私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

 宮内芝居の外題

2013-02-28 18:42:38 | Weblog

 幕府公認の芝居小屋として、唯一、地方で認められていた宮内芝居ですが、出演する役者の名前は吉備津神社に奉納された扁額にも見られるように数多く知られています。

                 

 しかし、その役者がどんな外題のお芝居をしたかまではその詳細は分かってはいません。しかし、昨日紹介した高尚の真野竹堂に宛てた手紙にはその外題が書かれておりますので、また少々例の通りこ面倒くさそうな文ですが見てください。

 「・・・夜前深更に起き山姥を始而見に参候え共夜芝居は迚も通して見申様の事出来不申・・・・」とあります。「迚」は<とても>と読むのだそうです。この時演じられた外題は「山姥」とありますが、例の坂田の金時と渡辺綱との出会いのお芝居です。念のために。

 この手紙文の中の、「夜前深更」とは、何時ごろのことでしょうか??多分9時か10時ごろの時だと思います。結局、高尚は、この時、自分の身体の具合を考えて、仮設の芝居小屋には、そんなに度々出向くことは出来ないので、その時の出演者「友吉」を別荘に招待するのでお出で願えませんかと云う、竹堂への誘いの手紙なのです。今なら携帯電話でもすみそうなものですが、当時は、1800年代の中頃のことですが、こんな大仰な手紙で、遊びのお誘いをしていたのです。それが、又、大いなる雅の証しだったのです。誠に、大様なる時代だったとしか言いようがありません。


高尚の手紙の文面、「候」と云う文字が5回使われています。

2013-02-27 17:53:24 | Weblog

 朱印地の宮内芝居の出し物に付いては、役者名に付いては、ある程度詳しくその記録が残っていますので分かりますが、どのような外題が演じられたのかはその記録が残ってはいませんので分からないのですが、これも藤井高尚から真野竹堂に宛てた手紙に中に、それと分かる外題の名前が書き込まれています。その文面の書きぶりが、如何にも、高尚らしいというか、候文の面白い所以であるかもしれませんが、お芝居の外題を紹介する前に、その手紙の書き出しの文面からご紹介します。

 “深冷に御座候処御壮栄之御様子は伝承奉賀候老拙今年は身体衰えて持病にて不快多く其上一人にて俗事文雅事日々競凌兼候事にて自然と御疎遠に打過候義に御座候”

 これが、この手紙の書き出しの言葉なのです。まあ、なんとややこしい手紙文ではありませんか。「伝承奉賀候」とあります。<つたえうけたまわりよろこびたてまつりそうろう>とでも読むのでしょうか。何のことはありません「よかったですね」という内容なのです。それから「病気がちで、その上、色々公私ともに忙しく、御無沙汰している」と云った内容のことです。それだけのことが、このような文面になるのです。昔の人は、このような面倒くさいものをよくもよくも書いていたのだなと思うと、感心することしきりです。しかし、此の文面をくわしく読んでみると、誠に、意味深長な、それこそ、今では廃れてしまった文雅な文面であるようにも思われますが、どうでしょうかね。「候<そうろう>」と云う字が五回もこの短い文面に見られるのです。それだけでも感心事です。


宮内の「米嘉」「米吟」と云う名の料亭

2013-02-26 18:26:24 | Weblog

 文化文政時代の宮内には百余戸の料亭旅館が常時営業をしていたのですから、その繁昌ぶりは想像できるのではないかと思われます。現在に残る当時の宮内の古地図によりますと、そのお店一軒一軒の名前が細々と書き残されています。

 そレを見ますと、美津屋、本樽屋、澤屋、米嘉、米吟、妹尾屋、鴨屋、竹屋、吉野屋、松清、柳屋等の名前が書き記されています。前に書きました高尚が和歌を教えた遊女「理加」は「米吟」の女でした。また、高尚が真野竹堂を、吉備津神社境内で催した大阪の歌舞伎役者「中村梅玉」の芝居に招待した時に、その席での酒肴のために取り寄せた料理を「米嘉」に注文したと書かれています。この「米嘉」や「米吟」と云う料亭名は、当時、山陽脇では、一流店として全国的に相当名高いお店でもあったのです。大阪でも、この料亭名は、「知らんものはなかったんじゃ」と、宮内の古老は自慢そうに話しております。 

 


青楼旅館の数は??技芸遊女の数は???

2013-02-24 10:41:32 | Weblog

 文化文政の頃、宮内は「日本二千年袖鑑」にもその名が出ている吉備津神社と共に山陽道随一の遊興地として栄えておりました。今はその繁栄を推し量るものとて何一つ残ってはいませんが、当時の書き物などによって推し量ることはできます。
 料亭は百余戸に及んでおり、そこに侍っておる技芸遊女の数は二百名を下らなかったのではと云われています。春秋の吉備津神社大祭の時だけに限ったものではありません。常時、お客相手の商売をしていた女が、この宮内に200人もいたと云うことです。200と書けば、如何にもその数は簡単に書けるのですが、実際、毎日、彼女たちはこの街に生きていたのです。それもある程度の宮内芸者遊女と誇りをもってです。それだからこそ、彼女たちの悲しい運命の物語が数多く生まれています。それを物語るかのように彼女たちの数知れない無名の墓が片山墓地にあり、今でも喧騒とは、全く縁の切れた静かな此の墓地に、何も物云わないで眠っています。
 そんな彼女たちの周りには、また、それを取り巻く男たちの数も相当であったと思われます。前述の岡田屋熊次郎一家だけでも100名は下らなかっただろうと云われています。また、当時の宮内には料亭だけでも100軒があったのです。そこに働く人達は、最低でも数百人はいたと思われます。更に、神社関係の人やその他の人を含めますと、当時のこの宮内の人口は、このちっぽけな地域に最低でも1500人が息づいていたのではないかと想像できます。それらの人々に、この街で遊ぶために集まっていた地域外の人を加えると、当時、日常、宮内はどのような喧騒の様を呈していた町であったか、想像を絶するものががあったのではないかと思われます。


「日本二千年袖鑒」に出てくる吉備津ノ社

2013-02-23 12:00:01 | Weblog

 山陽道随一の遊興の町「宮内」は、前述のように大変な誇り高き町でもあったのです。吉備津神社があった所以です。
 この吉備津神社は天保15年に大阪で出版された「日本二千年袖鑒」と云う本があります。大変珍しい貴重な本です。(岡山県では私しか持ってはいないのではとおもいますが。)
 この本にはその利用目的として、「日本国中万物の時代をしるし、当年迄の年数を早速に知る書なり」と書かれてあります。第一篇から二十篇迄出されていますが、、第篇に記されているのは伊勢内宮、伊勢外宮、鶴岡八幡宮等と一緒に高松ぜめも記されています。そして、四篇には「吉備津の社」が出ており、千二百五十四前と出ております。それぐらいこのお社は当時から有名であったことには間違いありません。


ご存知ですか「尚歯会」。こんな会も宮内で行われていました。

2013-02-22 18:25:20 | Weblog

 高尚翁のこの書簡にあるように米吟の理加なる女性に付いては、これ以上詳しくは分かりませんが。彼女に歌の指導をした人に、此の外に、手紙にも「御近所の鳥羽氏宅にてなりとも御よみきかせ被下候・・・」書いてありますが、この人は調べてみますと同町内にすむ町医者鳥羽修平という人だと云う事が分かりました。この人も高尚の影響で国学を学び、和歌の指導もしていたのだそうです。このようにこの街に住む多くの人は高尚の影響だと思われますが国学や和歌などについての知識が相当あったのです。そのような文化的な素養のある人達が宮内には当時沢山いたのです。それだからこそ、「尚歯会」等と云った、岡山城下にもなかったような洒落たしかも雅びな催しも、この街では行われていたのです。なお、この消息に出てくる「萬須」と云う人の事はよく分からないのですが、これも多分理加と同様な女ではなかったかと思われます。

 その他、宮内芸者は、単に和歌だけではなく、挿花(生け花)や茶事などの芸道にも大層長けたものもが大勢いたと言い伝えられております。それが他の地方の色街にはない、ここ宮内だけが持っている特色として、「教養高い、しかも気品ある芸者が沢山いる」と、全国に、その宮内の名を馳せさせた原因にもなり、それがこの街を繁昌させる原因にもなったのです。この街にいる遊女は、常に200名を下らないと云われた往時の繁昌を物語っています。その繁昌の一翼を、此の高尚等の有識者が担っていたのだと云うことも出来ます。


理加に歌を教える

2013-02-20 19:38:43 | Weblog

 真野竹堂に藤井高尚が宛てた消息が残っております。
 宮内の中吉野にある米吟という青楼(遊女屋です)に「理加」という遊女がいて、彼女に真野竹堂が歌書を与えております。この文面からは分かりかねるのですが、この人に、高尚が、多分、歌を教えていたのではないかと思われます。そのお礼の手紙なのです。どんな内容のものかは書いていませんが、竹堂が彼女に与えた歌書は相当上物だったのではないかと思います。「題林愚抄之様のもの可宜と奉存候」という字が見えますから。
 また、「萬須」という遊女の名前も出てまいります。「彼女たちはなかなか歌の様子を呑み込ず困っております。百人一首や古今集のようなものから教えようと思っている」と書いております。


宮内における高尚

2013-02-19 10:19:50 | Weblog

 山陽道随一と言われた色街である宮内は昨日も書いた通り他の日本のいかなる遊郭の町とは異なり、大変の気品のある色街として其名を全国に知らしめていたのです。
 それは、此の町に、吉備津神社の宮司であり、その傍らに国学を修め其名を国中に轟かせていた藤井高尚がいました。一人の著名な学者が町にいることにより類が類を呼び、好学の士が高尚の元に集い来て、大いに学問の花が開いたのです。
 高尚の国学・和歌は言うに及ばず、その他、俳諧、 演芸としての能楽・謡や歌舞伎、更に、茶事、生け花迄一般の人々までがそれに親しむような文化的な教養(素養)が整っていたのです。
 今、吉備津神社の前にある龍神池の横に「向井去来」の句碑が建っておりますが、それはこの宮内の町にある文化的風情が、趣向といたほうがいいかもしれませんが、描き出した文化的風景だと思います。
 それを物語る例として、江戸にまでに、山陽の宮内の遊女は<「みそひともじを」をよみこなす>と聞こえたと、地域の古老は話しております。当時は、それくらい宮内の気品の高さが全国に広まり、宣伝されていたと云うことだとおもわれます。

 

 


宮内という町

2013-02-18 18:36:05 | Weblog

 「宮内遊廓は、当時諸国にありたる普通遊郭とは自らその趣を異にし一種の気品を有したるものなり。」
 と、矢尾牛骨氏は、「宮内の今昔」に、そう記しております。遊郭の気品とは一体内を意味しているのでしょうか。それに付いて、再三これまでに書いてきましたので、おわかりになられていると思いますが、吉備津神社に奉仕する社家が点在していたと云うことです。

  此の社家には官位を授けられていた人が、平安の昔から多々あったのです。記録によると、貞観九年に賀陽朝臣と云う人は「従五位下」を賜っております。ちなみに貞観九年と言えば、西暦に直すと、867年です。平安遷都より70年の後です。また、その10年ぐらい前に成りますか、斎衡年間(854年ぐらい)に藤井宿禰高雄という人が正六位下トいう官位を朝廷より賜っていると記録も残っております。

 宮内に遊郭が出来るのは秀吉の朝鮮出兵の折りだと云われていますから、それ以前から、この宮内には随分と気品の高い気風があったは確かです。それがか江戸の中ごろには藤井高尚が出て、吉備津神社の神主を勤めながら、国学の研鑚に努め、その泰斗としてその名が全国に広まり、彼を慕って多くの人がその門をくぐったのである。

 清濁併せ持つ宮内にある宮内遊郭が「趣を異にし一種の気品を有したるものなり」と言われていたのです。

 


宮内遊廓

2013-02-10 22:31:40 | Weblog

此の山陽道随一と言われた宮内遊廓は他の遊廓と異なって一種独特の気品があったのだと言い伝えられております。宮島などの他の遊廓と違って、宮内の遊郭には遊廓の家と隣して、吉備津神社に奉仕していた神官の家が並立して立ち並んでいたと云うことです。清濁併せ持つ町並みだったのです。外では目にすることが出来ない一種独特の町並みだったことには間違いありません。藤井が大きな御門を構えて堂々と軒を並べるように遊廓の町にきらびやかに立ち並んでいたのです。

 


「梅玉来る」

2013-02-09 11:40:10 | Weblog

 また、同じく藤井高尚より真野竹堂に宛てた書状に、先の能でななく、歌舞伎に招待したのも見みることが出来ます。

 「・・・・一団取紛申ながら ちと申上候。一梅玉来るに付ては御見物の思召しも可有ば明夕御同伴申度と心懸け候へば御愛孫御伴可被成此方も孫娘をつれてまゐるべく候・・・・・最も後室御召伴に可参候へば御弁当は此方よりいたし候左様に心得可申候。・・・・座敷も差支がち漸く朝夕とは存立しゆゑ貴家の御繰合をも案じ候事に御座候        頓首               松斎                            
 竹    堂     様

 この中にある梅玉というのは当時大阪の歌舞伎役者名優中村梅玉のことで、宮内の朱印芝居の見物への招待です。


宮内でも能狂言が

2013-02-08 18:18:01 | Weblog

 当時、宮内では藤井高尚や真野竹堂などによって催された演芸の一つに「能狂言」があります。それを証明するような高尚から竹堂に宛てた書面が残っています。それを書いておきます。

 「昨日も御出被下忝奉存候(おいでくださりかたじけなくぞんじたけまつりそうろう)・・(略)・・之処仮小屋にて此雨中には出来不申候哉と存じ侯 明日にても晴れて出来次第見物に参し申可
 一、用意のものの義割合
   弁当、そまつなるにぎり飯
   酒
 右二種拙子方よりもたせ申候・・・・・・・

 能の義老拙は隠居の事に候へば一度にても止まりまじく今一度参り申可・・・・
                                        藤井松斎
   真野竹堂様

このように能見物の誘いの為の書面を見ることができ、宮内でも能狂言の演じられた事が分かります。


宮内における能狂言

2013-02-07 20:05:31 | Weblog

 文政年間の宮内の能狂言と言えば、やはり藤井高尚の名を上げなければなりません。此の高雅なる雅を愛する雅人といえば、先に挙げた真野竹堂と藤井高尚を於いて外はありません。この一人の粋な人の周りには“友を呼ぶ”という例に洩れず、多くの当時の日本の同好の士が集まり来るのです。このように、一方では、遊廓としての下等な遊興に興ずる人の群れも雲霞の如く群れ来たりし色町にも、片や、このような上級な雅の世界に立ち入って、巷の喧騒を嘲笑うかの如き己の教養に酔いしれた人々もいたのです。これが、又、当時の社会では名を馳せ、「宮内」という名を、三弦喧しき遊廓という言葉と共に、いやがうえにも高めさせる原因になっていたようです。

 その例として、藤井高尚の真野竹堂宛の書簡が残っています。


宮内に遊びし風流韻士

2013-02-06 14:53:39 | Weblog

 文化文政時代に、この宮内に足を運んだ風流韻士が頼山陽をはじめとして多くいました。菅茶山もそうです。篠崎小竹もそうです。また、先に挙げた後藤松蔭や鳥越煙村もしばしばこの宮内を尋ねて遊んでいます。
 当時、宮内には真野竹堂という素封家かおって、その元に、それらの風流韻士が集ってきました。
 此の外、この宮内の地元にも、それらの日本を代表するような著名な韻士に引をとらないような風流人もいたのです。歌を詠み、漢籍に通じた人がいたのです。名前は今では忘れられてしまってはいますが、三日市の町医者「矢吹快映」がいました。又、普賢院の住職「大寺方英」もいました。その中心はやはり藤井高尚であり、真野竹堂であったことには間違いありません。


細谷川の桜―桜谷

2013-02-05 11:50:44 | Weblog

 煙村が小嵐山と称したこの細谷川一帯には、高尚が努力して植えた桜の木が100本を越えていたと云われています。そうであったからこそ、それを見た煙村の「酌酒於中山花下東影西和」の言葉も理解できるのではないでしょうか。今の細谷川周辺の風景からは想像もつかないことですが。只、現在では、100本もの桜の景色は思いもよらないことで、それを見ることは不能ですが、十数本の桜が吉備津神社の回廊付近に植えられて、煙村の詠った文政の昔の姿を僅かに留めているに過ぎません。それでも、その十数本の桜の美しさの中に、私の春を一喜一憂しており、百という数字を幻の中にうすぼんやりと感じているののみです。