仁徳天皇の「吉備国行幸」といえば大変美しく聞こえるのですが、早い話しが彼の恋人に、奥さんを騙してまで逢いに行ったと言うことです。現代のように新幹線を使うわけではありません。行くだけでも、最低でも10日ぐらいかかります。黒日売のいた山方に行って、
「ああ、やっと会えた恋しい黒日売よ。では、さようなら」
ととんぼ返りで帰ることなんてできるはずがありません。なにせ大和朝廷の一番充実した時代なものですから、あちらことらと各地を行幸しなくてはなりんせん。何日ぐらい、この山方にいたかと言うことは、何も古事記には記録していませんが、まあ、そんなこんなで、少なく見積もっても、最低10日ぐらいは、この吉備国に、黒日売の側にいたのではと考えられます。
ただ、古事記には、
「献大御飯(おほみけたてまつる)」
と書いてあります。
「御飯(おほみけ)を奉る」と、言うこの歴史は日本書紀には書いてありません。ただ、書紀には、応神天皇の段で、兄媛を追って、葉田の足守に行幸された事が載っていますが、その時、兄媛の兄たちが、この応神天皇に対して
「奉饗焉(みあへをたてまつる)」と書かれています。
「献」も「奉」も「たてまつる」と読み、貴人に食事を出すということは、その人に謹んで恭順の態度を示したと言うことなのだそうです。一族がこぞって饗応したのです。
だから1日や2日で「はいさようなら」と、帰れるわけではありません。最低でも10日ぐらいはいたのではと思います。「逢いたい。恋しい」と恋い焦がれていた天皇もそんなに速く立ち去れるわけでもありません。
「ああ、やっと会えた恋しい黒日売よ。では、さようなら」
ととんぼ返りで帰ることなんてできるはずがありません。なにせ大和朝廷の一番充実した時代なものですから、あちらことらと各地を行幸しなくてはなりんせん。何日ぐらい、この山方にいたかと言うことは、何も古事記には記録していませんが、まあ、そんなこんなで、少なく見積もっても、最低10日ぐらいは、この吉備国に、黒日売の側にいたのではと考えられます。
ただ、古事記には、
「献大御飯(おほみけたてまつる)」
と書いてあります。
「御飯(おほみけ)を奉る」と、言うこの歴史は日本書紀には書いてありません。ただ、書紀には、応神天皇の段で、兄媛を追って、葉田の足守に行幸された事が載っていますが、その時、兄媛の兄たちが、この応神天皇に対して
「奉饗焉(みあへをたてまつる)」と書かれています。
「献」も「奉」も「たてまつる」と読み、貴人に食事を出すということは、その人に謹んで恭順の態度を示したと言うことなのだそうです。一族がこぞって饗応したのです。
だから1日や2日で「はいさようなら」と、帰れるわけではありません。最低でも10日ぐらいはいたのではと思います。「逢いたい。恋しい」と恋い焦がれていた天皇もそんなに速く立ち去れるわけでもありません。