私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備国児島の仕丁と大倉女②

2009-07-28 16:59:01 | Weblog
 昨日の私が書いたブログに286PVものアクセスがありました。驚きです。50~60ぐらいだろうと思って書いたのですすが。
 そこで、今日もいい気になって、なんやら訳の分からん事を書いてみます。

 私が長々と知ったかぶりして書きつづっている「古事記」は、そもそも、、奈良に都が置かれたいた(710年頃です)元明天皇の世に、太安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録したものです。
 膨大なる神代からの我国の歴史を語る稗田阿礼の言葉を、太安万侶が文字に置き換えたのです。非常に苦労したと、次のように、太安万侶は書いています。

 …ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りし・・・・・・・・・・・、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」
 
 ここに記しているように言葉を文字に置き換えるのです。稗田阿礼は、自分が暗記している膨大な量の記憶を語るだけです。文字までは分かりません。それを太安万侶が文字化していくのです。ただ、発音だけを聞いて文字に直すのです 。いかに難しいことかよく分かります。「字におきてすなはち難し」です。そのこころは痛いほど分かります。天皇からの詔によって書き上げていくのです。誤まちがあってはなりません。いかに、太安万侶が苦労をしたか分かります。

 ここにある「倉人女(らひとめ)」ですが、「倉人」と言う字は、ここ以外にはどこを探してもありません。ただ、太安万侶が、「くら」と言う稗田阿礼のことばを聞き、「倉」と書き記したとしても、なにも不思議ではありません。起こったとしても当たり前だと言わなければなりませんし、若し万一、この仁徳天皇の時代(400年頃です)には、漢字も、まだ、日本には伝わっていません。もしかして「倉」と言う字を知っていて、それを当時は使っていたのかもしれません。
 
  何が正しいか分からない時代のことなのです。それを問題にする方がおかしいのかもしれませんが。

 でも、稗田阿礼が語った「倉人女」は、大宝令にある奈良の都の役所「蔵司(くらつかさ)」の女官と同じように、采女、女孺といった位の高い女官ではないように思えます。、前後の文章から察しても、その位の高い女官に仕えたはした女の一人ではなかったかと思われます。
 誰とでもおしゃべりができ、また、恋も自由にできる身軽な身分の女性であっただろうと思われます。

 古事記ができた、この奈良時代の蔵司の女孺が、官人としてどのような制約を受けていたか、明日は、また、違った方面から検証してまいりたいものだと思いますので、ご期待ください。

 今日はこれにて。

 

 なお、蛇足ですが、大宝令によれば、奈良の朝廷に仕えた官人の内、女性が多かったのは「内侍司」と呼ばれる役所です。皇后に仕える女官です。女孺だけでも100人もいたそうです。次が、この蔵司です。此処にも女孺が52人もいたと書かれています。だから、その下の仕えた女性の数は相当数としか言いようがないほど沢山の人が務めていたのです。