私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

仁徳天皇と黒日売③

2009-07-16 13:22:51 | Weblog
 この地、黒日売の岐備(きび)の地を離れがたく思っていた仁徳ではあったのですが、いよいよ別れの時がきます。
 その別れに際して黒日売は歌います。
 「夜麻登幣邇(やまとへに)斯爾布岐阿宜弖(にしふきあげて)玖毛婆那禮(くもばなれ)曾岐袁理登母(そきおりとも)和禮和須禮米夜(あれわすれめや)」

 大和へに 西風(にし)吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居りとも 我忘れめや

 「雲が激しい西風に吹き飛ばされて散り散りなって、西の方、大和の方面に行くように私の元から去っていかれるあなた、私はあなたのことを決して忘れません」と、言うぐらいな意味です。
 
 若菜摘みの時の天皇の御歌とは違って、随分と単純で形式的な別れの歌のようにお思いになられませんか。
 「我忘れめや」。そうです。「私は忘れることがありましょうや、いや決して忘れません」と、いうのです。ただそれだけの歌でしかないのです。どうしてもあなたの御側を離れたくない、別れたくないと言う女の強い思いがこもった歌ではないように思われます。心が少しも入ってはいません。
 「本当に私を愛しているなら何とかして欲しい。ああ別れ行くあなたが恋しい。  別れたくない」
 と、言うような強い黒日売の心が、この歌からは伝わってはきません。
 「はいさようなら。では、お元気で、あなたのことは忘れませんよ」というぐらいの、ほんの軽い気分の、単なる子供の別れのようなような感じが、私にはして仕方がないのですが。
 「和禮和須禮米夜(我忘れめや)」と、いう部分が、この歌の頭にあったならまだ解釈は違ってくるのですが、最後に形式的に付けたしたような感じがして、
 「あなたもお元気で、私もここ吉備の国で元気に生きますはよ」
 と、いっているようです。

 この辺が、応神天皇と兄媛との別れとの違いがあるのです。ただし、この歴史は日本書紀にあるだけで、古事記には出ていませんが。