私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

仁徳天皇と黒日売

2009-07-14 13:37:59 | Weblog
 吉備の国の「山方」にいる黒日売を仁徳は訪ねます。そこで黒日売一族から大歓迎を受けます。
 と、言うことは、この時は、まだ、吉備の国が大和の国とが大変友好関係にあったからこそ出来たことです。天皇が、何の前触れもなく、堂々と安心して吉備の国まで旅することが出来たのです。
 
 どうでもいいことなのですが、仁徳天皇の後は履中ー反正―允恭―安康と続きますが、安康の後の天皇が雄略天皇です。吉備上道臣田峡の妻「雅媛」を計略によって奪い取ったあの天皇なのです。この頃から吉備の国と大和の国はことごとく対立して、天皇と言えども安心して恋人に会いに行くなんてできる状態ではなかったようです。
 なお、この前、瀬戸内市を通っていますと、「雅媛の里」という大きな看板が立っていました。機会があったら訪ねてみてください。両宮古墳も近くにありますので。

 この仁徳天皇が訪ねた「山方(やまがた)」(其の地が、総社市山手であるとする人もいます)は、別に「山懸(やまがた)」であるとして、この「山懸ノ郡」という地名が安芸の国にあるのでそこだと言う人もいますが、それは完全な誤りです。
 黒日売は「吉備海部直の女」とはっきりと古事記に見えるます。吉備でなくてはんりません。安芸にあるはずがありません。
 
 この黒日売は「若菜摘み」の為に、山の畑(これも山方)に出ます。天皇もそれを追います。 
 此の「若菜摘み」と言う年中行事は、中国から伝わったもので、古代社会から日本にも行われていたのです。例の、セリ・ナズナなどを摘んで、七草かゆ(羹)にして食べる行事です。
 この「人日(じんじつ)」の日の若菜摘みは、最初は、自分の思う人のこれからの吉凶を占う為の日でもあったようですが、段々に、人々の邪気を追い払い、一年の無病息災を祈る行事になって行ったと言うことです。
 
 だから、古事記には、この時の模様を、特別に、「於是煮大御羹。採其地之菘菜・・・・」と書かれています。ちなみに、大御羹とは「ぐだぐだとよく煮た羹」と言う意味だそうです。菘菜は「あおな」と読みます。蕪などの「なっぱ」です。
 そんな若菜を摘む可憐な乙女「黒日売」に、仁徳はそっと近寄り歌を送ります。この日に作った歌を乙女に渡すのも古来から行われていた風習らしいのです。
 古来から日本でも、万葉集などに若菜摘みの歌がたくさん見られます。
 
 ・「春日野に煙立つ見ゆ乙女らし 春野のうはぎ採みて煮らしも」
 ・籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳爾 菜採須児 家吉閑 名  告紗根
 (こもよ みこももち ふくしもよ みふくしもち このおかに なつますこ   いえきかな なのらさね)
 など