私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

歩けば虎に当る話

2007-08-31 12:44:06 | Weblog
 吉備津神社に、町内会の秋のご祈祷依頼に出かけました。すると、県立博物館で、この秋開催される吉備津神社展へ、神宝である円山応挙の「虎の絵額」を展示すべく、梱包の最中でした。めったにない機会です。ゆっくりと、何度も何度も角度を変えながら拝ませていただきました。円山応挙という落款は、この額の右下に薄く消えそうに書かれていましたが、何とか、其の字を読むことが出来ました。
 平生、何時ももてあましている私の時間が、なんだか、今日は、とても貴重のように思え、随分と得したような気分になりました。友達にも知らせてやろうと、立ち寄りました。
 またまた、そこで見たのは彼の床の間に飾ってある「岸駒のとら」の掛け軸でした。
 二つとも大変すばらしく、立派なもので、随分と目の保養をさせていただきました。本当に今日は、僥倖の時間を持つことが出来、「ああ神さま」と頭をそっとお社にむけて垂れました。
 どうして、今日はこんなにも虎に縁があるのかしらと、タイガースが勝つかもとおもいながら、ほくそえみながら家に戻りました。帰る途中で、片山虎之助さんと出会いました。

秋の七草

2007-08-30 19:32:16 | Weblog
 今年は、早々と吉備津駅の構内にススキが顔を覗かせています。
 このススキは、秋の七草の一つです。若い頃には、どうして、この花がと思うのですが、今、その佇まいをつくづくと眺めてみると、なるほど、これも秋の感覚を色濃く表すにたる草だなあと、年老いた、この頃、特に秋風が辺りに靡く頃ともなりますと、そんな思いか強く感じられます。幽霊の化身みたいに言われていますが、奥深い風情を、この草に伺うことも出来ます
 この秋の七草は、山上憶良が、萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花、又、藤袴、朝顔の花と詠んだのが、元だとされています。
 それにしても、どうして、秋を代表するあの「菊」を憶良は入れなかったのでしょうか。不思議に思っていたのですが、このことについて、我;高尚先生は、『松の落葉』で、次のように説明されておられますので紹介します。
 
 『中国の菊は、わが国の「ふじばかま」だ。だから、奈良の都の頃までは、日本には、「きく」という言葉が入っている歌は見えない。 ようやく平安に入った延暦年間の頃より、中国から「きく」が渡ってきた。この菊の花が大層美しく、「ふじばかま」という日本風の呼び名があったにもかかわらず、中国読みの「きく」という呼び方がそのまま、日本でも使われるようになったのだ。
 平安の頃、中国から渡ってきた「きく」即ち「藤袴」は、当然、日本にも奈良の都にもあったのですが、あまりにも美しかったため、呼び名が「藤袴」でなく、中国名の「菊」と呼ばれるようになったのだそうです。
 だから、山上憶良が詠んだ『藤袴』は、本当は、今の「きく」で、「朝顔」の花は「桔梗」だった』
 と。

 私事(ひとりごと);
 朝顔の花は桔梗だとは知っていましたが、藤袴が菊だなんて知りませんでした。 我;先生、さすがですね。益々、好きになりますよね。藤袴がどうして菊か?匂いなんて全然ないのにと思います。
 それについて先生は、「袴」も「衣」とともに、香を炊き込めて芳ばしいにおいが立ち込めるものですから、当然、「ふじばかま」もいい香がするのか当たり前だと、平安の人は考え、「フジバカマ」は、「蘭」とも書かれていたともいう。(和名は、「布知波賀萬」で、「匂いのいいらん」と言う意味)。また、このほか、「よもぎぐさ」「かわらぐさ」とも呼ばれていたようです

 人が「思う心」とは面白いものですね。



ぶどうが届きました。

2007-08-29 11:51:42 | Weblog
 一寸遅い朝食を済ませて、新聞を読んでいました。
「赤木さん~、宅急便です」
 朝のしじまを打ち破るような元気のよい大きな声と一緒に、宅配便が届きました。
 それは、定年後、故里である美袋に帰って来て、静かに晴耕雨読の生活を楽しんでいた高杉君の奥様からのものでした。
 彼は、裏庭の自分の畑で、小学校時代の故里の友人、有安君達に教えて貰って「ぶどう」作りにも挑戦していました。他ではめったにお目にかかれない大変美味しいぶどうなのだそうです。玄人顔負けのような本格的なぶどう棚も設え、「出来たらお裾分けする」と、会うごとに、自慢げに口癖のように言っていました。その農園に、故里の友人の昔と変らない温もりを感じたのでしょうか、「フレンドリイシップ ファーム」となずけて、何やかやと野菜つくりにも挑戦していたのですが、3年前、がんに侵され帰らぬ人になったのです。
 その「ぶどう」を、高杉君がなくなった後、奥様が引き継がれたのでしょう。 「今年は、今までの欲を少し捨てたので、その分甘くできたような気がします」
 と、いう奥様の文面と一緒に送られてきました。
 まずは、兎も角と、高杉君の思いが、一杯にこもっているだろう、その故里のぶどうの一粒を口に頬張りました。甘いぶどうの香とともに、「フレンドリーシップ」という甘酸っぱい懐かしい心だけにしか味わえない匂いを嗅ぎながら、過ぎ去りし日々を、幾重にも思い出しながら、つれづれに時をやり過ごす事が出来ました。ぶどうの一粒にこんなに時間をかけて味わったことは、今までにないぐらいゆっくりと味わいました。

 故里って何でしょうね。不思議なものですね。

くにのまつりごと

2007-08-28 16:17:32 | Weblog
 阿部さんが、なんやかんや言われながらも、第二次内閣を発足させました。順風満帆の船出とは言いがたいような事をニュースは伝えていますが。我々老人には、あまり波風がない国政をしていただきたいですね。不正のない、公平な、しかも、誰にでも分りやすい政治とは難しいようですが。
 我;高尚先生の時代は、徳川将軍を頂点とした武家政治の時代です。今とは制度が違いますので、とやかく言っても仕方ないのですが、当時の知識人は「まつりごと」をどう理解していたのか、一寸と面白いので書いてみます。
 先生曰;
 「まつりごとをとりおこなふそく(職)にもあらぬ人の、とやかくといふはかなはぬ(うまくあてはまらない)ことぞおおかりける。孔子も『其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀らず』(あまり関係ない人が、とやかく言うことは秩序を乱すだけだ)と言われています。」
 と。

 私事(ひとりごと);
 阿部さんが聞いたなら、大喜びするかな。時代が違うと言う事はこんな事かなと思いました。
 現代は、テレビ等情報組織が発達して、『一億総まつりごと(政)を謀る時代』だからこそ、今、国の政に携わる人は、余計に、身を潔白にして、国政を委ねることが出来るような信頼が得られるようにして欲しいものです。
 安心して幸福な生活が出来るような国政が出来るのであれば、政党なんてものはどうでもいいのです。
 『政党政治』って、なんでしょうね。21世紀の政治体制として最も有効な制度でしょうかね。

凶行を結びつけた「闇サイト」

2007-08-27 20:48:21 | Weblog
 またまた、今日も新聞紙上のニュースからです。この頃、なんだかおぞましい事件が多すぎるのと違いますか?
 
 今朝の新聞に、名古屋の女性が殺され山林に捨てられるという事件が起ったと、報じている。
 この事件に関して、3人の男が逮捕されています。この3人は、携帯電話で気軽に接続できるインターネット上の「闇サイト」で連絡を取り合い、それまでは全然顔見知りではないのにも関わらず、強盗殺人を平気でやったという。《これなんかも、当然死刑が当たり前ですよね。》なんと言ったら言いのでしょうか、誠に「陰惨」としか言いようのないような事件です。動機は、金に困ったので人を襲う。顔を見られたということだけで、直ぐ惨殺する。なんてむごたらしい事件なのでしょうか。これって本当に、現実の事件ですか。小説上の出来事ではないのでしょうかと、思いたくなるような事件です。
 なんか、今までの日本では、到底考えられないような事件が頻発しています。
 我;先生がお聞きになったらなんと言われるでしょう。『松の落葉ー三のみちの教え』の中で、
 「神代より『はらへ』というわざがあって、人の心についた汚い汚れ(真っ当でない心)を祓い捨てて、清き心が戻るように諌めて、元の直き心に直す事が出来る」
 これが「神の教え」ですと、書いています。
 この事件を。もし、高尚先生がお聞きしたとすると、どう言われるでしょうかね?
 第一、神様にお参りすることすらしないのですから、どうしようも方法がありませんよね。
 

  私事(ひとりごと);
 教えれば分る時代はとっくの昔になくなってしまっていますね。『話せば分る時代』ではなくなっています。どうすればいいのでしょうかね。安倍さんが言っている教育改革というのは、どんなものでしょうか。話しても分らないのなら、教育なんてものあってもなくても同じではないのでしょうか。もう日本は滅びるより以外には方法がないのでしょうか。

 私のこのブログにも、なんか、エログロな怪しげな記事を送ってくる輩がいます。これなども、そのわからずやさんの中の一部のヒトではないでしょうか。話しても分るはずがないのですから。ただ面白くあればそれでよし。人の気持ちなどどうでもよいという感じの人かな。困った世の中ですよね。

 

3人の死刑を執行

2007-08-26 11:51:15 | Weblog
 24日の朝刊によりますと、「法務省は23日午前、3人の死刑を執行した」という記事がありました。今の法相になって、10人の死刑を執行したという。「死刑廃止」論が一方で、声高らかに叫ばれていますが、どうでしょう。極悪の犯罪を平然とおこなうような人には、死刑は当然だと思うのですが。
 
 さて、この死刑について、我;先生は、
 「わがみかどのいにしえは、重い罪のある人は、当然切られてもよいのですが、大方は遠流にして、死刑にした例は大変少なかったようです。神様が、人の命を大層惜しんだためだといわれてきました。もし、これ以上はないという極悪な人を死刑にする時でも、獄令は、3度に渡ってよく調べて、それから死刑を行い、その日は、朝から、朝廷においても歌舞など音楽はやめたという。だが、平安の終わりごろから、保元の戦の後頃から、
 「世のなかのさまがいたくかわれるにつれて、この死刑もいとおほくなりぬ」
 とお書きになっています。
 でも、その後、再び、「天の下をさまりぬれど」昔みたいに死刑が少なかった時代には戻らなかった。それは、世の中の人の心が段々と悪くなって、なだめただけでは悪をやめる人が少なくなったからだろう。「あしきわざする人の数そふゑにこそあらめ。いともいともかなしむべきことなりしか」とお書きになっています。

 私事(ひとりごと);
 死刑員で、刑務所が満杯で困っているとも聞くのですが。本当に、悲しむべきことですね。
 新聞記事を見ると、何か死刑を執行した「大臣が悪い」のだと、いわんばかりのような印象を受けるのですが、私のひがごとでしょうか?これについてもご意見がいただけたら。
 また、この先生の文からは、裁判の3審制が、わが国でも、みかどの昔は行われていたようですが、鎌倉や江戸では、判決が即、執行となっていたようですが。赤穂浪士の事件でも分るように。

葦手?手とは、なんでしょう。

2007-08-25 17:36:13 | Weblog
 またまた、例のお節介屋さんからメールを頂きました。
 「葦手というのは、昔から言われている「男手・女手」と同じように文字だったのですね。悪手というのもその類ですね。でも、この葦手を使ったところに、撫川で育ったお侍達の偉さがあるのですよ。『一村一品』という現代の村おこしに発想が似ており、この元祖みたいな物です。こんな意味から言っても我“撫川うちわ”の民芸的、芸術的、歴史的な意味の大きさが伺われます」
 と。
 これまた例の通り、少々オーバーな自慢話だとは思いましたが。まあそれもそうかもしれないなと思いながら、この「男手・女手」について、我;先生はと、本を捲ってみました。先生曰;

 『むかしの書に、男手にかく、女手にといえること、おりおり見えたる。男手はまな、女手はかなをいへり。・・・・』と。更に、をとこ手は、はなちがきをして、同じもじをさまざまにかへてを書く。「まな」を男は使い、女は「かな」を使って、「まな」はできるだけ使わないようにしていたらしい。
 道長の栄華物語にも「女なれど、まななどよくかきければ・・・・・」というところがあり、これは、女手が「かな」だと言う確かな証拠だ。とお書きになっています。

 
 私事(ひとりごと);
 手というのは、この場合、文字の事らしいですな。まあ、どうでもいいようなことですが、辞書によりますと、手記・手簡・手札・手写・手書・手跡などがあるといいます。

再び、カンカン地蔵さん

2007-08-24 13:00:52 | Weblog
 杉尾のJR吉備線の踏み切り近くにある建石地蔵は、別名「カンカン地蔵」と呼ばれています。川上にある地蔵、「カワカミ地蔵」が「カンカン地蔵」に変化したのだと、川下の人達は言っていましたが、地蔵盆に集まったこの杉尾の古老の人達のお話によると、
 「この建石のお地蔵様は、サヌカイトという讃岐産の石で出来ており、叩くと“かんかん”という音がするから、かんかん地蔵で、川上にあるからなんてとんでもない。この辺りでは建石地蔵と何時も言っているよ」
 とのことでした。

 ちなみに、このお地蔵様を作っている石は、サヌカイトではなく花崗閃緑岩と呼ばれている石のようでした。

 それにしても、ここのお地蔵様にも何時もお花がお供えしてあり、地域の人達の厚い信仰が伺われます。
 又お話を伺っていると、いかにも人のよい親切そうなご高齢のご婦人の方が、
 「ここのお地蔵さんは、雨が降る前には、何時もお体が湿っていらっしゃるので、天気予報を見るより正確なのじゃ」
 又、側にいた別のご婦人は、
 「何時お参りしてもその都度、お顔が違うのじゃ。笑う時あり、怒る時あり、お澄まししている時あり、その時々で異なった表情をしてくれます。本当に不思議なありがたいお地蔵様なのじゃ」
 と、みんな真顔でご説明くださいました。
 その顔々のなんとすがすがしく爽やかであったこと。そんな大勢の人に取り囲まれて、お地蔵さんの今日のお顔はと、見ると、大変にこやかなるお顔で、みんなを「見てござる」。

地蔵盆

2007-08-23 11:27:58 | Weblog
  今日は8月23日です。地蔵盆の日です。宮内の普賢院でおこなわれる地蔵盆の供養に出かけるのだといって、朝から、我,奥方様は、施餓鬼などの準備におおわらわです。
 さて、昨日は、吉備津の「旅枕」を自慢しましたが、今日は、このお地蔵さまのを自慢します。
 というのは、この狭い吉備津内にお地蔵様が、なんと9箇所にもお祭りしてあります。その総てのお地蔵さまで、今日何らかの形で、地蔵盆のお祭りをしています。
 普賢院の地蔵堂では、和尚様たちと壇家の人達で経が上げられていました。線香の煙の中を流れる経を暑さを忘れて聞き入っておりました。
 神でも仏でも、拝むということはとても自分をすがすがしい気持ちにしてくれます。
 後の八箇所の地蔵堂でも、それぞれに所々の今までの風習を伝えながらお地蔵様のお祭りをしていました。写真を写したので一部をご紹介します。どこのお地蔵さんも体をきれいに洗ってもらったり、新しい涎掛けやらお帽子を着せられたりして、お花をお供えしてお祭りの準備がしてありました。



 お地蔵さん信仰の根強さがうかがわれましたが。本来は子供のお祭りなのですが、子供が見当たらないのは、少々寂しく思われました。

歌まくら・・・・・我町;吉備津のもう一つの自慢話

2007-08-22 20:30:35 | Weblog
 真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音の さやけさ
 吉備の国を詠んだ代表的な和歌です(古今集)。
 この歌に、2つの「歌まくら」があります。吉備の中山と細谷川です。枕詞とは違います。ちなみに、「真金吹く」が枕詞です。
 さて、この歌まくらについて、我;先生は、次のように説明しています。

 『古い歌に読み込まれた日本各地の名どころ(名所)を呼んでおり、歌読みが何時も口癖のように言っている所のようだ』

 
 私事(ひとりごと);
 高尚先生は書いてはいないのですが、吉備の国(岡山県)にも、この他多くの旅枕あります。牛窓、二万の里、藤戸の浦、児島、唐琴、虫明などです。でも、吉備津のように、一箇所に二つもあるというのは大変珍しいく、大いに自慢しています。
 なお、写真は、今年写した吉備の中山の初日の出です。

撫川うちわーその2

2007-08-21 13:59:03 | Weblog
 今日も真夏日です。この吉備津はもう10日以上も雨らしい雨が降っていません。そこら辺りがからからです。一雨欲しいところです。
 さて、8月7日に、一度「撫川うちわ」について書いたところ、またまたお節介さんがいて、
 「あなたの団扇には、なんと言う隠し文字が書かれていますか」と、問い合わせのメールを頂きました。
 「何、隠し文字?そんなものがあるものですか」と、思ったのですが、念のためもう一度、その団扇を出して、しげしげと眺め回して見ました。すると、ありますあります。
 この隠し文字が撫川うちわの特色とのことでした。
 念のために、私の団扇には
 「手に届く みずぎわうれし かきつばた」
という字が、切り込んであるという説明書きが付いていました。それを頼りに読んでみますと、あまりはっきりとは判りかねますが、それなりに理解できました。

 この隠し文字については、我;先生もお書きになっています。
 あしで(葦手)でというのだそうです。悪手とまちがって言われた事もあるそうですが、ごく最初は、水を描きて、その片に歌の文字を薄墨で細く続けて、葦が生えたように書くのが「葦手」で、葦手歌絵と言い、次第に、水を描いてそのあたりの景色に、葦を初め石、鳥などを描き、葦手を配置するようになったのだそうです。

 私事;
 この撫川うちわの隠し文字は、正式には「葦手」とは呼ばれないかもしれないのですが、平安の昔から伝わってきた「葦手」の手法が、取り入れられたところに「伝統的工芸品」としての価値があるのです。まあ、広い範囲に葦手といってもいいのではと思うのですが。


 「からから天気どうにか・・・」と、今、ここに書いていましたら、下の方から、「雨が降っているよ」というかみさんの声。急いで窓を開けてみると、涼しい雨風が風鈴をちりんちりんと鳴らしながら吹き来ます。外は待望の雨である。
    
    ・夏行くも 空には秋の 気配ゼロ
              最高気温の 記録伸びけり  
    
    ・雨降りて 吹き来る風は 風鈴を
              幽かに揺すり 秋は入り口 
    

猿楽

2007-08-20 19:20:50 | Weblog
 昨日の藤井千鶴子さんのお話をもう少々。彼女曰;
 「能楽は、室町の初め、世阿弥観阿弥親子によって完成された日本の伝統的文芸だ」と。更に

 「600年の時代を経ていながら、未だにそれを越すような「お能」は出てない。
 時代時代で、多くのお能に携わる人達が、それぞれの時代により合ったと思われるような新しいお能は、沢山創られてきたのですが、でも、そこで創られた新しいお能も、初めの内は、一度二度とは演じられるのですが、いつの間にか、誰もが見向きしなくなり、結局は、世阿弥・観阿弥の600年の昔のそれに帰って行きます。
 それだけ、この二人の創り上げた芸術には「永遠性」「完璧性」があり、その美しさには、決して、誰にも飛び越える事は出来ない普遍的な神そのもののような神聖さがあるのだ」と。

 この能について。我;先生は「猿楽」という題にて、「松の落葉」の中にお書きになっています。
 猿楽は、初めは猿の真似をして可笑しいように舞っていたのが、今の世では能の中に取り入れられてしまって、可笑しくない技に成り代わっています。それは能と一緒に演ぜられる狂言に、この猿楽が持っていた元々の可笑しさが移って、能にはその型だけが伝わっている、と。


 松の落葉には221の題について先生の随想が書き綴られいます。その中で、お能に関するものは、ここに上げた猿楽だけでした。先生はお能について興味があったのか、なかったのかはこれだけの資料の中からでは分りません。今、彼の「松屋文集」という書物にも取り組んでいますが、その中にも見当たらないようです。




藤井千鶴子さんのお話を聞く

2007-08-19 07:43:17 | Weblog
 18日(土)10時から、高松公民館で、藤井千鶴子さんの『日本文化の華・能楽』という講演会(高松歴史を楽しむ会主催)を聞きました。
 外は、36~7℃の猛暑です。能の幽玄の世界を、垣間見るように、耳にしました。
 面(おもて)を着けると視界が、ほんの僅かしかなく、直ぐ前やその左右など、そのあたりは全然見えず、やや離れた真っ直ぐな方向だけが少し見えるだけなのだそうです。それでも、総てが見えるように舞わなければならないのです。
 そのために、舞台は段差のない真っ平な総檜造りだそうです。(檜舞台という)すり足という能独特の足の運びや面をつけた視界の狭い中の舞という特別な環境に適した造りになってるのだそうです。
 このほか、伝承文化としての「お能」について、お囃子について、扇について、能の分類について等、基礎的な能の知識を2時間渡って、ご丁寧に「わかるかしらん」と、幾度となく我々に優しく問いかけられながら、ご説明してくださいました。
 中でも、私が一番面白いと思ったのは、大鼓の皮です。の皮だそうです。演奏の前に、1~2時間炭火で乾燥させ(「煎じる」と先生は言われました)て使うのだそうです。そのために、この楽器が一番消耗が激しいとのことです。乾いた堅い皮ですから、それを打つ手も、一演奏が済むと相当荒れるようです。そのため「お給金はいいのよ」の、と、先生は何か恥らうようにそっと笑みを浮かべながらお話されます。そのお姿に、手の持ていきように、目の動かしように、体全体の動きように、総てが誠に軟らかくほんのりとした香立つ玄妙さが見え隠れして、外の暑さを忘れさせてくれる冷涼ささえ伺えました。
 本当に久しぶりに感動した講演会でした。

残暑厳しき「砌」

2007-08-18 07:48:42 | Weblog
 「砌」という言葉をご存知でしょう。私は季節を表す時に使う特別な言葉とばかり思っていました。
 しかし、我;先生は「松の落葉」の中で、前にあげた母屋庇、長押、たたみ、天井、障子などと一緒に説明しています。
 この「砌」は、近頃の歌詠みは、庭のように思って歌に詠んでいるが、これは過ちで、本当は「軒の下」の事だと。

 私事(ひとりごと);
 高尚先生の『松屋文集』には、「砌に萩を植ゑおきたるに・・・」という文が見えます。少々心にかかるのですが、これからは、どうみても砌は「庭」と解釈したいのですが。軒の下では一寸変ですよね。
 あるものの本によりますと、この「砌」という言葉は、奈良以前ぐらいまでは『軒の下』という意味でしたが、どうも平安ぐらいから、『庭・場所』にも、又、室町ぐらいからは『時節・折・場所』にも、使われていたということです。
 
 我;先生でも、「こんな誤りもするのかあ・・」と、いよいよ近親感が沸いてきます。

家の作りようは、夏をむねとすべし

2007-08-17 07:37:19 | Weblog
 日本列島総て猛暑とか、47年ぶりに記録を更新したとか、熱中症で10人死亡したとか、そんな記事で一面が埋め尽くされている今朝の新聞です。
 こんな猛暑を避けて、避暑地等でなく、少しでも涼しく過ごせる方法はないかと、一日じゅう汗を掻きながら、ふうふう暮らしています。
 扇風機だ、やれクーラーだのといった電気製品に囲まれた現代の生活では、まだ何とか避暑の方法も見出せるのですが、昔の人は一体どんな方法でこの暑さをしのいでいたのでしょうか。
 ただ考えるとしたら、家の造りの工夫しかないと思います。例の兼好も『夏をむねとすべし』と、言っています。
 我;先生はそれについては何もお触れにはなっていませんが、家の構造についてお書きになっています。
 母屋庇、長押しきゐ、障子からかみ、天井、たたみどについて、それぞれに説明しています。この中、特に、「庇」では、母屋の周りに、又庇、孫庇、妻庇と、幾重にも庇を設けて家を造っていること記しています。
 

 私事(ひとりごと);
 昔の家は、どこでも庇が深くて、学校帰りの時などに、急な夕立があると、格好な雨宿り場所になり、そんな所でも、友達同士の絆が深まる機会にもなったと思います。でも、近頃の近代建築になると、庇はあっても形だけで、ないのにも等しく、雨宿りも出来ず、友達に対する譲りあうといった心も育たず、そんな意味でも「いじめ」を生む原因の一つにもなったのではと考えられます?
 また、この庇が深ければ、それだけ外気との遮断の効果が高く、断熱されてより涼しさが感じられる造りになっていたのではと思われます。
 まあ、それだけしか暑さを防ぐ方法がなかったのです。
 それに比べて、現代は誠に贅沢です。これが「当たり前の我々の暮らしの一部だ」して、贅沢だとは決して思いも付かないような現代の人達は、もっともっと『もったいない』と思う心を、どこかの知事さんみたいに、持たなくてはいけないのはないでしょうか。
 そんな現代人に対する神の警鐘が、この47年ぶりに更新された記録的猛暑や新潟などの地震となって現れたのではないでしょうか。