私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備国児島の仕丁と大倉女

2009-07-27 10:59:48 | Weblog
 さて、この吉備国児島から難波の都に遣わされていた仕丁(ヨホロ)が、3年の勤めを終えて国、吉備の児島へです、帰る時に、この難波の湊で、偶然にも、大后に仕えている、兼ねてから知り合いの、大倉女と、ぱったりと出合います。そこで、大倉女は、最新の都の噂を聞くことになるのです。
 
 さて、この「倉人」と言うのは、又、どんな仕事をしていたのでしょうか?
 「倉人」という役職名は大宝令の中には見出せませんが、多分、此処にある「大倉」は「大蔵」だと思えます。

 ちょっと、また、この「大蔵」を、例の大宝令で調べてみますと、「大蔵省」と言うのが見つかります。オオクラノツカサと読むのだそうです。現在の旧大蔵省(現財務省)とはその仕事は随分と違い、諸国から上がる雑税(山、川、畑から取れる物、織物、糸、綿など、諸国の人民が献上する物品)を収め、出納迄を管理する役所です。奈良時代の正倉の役目をした役所です。
 この他、ここでは、造幣、掃除、織物、裁縫などの役所がありました。役人の衣服を裁縫する役所が「縫部司(ぬいべのつかさ)」で、この中に「縫女部」があり、京内から婦女を集めて裁縫させていたのです。
 だから、ここに「倉人女」と言う名前の役職が出てくるということは、、大后が、紀の国へ、豊楽(とよのあかり)をするための御綱柏を取りに行く旅行は、2~3人でちょっと行くのとは随分違って、何十人もの官人を連れて大々的に行った、大旅行集団だったことが予想されます。それでなかったら、裁縫までする女を連れては行かなかったと思うのです。その旅も相当の日数をかけたと思います。1カ月、若しくは、それ以上も、優に懸かったと思われます。
 だから、船も1,2艘ではなかったと思われます。何艘もの大きな船団を組んで行ったのだと思います。そんなにたくさんの船です。、その中の一艘ぐらい、遅れていた船があっても当然です。
 その一番最後の遅れていた船に乗っていたのが大倉女達なのです。この大船団より遅れて航行していた船に乗っていて、難波の大湊で、児島の仕丁(よほろ)と、偶然に出会うのです。兼ねてより難波の都で顔見知りの仲間だったと思われます。
 
 「まあ、おしばらくぶりですね。こんなところでお逢いできるなんて」
 「大后様とご一緒だとはお聞きしていましたが。随分長旅だったのですね」
 「あなたは、また、どうして、まさか、あのお話が本当になったのですか。国に  お帰りになるということが」
 二人の会話が始まります。

 思わぬところで逢った顔見知りの二人です。それも若い女性同士です。おしゃべりが続きます。この2人のおしゃべりがきっかけで、また磐日売命の猛烈なる嫉妬が生まれるのです。