私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  56 細谷川を歩く④

2008-11-30 18:45:37 | Weblog
 藤原経衡(つねひら)の後三条天皇大嘗祭和歌集に出ている歌は八首であると書いたのですが、後で「吉備群書集成」を捲ってみると、もう一首ありました。
 それは、現在、玉島市の長尾にある句碑にも「後三条天皇、治暦四年大嘗祭備中国歌 藤原経衡」として彫りこまれています。
    ・遥かにぞ いま行末を思うべき 
                 長尾の村の 長きためしに
 です。
 
 このように、天皇の大嘗祭の主基方の風俗歌としてたくさん吉備地方の山や川を中心にして作られています。大方は経衡のような歌人に託したようです。
 中には、古今和歌集にある
    ・真金吹く 吉備の中山 帯にせる 
                細谷川の 音のさやかさ
 や新古今和歌集にある
    ・常盤なる 吉備の中山 おしなべて
                千歳の松の 深き色かな
 という歌のように「読み人知らず」になっていて、誰が詠んだのか分からない歌もたくさんあるようです。
 なお、古今集に乗っている“真金吹く・・・”という歌には
 「この歌は、承和の御べの吉備の歌」と解説がついています。「御(おほむ)べ」というのは大嘗祭のことだそうです。承和という年号は仁明天皇の時の年号です。(834年)


 なお、念のために新古今集に取り上げられている「常盤成る・・・」の歌は藤井高尚先生がこよなく愛されていた歌で、村上天皇の大嘗祭の時(949年)の吉備の歌です。

 真金吹くの歌については、吉備津神社の本宮社の横に建ってある野々口隆正の石碑に詳しく説明がしてありましので、機会があれば見ていただきたいものです。

 

吉備って知っている  55 細谷川を歩く③

2008-11-29 19:09:58 | Weblog
 「身を王事に亡じて ただ名のみ存す」の寂室の石碑のすぐ隣に、こちらも見てくれと、言わんばかりに空に大きく突っ立ている輝緑岩の石碑が目につきます。
 それには、
 「祈ること しるし有木の 山なれば 千とせの程の たのもしきかな」
 と、行書で書かれています。
 この歌は、後三条天皇の冶暦4年(1068年)の大嘗祭の主基方風俗歌として藤原経衡(つねひら)によって詠まれた備中風俗歌八首の中の一つです。(大嘗会和歌集・岡山県通史より)

 なお、大嘗祭というのは、天皇になった最初の年に行う新嘗祭のことです。この時、天皇が初めて神に奉る稲(新饌)を作る国を、京より東北と西南の二国からト定で選びます。東北に当たる国を悠紀(ゆき)、西南に当たる国を主基(すき)と呼んでいました。中世以降になると、悠紀は近江、主基は丹波・備中のいずれかと決められます。

 後三条天皇の冶暦4年の主基は備中国でした。この時、経衡によって詠まれた歌には日差山、鼓山、板倉橋、板倉の里、有木山などが取り上げられています。(岡山県通史)
 これらから考えてみるに、この時の主基は、もしかして、私の町吉備津辺りの何処かの田ではなかったのかと思われます。

 歴史を調べるってことは面白いことですね。
 
 ここでも吉備の国は、わが国でも特別な位置を占める国になっています。
 

吉備って知っている  54  寂室

2008-11-28 17:36:22 | Weblog
 あまり面白くもないのですが、せっかく調べてみたのですから書いてみます。
 と、いうのは、この寂室と言う人は元から帰ってから暫くは、都には上らず備中や備後の国を順錫しています。そんな時に訪ねたのが吉備の中山にある藤原成親のさびれた墓跡であったようです。
 寂室の足跡としては、この石碑の他に、高梁市にある頼久寺の開山第1祖にもなっています。その頂相が今もこの寺にあり、その面影を伝えています。(岡山県重要文化財)

 この他、寂室は、「身亡王事只名存」等たくさんの詩歌を残しています。
 中でも、次の詩は寂室の生き方をよくあらわしたものとして知る人ぞ知るです。
 「名利を求めず貧を憂えず 隠所山深うして俗塵遠ざく 歳晩天寒し誰れか是れ友 梅花月を帯びて一枝新たなり」  

 この詩にあるように、自然を友としながら近江の永源寺で一生を終え、「永源寺派臨済宗」も打ち立てています。頼久寺は、今でもこの「永源寺派臨済宗」のあ寺でもあるのです。

 蛇足になりますが、この寂室が著した「寂室和尚語録」には、吉備の中山を詠ん「春日遊吉備中山韻」という詩もあるそうです。

吉備って知っている  53   細谷川を歩く ②

2008-11-27 12:34:00 | Weblog
 紅葉せぬ谷川の水はどうして秋を知るのだろうかと、鹿と谷川を扱き混ぜながら、私の秋を楽しみ楽しみして南細谷川を吉備津彦命の御陵まで上ります。
 「もうとっくに秋は来ていますよ」
 と、帰りに谷川の水に教えてやろうかなとも思ったのですが、あまりの上天気に誘われ、もう一本ある北細谷川のもみじは如何にと思い、その道の方を下りることにしました。藤原成親の墓跡に軽く頭を下げて、急峻な斜面に敷かれた九十九折りの山道をゆっくりと下ります。
 途中にある成親の高麗寺山門の礎石辺りの楓の紅葉は見事です。こちらの細谷川は向こうの細谷川とは違って日当たりがよく、沢山はないのですが数本ある楓の木々は今を千度と身を真っ赤な色で飾り立てて、自分の秋をしきりに奮い立たせています。その木々の赤に合わせるように、谷川の水も、「秋がきた お山は燃えて 真っ赤か」と、爽やかに水音を立て流れ落ちています。
 そんな水音に歩調を合わせるようにして谷川の道を下ります。福田海の墓地を通りすぎ、ようやく中山の山裾に辿り着きます。しばらく進むとこんもりと茂った木々の間から人目をはばかるように苔むした石碑が覗いています。この石碑には寂室と言う人の詩が彫りこまれていました

 この詩を作った「寂室」というお人は、足利時代に、真庭市(勝山)に生まれた、栄西より150年ほど後の名僧です。
 このお坊様も、また、、栄西と同じく、やはり宋の国に行って禅宗の勉強をして帰った人です。慈円がこっぴどく「名利も求めるくそぼうず」と罵った栄西と違って(しかし、永平寺の道元は栄西をものすごく尊敬していたと言われています。最も、道元は建仁寺で修行をした栄西の孫弟子に当たる人ですから、あたりまえだと言えばそれまでですが)この寂室は、名利を超越した誠に清貧な高僧だったといわれます。
 将軍足利義詮から鎌倉の建長寺に、また、後光厳天皇からは天竜寺に招かれたのですが、光源寺という近江の小さい寺で、平俗から離れて生涯黒衣の平僧として生涯を終えた人です。

 この寂室が、吉備の中山にある藤原成親の墓を訪ねた時に作った詩の石碑です。
   
 この石碑に書かれている詩は、藤井俊先生の著した「吉備津神社」によれば、次のように読むのだそうです

  「身は王事に亡じてただ名のみ存す  悲しみ看る荒墳の蘚痕を長ずるを
   千古中山春寂寞たり  巌花の香は幽魂を返すなるべし」
 
 今では、この道を行く誰もが詩が書かれた石碑にも、まして「寂室」という名前にも無関心で、秋風と同じように、無情にも、ただ、通り過ぎているだけです。
 せめて、その石碑にだけでもと、足を引き留めて立ち寄ってみました。短い秋の日が大分西に傾いて、夕暮れがそこはなとなく差し迫って見え隠れしています。いくら見渡しても、ここからは山の紅葉は見えません。わびしさだけが辺りを覆いつくすように広がっているだけでした。

 

ちょっと高野山にお参りしました

2008-11-26 22:05:11 | Weblog
 25,26日と吉備津の普賢院さんなど備中の高野山真言宗のお寺さんが企画してくださった「高野山特別伝道祈りの旅」に参加しました。
 生まれて初めての高野山参りでした。

 根本大塔    金堂を説明する美青年僧
 
 今まで、比叡山延暦寺には度々お参りの機会があって、もう5,6回もお参りしているのですが、高野山には行こう行こうと、今まで何回も思ったいたのですが、その機会がなく今回が初めての参拝になりました。
 第一印象は、比叡山の物々しい何か男性的なたたずまいに対して、この高野山は、えもいわれぬ女性的な柔らかさのあるお寺のように見えました。
 
 今回の高野山特別伝道のための参拝には、備中各地区から1,200人に及ぶ檀信徒の人たちのお参りでした。
 何から何まで行き届いた主催者の配慮もありまして、それに天気も味方してくれて、完璧な参拝になりました。
 弘法大師さまのお加護の賜物と、ただただ感謝のみでした。
 今朝は、普通なら耳にすることすら不可能な、高野山金剛峰寺管長猊下様のお授戒の御言葉も頂戴しました。
 その中の、管長さまの
 「感謝する心が今を生きている現代人にとって最も大切な作法の一つです」
 と、いう言葉に私は強く心を惹かれました。
 これだけは絶対にしなくてはならないことなのだと、強く人々をお悟しになるのではなくなく、ごくさらりと、普通の人の普通の行いとして日常の生活の中に、是非、生かせてほしいと、おっしゃたそのお言葉の柔らかな温かさに感心一入でした。
 この講演を聞いただけでも今回の参拝の意義があったように思われました。

 今日の秋の日の爽やかさが、余計に今回の旅の爽やかさを引き立てているようでもありました。
 管長様のおっしゃった「感謝することの大切さ」を今更のように思いながらバスの旅を終わり、夕暮れの早い晩秋の吉備の並木道を中山に背を押されるようにして家路に向かいました。
 西の空には明るい金星と木星が縦に一直線に並んで、それぞれお互いを思いやるように、仲良く山の端に落ちています。
 

 

吉備って知っている  52 細谷川を歩く①

2008-11-24 10:11:07 | Weblog
 昨日は、新嘗祭、即ち、自然の豊穣ーこれは人が生きていくための必須の神の恵みでありますーを神に感謝する日です。
 あまりにもよい天気だったものですから、私の小さな畑から採れた農作物への感謝の気持ちを込めて、吉備津様にお参りして私の新嘗祭にしました。本殿で祈りをささげたから、「もみじは如何に」と思い、長い回廊を通り、細谷川に歩を進めます。
 毎年のことですが、この谷のもみじは紅葉しないのです。まだ、夏の青さをそのままに頑なにしっかりと守っているのです。決して赤くはならないのです。緑から茶色、そして落葉と、赤を省略した、あまりにもあっけない幕切れを見せる不思議な谷のもみじです。
 その原因は、周りにあるくぬぎなどの大木に夏の光を遮られて「赤」に変化するかえでの葉っぱの中の酵素が作られないからだと言われています。
 それにしても、真っ赤な秋のあの美しさを心待ちにしている者に対してちょっとわびしい思いをさせてくれます。周りを覆い尽くすあの大木を切り倒せばと思うのですが、それだって、あの夏の万緑のなんとも言われないすがすがしさが味わえなくなるし・・・・。この谷川の四季を愛する者をして「どちらを」と言うジレンマにしばしば陥れてくれます。

 まあ、そんな山道にあれやこれやと思いめぐらせながら上がっていきます。それでも、時々、谷川の向こうの山の斜面には日当りのいい場所もあり、そこに生えている楓の木でしょうか、一本だけやけに真っ赤に染まって、いまだに青々としていろ谷川のもみじの木をうらやましがらせているような光景に出くわします。
 そんなわずかの赤がちらっと梢越しに見えてくる光景に出くわすと、何か本当にほっとしたような気分にさせてくれます。心和むような気分に出くわすのも、11月23日に、この細谷川沿いに上る楽しみでもあります。秋の素晴らしさに出会う最高の喜びでもあります

 谷川を登りきって御陵へ、そして、だらだらと続く落ち葉の山稜を通り有木へと下ります。その道はまた数々の不思議さに出会える楽しみの道でもあります。今日は「この山にはありませんよ」と言われていた「ウラジロ」を数株見つけました。
 山って、自然って、どんなな名画を見るよりも、行き慣れた普通の道だと思っていても、何かしら毎回深く心を打つものがそこらじゅうに落ちています。
 「いつもあるのですよ。あなたの眼に見えないだけですよ」
 と、言っているようでもあります。
 今、生きてるという気力が体の中から湧き上がってくるようもあります。

 私一人だけでなく大勢の人に、こんな自然の美しさを味あわせてあげたいと思いながら、かさこそと鳴る落ち葉を踏みしめながら、誰もいない山道を小唄混じりに秋を満足しました。

吉備って知っている  51

2008-11-23 12:35:40 | Weblog
 勤労感謝の日です。秋たけなわです。
 昔の新嘗祭です。今年獲れた穀物を神に捧げて、神のご加護に対して感謝する日でした。天皇を中心にして、日本国中すべての人が、神に感謝した日なのです。
 今でも、天皇家ではこのお祭りが執り行われているのかどうかは知りませんが。どうしてこんな昔から日本の歴史が始まって以来続けられていた行事が、封建的であるという単純な理由がけで中止されてしまったのでしょうかね。
 何かのものに、自然に出来たものでも、自分が作ったもので、何か目に見えない自然の力があったからこそ出来たのであって、決して自分一人の力ではなしえないということを現在の人は知らなさすぎるように思えます。
 そんな目に見えないものを「神様」として大昔から敬っていて感謝していたのです。天皇から庶民まで老若男女全員でお祭りしていたのです。みんなで神に感謝していたのです。
 そんな心が現在ではからきし0に近い状態なのです。だから平気で人も殺します。訳のわからない殺人事件が多発しているのです。
 お宮さんにお参りして頭を下げてみてください。本当にすかっとした気分になりますよ。と言うわけにもいかないと思いますが、今日はそんなお宮さんの一つである吉備津神社の秋景色を写真でお見せします。本当に吉備津って素晴らしいところですよ。

       

吉備って知っている  50  雪舟の里ー赤浜  

2008-11-22 21:54:28 | Weblog
 栄西は、特に、わが町吉備津から出たお人ですが、この他に吉備出身の歴史上の人を上げると、吉備津のごく近くから出た雪舟がいます。
 雪舟は、現在は総社市になっていますが赤浜で生まれています。
 その昔、吉備津彦命の射た2本の矢のうちの一本に当たって温羅が流した血が血吸川に流れ、辺りの浜が真っ赤に染まったから付けられたという「赤浜」から出た人なのです。
 もう、雪舟については十分にご存じですので、長ったらしい説明は省きますが、あのねずみを書いたとされる本堂は今はありません。流星か何かによって焼失してしまったそうです。
 その本堂を焼き尽くした真っ赤な炎は、今は、沢山の楓の紅葉となって境内全体を真っ赤に焼けつくしています。
 今日明日ぐらいが丁度見頃です。いっぱいの車で混雑を極めていますが。

 なお、雪舟が生まれた「赤浜」は、今は、それこそ何もありんせん。ただ広々とした田園の風景だけがわびしく佇まっている中に、一人秋だけが大の字をいっぱいに広げています。「赤浜」と言う名のみが秋の深まった野山に無言で佇んでいるようでもあります。
 この「赤浜の里」に、雪舟がどのような思いを抱いていたのかいっさい歴史から消え去ってしまってわかりません。
 思うに5,6歳の幼子が父母のもとを離れて一人で生きていった歴史はいかばかりでありましょうや。彼の残した言葉の中からは「赤浜」と言う字はついぞ見出だすことはありせん。再び、故郷に立ち寄ったと言う記録も見当たりません。
 この「赤浜」は、彼にとっては懐かしいふるさとではなかったのではないでしょうか、何か思い出したくなくなるような嫌なことがあったのかもしれません。ただ、赤浜の武士の子に生まれたとのみ記されています。父母の名もわかりません。その家の跡すらどこにあったのかも遥として知ることはできません。
 何にもない、ないないずくしの里なのです。本当に何にもないのです。さびしい村里です。
      

 こんな備中の片田舎から出た「雪舟」の絵をせめて眺めて、秋の夜長の哀愁をしみじみと思いやっていただけたらと思います

吉備って知っている  49   栄西⑦

2008-11-21 15:27:42 | Weblog
 1~2回と思っていたのですが、ついいらないことをあれこれと詮索している間に回数が重なりましたが、今日で栄西については最終にします。

 栄西が宋に渡るとき、その船の舳先に吉備津宮にあった恵比須宮の宮標を付けて行ったという話を吉備津の古老から聞いたことがありました。現在は新たにえびす宮が造られてお祭りもしていますが、どうして吉備津様と恵比須様が結びついているのかはわかりませんでした。
 元禄年間に作られた吉備津神社絵地図にも「えびす」の字は見えません。その他吉備津神社の古い絵地図を見ても、それらしき建物も字もありません。かって聞いた古老からの話はうそなのかとも思っていました。
 それが、今度、栄西の立てた建仁寺に関しての書物の中を見ていますと、やっとのことに、それらしきものを見つけ「こんなところにあった」と小躍りしました。
 その本の中には
 「吉備津神社には曽祖父薩摩守貞政が信仰していた蛭子社(えびすしゃ)があり、それを真似て栄西が建仁寺の中にも建てた」
 「宋からの帰りに船が遭難しそうになった時、一緒に持って行った吉備津神社の恵比須像の御蔭で難を逃れた」
 と、書かれています。
 もうだいぶん前になりますが、私が聞いた古老からの話も、まんざらでたらめな作り話ではなかったのかと思いました。
 900年もの前に語られた昔話がそのままの形で、何の変化もなしに人の口から口へと今日まで細々とですが伝わってきたということに、吉備津の人々のなにかしら栄西さんに対する強い思いがあったからこそだと思えます。単に同郷の人であるという以上の、何か誠に不思議な栄西さんに対する崇拝にも似た念があったからからではないでしょうか。
 そんな話もいまだに残る吉備津の里です。
 
 秋の夜長にお孫さんにでもどうですか。昔々のお話が心に沁みるいい時期でもありますので。

吉備って知っている  48   栄西⑥

2008-11-20 11:59:40 | Weblog
 「もういいかげんにしろ」とお叱り覚悟で、もう少々栄西のことを。
 だって栄西さんは、吉備津、というより吉備の国きっての日本史における最大の偉人の一人ですもの。ここを千度に宣伝しなくてはならない義務を私はしょっていると言っても、決して、言い過ぎなしないと思います。例え慈円さんが「権力におもねる大馬鹿僧」と言ったにしても、公明党の誰かさんみたいに、麻生さんの定額給付金を喜んでいる人がほとんどだと言ってそれを擁護する人にみたいに、大いに栄西さんを褒め称えなくてはならないのは、しごく当たり前なことではないかと思います。(自画自賛です)

 それはさておき、栄西禅師の話を続けます。
 宋の国から新しい仏法を日本に持ち帰り広めようと活動を開始した時だそうです。都ににわかに大風が吹き荒れ、人々に大変な損害を与えたのだそうです。
 都の人たちは、その風の原因を、どうも近頃新しい仏法を広めようとしている輩たちが異国(宋の国)の大袈裟大衣を着て歩いているからだと考えたのです。
 その衣の袖が大きく、また、その袈裟のあまりにも大きいのを見て、その中から風が吹き出していると思ったのです。だから、その風を止ますには、そんな恰好をして都をの中を歩かせないようにしてほしいと、天皇に訴えたのです。
 それを聞いて栄西は
 「今日は吉日じゃ。材木を買っておけ」
 と、弟子に下知しておいて、公家たちが、栄西たちの都での布教活動について、どうしようかと協議しているところへまかり越して申したのだそうです。
 「風は天の気です。人がとやかくできるものではありません。栄西は風神ではありません。どうして風をふかすことができましょうや。人は決して風を吹かすことはできないのです。もし私に風を起こす徳があると思われるのなら、天皇はどうして私の徳を利用してまつりごとをしないのでしょうか」
 と、堂々と言ったのだそうです。
 それをお聞きになった天皇は、「さもありなん」と言われて、この僧の願いがあれば聞き入れてやれと仰せられたそうです。
 さっそく弟子に下知しておいた木材で建仁寺の建立にとりかっかったということです。
 
 こんな作り話が生まれたのも、比叡山の力が新しい栄西たちの仏法に対しての弾圧を物語っているのではと思われまさう。

吉備って知っている  47   栄西⑤

2008-11-19 16:49:46 | Weblog
 栄西について知らないうちにもう4回も書いてしまいましたが、「茶祖栄西」について少しばかりお話しします。
 
 ある時、鎌倉の将軍実朝が、(愚管抄には、建保2年(1224年)2月4日とあり)病に罹り大変弱っていたのだそうです。それを聞いた栄西は良薬と称して茶を将軍に勧めたのだそうです。すると、たちまちのうちにその病が治り元気になったと言うのです。ある本によりますと、その病は、酒を飲みすぎた「二日酔い」だったと書いていますが、それが本当なのかもしれません。
 その時、栄西はお茶と共に、自分が書いた「喫茶養生記」という本も録進しています。
 この喫茶養生記には、次のようなことが書かれています。
 1、身体が衰弱したり、気力が意気消沈したり、心臓が悪くなったりしたとき時
 2、二日酔いの時
 3、小便の通じが悪くなった時
 4、脚気の時
 5、疲れた時
 によく効く。それが縁かどうかは分からないのですが、京都に帰って建仁寺を建立して、臨済宗を広めたのです。
 そんな栄西を、愚管抄の慈円は「権力におもねる大悪僧だ」と、大層憎々しく思っていたとも言われます

吉備って知っている  46   栄西④

2008-11-18 13:57:13 | Weblog
 栄西が初めて日本に中国からお茶の木を持ち帰り植え、お茶を広めたのは知っていたのですが、もうひとつ天台山にあった菩提樹の木も持ち帰って植えています。
 この菩提樹の木は如来道の霊木であり、仏舎利と一緒にインドから中国に伝えられたものです。日本にはこの木がそれまではなかったので、天台山にあったその菩提樹の1枝を採って、備前の田氏の商船に託して、九州の香椎宮に植えてもらったのです。
 「もしこの木が根付いたなら、自分がこれから日本に帰って布教しようと志す“禅”は広まるだろう。もし反対に、枯れたなら自分の吾道は興らないだろう」
 と、その効を験(ため)したのです。
 なお、栄西自身も日本に帰る時に、ここの菩提樹の一枝を持ち帰って、建仁寺の東北の隅にも植えたのです。この二か所に植えられた枝は両方とも根付いて、その後、繁茂成長します。
 栄西はその後、重源の後を継いで、二代目の東大寺の大勧進の職に就いております。また、関東へも下り、将軍源実朝にも会い問答をしたと言い伝えられています。
 その後京に帰った栄西は、
 「自分は今年の秋七月五日に死ぬ」
 と、衆に告げます。
 その日、これを聞いた天皇は使いを遣わして「問わした」と書いてありますが、何をどう問わしたのかはわかりんせん。ただ、栄西は
 「もう私は死にます。己近」とのみ応えたそうです。
 そして、
 「姿は壮健で椅子に腰かけたまま一二時を回ったころ静かに逝く。七月五日、年は七五歳、知見広大なり」
 と、書いてあります。
 その死にざまの見事なことと言ったらありません。人はみなこのように死にたいものでね。老醜を曝すことなく、自らの死期を予見して、その時に座ったままで死ぬなんてと、あらためて栄西の素晴らしさがわかります。

 なお、この栄西に関する資料がこの吉備津に一つぐらいあってもよさそうなものですが、そんな噂もありません。藤井高尚先生でも集めることができなかったのかなとも思います。まあ、名前だけでもこの吉備津から出たのですよと後世の人もしっかりと覚えてほしいものだと思います。吉備津出身の大歴史的人物ですので。近所にある赤浜出身の雪舟もそこには何も残ってはいません。まして栄西はと、言えるのでしょうか。昔の人はそれほど自分の故郷に愛着を感じなかったのでしょうかね。
 もしかして、栄西に関する資料は、観応二年(1351年)の吉備津神社の大火災で、全部焼け失ったのかもしれません。重源の寄進した仏像もみ皆。
 現在に残ったのは、重源は教えた「大仏造り」の建築様式のみであったのかもしれません。
 形あるものは物は、何もかも、全てきれいさっぱりと消え、それとともに、人々の心からも完全に忘れ去られていまったのです。それが歴史かもしれませんが、何か虚しさだけが心の中に去来します。

吉備って知っている  45   栄西③

2008-11-17 17:19:51 | Weblog
 栄西は、宋の国で、たまたま「重源」と会います。そして一緒に天台山に上って天台を学んで、9月には、一緒に日本に帰っています。
 栄西は日本に帰ってからもどうしてももう一度宋の国に渡って、さらにインドまで行こと思ったのですが、当時、栄西と親しかった平頼盛(清盛異母弟)がインド行きを強く反対したため宋に渡ることができなかったのです。その頼盛も平家滅亡ととも亡くなり、その期をとらえて、栄西は2度目の宋に渡ります。ここに於いても母方の田氏の経済的な支えがあったから行くことができたのだと思われます。
 宋からインドまでの旅を宋の役人に話すと
 「何しろ我が国の西域を、今は、夷狄が支配しているので、とてもインドまではいけない」
 という。鬱々とした日々を送っていると、船主が「日本に帰った方がいいのでは」と、しきりに勧め連れて帰ります。しかし、運悪く、宋の港から船に乗って3日後、嵐に遭い、再び、宋の国へに流され戻されます。
 この本には書いてはいないのですが、どうも、この時の船主と言うのは、備前一宮を本拠地にして活躍していた瀬戸の穴海の豪族「田氏」で、あらかじめ栄西とは熟知の顔見知りの人ではなかったかと思われます。
 田氏と言うのは当時活躍していた日本を代表するような相当な武力をも持っていた貿易海運業者ではなかったかと思えます。藤原成親を処刑した難波次郎経遠もこの田氏と何らかの係わりがあるのではと思われます。

 ちょっと横道にそれますが、栄西のインド行きを止めた平頼盛とこの成親とは随分と親しい関係であって、成親の罪を許すよう嘆願したとも言われています。清盛は、その弟との関係を、どうしてかはわからないのですが、一説によりますと、弟の頼盛が兄清盛に反旗を翻しそうなのを察知して、早急にこの二人の関係を解消する必要が生じてために、見せしめのために経遠に命じて、大納言成親を無残な殺し方で葬ったのではないかとも言われています。

 また元へ話を戻します。
 「これはきっと自分の仏教の勉学が至らんないため、波風がもっと、宋の国で、仏教の研鑽に励めと激励してくてたのに違いない」
 と、栄西は考え、「萬年寺」という寺で、禅の勉学に数年励み、帰国します。

吉備って知っている  44   栄西②

2008-11-16 18:44:26 | Weblog
 ちょっと栄西は後回しになります。
 今日は「高松まほろば祭」のお手伝いを仰せつかって、早朝より高松城址へ馳せ参じました。昨日はその準備です。大勢の人の手があったはじめて可能な祭りなのです。そのため2日ばかりブログへの書き込みを中断していました。
 
 この祭りは、秀吉による高松城の水攻めのため、真っ茶色に濁った俄か人造湖の上で見事割腹して果てた清水宗治を称えるためのものです。
 今朝午前4時ごろでしょうか、ふと目が覚めると、水攻めの数日前より降り続いたであろう激しい雨足が、今朝もそこかしこの屋根を強く打って私の安眠を妨げます。
 この雨では、今日はもしかしてお祭は中止になるのではと思っていたのですが、うとうととしている内にその激しい雨は止み、開会の時には絶好のお祭日和になりました。
 大体のお祭りの準備もすみ、ちょっと暇がありましたので「まほろば」会場から離れて、高松城址に、板橋を通って上ってみました。
 そこには見慣れた石碑が公園の秋色の中に、昔の人の思いをいっぱいに漂わせながら、周りの喧騒をあざ笑うかの様に、静かに建ていました。
  
 “浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
               名を高松の 苔にのこして”
 という石碑の文字が、誰に話しかけるのでもなく、自分一人で昔を語りかけているようでもありました。
 ものの本によりますと、この歌は清水宗治の兄「清水月清」の歌だと言っています。
 なお、その時に詠んだ宗治の歌は
  “世のなかの 惜るヽ時 散りてこそ
               花も花なれ 色もありけれ”
 と、いうのだそうです。天正十年六月四日のことです。
 
 その時の様子を、ものの本には
 「清水一族骸(むくろ)は堤防の水に沈めども、名は高松に留る名誉の勇士、五十六歳にして義死を遂げ、いまだ半白の歳(よわい)を失ひ、泉下の客と成るを惜しまぬ人なし」
 と。

吉備って知っている  43   栄西

2008-11-13 20:05:13 | Weblog
 栄西禅師、そうです。日本に最初に禅宗「臨済宗」を伝えた人です。賀陽氏の人です。
 永治元年(1141年) 吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生しました。

 「元亨釈書」という本にその誕生の秘話が書かれています。
 
 母は田氏です。永治元年4月20日に懐妊して8か月で安産にて生まれます。
 「生み月に達しないで生まれた子はその父母に不幸を与える」
 と、人々が噂していました。栄西の母は、それを聞いて不安になり、3日も乳を与えないでいたそうです。それをある一人のお坊様が見て、栄西の父に伝えたのだそうです。
 「そうですか。生まれてから3日も乳を与えてないならば、もうとっくにその子は死んでしまっているだろう。かわいそうなことをしたな」
 と、父親貞遠はたいそう嘆いたと言う。
 「いえ。お子様は元気で生きておられます。不思議なことですが、3日も乳を一滴も飲まなくても元気なのです。何かこの子は、誰にもわからないような特別な力を天から授かって生まれてきたのではないかと思われます」
 と、そのお坊様は言われます。。
 それを聞いた父は、早速、そのことを母親に伝えて、それから以後はその子を大切に育みます。

 その栄西さんは八歳の時に、父と一緒に「俱舎論」という仏教の物の見方、即ち仏教の存在論を勉強したのだそうです。何が何だかちんぷんかんぷんの書物です。こんな本がわかるなんて大したもんだとただただ感心するばかりです。
 「聡明にして常に群児を邁く」
 と説明してありました。
 十四歳で比叡山で台教を学び、仁安3年(1165年)宋の国に渡り、そこで重源と会い、一緒に天台山に上ります。そして、その秋、重源と共に日本に帰ります。栄西は、その後再び、中国への仏教修行を思い立って渡っています。

 この2度もの中国へ渡航、それも自費で行っています。当時、自分で中国に渡るとなると大変な経費が必要だったのです。よくは分からないのですが、現在の金額にすると何千万円も必要だと計算した人もいます。大変な金額が必要であったことには違いありません。それも、2回も行くなんて普通の家では考えられないことなのです。しかも、栄西の弟「良祐」も、宋の国へ同時に留学しています。賀陽氏の家は相当な金持ちの家だあったことには違いありませんが、その母が田氏だということから、この田氏の相当の補助も当然あったと考えるのが普通ではないかと思われます。
 なお、この田氏は、当時の吉備の海(穴海)一帯を抑えていた強大な海の棟梁、というより海賊的な匂いのする海部の一族ではなかったのかと思われます。この母方田氏の援助を得て中国に渡ることができたのではと思えます。
 なお、田氏は吉備津彦神社の宮司の一族でもあったのです。

 吉備津神社の西南の隅にある坤(ひつじさる)御崎に祀っれている吉備海部直櫛振の後裔かもしれません。