴんと張り詰めた幽寂さがまわりの気を圧倒しています。そのあまりの寂々さにおせんの言葉は「お」の以下は押し殺されるようになくなります。二人は何がなんだか分らないままその場に足が釘付けになりまます。何もない破れ畳だけがやけに目立つ中で、板切れのようなものに真承さんが黙々と筆をゆっくりでもなく早くもなく動かしておられます。字でもない絵でもない蝮が口を開けたような何かの符号のようなものが板の中を泳いでいるように見えます。大旦那様はじっと筆の進む方向を目で追うようにじっと見つめられています。
 「おお・・」
 とか何か言って、真承さんは筆をもったまま、おせんの方に顔を向けます。 「おせんさんとやら、歩くんだ。歩かにゃおえんど。兎に角歩くんだ」
 硯の横に筆を静かに置かれます。
 お園は、なぜ、今まで、真承さんを「へいとうくそぼうず」と自分もこの周りの人と同じように思って馬鹿にしていたのか、自分のあほかげんさに自分でもあきれかえっています。世間にある噂なんて本当にどうしょうもない、つわものどものあほと同じではないかと、今更のように思います。大旦那様や父の偉さを今更のように思います。
 大旦那様が何度も何度もお礼を言ってから、先ほどの板切れを大切そうに両の手で胸に掲げて盲人塚の庵を後にします。お園も今までしたことがないほど「お人って何」と思いながら、深く深く頭を下げます。
  
 

おせん 103    秀吉塘

2008-08-21 10:10:22 | Weblog
 この盲人塚のいわれを聞きながら、無実に泣いた多くの名もない人がどんな思いで死んでいきはったののやろと考えています。葦の原「たずた」を流れる秋風にわずかに揺れるほつれ髪が頬をうちます。蝮谷にも夏と秋との交代色が見え隠れしだし、山寺の真昼の鐘が辺りに響いて、赤とんぼが群れをなし葦の原の上を泳いでいます。
 なかなか大旦那様は出できません。
 「大旦那様、真承さんと何かお話が進んでいるようで。・・・ちょっとそこまで足を延ばしてほんの1、2町に先に行くと、高松城水攻めの時に築かれた秀吉塘が見えます。幅が十二間もある大きな塘です。おせんさん、行って見ませんか」
 足守道が鼓山を迂回するように北に進みます。暫らく行くと突然に西に視界がいっぱいに広がり、実りを迎えた吉備の美田がとこまでも伸びています。
 「あの田圃の中を西み向かってずーと向こうまで塘が続いています。その一番こっちのあのお山が石井山です」
 お園が指差す先にそれほど高くはないこんもりとした、これもおにぎりの形をしたお山があります。
 「清水宗治という毛利家の武将が秀吉が造ったにわか湖に浮かべた船上で切腹した時、織田方の大将秀吉さんがあのお山の上から見ていたのだといわれています。そのお山の麓にまで伸びているのが秀吉塘の東側の一番端です。蛙ヶ鼻といわれる所です。あそこから3里先にある福崎まで延々と西に続いています。今は、ただその跡だけをあのようにいかめしく残して、盲人塚など人の数々の悲喜交々のお話など総て消し去りながら時だけが流れていったのです。人の持つあほらしさを語るこの塘一つ取っても、高さだけでも九間もあったそうです。たった12日間の戦いのためだけに、というより、善悪ということはほっちらかしにして、ただ目の前の敵を打ち砕くために、こんな無駄が正義という名の下に、何か知らないのですが造られるなんて、人のあほらしさでなかったら何んだろうかと、いつも祖母から聞かされていました。よくその祖母が“夏草やつわものどものどうしようもないあほの跡”と言っては歯なしの口をいっぱいに開けて言っていたのを覚えています。・・・でも、これだけの長い大きな塘をわずか12日間で造り上げたどうしようもないあほの人が持つ力が覇権を争っていた毛利氏までを屈服させた原動力になったのだと秀吉さんの力も一方では褒めていました。・・・・祖母は利口なお人でしたが、真承さんのように何もないのがいいことだとは思ってはいなかったようですが。時の流れとはなんだろうかといつも考えたいたようです。高尚先生の教えだとは思いますが。・・・・真承さんの何もないといわれることを、祖母は、総てあほなことだと言う言葉で言い表していたのではないかと、今、ふと思いつきました」
 「あれだけのもの造るのやったら仰山お金がいったでしゃろに」
 浪速娘おせんはいともこともなげに言いのけます。

おせん 102  庭前柏樹子

2008-08-20 15:52:01 | Weblog
 立見屋の吉兵衛から連絡を受けていたのでしょう庵の入り口に相変わらずの真承さんが無表情に立っています。
 「お出でかな。中にはいってもらってもいいのじゃが、余りにもむさ苦しいとこ
でな。今までに娘ごは誰も訪ねてきてくれたことはなかったのじゃが、珍しい事もあるもんじゃ」
 と、真承さんは無言のまますたこらと中に入ります。続いて中に入った3人はまず驚きます、その何もなさに。方丈の広さにそれでも破れ畳が敷かれてあります。夜具らしきものが隅に一組置かれ、その横にちょこんと書き物でもするのでしょうか小さな文机が一脚あるだけです。正面の荒壁に「庭前柏樹子」と辺りを圧するようなどっしりとした擦れた字で書かれた古ぼけたお軸が時空を超越したように掛かっています。夏を旨とするどころの話ではありません。南に小さな明り取りの窓がついているだけです。ほかは何もありません。
 「はは、驚いているなお園さん。そこの娘ごもどうじゃ。これがわしの住みかなのだ。人は元々無一物なのだ。石ころとおんなじなんだ」
 先ほどから大旦那様は黙って正座されたまま真承さんを見てお出ででした。座布団やお茶等という普通の家でするようなまどろっこしいお客への応対のしきたりなどは一切ありません。というより、端から自分の範疇にはないかのような堂々たる己の無を顕示しているかのようでもあります。
 「庭前柏樹子とは・・・・ようわからしまへんねんけど、誰にでもは言えん強い言葉でおわすな。心の内や外といった色や形なんかどうでもええ、そんなもんにはとらわれへんと、あるがまんまの人の生き方をしろというてはるみたいですねん。無とは何んでっしゃろな。空と何処が違うのでしゃろか」
 「あはは・・夕立の中の石かな。お園さんどうじゃ・・・」
 暫らく沈黙が流れます。鼓山から吹き降ろす山風が辺りの木々を揺らします。ざわざわという音が何もない庵を一層静寂、いや無の世界といった方がいいのかもしれません。そんな実体のない虚の中にでも引きずり込まれいくようでもあります。
 「ああそれとも今吹いた風かな・・・めしを食べとうなったら食う。眠とうなったら寝る。それだけでいい・・・なんにもない・・・庭前の柏樹子・・・」
 柏樹子と言われてその後の何と静かな事でしょう。これ以上の静かさがこの世の中にあったのだろうかと思えるほどです。余韻とはこのことだろうかと思います。静かさが美しいなんて始めて知りました。何にもないということが作り出した美しさなのでしょうか。
 「こんなお人も世の中にはいやはるのやは」
 おせんはとんでもない遠くの何処かこの世の中とは全く別の違った処にでも迷い込んだように思えます。今までは大勢の人と一緒にわいわいがやがやと面白おかしゅう琴だのお華だのと習い事もしました。それから人も本気で愛しました。そんな世界しか見たことがないのです。でも、こんな真承さんのような自分が自分でない様な、物も心もない全くひらべったな一枚の紙の上にでも懸かれているような超然とした生き方を聞いて、ただただ驚いているのです。あるがままに生きているのでもありません。生きる目的がないのではありません。目的と手段が同時性に存在する世界に生きておられるのです。悪人も善人も、更に、木や草も、勿論、いろんな虫や獣といった生き物総て同じだという物の考え方がいいのか悪いのかおせんには分りません。でも、自分の目の前に、人ではなく一つの個物として生きておられる真承さんがおられます。
 夢大き乙女にとっては考えることすら出来ないような大きな初めて聞く不思議な別世界です。
 「でも、やっぱり政之輔様の事は忘れることは出来まへん。あての心の中からは決して消えまへん。どんなことがあっても。一人で政之輔様の分まで生き通して見せます」
 と、益々強く思うおせんです。
 「おせんさん、水攻めの時、秀吉さんに訳もなく殺された無罪の盲人塚を見てみましょう」
 まだ、真承さんと話したそうな大旦那様を置いて、おせんを誘いお園は外にでます。長年の風雨に曝され殆ど崩れかけている四角な万成石の石碑が秋の日を浴びて憐れを誘っています。その石碑の字も何時しか消え、今は何も語ってはくれません。足守道を旅人が足早にそんな歴史がここの地にあったのかさえ知らないで通り過ぎて行きます
  

おせん 101  たずた

2008-08-19 14:25:45 | Weblog
 「もう一晩泊めてもらいますさかいお頼みします」と、大旦那様。それから、何か話しがあるとやらで主人の吉兵衛と部屋から出て行かれました。お日奈さんが「おつかれさんでした」とお茶の用意をして入ってきます。もっぱら、おせんと話します。大坂言葉と岡山言葉が入り混じっておかしな会話が続きます。お園は聞き役です。開け放たれている障子窓から松の枝越しに見えるおにぎり山を「やっぱり私に取っては何時までも日本一のお山です」と眺めていました。
 その夜はおせんとお園が布団を並べます。
 「お園さんのお里、吉備津様にお参りさせてもろうてよかったどす。お園さんが転がした毬何処へ行きはりましたのやろか。・・・・おにぎり山の中に入っていって鬼にでも拾われたのとちかいますやろか。きっとそうどす。それに違いあらへん・・・・」
 それっきりおせんの秋の夜長は終わりすやすやと寝息を立てていました。
  
 知らない間に、お園もおせんと一緒に秋の夜長の中に入っていき、気が付いてみれば朝が部屋中に入ってきていました。
 食事の時、大旦那様は
 「おせんよ、今日は私の用に付き合ってももらうさかいな。そうそう真承さんのあの字はええ。お園さん。あのお人に会いたいと、昨夜お園さんのおとっつぁんに頼んでおっていたのどす。いや結構なお酒も頂いてな。ここのお酒もいける。ええお酒や。つい仰山いただいてな」
 食事が済むと
 「おせんにもちょうどええ、お園さんと一緒に来てや」
 お園の父が手配してくれたのだろう蝮谷の真承さんの庵に向かいます。
 山陽道の宿場町板倉の途中から、本陣屋敷の続く少し手前を足守街道が枝分かれして北へ向かいます。その道を、更に2,3町を進むと、太閤秀吉が高松城の水攻めの時に飲んだと伝えられている井戸もあります。その井戸のすぐ側で道は大きく右に曲っています。辺り一帯は湿原になっていて葦の原が広がって、ずっと向こうの板倉川にまで続いています。その昔には、ここにも鶴が羽を広げながら悠長な舞を舞っていたと言われ「たずた」と呼ばれています。たず、そうです。鶴です。たずたとは、鶴が舞い降りる田圃だという意味なのだそうです。その足守道からほんの数十間ばかり入った所に、鼓山から流れ落ちる小さな谷川のほとりに今にも破れ落ちそうな小さな庵が立っていて、真承と呼ばれる一人の世捨て人が寓居しています。
 もう300年も前になるでしょうが、秀吉の高松上水攻めの時、明智方の間者と間違えられて無残に撃ち殺された盲人がありました。真承というお人は、今は、その盲人を弔うために立てられたの墓の墓守をしながら、側の庵で、人としての欲を一切捨て去って、周りの人から「へえとうのくそぼうず」と蔑まれながら、何を言われようが、例え小童どもから石を投げつけられようが一向に無頓着で一切が無のような暮らしをしているのです。来ている袈裟もぼろぼろです。一椀を持って家々の門口に立って托鉢しておられる日常です。お園さんが「夕立がある どかっと大きな石がる」と書いてもらったお人です。
 後から聞くと、この真承さんの話を初めて聞いた時から、一度会って親しく話がしてみたいと思われていて、今度の旅の、第二の目的にも加えられていたということでした。でも、お園には、大旦那様が、どうしてあんな「へえとう」みたいな、この辺りの人皆からのけ者にされているようなお人に会われるのを楽しみにしていたなんて分かるはずもありません。
 そんなお園の思いとは裏腹に、大旦那様はいたずらっ子みたいに勇み立つような歩んで行かれます。ますますお園には大旦那様ののお考えが分らなくなります。
 わずか数十間の庵への入り口の両側の道も小草が伸び放題に伸びています。真承さんの時々歩く足幅の道だけがわずかに一直線に伸びています。
 そんな道をちょっと前かがみに歩む老夫とその後に続く、なんとなく牛にでも引っ張られて行くような格好の二人の闊達な若い娘が一列になって歩んで行きます。滅多に見られない稀有な景色が鼓山に映し出されていました。
  

おせん 100  長寿の水

2008-08-18 10:17:36 | Weblog
 「おにぎり山へ登ってみとうおす」と言うおせんですが、このおにぎり山は人が上ってはいけない神聖なお山なのです。
 「ここから手を合わせるだけにしてくださいな。この真上がおにぎり山の、正式には飯山と呼ばれています。てっぺんです。神様が天から降りてこられる神様しか入ってはいけない、人は決して入ってはならない尊い場所なのだそうです。もちろん、道もありません。木を切ってさへもいけません。不思議な事ですが獣も一匹も住んではいないのだそうです。また、この神聖なお山から流れる谷川の水に浸かると長生きできるとも信じられています。だから、ここを通る里人はよくその岩間から滲みだす白糸の水を手に掬って口を漱ぎます。山陽道を道行く旅人さえも、この長生きの噂を聞きつけてわざわざ寄り道をしてまでもこの水に足を浸けて口を漱いで行かれるのだそうです。なにせ、吉備津様はこのお水を飲まれて250までも長生きされたと言い伝えられています。とっても御利益がある水だといわれています」
 そう言うと、お園は清らに白糸を幾本も流れ落としている岩間の上なる松の古木の方に向かってゆっくりと手を合わせます。
 「古い古いお国ですよって、仰山なお話が残っておますのやね。神さんが降りられるお山というと大和の三輪山もそうだと聞いたことがおます。・・・それにしても、後鳥羽院の吉備の山風うちとけてといい、お園さんの博学には、いや、はや、恐れ入谷の鬼子母神でおます」
 おせんも大旦那様も頭を垂れ、手を合わせます。
 「お園さんはなんでもよう知ってはります。感心しますねん。あても250も生きられるのでしょうか。おほほほ」
 おせんは旅立ちの時から、それまでのように塞ぎ込むこともなく、なんだか陽気な何時ものおせんに戻ったようです。今のように声を出して笑われることも多くなりました。そんなおせんの仕草を見られ「よかったかもしれへんな」と大旦那様は思われているようにお園には思われます。
 それからぶらりぶっりと街を通ります。夜の喧騒を控えて街は、まだ、静まりかえっています。普賢院の大屋根が真上にある秋のお日さまをいっぱいに浴びて一際大きく輝いて見えます。参詣者か誰かが撞いたのでしょう、時ならぬお寺の真昼の鐘が、その屋根越しに聞こえてきます。崩れかけたついひぢの上で猫が胡散臭そうに通りすがる3人を見つめてます。気だるいような宮内の秋の昼間です。
 

おせん 99  高尚先生の細谷川

2008-08-17 18:55:17 | Weblog
 吉備津神社へ参拝して、再び長い回廊を通って歩きます。南随神門の所に来ると、おせんはじっと立ち止まって、急な坂になって下り行く石畳の回廊の眺めていました。
 「行きはよいよい帰りは怖いと歌にはあるようどすが、ここって、帰りが怖いのどすやろか。帰りのほうが楽どすな。不思議な回廊でおます」
 と、小さく一言と言って、とんとんと自分も毬に変身したかのように足早に下っていきます。大旦那様はそんな孫娘の後ろを、これまた追うようにお歩きになられます。
 回廊の一番南の端に吉備津彦命の父君孝霊天皇や姉君等をお祭りしている本宮社に立ち寄り、細谷川のさやけき音を聞きに少しばかり谷川に沿って歩きます。松と楓が青々と谷川を覆っています。
 「神無月の末頃になると、楓の赤と松の緑の織り成すこの谷川は別世界のようにきれいです。先ほど祝詞を上げていただいた高尚先生は、それはそれはこの細谷川の秋を愛おしんでおられます。どうですか、おせんさん、この谷川のあるかないかのような音は人の心を洗ってくれるような、いやなことを総て洗い流してくれるように聞こえませんか。・・・・・私が福井から離縁して帰ってきて、最初に来たのがここなのです。子供の時のように、この谷川の水の中に入ってみました。ちょろちょろと幽かな音をたてながら流れる谷川の水音が足首の辺りをくすぐりながら語りかけてくれました。いきろいきろと、応援してくれているように聞こえました。なんだかほっとしたのを思い出しました」
 「不思議な所がいっぱいおますのやねん。この宮内には。わてもちょっと入ってみとうなりました」
 おせんは、細谷川の水の中に足を入れます。ひんやりとした水が全身を包みます。辺りの岩間から白糸のように流れ落ちるごく細い小さな滝の水を両の手で掬い取ります。
 「白糸の水と一緒に手の平の中に谷川の音も掬い取れました。これこれ」
 と、無邪気に笑いながらお園の方に手を伸ばします。
 「おせん、音が掬い取れたか。どれどれわしも細谷川の音をこの手に掬い取ってみるか」
 「大旦那様もおせんさんもその谷川の音まで入った水で口を漱いでくださいな。長生きできますよって」
 小さい谷川に3人の大人が、世間の雑事から離れて、子供のように水と戯れています。3人が入って少々濁った谷川の水も、3人が岸に上がると、直に、もとの清らさが戻ります。おにぎり山から吹き下ろす山風が秋の日差しの洩れる松と楓の木々の間を縫うようにしてゆったりと流れて降りてきます。
 「この細谷川を詠まれた後鳥羽院の、“真金吹く 吉備の山風 うちとけて 細谷川も 岩そそぐなり”という御歌を小さい時から何度も何度も祖母から教わりました。山風の音が細谷川の岩間から流れ落ちる水の音に混じって聞こえてくるこの音の景色は何処にもないここだけの日本一だと、いつも祖母から聞かされていました」

 

蚊帳(かや)と終戦

2008-08-16 09:17:21 | Weblog
 昨日15日は63回目の終戦記念日でした。終戦の思い出といったものは殆どないのですが。あの日には暑い夏の太陽が降っていたと思います。父が4級の何処の家にもあったラジオを縁側に引っ張り出して、周りに誰がいたのかは忘れてしまったのですが、4,5歳年上の隣の「つよっさん」と呼ばれるお兄さんなんかと一緒に聞いていたのではなかったかと思います。彼が「何もかにも自由だ。何ををしてもいいのだ」と、飛び上がって喜んでいたのが、やけに今でも頭の中にこびりついています。それから、誰かが「自由のスイカだ」と言って向こうのだれの畑かは分らないのですが、盗んできて、ぎらぎらと焼け付くような暑い夏の太陽がやけに輝いる中で、餓鬼どもが近くの川原に寄り集まってむさぼり喰らった遠い記憶もわずかながら点々としか映らないのですが幻の幻灯のように残っています。

 10年ほど前、母が死んで家にあった古着などを整理したことがありました。その中に一張のもうぼろぼろになてはいましたが、天井部分が白で端っこが青色をした子供の頃に使っていた麻製の蚊帳がありました。捨ててしまったらという声をよそに、捨てるのならいつでもと思い、これまた古い備前の小ぶりな水がめに入れてそのまま今に至っています。

 なんだか知らないのですが、終戦記念日になると、毎年、このつよっさんの「自由になるんじゃ」という言葉と自由のスイカと蚊帳が思い出されます