さて、仁徳天皇にお仕えする女官に、何時も、するどい目を注いで、天皇の浮気に異常なまでに注意していた磐姫皇后(いわいのひめおおぎさき)には、当然、吉備の国の美女「黒日売」に対する天皇の関心が当然分かるはずです。
そんな時、天皇は、黒日売に、宮中に上って仕えるように伝えます。
若し、その天皇の言葉に従って宮殿に上がろうものなら、磐姫皇后の如何なる仕打ちがあるかわかったもんではありません。そこで、黒日売は、自分の国、そうです「吉備の国」に、船で逃げ帰ります。
仁徳天皇は、その船出する黒日売を宮殿の高殿に上って見送ります。その時に御詠みになった御歌が
沖へには 小舟連らく くろざやの まさづ子吾妹 国へ下らす
というのです。
「黒い鞘に入った鋭い刃物のような、小股の切れ上がった美しく賢い吾妻黒日売が自分の国へ帰っていくことよ」と、その解釈をしているのが普通ですが、中には、契沖のように、「久漏邪夜能」と書かれている字を「くろざきの」と読み下して、吉備の国の黒崎と言う土地だという解釈をする人もあるようです。
なお、「黒崎」と言う地名は倉敷には2か所あります。中庄の銅山があった付近と玉島の港の西にあります。その他、矢掛町辺りにもあると聞いたのですが?誰か知っている人はいませんか
「夜」の字は「や」でしょう。「き」とはどうしても読めませんね。契沖は「夜」は「岐」の誤りだと言うのです。はたして、どちらが本当でしょうかね?歴史とは面白いものです。どうにでも解釈ができるという証拠なのでもあります。
私としては「くろざき」と、読んだ契沖に軍配を上げてあげたいです。国と言う字がありますから、その位置を示したのではと思います。
当然。后の嫉妬深い事を天皇は知っていたはずです。その后を小股の切れ上がったなどと言う言葉で、それ以上、挑発するはずがありませんもの。仁徳天皇は歴代の天皇で一番の慈悲深いお方であられたのですから。
備中国分寺の東にある通称「黒姫塚古墳」は、この「黒日売」とは全く関係がありません。念のため。
そんな時、天皇は、黒日売に、宮中に上って仕えるように伝えます。
若し、その天皇の言葉に従って宮殿に上がろうものなら、磐姫皇后の如何なる仕打ちがあるかわかったもんではありません。そこで、黒日売は、自分の国、そうです「吉備の国」に、船で逃げ帰ります。
仁徳天皇は、その船出する黒日売を宮殿の高殿に上って見送ります。その時に御詠みになった御歌が
沖へには 小舟連らく くろざやの まさづ子吾妹 国へ下らす
というのです。
「黒い鞘に入った鋭い刃物のような、小股の切れ上がった美しく賢い吾妻黒日売が自分の国へ帰っていくことよ」と、その解釈をしているのが普通ですが、中には、契沖のように、「久漏邪夜能」と書かれている字を「くろざきの」と読み下して、吉備の国の黒崎と言う土地だという解釈をする人もあるようです。
なお、「黒崎」と言う地名は倉敷には2か所あります。中庄の銅山があった付近と玉島の港の西にあります。その他、矢掛町辺りにもあると聞いたのですが?誰か知っている人はいませんか
「夜」の字は「や」でしょう。「き」とはどうしても読めませんね。契沖は「夜」は「岐」の誤りだと言うのです。はたして、どちらが本当でしょうかね?歴史とは面白いものです。どうにでも解釈ができるという証拠なのでもあります。
私としては「くろざき」と、読んだ契沖に軍配を上げてあげたいです。国と言う字がありますから、その位置を示したのではと思います。
当然。后の嫉妬深い事を天皇は知っていたはずです。その后を小股の切れ上がったなどと言う言葉で、それ以上、挑発するはずがありませんもの。仁徳天皇は歴代の天皇で一番の慈悲深いお方であられたのですから。
備中国分寺の東にある通称「黒姫塚古墳」は、この「黒日売」とは全く関係がありません。念のため。