私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備津神社の大祓

2007-06-30 21:38:24 | Weblog
 今日4時から吉備津神社で大祓の行事があり、参列しました。大祓の祝詞が奏上されました。人形型を祭典場の北側に新設された溝の投げ入れました。水も薄濁って汚らしい流れでした。こんな水の中に流して水の霊力なんて、何を考えているのかと言う感じがした。正直なところ、ただ、そこら辺を流れている水を流し込んだだけだけだという、人工的に形式的に付けただけのもので、趣の何もない本当に無表情な溝といった感じで余り感心させられるものではないようです。ただ造ればよいと言った感覚でこしらえたのではとしか思われません。工夫が足らないということはいがめられません
 
   風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
 
 と、詠んだ家隆の心意気を示す何かもっと工夫した流れ(小川でなくても)にして欲しかったと思った。

 なお、昨日の高尚先生の大祓について、知ってかしらでか、吉備津神社の説明はなし。これも、高尚先生を愛する者にとっては寂しい限りです。

荒和祓

2007-06-29 20:41:03 | Weblog
 6月の晦日(つもごり)です。お宮さんでは「六月祓」「夏越の祓」が行われます。
 この大祓について。高尚先生はお書きになっておられます。
 それによりますと。もともと、6月晦日の日に、宮中の縫殿寮より、荒たへの御衣(みそ)と和(にぎ)たえの御服を天皇に奉っり、それを、宮主中臣氏などが、この衣服等を着る人(天皇)の平安、ひいては国民の平安をも、お祈りした「荒和(あらにぎ)」の祓という年中行事だったようです。それが、いつしか「荒」という字と「和」という字から、意味を取り違えて
 さばえなす荒ぶる神もおしなべてけふはなごしのはらえなりけり
 と詠んだ人がいました。それから、荒ぶるを和ごすと言うお祭りになったようですが。本当は間違った、元々はなかったお祭りだったようです。

 例の吉原では。この行事は特別には行われなっかようですが。捜してみると。吉原狂歌の中にこんなのがありました。
 御祓する晦日しらずの居続も今朝は驚く秋の初風
 と言うのが見つかりました。江戸年中行事には、各地で六月祓の行事はあったようです。

 私事ひとりごと;
 有職故実(宮中のしきたりの説明)と言う本にも、大祓については出ています。六月祓(みなづきはらえ)と言うのだそうです。未の刻に朱雀門前に、宮中の百官が集まり人形、散米、解縄を道の南に並べ、北には、馬を連ねて並べ稲四、五束をならべて、神祇官は細かく切った麻を撒き、祝師は大祓の祝詞を奏上する、と
 なお、江戸幕府大奥の年中行事には、この大祓の行事は見当りません。



 

「松の落葉」にある人名

2007-06-28 14:54:00 | Weblog
 我、高尚先生のお書きになった松の落葉の中にある人名は、次の二名です。

 お一人は岡山の儒者湯浅元禎と言う人です。日本の書物を読んだ後で、儒教を一心に学んだそうです。その伝統が当時の岡山にも色濃く残っていて、中国の書物だけでなく、同時に日本の古来からの書物も相当勉強していると言う事です。

 もう一人の人物として取り上げられているお人が、井山の宝福寺の龍雲禅師です。
 毎年の睦月に、蘆守の里の難波何某という家で、あまたの僧達の経を読む会が行われていたそうです。その会に、主賓として、ある年に龍雲禅師が招かれたそうです。そのときその難波何某の家の女あるじが、この禅師に話しかけられたということです。
 「毎年偉いお坊様に経を読んでいただいているので、これからも益々この家も栄えるでしょう」
 と。すると、この禅師が言う事には
 「その経の心が分らず、ただ唱えるだけではお家の為にはならないでしょう。よくないことをするのと比べると、確かに、よいことには決まっているけれど・・」と、言われたと、その女あるじが大変感心して、高尚先生に言ったとか。

 このお二人が取り上げられています、よほど高尚先生のお心に残った事だったのでしょう。
 高尚先生、この後にも、神社での神官の祓詞(のりと)に関しても、龍雲禅師のこの言葉を使えわれています。
 「よくよみてことの心をわきまへしり、よみさまもそれにしたがひてこそ」

 私事(ひとりごと);
 「神官たる者、祝詞に書かれている文の内容をよく理解して、祝詞に書かれている意味が、即ち、神の御心が、聞く人たちの心奥まで響き渡り、伝わっていくように宣る、読まなくてはならない」と、言っています。
 現代の神官たちはどれだけ、この高尚先生のお心を理解して、祝詞を奏上しているでしょうか。一度尋ねてみたいものです?
 

獅子狛犬について

2007-06-27 21:30:44 | Weblog
 再び、我高尚先生の「松の落葉」に戻ります。
 獅子狛犬について、次のように言っておられます。
 獅子狛犬については、いろいるな物知り顔の人がてんでに思いつきの説明をしているが、定説があるわけでありません。火闌降命(ホスセリノミコト)の狗人だとか、神功皇后に高麗の王が「末永く犬のように、皇后をお守りすると狗形を作って送った」と言うような説はいずれもでたらめな作り話です。
 定説はなし。ただ、奈良の時代には、獅子狛犬は、まだ書物の中には見えないそうです。獅子狛犬が、歴史に登場するのは、どうも平安のはじめ頃であったようです。(枕草子や栄花物語)
 最初は、部屋の中に置かれていたようです。御帳の前に据えて、几帳が風で飛ば去れないようにしたのですが、次第に、悪魔を防ぐと言うための守りのように利用されていったのではないかと言う事です。それが時代が進むとともに獅子舞にも変化して行ったようです。

 私事(ひとりごと);
 吉備津神社には、この木製の獅子狛犬があります(国の重要文化財ー鎌倉後期ー観応年間の火災からは免れています)。ごく初期の室内に置かれたもので、几帳の風で飛ばないために置かれ、併せて悪魔の進入を防いだのではないでしょうか。本殿の中陣に置かれおります。
 それから、もう一つ不思議なことは、吉備津神社の獅子狛犬は、正面にはなく、一番南の端にある本宮の鳥居の側に、余りい大きくはない、こじんまりとした石で出来た獅子狛犬が鎮座ましましていらっしゃいます。(左側の狛犬には角が一本生えています)
 ちなみに、備前一宮の吉備津彦神社には入り口の鳥居の側に備前焼の大きな獅子狛犬が備え付けられています。

1.2cmの美しさ

2007-06-25 19:26:42 | Weblog
 土曜日に一緒に、吉備津様のお屋根替えを見た友人から、こんな便りが届きました。
「前略
 生まれて始めて桧皮葺のお屋根替えを楽しく見学させていただきました。50年ぶりとの事、もう私が生きている間には見ることが出来ない貴重な見学の機会を設けてくださいましてありがとうございました。
 桧皮葺と言う言葉は知っていましたが、どのようなものをどのようにして葺くのか、全く知りませんでした。
 「1.2cmの美しさ」と、あなたか言われた通り、「寸分の違いもなく」と言う言葉そのままの、真横に一直線に伸びきった線の醸し出すなんとも言われない、これぞ神の領域であるが如くの、日本の匠にしか作り出せない至極の技術文化が屋根全体に広がっていました。
 その直線は、更に、周りにある無数の曲線と、お互いに調和の取れた結びつきを生みながら、無関係のように思われがちな一つずつの細かな個の技術を埋没させた総合的で胖(ゆたか)な精神的文化そのものを窺い見ることが出来ました。久しぶりに「日本の美そのもの」を、この目で確かめました。
 また、屋根と屋根の継ぎ間の曲線、軒付けと呼ばれている処の数値では表せないようなに不思議な曲り具合、切れ味鋭い日本刀の切っ先にも似たぴんと張り詰めた軒先、えもいわれぬ落ち着き払った比翼のお屋根などが全体的な調和を見せて、何かしら見る者をして、自然の安らかさ、おおらかさを感じさせられるようでした。1時間ばかりの時間があっという間に過ぎ去っていきまいた。本当によい機会を与え頂いて今更ながら感謝いたしております。
 「1.2cmの美だ」なんていい加減な事を言ってと、最初は侮りかげんに聞いていましたが、あなたのその言葉は、まさにそのものずばりでした。この桧皮葺の美しさは他のどんな言葉を持ってしても言い尽くすことは出来ないと思います。
 こんな技術を、まだ、お若い職人さんが懸命に成し遂げている、その後姿を拝見することも出来、日本文化の奥の深さみたいなものも垣間見る事が出来ました。本当にありがとうございました。
   吉備津神社万歳!日本の伝統文化万歳!

これって、なんだか分ります

2007-06-24 12:18:59 | Weblog
 昨日、吉備津神社のお屋根替の模様の公開があったので、友人と連れ立って見てまいりました。(毎週土曜日0:00~16:00)
 桧皮葺の作業は90%ぐらい出来上がっておりました。
 美しい日本の匠の技を、しっかりとこの目に焼き付けてまいりました。「軒付け」の部分の曲線の美しさ(この曲がりは、コンピューターでも数式に表し数値で示す事ができない、職人(匠の技としか言いようのない)の長年の感だけを頼りにして創り出せ得るものです)を見ていると、時間の経過も忘れて、何時までも見惚れるばかりです。風土とか伝統とかと言うものの中にしか見出せない日本人の心が描き出さてれいるようです。物言わぬ1.2cmの段差のある桧皮葺が、『これ見い、けれ見い』としきりに呼びか、私の足を釘付けにしました。少しの歪みもなく真横に一直線となって伸びた線の美しさも目を打ちます。
 此処に提示した写真は(写してきた写真を全部このプログに添付したいのですが、私はその技法を知りません。知っている人がいたら教えていただけませんか)
ヒノキの平葺皮(長さ90cm、幅15cm、厚さ1.5mm)を1.2cmずつずらしながら重ねて並べ、竹釘で止めながら下から上へと葺きつめた様子を写したものです。
 ちなみにこの桧皮葺の厚さは(葺厚ふきあつ)は12cmぐらいになるとの事でした。この竹釘についても昔からの日本人の葺き師の工夫があるという。(11月の真竹の材、太さ長さ、甲羅焼きなど)

 なお、この公開は今週の土曜日(30日)が最終です。日本人なら必見の要があるように私には思えます。この桧皮葺は、約50年程度持つのだそうです。次に見えるのは50年後です。今生の最後の機会になるやもしれません。どうぞ、御一見をおすすめします。また、比翼入母屋と呼ばれるお屋根の構造も是非見ていただきたいものです、「比翼とは」上から見ないとよく分りませんので。

子供の遊び

2007-06-23 09:40:19 | Weblog
 「松の落葉」の中には、高尚先生の子供の遊び道具について書かれたものもあります。今日はそれをご紹介します。
 「をさなき人のもてあそびものは、昔も今も大かたかはらず」と言う文から始まって三種類の遊びを紹介しています。
 まず、最初は、石などり。次は、ふりつづみ。最後は小松ぶり。
 
 『いにしへも今も、高きもみじかきも同じくて、其もてあそびものかわらぬになん』
 と、平安の昔から現在(文政12年、1829年)までについて言われています。
 さて、「石などり」とは、石なごのことです。「ふりつつみ」は、現在のでんでんだいこの二段になったおもちゃで、ごくちィちゃな赤ちゃんぐらいな子供のおもちゃです。「こまつぶり」とは、こままわしのことだそうです。
 
 私事(ひとりごと);
 平安の昔から太平洋戦争ぐらいまで(約850年ぐらいの間)子たちの遊び道具は、形もやり方も呼び名までもが少しもかわっていなかったのですが、この60年間ぐらいの間に全くそのよう様相が激変しています。石なごなんて遊び方、今の子供は、もし知っていたとしても、興味は覚えずやらないと思います。生活環境が変化したのです、良いことか悪い事かはわからないのですが。
 なお、石なご遊びは、宮内の遊女の遊びとしてはやり、それが、瞬く間に全国の遊郭に広がって行って、遊女の遊びとして、江戸の末期頃から流行り出したと言う事を、かって聞いた事があります。ただし、遊郭では、石ではなく、小ぶりな胡桃の実を使ったそうです。

阿曽女(あぞめ)

2007-06-22 14:42:54 | Weblog
 お竈殿で2人のおうな「あぞめ」がいて、一人は東側にある「かなえ」のかかったお竈に枯れた松葉を焚き、もう一人はそのかなえの側で、上にある甑(こしき)の中にお米を振り散らすと、竈が鳴り轟くのである。
 この「あぞめ」というおうなは、備中の国の岩屋山の麓の阿曽と言う村の、女の人がなることに決まっています。阿曽の村から来た女だから「阿曽女」と言うのだと誰もが信じてきたのです。
 が、これについて、我;高尚先生は、次のようなお考えを「松の落葉」に書かれています。
 本来は、この阿曽女は「阿佐女」ではなかったかと言われています。
 ある本(江家次第第十五の巻)に阿佐女、主水とも、天皇の夕暁の御膳を執り行う役人であったそうです。吉備津神社も、上古(上つ代)からの宮所で、直会(なおらい)などという古くからのしきたりが、未だに、まだ、残っているぐらいですから、元々は天皇家の慣わし「阿佐女」が、この宮に取り入れられて、いつしか、それとよく似た「阿曽女」と言う言葉が出来上がり、今日に至ったのではないかと思われる。と。
 『のちの人おもいさだめよ』と書かれています。

直会(なおらい)

2007-06-21 21:31:22 | Weblog
 吉備津神社の竈殿での鳴音の高低によって、吉兆を占ってもらいます、その時、直会のお米が御参りした人に授けられます、このお米を「直会」と言っています。
 元々、この言葉は、高尚先生の師である宣長さんは「なほりあい」がつまりて「なおらい」となったと説明しています。神事が済んで、みんな正しい元々の姿に直しあうと言う心なのだそうです。この「なおりあう」ところに、吉兆を占ったお米を賜ることから、その賜ったお米の事がやがて「なおらい」と言う事になったようです。「奈保良比」である。
 竈殿には東西に二つの竈があり、東の竈の上にある甑で、米を打ち振れば、竈は鳴り轟くのである。それが終わり、竈に打ち散ったお米をかき集めて「はふり」(神官)が、それを紙に包み、「直会」として、願主に与えるのだそうですが、今は、あらかじめ用意していた何がしかのお米を一人ずつの願主に手渡しています。その前に、「あぞめ」がその日に占ったお米の4,5粒を一人ずつに手渡します。

孫が1歳になりました

2007-06-20 19:25:38 | Weblog

 我孫直弥が一才になりました。
 まだ、歩く事は出来ませんが、椅子など物を伝った歩きは上手に出来ます。歯上が4本、下が二本生え、とても可愛い歯です。虫歯にならないように注意してやりたいものです。

 小学校二年生ている保育園年長組みの上手な一歳の3人の可愛い孫達に囲まれ楽しい毎日です。


左前 ー松の落葉よりー

2007-06-20 10:58:09 | Weblog
 左前、こんな言葉を今の若い人は聞いたことありますか。
 辞書によりますと、着物を着るときに、普通より反対に、左のおくみ(衽)を手前にして着る着方です。左前に着ると運が悪く、経済的に苦しくなると言って、やってはいけないことにされていました。
 この風習について、我、高尚先生は「松の落葉」の中で、次のように言われています。
 大むかし、わが国では誰でも左襟にしていたのだそうです。が、奈良時代になって、唐の国では、左衽は「えびすなり」としているのを真似て、日本国民総てを右襟にするよう命令したのだそうです。
 それ以後ずっと右襟の着方が洋服が一般化する明治まで続いたのです。
 中国では、左より右が上で、左衽を、大変卑しい野蛮な非文明者「夷」が行う事であるとして忌み嫌われていました。その考え方がそのまま日本に入ってきて、日本の風習にもなったとのことです。

初穂

2007-06-18 21:16:51 | Weblog
 延喜式の新年祭の祝詞(のりと)の中にも、この初穂という字が見えます。ごく最初は、その年に出来た稲穂をまず神に奉ったので、「初穂」と言ったのだそうです。神を敬い奉った為の行事であったのですが、それが段々と時代が移って、稲だけでなく、自分たちが作ったものを、まず神に捧げてお祈りをしたのです。それが更に変化して、お金など、自分で作ったものではないが、ただ、なんとなく、神にお供え奉るものを、総て初穂というようになったのだそうです。

神社でお祓いを受けると言う事ー松の落葉より

2007-06-17 17:59:18 | Weblog
 人は、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と神産巣日神(カミムシビと)の二柱の大御神の産霊(ムスヒ)のみたまより出たのだそうです。
 だから、人のこころは、どこまでも清く、明るく、真っ直ぐで、正しいものですが、たとえば、清く透明にきれいに澄んだ水でも、錆が入ったり、汚い物が入り込んだりすれば、直に、濁ってしまうのと、同じようように、如何に清く正しい人であっても、世の中の鬱陶しい多くの世事に影響されて、汚くなり濁って、よからぬ事を仕出かすのもです。
 だから、時々神社にお参りして、神代の昔から、「はらへ」をしてもらっているのです。即ち、汚くなり、よからぬ事を企てたりするような心をすっかり祓いすてて清き心に返し、自分の身の行いの曲っている多くの「まがごと」をいさめて、元の真っ直ぐな心に直すのです。
 これが神の道の教えであるのだそうです。

 私事(ひとりごと);
 現代は、そんな本来の「みょうじんまいり」と言う意義を忘れて、お賽銭を投げ入れて、自分の願いを叶えてくださいとお祈りだけをしています。
 一度でいいから、自分の汚くひん曲った心を、お祓いを受けて、本来の清く正しい直きこころにしてもらって見ませんか。

名神明神大名神

2007-06-15 21:17:52 | Weblog
 名神とは、わが国の沢山の神のうちの一番有名な優れた神様を“名神”みょうじん、と、言うのだそうです。高速道路の名前ではありません。平安時代の延喜式には「名神大」としるされて尊ばれていました。全国に203社あります。
 ちなみに、吉備の国では、備前の安仁神社(西大寺)、備中の吉備津神社、美作の中山神社(津山市)の3神社しかありません、備後にはないそうです。
 高尚先生によると、この吉備津神社に参ることを、土地の人々は、昔から「みやうじんまいり」と呼んでいたと言う事です。
 

信偽

2007-06-13 19:03:32 | Weblog
 社長や重役達が深々と首をたれて、「ごねんなさい」と謝っている写真が2,3日前の新聞に載ってました。もううんざりです。何回、こんな同じような写真を我見ればいいのですか。もう大概にしてと叫びたような衝動に駆られるのは私だけでしょうか。
 もう10年ぐらい、いや20年ぐらい前からでしょうか、次から次へと、連続で、まあ、よくもこれだけ続くもんだと呆れ返らずには居られないほど沢山見てきました。ふるくは森永から始まって、三菱自動車、雪印、不二屋、東京電力や中国電力、つい最近のコムスンまで、まだまだ沢山あったので覚えきれません。おおそうそう「ほりえもんさん」も、「あっしをおわすれじゃござんせんか」と言いたそうです。まあ、この世の中、嘘や欺瞞で満ちあふれていそうです。
 かと思えば、「・・・水」で、やましいところは一つもないといいながら自殺した代議士やそれを臆面もなく援護してやまない人。また。何処までもといいながら、それを追求できないで終わらせてしまうていたらく。これが「美しい国」でしょうか。

 まあ、世相の愚痴はそこらあたりにして、わが高尚先生もこの信と偽について述べられています。(松の落葉より)

 『よい神様は決してうそ(いつわり)は言わないのだそうです。例の大穴牟遅神オオナムチナノカミ(大国主命の又の名)は、兄弟の八十神の悪しき神にしばしば偽りを言われて随分とつらい目に合われました。でも、後には、だまされた神が栄え、八十神は衰えます。人の世も、これと全く同じで、偽りばかりを言って人をたぶらかし、謀れば、その当座は非常にうまくいって好調のように見えるが、ついには悪い結果しか出ないということだ。一向にいい事はないのです。
 これから見れば、人の{こころのまこと}こそ最も大切な人の生き方です。「うえなくとうとき」ことだと言われています。
 昔からこの国では。偽りのある神々もまれにはいたが、大方は「まこと」(信、誠真など)ある神や人達であったようだ。』
 これを高尚先生は「国振りがよい」といわれています。
 
 私事(ひとりごと);
 これが本当の美しい国ではないでしょうか、誰かさんみたいに、ただ、国を愛するという言葉や形だけ整えれば、それで国振りがよくなるわけでもないのに、お粗末だと言わざるをえません。昔はよかったと歎くより仕方がないのでしょうか。