私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

はたごの絵

2012-08-31 11:41:02 | Weblog

この「東海道名所絵図」には、また、当時のはたごの風景を描いた絵もでています。

こんな風景が日常の板倉の宿にはあったのです。飯盛り女と呼ばれた、旅の男の一夜を世話する女も相当な数この板倉には居たようです。宮内の遊女とは一級下等な女の人だそうです。此の絵に中にいる行燈を下げた女がそうです。

 宮内の遊女を買うことのできない男たちを相手により廉価な値段で一夜を過ごしたと言われています。果たして、その値段はいくらだったかは定かではありません。宮内の遊女の値段は分かっていますので、後から、また、お知らせします。


板倉の昔

2012-08-30 10:49:41 | Weblog

 本陣は“かくありなん“と、昨日書いたのですが、よく調べてみますと、宿場町の往来の様子を書きうつした絵が見つかりましたのでご紹介します。
 真昼間の、板倉の宿場町としての喧騒を伝える絵です。これも東海道「坂下」からです。馬子や旅人の生き生きした活気があふれた絵です。昔の街道筋の様子をご想像いただけたらと存じます。

           

 どうでしょうか。3人馬子と、それを必死に制止するかのような宿の女将さんでしょうか目付きまでもが輝いて見えます。こんな絵もあるのですよ。


備中板倉駅

2012-08-29 09:51:38 | Weblog

 現在の吉備津板倉です。江戸時代には山陽道の大きな宿場だったのです。
 この板倉西町に厳つい観音扉の門を設えた宏大な建物がありました。参勤交代の西国大名の宿泊していた本陣です。宮内から僅かに数町しか離れていません。本陣に宿泊した大名の家臣たちの内、その多くは宮内の宿に配されて宿泊したようでした。
 なお、江戸の昔の板倉の様子を今に伝える物は何一つ残ってはいませんので、その繁昌ぶりは分かりませんが。多分、このような様子ではと思はれる宿場町の様子を書いた絵があります。

    

 

 この絵は東海道名所図会に画かれている鈴鹿峠の下に位置している東海道「坂下」にある本陣の絵です。丁度、山陽道の板倉と同じ規模をもつ宿場町です。その本陣の絵ですから、当時の板倉もこれと全く同じ程度の賑わいを見せていたのではと思います。
 どうど、当時の板倉の繁昌の様子を、この絵からご想像して見てください。それらを説明するすべては、今では、この街からは完全に消え失せているのです。鼓山から流れ来る風と板倉川に映るお月さまの影の外は。


宮内の隆盛は何時ごろか

2012-08-28 11:25:46 | Weblog

遊廓としてこの宮内が出発したのは何時であるかという歴史は
 “確かに之を證すべき古書面としては発見せざれば其年を詳にせざるも口碑その他に就て調査するに遊廓の初と見るべきものは今より三百年を距ル天正の頃ならんとは思はる。吉備津神社は戦国時代より天正年間間で生石(おんじ)郷庭瀬郷撫河郷の外に栗坂徳房鳥羽の三邑を領し、尚之にかへて神社所在地を併せ一萬八千石を領したり・・・”
 と書かれています。
 
 ちなみに江戸時代の足守藩は二萬五千石でした。このことから見ても、戦国時代の吉備津神社がいかに大きな勢力を保持していたかが伺えます。なお、このような一萬八千石もの大勢力を保持した吉備津神社ですが、徳川時代になると、その社領宮内の土地は神社の周りの十一町四反一畝七歩に削られます。それまでの百分の一に削られ、僅か百六十石になります。その結果、それまでは神官の数も三百人の大きに及び、その領地の行政まですべて執っていたのですが、天正以後は、その組織は縮小され、神官は、僅かに八十人となったのです。
 その結果、吉備津神社は、今までのような神社としての力は衰退の一途をたどったのです。それを憂えた土地の人々は、この由緒正しい神社の尊厳が毀れん事を恐れ、その対策として採られたのが、毎年春秋の二回、大市を開き全国から参詣者を呼び、それで吉備津神社の尊厳を保とうと試みたのです。
 毎年三月と九月の二回、向ふ30日間、社頭にて祭典を行い、諸国行人の開店を勧誘して、それに伴って色々な與興を催して参詣人を誘って、神社の財力をそれによって蓄え、その力を保とうと計画して、幕府に願い出て、許可を得たのです。江戸時代を通じて、このような大市を催すような許可は、宮島にも、ましてあの出雲にもなく、ただ、この吉備津神社のみに特別に許された、全国的に見ても大変珍しい催しであったのです。

 


江戸末期の宮内は

2012-08-26 16:14:21 | Weblog

 昭和16年に発行された「宮内の今昔」と言う本です。作者は矢尾牛骨と言う人です。ちなみにこの人はと思って調べてみたのですがよく分かりません。当時の山陽新報に掲載されたらしいのです。

 その書き出しは

 “宮内と言へば岡山県はいふに及ばず広く世に知られて、今の備中国吉備郡真金村宮内なることいふまでもなく西鶴の好色本にも顕はれたるものなり。宮内の名高きは大吉備津彦命を奉祀せる吉備津神社の中山の麓に宮柱太しく鎮座なしませるに因ること云ふまでもなきことながら人の宮内を称ふるものは中国の遊郭地と知られたるに因れり”
 とあります。


江戸の宮内

2012-08-23 18:46:11 | Weblog

 宮内の片山にある墓地の中を行くと、その一角に、注意してみなくては見失ってしまうような、本当にちっぽけなお墓を見付けることができます。遊女小雪のものであると、藤井駿先生が発見されてから、もう50年という時間が経過しています。この小雪なる人物がどんな遊女であったか、その生い立ち等すべてが過去の時の中に消されてしまっており何一つこの里には伝わっていません。せめて私の頭の中でその一部を作りだしてみました。全くのノンフクションです。
 でも、多くの此の宮内の地で命をおとしたであろう遊女と違い、その戒名も出身地もこの墓石には刻まれています。他の遊女とは違う破格の取り扱いを受けた遊女には違いありません。
 それらの総てが過去の闇の中に消されてしまっていたのです。岡田屋熊次郎親分の四天王の一人、万五郎の墓石のすぐ横に立てられているという事実だけで。

 まあ、これも宮内の遊郭の歴史の一部になっていることには間違いありません。さて、この宮内は、今では、そんな昔の華々しい遊侠地であったことを示すような歴史的な遺物は何一つとして残ってはいません。というより、何もに街になっています。今の町並みからは、ここが、かって、広島の頼山陽が書いているような山陽道唯一の遊侠地であったという話を誰も決して信じたりもしませんでしょうし。それくらい過去の面影はなに一つこの街には残っていません。住民が意図的に、この街中から消し去らしたのではないかとすら思われます。完全に消滅しています。ただ往事を伝える昔話だけが残っているの過ぎません。
 誰も関心がなく、それらの幾分でもさがし出し、残そうもする気は、この街からは完全に失われてしまっています。宮内の人からはひどく叱られるかもしれませんが、それが現実なのです。

 このように昔を語る何もない宮内ですが、唯一その姿を今に伝えるものが一つだけありますので、それについて、これから又しばらくお伝えしたいものだと思っていますので、よかったら目を通していただけますと幸いに思います。


小雪物語―細谷の歌 (完)

2012-08-21 09:26:23 | Weblog

 そこへ、ようやく鳴竈会も済んで一段落していたのでしょう万五郎さんが、きくえさんとともどもかけつけてきます。
 「小雪どうした。・・・・各地の親分さん方も、小雪の踊りがもう一度見たいと、随分褒めておられたぞ。どうして死んだ。小雪。・・・・・・林の旦那さんもびっくりするぞ。きっと・・・・」
 といったまま天を仰ぎます。ふと、何を思ったか、急に立ち上がると、違い棚にある袋戸棚から何かの書付を取り出します。
  「小雪の証文だ。林氏さまからお預かりしていたのだが・・」
 と言うと、その紙切れをびりびり、びりびりと細かく細かく引き裂れ、それを両の手の中に堅く握りつぶされたまま、じっと小雪の亡がらを見つめておいででした。
 翌日、普賢院の宥慈住職から『玉樹涼陰信女』という戒名を喜智が頂いてまいられ、慎ましやかな葬儀が、片山の墓地で細々と営まれました。

 時は瞬く間に過ぎ行きます。やれ本宮祭だ、正月だ、夷さまだ、と、言う声が聞こえてきたかと思う間もなく、里中が、再び、美しく咲き出してきた桜の花びらに浮かれ狂います。
 あれ程、大騒ぎした鳴竈会のことも、小雪のことも、今では、もう殆どの人の口から消えうせてしまいました。
 卯月4日、片山の墓地に、お喜智さま、お須香さま、万五郎親分それとお粂さん、それに今年は珍しくくらしきの林さまのお姿が見えます。
 普賢院のご住職宥慈和尚をおむかえして、簡単なごく身近な者だけで、小雪一周忌の法要をしていただいています。
 お喜智さまのお手には、林さまがわざわざ江戸より持ち頂いた一幅の掛け軸がありました。
 林さまのお話ですと、小雪が舞ったあの夜、安芸の宮島からの帰路、たまたま勝川春扇という江戸の浮世絵師の方が板倉の宿にお泊りでした。 宿のお人に勧められたのでしょう、「宮内総おどり」を旅のつれづれに見られたということです。そして、小雪の舞う花魁道中にいたく心を動かされ、その姿を写し取ってお帰りだったそうです。その後、江戸に帰られた春扇さんは、それを「吉備の涼風」という名で錦絵にしあげて売り出されたそうです。それが、又、大評判となり大売れに売れたということだそうです。
 
 宥慈和尚の読経が済んで、お喜智さまは手にされていた林さまから江戸土産として頂いた『吉備の涼風』の小雪の舞い姿のお軸が、出来上がったばかりの真新しい一尺三寸ばかりの小さな小雪のお墓の前に吊り下げられました。その墓石には、戒名の横に、これもまた小さく京都俗名小雪 行年二一才、嘉永六年四月四日寂と記されておりました。
 「お見えかい。小雪さん。小雪さんのへだて心の舞い姿だよ。立派な瘠我慢んの細谷の歌だよ・・・・」



 細谷の清い流れの音がさやけく、吉備の小山に響いて聞こえます。そよそよと初夏の細谷の涼風も吹き下りてきます。
                        完


小雪物語ー無中有

2012-08-19 20:51:26 | Weblog

 小雪の急変を聞き、お粂さんが飛び込んできました。お滝さんも駆けつけます。
 知らせを受けた梁石先生もこられました。ややしばらくしてお喜智さまも駆けつけてこられました。
 「心の臓の病は今の医術ではどうする事が出来ないのだ。1日もと思っていたのだが、よくも3日も命ながらえたのだ。よく頑張ったと皆で褒めてやってくれ」
 と、じっと天井を見つめながら梁石先生。
 お須香が「わっ」と小雪の体を抱き寄せます。お粂さんもお滝さんも小雪の亡がらにひれ伏します。喜智は、小雪の側に居ざり寄り、もう冷たくなっている小さな小雪の手を、自分の体で温めてやるかのように、しっかりと握り締めながら
 「よう踊られましたな・・小雪さん。・・・・・・菊五郎さんはあれからすぐ江戸のお仕事が待っているのだと言われ、お帰りになられました。あなたに是非伝えて欲しいとお話になられました。『どんな名優にも、決して負けることのないような小雪のへだて心を、よくぞ舞いおおせたものだ。美しかったよ。きれいだったよ。いや、それ以上に、「ただ立派だったよ」としか言いようのないような舞だった。・・・その心だけで、形も、何もない虚ろなものを舞と言う人の姿に形を現わすことのむずかしさを小雪はよくぞ舞い果せたね。わたしもどう現わしていいのかはっきりと言い表せない形をよくぞその体で舞い果せたな』と。・・・・・・・・私も、よくぞは分かりませんが、小雪さんの真に迫る「是ぞ舞である」と言う本物の芸を見せてもらいした。瘠我慢かもしれませんが、「無中有」を造り出した芸を見せてもらいました。命を張ってまで、よう頑張りましたね。芸は人の心がにじりでるものですね。ねじれた汚い心を持った人が、いくら熱心に舞ったとしても、真っ直ぐな純な舞は舞えるものではありません。本当の舞を見せてもらいました。菊五郎さんの言われたへだて心とはこの一筋の真っ直ぐな心ではないでしょうか」
 涙を目にいっぱいためて、小雪に、一心に話しかけるように言われるのでした。


小雪物語―最期

2012-08-18 14:05:11 | Weblog

 卯月4日の朝日が、吉備のお山のてっぺんから顔を覗けかけた時です。それまで眠っていた小雪が僅かに目を開きます。お須香が障子越しに差し込んできた朝日の柔らかい光にふっと目覚めた時と同時でした。
 「あら小雪ちゃん」
 と小さく声懸けしました。
 「あ、お須香さん、ここ、どこどす」
 在るかないか分からないくらいの消え入りそうな声です。お須香は小雪の手をしっかりと握り締めます。途端に、にっこりとして、小雪は弱々しく言うのです。
 「へだて心はむずかしゅうおわす、うまいことできへんかったようどす。・・・・・」
 それだけ言うと、又、しばらく目を閉じます。また、
 「あたしは、何か、お喜智さまに抱いてもろうたようなきがしたのどすが、そんなことが・・・・。うれしゅうておしたへ・・・・おっかはんの臭いでし。・・」
 嬉し涙でしょうか、小雪の頬を一筋伝わって流れました。
 しばらく何か言いたげな様子でしたが、そのまま目を静かに閉じたまま動きません。
 「小雪ちゃん、しっかりして」
 お須香が小雪を抱きかかえます。
 「おおきに、小雪は、おかっはんが小さい時からいつもいうてたとおりに、しっかり瘠我慢できました。・・・・・お須香さんありがとう、・・・お世話になりました。それに、お喜智さまにお礼がもう一度言いとうおした」
 とぎれとぎれに、小雪の体に残っている総ての力を振り絞るようにしてそれだけ言うと、小雪の体から総ての力が、スーと抜けるように引いていきました。
 「小雪ちゃん、しっかり・・・」
 お須加は体を強く揺さぶりました。小雪はうっすらと目を再び開いて、
 「ありがとうございました。・・・・小雪は・・・」
 涙が又一筋頬を伝い流れ落ちていきました。これが最期の小雪のことばでした。


小雪物語―鳴竈会

2012-08-17 07:29:48 | Weblog

  宿の主、大阪屋のお粂も、時々、そんなお須香のことが心配になったのか、顔を覗けます。
 「お須香さん、一寸代わりましょう。そんなに根をつめると、今度は、あなたの方が倒れるわ」
 「いえ、大丈夫」
 といって代わろうともしません。
 小雪は、相変わらず眠り続けています。
 翌日に、梁石先生が小雪の容態を見に来てくれましたが、「薬がこなくてね」とおっしゃって、何か難しそうな顔をなさりながら、小雪の手を握られたりしながら、「このまま見ていてくださいな。またくるからな」と、だけ言われて、帰って行かれます。その次の日にも、又、たずねてきたのですが、いつもと同じように、何にもおっしゃらないで、手をとって暫らく小雪の寝息を確かめるかのようにしていたのですが、ふーっと大きな息をひとつして、何も言わないで、帰って行かれます。
 そんな小雪を見つめながらお須賀は
 「なんてかわいらしいお顔でしょう。はやく目を開けて、私がしっかりと守ってあげるから」
 と、何も言わない小雪に話しかけるのでした。

 小雪が舞台に倒れて3日が経ちました。『鳴竈会』が終わり、前代未聞の大賑わいを見せた宮内の街も、大勢の各地の親分さん方が帰国されると、それまでの数日間の賑わいが本当に嘘のように、また、あの平生の片田舎の男たちの欲望の街に戻します。
 「この会で、熊五郎大親分の懐もだいぶ楽になったようだぜ。なにせ、何万両と言う利益が上がったというからなあ。てえしたやつだで、熊五郎という親分は」
 と、これまた宮内雀の噂です。

 時は化政時代です。江戸期を通して一番の華美な庶民文化が展開した時代です。このような鄙の色街でもそれは例外ではありませんでした。


小雪物語―お須賀のおとこだて

2012-08-10 09:21:11 | Weblog

 お須賀にとって小雪は、ほんの1,2回出会ったばかりの大変きれいな若い女でした。会って話してみると、それまでに心の中で我欲ばかり強くて、どうしようもないはしためうだと決め付けていた宮内のあそび女とは随分と違っていることに気付き、大変驚いたのです。その小雪は、自分はあそびめとしての汚らしさ卑しさを、一人では持ちこたえられないくらいに一杯に持った女として、常に控えめに、でしゃばらず、息をするにも遠慮遠慮するするような瘠せ我慢ばっかりしているような女でした。 「こんな女が宮内にも」と、お須香は大いに驚くやら感心するやらでした。だから余計に、愛しさが募って、この若い女のために人肌脱いでやろう、と、言う、お須香独特の体の奥にある男気といいましょうか、何か思いついたら一途に総てのものを擲ってでもそのことに邁進せずにはおかないというおとこだての心でしょうか、そんなものがいっきに噴出してきて、親身も及ばばない世話をするようになったのです。
 自分の目の前の、もう二日間も眠りこけている小雪を、必死になって見つめています。時々、それしかできない自分の不甲斐なさにやりきれないような気持ちにさえなって、片時も目を離さずじっと見続けています。
 小雪は相変わらず眠り続けています。


小雪物語―眠る舞姫

2012-08-09 19:23:50 | Weblog

 大阪屋の離れ座敷に運ばれた小雪は、それから二日間、小息を立てながら深く深く眠り続けました。
  その傍に須賀はつきっきりで介抱しております。
 それまで、お須香は、まして、色街に巣くう女等を見て、いとおしむどころか、何時も、汚物か何かのけがらわしい物で、虫酸でも走るかのように、人でなしの、口にするだけでもいやな者のように蔑んでいたのです。決して、そんな女たちを人並には認めていなかったのです。総て、ずうずうしく欲張りで、自分のことしか考えない、お金次第でどうにでもなるような「転び芸者」と陰口される様な薄っぺらなぐうたらな特別の賤しい女だ、と、決め付けていたのです。
 お須賀は、これまで、一途に誰かを思い入れると言う経験もありませんでした。だから、よけいに、何事にも控えめで、我慢ばっかりするような虔ましやかな小雪のような若い娘がいることさえ知りませんでした。まして、この花町宮内の、しかも遊女の中にいようなどといったことは考えても見なかったのです。でも、そんな女の一人であることにちがいない小雪に対しては、今では、それこそ自分の真の娘にでもするかのように一心に付きっ切りで見守っています。
 何時か、雨の中、濡れながら無心にすげ替えてくれた鼻緒のことによほど心を動かされたのか、それともあの堀家の座敷で見た天女の舞に心を奪われたのかは分りませんが、とにかく、甥坊主の新之介と関わりが一時あったというだけで、今は、小雪、小雪と、恰も、自分の真の娘でもあるかような関わり様です。此の娘無くしてはとうてい生きてはいけそうもないくらいの思い入れようです。
 そんな小雪を、一心に付きっ切りで見守っています。


小雪物語―心の蔵

2012-08-08 09:30:57 | Weblog

 
 小雪が三達に大阪屋に連れ出された後、舞台に残った梁石先生は、喜智に
 「あの人は元々心の臓が悪く、激しい動きをするたびに、いつも痛みが体中を襲っていたのではと・・・・、でも、よくもあの痛みを我慢して、あんな激しい舞が舞えたものだと、感心されられます。・・・・。『へ・だ・て・ご・こ・ろ』とかなんか、途切れ途切れに、あの人は寝言みたいに言っていたのですが、これも心に加かって負担になっていたことは確かです。あれはなんですかなー・・・」
 しばらく考えて、
 「この病を癒す薬と言っても、今、私の手元にはありません。洪庵先生の所では教えていただいたことはあるのですが、残念ですが、この近くにはないでしょう。岡山に行ってもないと思います。林さまを通じて一応はすぐにでも手配はして見ますが。・・・・兎に角、今は、ゆっくりと、ただ休ませる事だけしか、・・・・・・手の施しようがありません」
 「そうですか、手の施しようがありませんか・・・ありがとうございました。できる事なら助けてやりとうございますが。・・・誰か先生を送ってくださらない」
 と、喜智は深々と頭を垂れ、梁石先生をお送りした後、一寸、思案顔でしたが、青龍池の「さえのかみさま」の方にお向きになられ、両の手を合せてお祈りしてから、小雪はお須賀にまかせて、堀家のお屋敷の方へと、「へだてごころ」とか何か、ぶつくさと口の中で唱えるようにして、町の喧騒の中に紛れ込むように歩を急がせます。
 漆黒の日差の山上は、幾分、まだ宵の名残りを残したままの群青の空が広がり、そこには、今にも消えそうな三つ星が行儀よく並んで、冬のそれとは違い、喜智の心の内を物語るかのように細やかに瞬たいています。


小雪物語―眠る小雪

2012-08-07 09:43:24 | Weblog

 梁石先生は、喜智に向かって、ちょっと頭をお下げになりながら、
 「心の臓が大分弱っています。前から悪かったのでしょう。・・・・まず、ゆっくりと休ますことですな。体を出来るだけ動かさないようにそっと運んでください、声も掛けないようにして」
 万五郎親分は明日の賭場の至急の仕事があるとかで、熊五郎親分に呼ばれ、もうその場にはおりません。何か男手が、と言う時のために、例の「三」と呼ばれた若者をその場に控えさせておりました。
 「済まないが、お若いの。この人を運ぶので戸板か何かを持って、手伝いの人も2,3人連れてきてくれないか」
 「へい」と、返事を残して、三は飛び出て行きます。
 「今ゆっくりと、このお人は眠っています。眠らせてください。それが一番の薬です」
 そこに、早くもあの三が、戸板の上に布団を敷き4,5人も屈強そうな若者を連れて入ってきました。梁石先生は、お須香さんのお手を借りながら、素早く小雪を戸板の上に移しました。
 お粂が、三に「大阪屋の離れに」と言うと、戸板の若者の前に立って、ゆっくりと先導していきました。須香も真木も、無言のまま、その左右を護るようにして後に続きます。
 日差のお山は、其の七変化の最後を飾る漆黒へと色を染め変えております。宮内の町は、その漆黒のお山とは裏腹のような不夜城です。明日の賭場への前祝いの為でしょうか、誰も彼もが何か浮き足立つように喧騒な町を町を行き来しております。さっきまで、あれほど「小雪っ、小雪つ」と、絶叫していた人達が、と板の上に寝かされて運ばれていく小雪には見向きもしないで大声を張り上げながら通り過ぎて行きます。


小雪物語―幕切れ

2012-08-06 10:33:44 | Weblog

  突然
 「がんばれ小雪」
 という言葉が、桟敷の誰かから飛んできました。それを合図に、そこにいた総ての人達からあちらからもこちらからも一斉に、小雪へ声援でしょう、拍手が怒濤のように沸き起こります。その波が幾分治まったように見えた時です。これも誰かが、
 「もうええ、そのへんにしとけえ。小雪を静かに眠らせてやろうじゃあねえか」
 と。それが合図であったかのように、あれほど荒れ狂うばかりに騒いでいた人達が、だんだんにその場から、一人去り二人去りして、漕ぎ去(い)にし船の跡無きごとしさながらに、後は、ただ照明用の明かりだけが静まりかえっった会場を、昼間と紛うばかりに照り輝やかせています。その間、お喜智たちは、じっと頭を下げて、観客が一人になるまで見送っていましたが、やがて、幕の内に引っ込むように退き、舞台の左に倒れこんでいる小雪の側にそっと近ず来ます。そこには、もう医師の梁石先生も来て、診察しています。