私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国学者、千楯の記録

2011-05-31 09:49:54 | Weblog

 城戸千楯は、只余震の回数だけではありません、その時々の人々の動きも書いているから興味が余計にそそられるのです。例えば
 
 「三日終日何方ともなくドウドウと鳴動地震やまず、折々大きなるは八九十遍にやあるらん、数は覚えず其度に人々肝にこたえて恐るゝ事世間一統なり。今宵も大道にて夜を明かす、盗賊火附又は重て大地震ゆり侯などゝ、浮説益甚敷物騒なり、二日夜も今夜も近辺の藪を求め、又は賀茂河原東西の野辺へ、出る人も甚おびただしくあり」

 と。
 風評と云いましょうか、あらぬ噂がしきりと流れたという事が分かります。文政13年です。マスコミ等による報道が全くと言っていいほどなかった時代です。噂が独り歩きして、自分勝手な想像がそこら辺りをやたらに飛び交い、「浮説益甚敷物騒なり」のは当然だと思います。京の町中の人々の右往左往した様子が手に取るように分かります、騒動そのものであったのです。
 「此の次は、これ以上の大「ゆり」が来るなどと云う、とんでもない噂までもが飛び交います。当然、身の安全を考えれば、人々が近所の藪をめがけて殺到しただろうことは想像がつきます。さらに、その上に強盗や火付の噂もです。尋常なる右往左往ではなかったと思われます。
 でも、何はともあれ、「命あってのものだね」とばかりに人々が賀茂の河原に押し掛けて行ったのは当然な事だと思います。家屋の倒壊などによる圧死や怪我などにはあいませんもの。まして、現在のように避難場所など指定はなかったのですから。
 
 当時の京の人口は30万ぐらいだと言われています。その内のどれだけの人が河原に避難したのでしょうか、兎に角、河原の両岸はどこも大変な混雑だったと思われます。「甚おびただしくあり」としか書かれてはいませんが。


城戸千楯の記録

2011-05-30 12:07:30 | Weblog

 文政13年の京都の地震に付いて、城戸千楯はその記録を国学者流に、発生した7月2日以降その地震が収まるまでの約20日間の貴重な記録を残しています。

 まず、余震の数について、「・・度ばかり」と大体の回数に付いて記録しています。

 地震が起きた翌日3日から4日の朝にかけての余震に回数に付いて、次のように書き残しています。
 この日は「八、九十遍にやあらん」と、やく8,90回と云う風に記しています。
 四日は「昼夜にかけて四、五十度にも及ぶべし」。
 五日目は「二、三十度斗なるべし」。
 それが六日になると「昼夜かけて十二、三斗」。
 七日八日は「昼夜七ツ八ツ斗づゝ、
 八日夜余程大きなるゆり五七度に及ぶ、夜寅の刻斗り也」。
 九、十日頃から十四日まで「今日に至り大小はありながら、一昼夜に五ツ六ツ、或いは三ツ四ツづつ地震す」
 と。

 次に余震の回数が書いてあるのは二十三日で、「昼夜三度斗地震」と。此の間は体に感じた地震はなかったのでしょうか書いていません。20日ぐらい経ってからようやく落ち着いたのでしょうか。

 それがどうでしょうか、今回の東北地方を襲った巨大地震では、4ヶ月も経過しているのですが、未だに余震の報道があり、「東北地方ばかりをそんなにいじめなくても」と云う思いにかられている現在です。そんな事を考えると、今回の地震は、今までで、日本の歴史上から云っても、最も大きかった地震ではなかったのでしょうか。

 あの神戸の大震災の余震は発生から何日ぐらいして終息したのでしょうかね。記憶にはないのですが、おそらく1ヶ月や2ヶ月は余震が続いていたのではないかと思われますが???


奇妙奇天烈な地震時のお呪い

2011-05-29 08:40:37 | Weblog

 京都の町中です。文政13年と云いますから、西暦で云いますと1830年の事です。
 此の京都での地震の様子を城戸千楯は書いています。

 「諸人申合せし如く、頭に伊勢大神の剣御祓をさし、又兜の御符等を髪の曲に結付る事、京洛中同様也。又京中井水は八日頃迄濁れり。」

 とあります。

「頭に剣御祓をさし・・・・・」と云うのは、京都中のほとんどの人々が、それぞれの家々に祀っているお伊勢さんの剣を形をした御札を頭にさしたり、災厄を避けるというお呪いの兜の御札を髷に結ったりして地震時の災難除けにしていたというのです。剣御祓と云うのは剣の形に切ってある小板の御札です。小さいものでも5cmぐらいはあると思われます。そんなものを頭にさして地震除けにしていたのです。それぐらい地震に恐怖心を抱いていたかと云う事が分かります。江戸では、そんな奇天烈な風習事があったとは聞いていません。もしかして、こんな風習は京都だけだったのかもしれませんね。

 なお、此の地震の影響で、井戸水が1週間ほど濁ったとも書いています。水道設備はなく、総ての家は井戸を使っていたのですから1週間もの間濁っていたのですから人々は困ったであろう事も予想されます。


震度5程度の地震か

2011-05-28 09:44:43 | Weblog

 此の時の地震の震度についてですが、家屋の倒壊はなく、只、落ちてきた屋根瓦によって死傷者がおびただしく出たというのですから、大体、震度五程度のものではなかったかと思われます。それに対して方丈記にある「ないふる」と記された京都を襲った地震は、家屋の倒壊に伴う火災等も発生しているので、七程度の神戸を中心とした兵庫県南部の地震と同程度の震度があったのではないかと推定しています。

 今回のような震度九何て希有な激震の地震ではなかったにせよ、この文政13年の城戸千楯が記録した地震は、その後の余震はについても、今回のような規模ではないにしても、次のように、相当長く続いたと記されています。

 「・・・・・・さて、打ち続きて暮れ時より夜に至り、只ドウドウと世間鳴動して、最初のほどにはあらねど、動りつづけて三日曙の頃に至りて少しおたやかなりぬれば、皆々少し人心ちになりぬれど、猶ドウドウと何方ともなく鳴動止まず。此の二日の夜の京中大道に畳を敷板にならべ、飲食等此所にて皆相したためたり、種々の浮説まじなひ等、又は盗賊の噂等かまびすく、町役の人々は火事装束にて夜廻りをし、火の元大切の事申合す。・・・・・」
 
 と書かれています。
 
 家の中だと、何時、揺り戻しがあるか分からず、人々の大方は畳を道に出して寝たというのです。食事もその道でしたのでしょうか。「相」とありますから、お互いさまだと一緒になって食事を取り合っただろうその光景が見られたというのです。
 此の事は、今回の東北地方大地震でも、あの神戸の時でも同様な行動が生まれていたのです。と云う事は、日本の歴史が始まった時ぐらいから「災害にあったのはお互い様だ。みんで助けあって生きて行こう」という相互依存の社会が出来上がっていたという事です。他の外国の国では、決して、見られる事が出来ない日本独特な特色をもつ社会構造だと思われます。見知らぬ人とでも安易に結びつく事が出来る社会の横の絆の深さだろうと思われます。

 又、千楯は、今ではすたれてしまったのですが、地震の時に、当時の誇り高い文化の中心地「京都」でも行われていた、誠に奇妙奇天烈な風習も書き残してくれています。現代社会では考えられないような風習があったと云う事も分かります。


紙魚室雑記

2011-05-27 10:27:05 | Weblog

 藤井高尚の盟友城戸千楯か紙魚室雑記に書いた文政13年の地震に付いてその内容をお知らせします。

 7月2日「申時」と云いますから、今の時刻にしますと、大体、4時頃だと思います。江戸流にいうと七つ時です。当時、主に、江戸の流行り唄だったようですが、地震のあった時刻で、それが何の前兆であるかに付いて、次のような歌が歌われていたというのです。

 「九は病五七が雨に四つ旱六つ八つならば風と知るべし」と云う歌です。このうち九の病と云うのは流行り病になり、五つ時、七つ時の後は雨になると言われていたらしいのです。式亭三馬の浮世風呂に書かれてあるのだそうです。

 これを千楯は
「・・・・普通の地震一ゆりせしか、彼歌にいへる五七は雨にやなるらんなどいいもあへず、忽ち風荒き船に乗れるが如く、大に震ひて鳴動おひたゝしく、四五十ゆり震ふ物がたちまち遠近の家土蔵、万物勝れ落る音も諸ともに、震動すれば、今は諸人たまりもあへず、吾常に頼む神仏を声をあげて唱ふるもあり、只泣きさけぶもありて、おほかたに大道へ逃出、また逃出んとして土蔵の大輪瓦等の落るにうたれ、速死怪我人等おびただしく出来ぬ。」とあります。
 ここに記されているように、瓦などが飛び散り死人やけが人が出たとありますが、「方丈記」にある様な大火事は起こらず、それに伴う死者も余り出てはいないようすです。此の時に記録した震度は、いったいどのくらいだったのでしょうかねかは不明です。即死の事だと思われますが、速死や怪我人は「おびただしい」と書かれています。
 続けて、彼はこの地震の後にあった余震に付いても記録しています。

 今朝の新聞によりますと、1586年の天正大震災では福井地方には、山のような津波が記録されたという書物が見つかったと報じられています。吾吉備の国は、地震の被害なんて、決して起こらないだなんて油断してはおれません。何処にいても、いついかなる時に、予期なしに、突然に襲って来るのが地震なのです。寺田寅彦ではないのですが「忘れた頃にやってくる」のです。

 


吉備の中山はこんなに美しかった

2011-05-26 10:33:52 | Weblog

 昨日、「明日からは又雨模様です」と云うニュースに誘われて、久しぶりに吉備の中山に登りました。その美しさをどうしても皆さんにご紹介したくて写真に撮ってきましたので、「城戸千楯」は明日に廻しますので宜しく。

              

                         

                                                         

                                         

                           

          

                    目に青葉  吉備の中山  神さびて                  備りょう

 

 

 

 

 

 


城戸千楯

2011-05-25 09:43:36 | Weblog

 城戸千楯についてご紹介します。昨日も書いたのですが、江戸後期の京都のお人で、吾が藤井高尚と一緒に本居宣長の弟子として、国学を勉強した人です。

 さて、今朝の新聞でも報道されていたのですが、3・11の地震は大変大きな災害として日本を襲った天災です。そして、また、原発も、その影響を受けて大きな被害を受けました。これも、その天災の一部であると思っていたのですが、日に日にその状況が判明していくに従って、天災と云うよりも、その後の処理の判断ミスによる人災の部分が大きいのではないか報道されています。
 熊本の原田正純医師のお話も今日の朝刊に載っていましたが、それらを読むと、いままでは、それが正論であるかのように報じられていた事が、どうもそれすら誤っていた論理だという事を知らされ、何も知らない国民としてはとってもやりきれない気分です。又、それを、得々と、一方的に、「これこそ正義である」と報じた新聞にも大きな責任があるのではにかと思われます。権威主義に陥っている日本社会独特の弱点であろうと思われます。学校では、少数者の意見を大切にするのが民主主義の根本だという事を、重々教えられているのにも関わらずですが。

 5月16日の朝刊の朝日歌壇の欄に、名古屋市の諏訪兼位氏の投稿短歌が載っていました。

            ・ 三月に 安全唱えし 識者らは
                       いずこに消えしか 泡(あぶく)のごとく

 どうでしょうかね。この歌、最近の最高傑作のひとつではないでしょうか。私はそのように考えていますが。

 まあ、そんな思いがしないでもない今朝ですが、この地震に付いて、江戸期には、どのように書かれてきたのか知りたいと、地震発生以来、捜していたのですがなかなか見つかりませんでした。なお、鎌倉期の鴨長明の方丈記には「また、おんなじころかとよ、おびただしく大ないふる事はべりき」とその様を詳しく伝えています。
 それが、筆敬氏的に書きますと、「ひょんなげなことからのう、わかったんじゃが」ですが、城戸千楯の書いた本「紙魚室雑記」に書かれていました。

 ちょっと長いのですが、その時の状況が詳しく書かれていますので、3,4回に分けて、ご紹介させていただきます。


司馬江漢に付いての記事が長くなりました

2011-05-24 20:12:22 | Weblog

 1月の中ごろより、吉備津神社のお釜殿から出発して、以外にも、吉備とは全然関わりがなさそうに思われる江戸のお人である「司馬江漢」にまで行き着いてまいりました。それが思わず知らず、何やかやと大変長くなり、気がついてみれば、今は5月下旬です。まだまだ書きたいと思うほどの魅力的な人物ですが、これ以降はあまり吉備とは関係がなさそうですから。ここら辺りで江漢は終わりにしたいと思います。

 江漢の例を見ないでも分かるのですが、一見、何ら吉備とは関わりなさそうな人でも、案外、吉備と深く関わりあるような人が、今まで歴史的に見ても随分沢山居られます。そんな人の内、こんな人は、吉備人の、恐らく100人中100人、誰もが知らないような人が捜してみればいるものです。之からご紹介する人がそうです。

 その人の名は、「城戸千楯」と云う人です。
 どうですか、御存じですか。聞いた事がありますか。ないでしょう。この人は、江戸末期に、京都で、本居宣長の死後、「宣長学」を京都を中心にして広めています。その時、彼と宣長学を一緒に講義した、千楯と盟友の仲だと云われている人が、我が町「吉備津」出身の代表的な人物「藤井高尚」なのです。記録にはないのですが、一度ぐらい吉備津神社を訪ねているのではないかと思われます????それほど仲の良い友達だったようです。

 この千楯には「紙魚室雑記」と云う随筆があります。

今回は、その中の、特に、一つの項目についてのみご紹介します。


 ホトトギス早も来鳴きて

2011-05-23 10:41:49 | Weblog

 5月20日には、ホトトギスの初音を聞きましたが、それ以後。その声は聞いていません。どうした事でしょうかね。

 そこで、今日は、此のホトトギスのことについて、ちょこっと、書いてみます。
 
 ホトトギスは、辞書などによりますと、別名「四手のたをさ」「勧農鳥」「くきら」「冥途鳥」とも呼ばれているそうです。漢字では時鳥、子規、杜鵑、不如帰と書いています。
 この内の一つ、どうして、「四手のたおさ」と呼ばれたかについて、調べてみましたので書いてみます。

 普通の鳥の足には、指が前に三本、後ろに一本付いているのですが、ホトトギスだけには、前と後に各々二本ずつ付いているのだそうです。だから、「四手」なのです。
 更に、その鳴き声を、我々普通は、「てっぺんかけたか」と云う風に聞こえると昔から云い伝えられて、その通りに信じて来たのですが、これも、どの地方かは分からないのですが「田を作らば、はよ作れ。時過ぎれば熟れぬ」と云う風に聞こえたのだそうです。早く田植えをしなくてはいけないと、頻りに百姓の尻を叩く地主さん、そうです、田の持ち主「長(おさ)」、「たおさ」の声のように聞こえたから「四手のたおさ」と命名されたのです。
 また、その事は一方、早く田植えをしなければ秋の収穫に間に合いませんよと云う農業を勧めてくれる、大変ありがたい鳥だとして、「勧農鳥」と呼ばれた地方もあったとかと云われています。
 鳥の名前にすら、それぞれの土地の特色を捉えて命名されたと云う事がよく分ります。
 
 あまり裕福でない土地では、田長が年貢を厳しく取り締まる、来る秋の悲哀に重ねて、その鳥の鳴き音を憎々しげに感じ、「四手の田長」という、決して有難い鳥とは思われないような名前を付けています。それに対して、反対に大変裕福な村では、今年も田植えが始まるよ、秋の収穫が楽しみだというその鳴き音に対して歓喜を感じたであろう呼び名を付けられています。
 所変われば品変わるの好例です。

 なお、この「四手」を「死出」として忌み嫌う鳥であるともされている地方もあるとかや。これもまた裕福でない村での事だろうと思われますが???それは中国の古書には五月を「俗悪月」と呼ばれていた事に由来するらしいのですが、本来は、「五月晴れ」に代表されるような爽快の気分にさせてくれる月だある筈です。

 でも、今年は五月も、また、その「俗悪月」と云う名にふさわしい月になってしまったようですね。20日以来、そのホトトギスも東北地方のお百姓の事を慮ってか、聞こえません。これも不思議なことですが????


これで江漢については終わります

2011-05-22 18:30:11 | Weblog

 一度、確か5月の初め頃だったと思いますが、江漢に付いてのブログは終わりにしますと書いたような記録がありますが、そんなものはどこ吹く風のように長々と書いてきましたが、今日で持って最終にします。昨日ですか、私の家の真正面にある吉備の中山から、甲高い「テッペンカケタカ」の今年のホトトギスの初音を聞きました。5月もあっという間に通り過ぎて行こうとしています。花菖蒲も、漸く、かわいらしい蕾を覗かせました。

 そんな5月の日曜日です。江漢の最後として、その著書「春波楼筆記」に書かれている一番後の記述を載せておきます。

 「人は限りある命を以て限りなく存在せん事を欲す。百歳の人今日死する事を思はず、実に愚と云ふべし。人の耄碌と衣類家具の古く損じ壊れたる物と同じ。用を為さず。・・・・・・・」

 と書いて、世の百歳の齢の者はこの世にとって、誠に、「不用の者乎」と。今なら廻りからこっぴどく攻撃される様な事を平気で書きなぐっています。でも。これには真理はあると思うのですが、どうお思いになられますか。


悟道人

2011-05-21 09:44:39 | Weblog

 筆敬氏から「おめえは、でえれえ、ひつけえのう」と言われるかもしれませんが、もう少々江漢が写楽だという私の論拠をお示ししますので宜しく。

 言わずもがなだとは思いますが、この「ひつけえ」という岡山弁は、「ひつこし」という古語がその形を今にとどめた珍しい形の方言です。真偽の程は定かではないのですが、こんな例がたくさん残っている所は、京都からの同心円上にある岡山と名古屋だと聞いております。なお、この方言は、現代語の「しつこい」に当たる言葉で、「同じ事を何回ともなくくどくど言う」という意味です。

 さて前置きはそれぐらいにして於いて、その論拠を出します。それは、「悟道人」という言葉がキーワードになります。この言葉に付いて、江漢は、あの春波楼筆記に、次のように書いています。

 「古より悟道人幾たりもあり。名の聞えたるものは、真の悟道人にあらず。天竺釈迦は・・・・・・、孔子は・・・・死後に名を揚げたり。真の悟道人は、無極の人と云ひて、名もなく音もなし」
 と書いています。
 
 と、いうことは、江漢も自分で、この真の悟道人、即ち、人の道を十分に悟る人、だと自負していたのです。人としてのあり方を十分に知っている人、後世の人が評するだろうその評価をも省みないで、ひたすら自分の生きざまをま正直に貫いて生きた人ではないかと思われます。名を残すなんて、そんな思いはこれっぽっちもなかったのではないでしょうか。まして、如何に人々からちやほやされたって、本道でもない、当世流行りの浮世絵作家の写楽だなんて、しゃらくさくって、人にしゃべるなんて事は、決してするような人ではなかったと思われます。何せ、自分は真の悟道人だと思っていたのですから。江漢は、無極の人で、何処に居るとも知られないで、名も無く音もなしの人生が理想だったからです。

 

 こんな事を考えて行くと、どうしても写楽を江漢にせずにはおかれないような気がするのですが。

 どうも、余りくどくど書いていますと、「ほんまに、おめえはひつけえぞ。ひっこめ」と、筆敬氏でなくても言われそうです。あと一回だけで最後の江漢を書いて終わりたいと思っています。


江漢は写楽じゃあねえど。

2011-05-20 09:58:01 | Weblog

 昨日、これ以上筆敬氏を煩わしてはと思い、わざわざ気をきかせて「ええかげんなこたあ、ゆうたらおえんど」と書いたのですが、やはり予感はしたのですが、今朝も、又、メールを頂きました。氏は曰く

 「でえてえ、おめえはなにゅう、おもよんなら。江漢が写楽のはずがねえ。もし、そうなら、おめえが何遍も言うておろうが。あの春波楼筆記のなけえ、あのでしゃばり江漢じゃ。どうしても、『わしが写楽の絵をけえたたんじゃが』とか、なんかけておるはずじゃ。わしも、その本を開けて読んでみたんじゃが、そんなこたあ、これっぽちもけえたはおりゃあへんど。というこたあなあ、江漢が写楽じゃあねえという証になろうが」。

 と、のたまわれるのです。彼は、あの斎藤十郎兵衛が写楽だと、どうも頑なに信じているようですから、こんなメールを送ってきたのではと逆推量していますが。

 何遍も言いますが、そんなど素人に、こんな絵が描けるはずがありません。聞く所によりますと、写楽は、ベラスケスとレンブラントと共に世界の三大肖像画家だと言われるくらいの人だそうです。きっと名のある絵描きが画いたものに違いありません。 斎藤十郎兵衛に他にどんな作品があるというのですか。皆無ですもの。
 やっぱり、例え、写楽が江漢でなかったとしても、きっと有名な絵師の仕業ではないかと思っていますが、どうでしょうかね。

 


写楽の絵に変化が現われました。

2011-05-19 09:44:31 | Weblog

 写楽に、また、戻ります。

 その最初は、下図のような大写しの歌舞伎役者を一人描くのが主体でありました。

                       

 それが、暫くすると、右の図のような男役と女役二人の役者の全身を入れた、写楽の錦絵が出廻ります。このように何故、突然に、江漢描く写楽の絵にその画風の変化が見られるようになったのでしょうか。誰も、それについては説明している人はいないように思われるのですが、私は、敢て、それに挑戦して、大胆な仮説を出します。

 それは、ある時、写楽の江漢が、仙台侯のの御屋敷に上がって絵を描いた事があったのだそうです。仙台侯の奥方は公家の久我家かお輿入れでありました。その為、直接、顔は人に見せるのもではないという平安の昔からの古い風習に従って、江漢の描いている絵を、簾屏風の内側からご覧になられていたのだそうです。それに対して、仙台侯は江漢の傍で見学されています。紙を取り出して江漢は「何をお描きましょうか」と尋ねたのだそうです。すると、仙台侯は、背後の簾屏風の中に居られた奥様を慮ってか「美人を認めよ」と仰せられます。早速、江漢は筆を取って和美人の立てる姿を描いたのだそうです。すろと、仙台侯は、続いて更に江漢に、「是の対なる物を認むべし」と仰せられたのだそうです。そこで江漢は、筆を取って、「同じく和男子を図す」。
 そのようにして出来上がった絵を仙台侯は以って、簾屏風の中に居られる夫人の側へ持って行って見せられたのだそうです。すると、夫人やその傍にいたお付きの女官たちから、「まあ、何って素晴らしい絵だ事」と、突然に拍手喝采が起り、この絵にいたく感激されたと、江漢は描いています。
 (春波楼筆記より)

 此の仙台侯の屋敷で描いた経験から、江漢は、きっと、役者一人の顔の大写しもいいのかもしれないが、男女対の絵姿を描くと、より一層人気が出るのではと考えたのではないでしょうか。それから、江漢が画く写楽の錦絵も男役女役2人を対とした絵になったのではないかと、私は推量しています。

 「おめえー、ええがげんにしとかにゃあ おえりゃあへんど。・・・・そげえな こたあ-ありゃせん。ええかげんなこたあ、ゆうたらおえんど」

 と、云うと思う筆敬氏の顔が浮かんできます。でも、この説、なかなかのインパクトがあるんじゃないかと、只今自画自賛の真っ最中です。


高松歴史を楽しむ会の研修旅行

2011-05-18 20:39:54 | Weblog

 高松歴史を楽しむ会の研修旅行に参加しました。今年は「お江」さん関連の滋賀県立安土城考古博物館―小谷城戦国歴史資料館―長浜城歴史博物館を訪ねました。

 中心は、浅井長政とお市の方の終焉の地に新しく出来た「小谷城戦国歴史資料館」の見学です。しかしです。その館に入ってすぐ思ったのですが、「こりゃなんだ」というくらいお粗末その物の資料館でした。300円も入場料を取られて、随分と損をしたような見学でした。ろくな資料もないにもかかわらず、入ってすぐ、ご丁寧にも「撮影は禁止です」という、やや語調を強めての言葉も頂き、「いったいこの資料の中の何を撮影するのか」と少々腹立たしいような見学になりまっした。
 「浅井長政とお市」と同じように、「此の館の運命はいかに」、そんな思いに駆られながら、早めに外へ飛び出しました。外は、5月の緑がそこらじゅうを舞っています。館内での嫌な気分が、急に、晴れ晴れとなりました。

 でも、この地に城を構えて、敢て、お市の兄信長と戦った、浅井長政の心根は、この地に来てみて、初めて何だかわかったような気がしました。長政はこの戦い、決して、勝利することはないと思っていたのでしょうが、それでも戦わずにはおれなかった悲壮な思いが、お城が点在した山の木々の間から5月の空の中に大きく湧きたつように思えました。

  

 何のために研修旅行だったのでしょうか? 多くある視察先の中に、ここを選んだ私たちが悪かったのでしょうかね。


木堂のお墓へ

2011-05-17 17:19:24 | Weblog

 15日は木堂の命日でしたが、何やかやと小用があり、例年、必ずといっていいほど参詣していた墓参りも出来ず、2日遅れて、今日、出かけました。春のそよ風は心地よく私の漕ぐ自転車のペタルに力を貸してくれていました。
 生憎と今日は火曜日です。木堂の生家は休館日のため閉門されて、人ひとりっ子いません、静かそのものの木堂の生家です。その脇を通り、すぐ傍にある木堂の墓地へお参りしました。此処も、今日は誰一人として人の姿はありません。5月の緑が辺りを謳歌しているように思われます。吉備の中山も、静かにこのお墓を見守っています。辺りは一面、みどりの王国です。
 その時、猛スピードで、轟音を残して新幹線が通り過ぎて行きました。

     

         吉備の山 事不躁 緑なり
         木堂の 墓のみどりや 慈悲深かげ
         古家や 緑一色 邪不生                  びりょう

 

 慣れない一句をひねり出してみました。お笑い下さい。