私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

磐姫皇后の嫉妬(うはなりねたみ)②

2009-06-30 17:06:42 | Weblog
 仁徳天皇に仕えた「容姿端正」な女性こそ吉備の国から派遣されていた女官です。名を「黒日売(くろひめ)」という女性でした。吉備から献上された采女です。
 古事記には「吉備海部直の女」としか出ていません。「吉備海部直」と言うのは吉備海部直赤尾だとか、吉備海部直難波だとか、吉備海部直羽島などと言った名前は記紀に見えるのですがこの黒日売はどこの出であるかは分かりません。

 なお、これは非常に珍しいことなのですが、吉備津神社の本殿の中の四隅それぞれに吉備津彦命をお守りするために小さな社殿が置いてあります。
 そこの四っつの中で、一番有名なのが丑寅(東北)の方角に置いてある社殿のあの温羅です。その対角線にある西南に置かれている神が吉備海部直の祖「櫛振」と言う人だそうです。多分、この神は、吉備津彦が吉備の国に遠征した当時、命に協力した吉備の国の瀬戸内海を支配していた豪族(海賊の大将?)ではなかったかと思われます。吉備の国の陸上を支配していた豪族「楽々森ささらもり)彦命」と一緒に、吉備津彦命に協力したのだろうと考えられています。
 なお、この楽々森彦命の娘が吉備津彦のお妃になった百田弓矢比売命(ももたゆみやひめのみこと)だと言い伝えられております。

 ままこのようなことから、黒日売は、吉備の国のどの辺りに親が住んでのかは分かりませんが、兎に角、この地方の海を支配していた豪族の娘であることには間違いありません。
 さて、この黒日売は、磐姫皇后の執念深い嫉妬をどのようにして避けたのでしょうか。それについてはまた明日にでも。
 

 ちょっと、あまり大きな声ではお話しできませんが、この磐姫皇后は相当な不美人であったのではないかと言う噂もあります。だから余計に美人に対する嫉妬が大きかったのではないかと言うのです。

  みなさんはいかにお考えですか?
 

磐姫皇后の嫉妬(うはなりねたみ)

2009-06-29 18:24:21 | Weblog
 磐姫皇后(いわのひめのおほぎさき)は大変な嫉妬心の強い女性でした。
 その様子を、古事記には、仁徳天皇に仕えている女性で、普通と違った何か変わったしぐさが見えると、これを、古事記では「言立者」と書いて、「ことたてば」と読ましています。意味は、平常ならぬ、違った異なったことをするという意味です。
 もし、天皇に仕えている女官が、そんな仕草をしようものなら、忽ち、磐姫皇后は、その女性に対して「足母阿賀迦邇(あしもあががに)嫉妬(ねたみたまいき)」と、書いています。
 この「あしもあががに」と言うのは、その嫉妬が余りにも激しいために、足摺りして大いに怒ることなのだそうです。地だんだ踏んで怒るのを言うのです。
 だから、めったに女官たちは天皇に近づくこともできなかったのだそうです。その仕打ちのひどさにです。

 ところがです。ここに一人の美しい女性が登場します。古事記には
  「其容姿端正」と書かれています。これを、古事記流に読みくだすと「それかほよし」と、読ませています。
 「容姿端正」です。ただ単に顔がいいだけではなかったのではと思われます。この時代の美女は性的な魅力も十分兼ね備えていなくてならなかったのです。

 万葉集にこんな歌があります。
 「しなが鳥(とり) 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道往(ゆ)く人は おのが行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は 予(あらかじ)め 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵さへ奉(まつ)る 人皆(ひとみな)の かく迷(まと)へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける(9-1738)」

 要するに「豊かな乳房を持った、すがる蜂のように腰の細い美人が…」と言う意味の歌です。
 そんな美女が天皇の周りにはいっぱいたのです。それを磐姫皇后は怠りなく監視して、もしもの時はいつも嫉妬していたのでしょう。
 大変に人間味のある皇后だったと思われます。どうですか。

 なお、すがる蜂はスズメバチだそうです。腰がきょっと細く尻が出っぱったあの蜂のことでです。念のために。

 
 

磐姫皇后の歌

2009-06-27 19:24:00 | Weblog
 今朝の朝日新聞に、中西進と言う人の「万葉こども塾」で取り上げられている歌がでていました。その歌は

  “ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く 
                 わが黒髪に 霜の置くまでに”
                      巻二の八七番 磐姫皇后の歌
  
 です。中西先生が詳しく解説しておられますので解釈はそちらに回します。

 さて、この磐姫皇后とは一体どんなお人でしょうか。
 まず初めに、その読み方です。「イハイノヒメノオホギサキ」と、大変長ったらしく読むのだそうです。言わずと知れた「仁徳天皇」の大后(ホギサキ)です。
 この人は「古事記」によりますと、「甚多(嫉妬(はなはだうはなりねたみしたまいき)」と書かれている通りに、嫉妬心が非常に強かった女性であったようです。
 その古事記には、そのおもしろさを存分に記するような文が至る所に見受けられるのです。その一つが、この磐姫の嫉妬心に関するお話のところです。
 そのお話は、既に、かって「吉備の国の美女」でお話ししました。
 改めて、この黒日売を、「古事記」を元にして、やや深く2,3回に渡って考察していきたいと思います。

青少年育成協議会

2009-06-26 20:00:21 | Weblog
 こんな会が岡山市にあることを初めて知りました。ひょんなことからその会へ出席する羽目になったからです。市内の各中学校単位で作られているのだそうですから、岡山市には100ぐらいの組織?があるのではと思います。
 さて、今日、高松地区の総会が高松公民館でありました。警察の方からの報告によると、まだまだ、中高生を中心にした出会い系サイトなどによる触法少年が後を絶たないということでした。このような非行に走る若者をどう指導育成するかがこの会の設立目的だそうです。保護・善導のための活動を行うのだそうです。
 「善導」と言う言葉を初めて聞きました。善とは何をどう導いたらいいのでしょう。大変に難しい問題だなと会議中に考えておりました。

 私の会では「こんな活動をやって、こんな成果が上がっている」と、いう例がありますれば是非教えください。

吉備って知っている  185 藤井家の終焉②

2009-06-25 20:59:04 | Weblog
 高雅の暴徒による殺害事件の後、藤井家は紀一郎の失踪によって終焉を迎えます。その中に倉敷の林孚一の義侠心みたいな話も伝わってはいますが。紀一郎で総ておしまいになります。失踪と言うことで、当然、紀一郎の墓は藤井家の墓地には見当たりんせん。どこで亡くなったかも定かではありません。あれほど宮内の代表的な名家として権勢を誇っていたのにもかかわらず、あっという間に儚く滅亡してしまうのです。
 まさに有為転変そのものです。
 「もし」と言う字が許されるなら、此の暗殺事件がなかったならば、近世日本の歴史の中に燦然と輝くような高名な人物として教科書にも載る程の人物ではなかったかと思われるのです。
 他の人物が描けないような広大な計画を彼は持っていたのです。
 まあそんなことはどうでもいいのです。彼は、歴史から完全に消えてしまっています。
 せめて、最後に高雅の字をご覧ください。なんと見事な字ではありませんか。堂々として字の一つ一つに勢いがあり均整がとれています。
       
 (今しばし 待たれて吉備の やまざくら
           咲かば都の 春に見ましを)

 これで藤井高雅(たかつね)を終わらせていただきます。

 つぎは「真野竹堂」について書きたいものだと思っています。資料が少ないのです。今、懸命に探しています。どなたかいいものがござましたらお知らせ願えないでしょうか。

吉備って知っている  185 藤井家の終焉

2009-06-24 15:17:00 | Weblog
 この高雅の死後、宮内の名家藤井家は紀一郎の代で終わります。
 この紀一郎も諸々の苦労を一身に背負って、この事件後も、しばらく生きていたのですが、なぜだだかは分からないのですが、明治の御代になて失踪して行方不明になっています(明治14,5年頃)。だからと、うわけでもありますまいが、藤井家の墓地には、この紀一郎の墓石が見えません。
 なお、現在、この墓地は、吉備津神社によって、いつもきれいに整えられていることを報告しておきます

 「藤井高雅」の本を著された藤井駿先生は、その本の最後に、

 「・・・有為転変は人生の常とは申しながら実に遺憾といわねばならぬ」とお書きになっていらっしゃいます。

高雅の死後、子息紀一郎も明治に入って間もなく何が原因か分かりませんがどこかへ失踪して行へ不明になっていますいます。だから、勿論、その墓も藤井家の墓地にはありません。
 そのようにして、宮内の名門家である藤井家は絶えてしまいます。まことに、俊先生の「書かれた通りの「有為転変の世」を見るようです。高尚先生が愛してやまなかった鶏頭樹園」すらま、誠に惜しいことではあるのですが、今はその跡すら見ることはできません。

天満屋陸上部監督 武富豊氏の講演

2009-06-22 18:43:49 | Weblog
 昨日の武富 豊さんの講演内容をかいつまんで申しますと、大体、次のようになります。
 1)選手の自主性を重んじる
 2)健康管理をする
 3)礼儀作法について考えさせる
 4)我慢してコツコツと練習に励む
 
 「走るのは選手です。監督が代わりを務めることができないのです。彼女たちに、その場の状況を瞬時に的確に判断する適性を、それまでの練習から選手自身で掴み取らせるようにしなくてはいけないのです。それが監督の仕事です」
 と、言われるのです。
 そのために、まず、大切なことが、常に選手の自主性を重んじることだそうです。
 何事でも、選手が自分でどうしたらいいか、常に「考える」環境を与えなくてはんらないのだそうです。いちいち手取り足取り監督に言われた通りをするのではなく、常に自分で考え、練習したり走ったりしなくてはならないのです。これには、あくまでの監督やコーチの助言の元と言うことは基本ですが。
 それから、健康管理についてですが、選手は一日に平均30km以上の練習をこなしています。その練習に耐えるだけの体力、言いかえると、自己の健康を十分に整えて置かなくてはならないのです。そのためには、3度3度の食事をきちんと取ることが一番大切なことになるそうです。
 学校を出たての選手は、寮で出た料理を半分も食べないで、後で自分の好きなお菓子などを買って食べるのだそうです。調理の専門の先生に依頼して作った料理をです。それではやはり走るために必要なカロリーが不足して十分な練習が長続きしなく、結果もよくなならないのだそうです。
 何でも好き嫌いなく食べることができる子が、結局は選手として大成するのだそうです。これは小さい時からの家庭でのしつけから養われるとも監督はおっしゃられていました。
 それから、選手として
 「これが最も大切なことだ」
 と、前置きされてお話しになられました。それは、運動の選手でも結局は人間です。その人間としての基本が十分にできない人は、胸に日の丸をつけるような一流の選手にはなれないそうです。
 そんな一流の選手は「おはようございます」「こんにちは」「失礼します」等と言った日常生活の基本的な礼儀作法がきちんとひとりでに出来上がっているのだそうです。特別、監督等が口を酸っぱくして教えなくても、自然と出来上がっているのだそうです。これも家庭のしつけの問題だそうです。出来る人とできない人があるのだそうです。
 最後に、選手としてこれも大切なことであると、これも熱を帯びたようにお話しになられます。
 「我慢する心」だということです。
 監督自身の体験談をもとに、我慢してコツコツと努力することこそが選手として大成する基本なのだそうです。練習の厳しさだけではありません。一杯にある誘惑総てに渡って耐えうる我慢の力を強く持ってなくてはんりません。
 でも、いかに素質があって努力したとしても、体が丈夫でなかったらどうしようもないのは当然です。ちょっと走っただけですぐ疲労骨折をしてしまうようなような生まれつきの性質を持った選手も多くの中にはいるのだそうです。希望を持って将来を期して颯爽と入社してきた人たちがそのような原因で走れないということを知った時や、何かの拍子で途中で座礁してしまう選手も多くの中にはいるのだそうです、そのような座礁した選手を、どう処するかが監督として一番頭を悩める時なのだと、悲しそうにお話しんなられます。
 「天満屋女子陸上部に入って本当にすばらしかった。よかった」と何年か後にすべての選手に言ってもらうのはなかなか至難の業だそうです。でも、それを監督が目指しているのが当然だということが、その話しぶりからもよく分かりました。
 
 

 拍手喝采の1時間と少しばかりの講演会でした。自分の体験を通してのお話の素晴らしさを改めて思いました。
 久しぶりにこころからの快感の味わえた父の日でした。

 天満屋女子陸上部のますますのご活躍と武富監督を思い悩ます泉の如く吹きいだす数々の難問のできるだけ少なからんことをお祈りして、また、鯉山小学校の児童たちが何事にも、武富監督が言われるように、我慢して努力できる子供になってくれることを願って、この欄を閉じます。

鯉山小学校の教育講演会

2009-06-21 21:17:52 | Weblog
 6月21日、夏至です。また、父の日だということもあって、岡山市の多くの小学校で父親に子供たちの姿をつぶさに見てもらおうと参観日を設けているということです。
 わが街の小学校でも参観日でした。その授業参観の後で、体育館で教育講演会が催されました。
 ひょんなことから、私も、鯉山小学校から参観のお誘いがありますものですからでかけます。そんなことから今日の講演会も聞かせていただきました。

 今回の講師は天満屋女子陸上部監督の武富 豊氏でした。過去3回のオリンピックのマラソンに選手を送り出した監督であるということは知っていましたが、どんなのお人か全然知りませんでした。

 昨日アメリカ合宿から帰国されたばかりだと講師の紹介の時お話しになられていました。

 紹介の後、武富さんは登檀されすぐにお話しになられました。
 「私は話が下手で、どのように話していけばいいか非常に緊張しています」
 と、言うことからお始めになられました。
 お話しになられるとたちまちのうちにその話の中に吸い込まれていきます。話は下手どころの話ではありません。今でたくさん講演を私は聞きました。でも、その中でも印象に残る今回のお話でした。
 本当に聞いている人を引き付けるに値する話の内容でした。お上手でした。

 その内容についてはまた明日にでも。
 

吉備って知っている  184 歴史に残らなかった悲話 ②

2009-06-20 20:59:20 | Weblog
 高雅の思いとは裏腹に、その計画の実施を、暗殺の斬奸状には「・・・大金を貪り、罪不軽、依之加天誅也」と書かれ、あらた貴い命を京の地に無残にも落としてしまうのです。
 しかし、本当の高雅の心は、子息紀一郎に宛てた書簡でもわかるように、「・・欲念は聊も持不申只国恩を報いたく・・・・」とあるような、天皇、いや日本の国を深く思う崇高な独自の思いから出発していると思えます。
 その思いは、この四月二十一日の書簡にも見えますが、そのたった十日前のにも紀一郎にあてて送った書簡にも、また、見ることができるのです。
 その手紙には
 「・・・・・紀・淡・阿州の御そなへほどよくまゐり候へば此上ののぞみはなく、すぐに山のなかへひきこもり候とも、一生書物ばかりよむでゐ申とも、ともかくも心のままにいたし、うき世をはなれ申たくと存申候。・・・・・」
 とあり、私心への邪念などひとかけらも持ってなかったことはあきらかです。

 くどいようですが、この高雅は、どこまでも、天皇の安泰を願い、皇国の盤石の安きに置かんと考え、その結果の行為であったのです。
 前にも書いたのですが、山田方谷との縁から時の幕府の老中、板倉勝静の了解を得て紀淡海峡の暗礁作りに奔走し、京・大坂などの豪商から資金を集めたていたことに対する誤解からの暗殺でした。
 
 でも、その高雅の心は地元の人さへ理解していなかったのです。今思えば、決して、そんなに恥いるような事件ではないのでしたが、母と兄と子は、墓も隠れるようにして作らねばならないほどの「恥べき行い」なのでした。
 
 個人に自由などといった新しい生活感覚は、全く、その時代の社会には存在すらしていなかったのです。なお、その20年後には、制限はされてはいますが、明治憲法ができ「個人の自由」と言う今までにはなかった新しい考え方が日本の社会生活の中に取り入れられています。
 
 当時の「恥」とな何でしょうかね。体制に逆らうのは総て恥でしたのでしょうかね。維新と言うのは何でしょうかね

 しかし、この自由が認められるようになてからの明治の世になると、輔政の子は、再び、元の堀家の墓地へ葬られています。
 それとともに、この高雅の事件は、宮内の、いや吉備津の人々の記録からも、完全に忘れられてしまいます。

  名もない歴史とこんなもんでしょうかね?

吉備って知っている  183 歴史に残らなかった宮内の哀歌 

2009-06-19 16:06:19 | Weblog
 文久3年7月23日の夜、高雅は京の客舎で誰と分からない激徒のためによる斬殺されます。
 明治と言う新しい時代の波が否応なしにどんどんと押し寄せていた時です。
 この事件は、ここ備中の片田舎「宮内」にある名家、藤井家、堀家家両家を、それまで経験したことのないような周りの人々の冷たい目に曝されるのです。
 「あの高雅様が、こともあろうに強盗に入って叩き殺されたのだ」とか、「金持から大金をだまし取った為に殺された」とか、中には「遊女に殺された」などとまことしやかに、あらぬ噂が飛び交います。
 此の両家では、事件を、噂の渦巻くご近所と顔を合わせられないほどの恥に感じて、悲劇のどん底く突き落とされます。まだまだ「恥を知る」という風習が、日本の社会に色濃く残っていた時代のことです。
 だからこそ、兄の輔政が隠れるように墓地に、そのへそのうなどこっそりと隠れるように埋めたというのも分かります。
 「・・・つつましければ面をかくしてそゆく・・・」と輔政は書き綴っています。
 その時の母の喜智、兄の輔政、子の紀一郎などの苦悩の姿は高雅が生きている時代には思いもよらなかったことだったに違いないことです。

 かって紀一郎に宛てた書簡(文久3年4月)に見受けられます。

 「・・・(自分が計画したこと)何れの用にても程能く出来いたし候えは、愚老之面目貴様の晴れに候。但欲念は聊かも持ち申さず(持不申)・・・御社頭様(紀一郎)御為筋に相成り候にと存じ候事にて、何の用向きにても愚老の手柄は皆御社頭様の御為に相成り候いたし候だけの欲心に御座候・・・・」

 今、命懸けで取り組んでいる仕事は、国のため、そして、それは紀一郎のためにえもある、自分の手柄のためではないのだと、意気揚々と書き綴られています。

 こんな崇高な思いを抱きながら日本を深く思った「大藤高雅」の突然の死を、母もその兄も、また、子までは「恥」として重く受け止め、その墓まで、祖先代々の墓地でない、夫である徳政の側ではない、遠く離れた山影の陰地に隠れるように葬られているのです。

  
  こんな悲しい歴史もあった吉備津です。

 
 
 

吉備って知っている  182 高雅の母と兄の墓探し

2009-06-18 10:59:47 | Weblog
 田一枚植えて、さっさと立ち去る田植え機を見送って、人ひとりいない静かなる片山墓地に上がります。
 そこから見える吉備津の平野が西の足守川まで、ずっと一面に広がっています。空梅雨の影響でしょうか、今年の田植えは随分とのんびりしているように思えます。それでも何枚か残っている田んぼんには、夏の日差しを一杯に受け白く輝きながら、小さな人工の滝つ瀬を響かせて水がしきりに入っているのが見えます。此の調子なら、もう2、3日もあれば、今年の田植え機もお蔵入りのだと思われます。
 そんなのんびりとした真夏の風景の下でも、否応なしに汗は流れますが、捜す目当ての墓石はありません。右へ行ったり左へ行ったり、文字通り右往左往しながら探します。
 「・・・かつみかつみと尋ありきて日は山の端にかかりぬ・・・」と言う文が、ふと胸中に出てきます。
 でも歩いていると、沢山あるその墓石の中に、時々「堀家」と言う字が彫り込んである墓石につきあたります。あの中にかも?と尋ねてみますが、尋ね墓「喜智」の墓も「輔政」の墓も、どこにも見当たりません。
 それらの中に「きっとあそこだ」と思われるそれらしい墓地を見つけます。そこに勇んで行ってみると、どうでしょう、夏草どもが自分たちの夏を謳歌して一杯に背伸びするように伸びて、それらの墓石を覆い尽しているではありませんか。字どころが墓石さへ何も見せてくれだにしません。
  手前のお墓の向こうの夏草に覆われた中に隠れているのではと思いますが?
 
 夏草に文句を言ってもいた仕方ありません。その瞬間に「まむし」と言う字も頭を横切ります。今日の所は静かに退却するのみです。そうなると、今まではそんなに憎たらしくは思えなかった中天で輝き続けている夏の日が、余計に、そのぎらぎらしさを増して、否応なしに我身を照りつけるようで、こにくったらしい、こずら(小面)にくいように思われるから不思議です。
 
 なお
 「コズラニキイ」と言う岡山弁(こにっくたらしいと言う意味)を、誰か名古屋弁でどう言うのか知っている人がいたら教えてほしいのです。

吉備って知っている  181 高雅の母と兄の墓

2009-06-15 14:56:06 | Weblog
 板倉山に、母喜智の命によって寂しく高雅の遺髪などを葬った堀家輔政とその母のお墓はそれからしばらく捜したのですがどこにも見当たりません。どうも変ですがないのです。
 2、3日経って、古老から
 「あそこになかったなら、宮内の片山墓地にも堀家のお墓があると聞いている。そこにでもあるのでは?」と言う話を聞きます。
 早速自転車を飛ばしました。

 そこらあたりのどの田圃にも、すでに早苗が風に揺らめいています。その中たった一枚だけ植え残っている田に田植え機が入って、快い唸り声を立ててながら早苗が見る見るうちに植えられていきます。
 柳の木陰ではないのですが、若芽がにょきょにょきょと大空に立ち並んでいる竹藪の木陰の中から、田に早苗が植えられていく様子を見ていました。その早いことと言ったら本当に驚きです。情緒もへったくれも何もあったものではありません。田植え機の車輪がぐるぐるぐろ目覚ましく回っていくと、たちまちの内にきれいに早苗が水の中に並びます。田一枚植えるのに10分もかからないぐらいの速さです。本当に便利な世の中になったものですね。

  「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」
 と、言う芭蕉の句があります。
 
 その意味を尋ねられたテストが高校生の時にあったのですが、そんなことまで勉強していなかったものですから、答えることができませんでした。後で、清水という怖い古文の先生にこっぴどく叱られたことが頭を横切ります。
   
 もう、芭蕉が見たであろうそんなのんびりとした田園の早乙女による田植え風景は、今では、お目にかかることは、決して、ありません。


    田一枚 機械の植えし 早苗かな

 七条植えか何条植えかは分からないのですが、運転席でぴょんぴょんと跳ねるようにいとも簡単そうに機械操作をする老いた農夫の後ろ姿を、芭蕉のそれと比べながら見ているのも、「また、楽しからずや」と、10分そこいらの時間を、情緒も故もなにもない竹の影の下から眺めていました。
 
 そんなこんなで、喜智さん親子の墓捜しは、後回しになりました。

吉備って知っている  180  お墓に現れた社会制度②

2009-06-14 19:19:33 | Weblog
 お墓を見て歩いていますと、いろいろな当時の社会が見えてきます、その社会制度をもうひとつ
 
 この写真は藤井高雅夫妻の墓です。中央にあるのが高雅で、左側は先妻の高尚の孫娘松野です。そして、右側にあるのが後妻の「池上氏若枝」の墓です。それも池上氏とわざわざ旧姓で書かれています。
 大きさも形も全く同じです。平等です。そんな社会だったのだと思われます。男女それぞれ別々に、大きさも全く同じに立てられています。
 
 此のことだけから見ると、一般に言われているような、当時の社会の「男尊女卑」とは、そんなにも厳しい女性の差別ではなかったのではないかと考えられるのですが。
 この墓に見られるように、当時の女性の身分はある程度保証されていたのではと思われます。
 「三従」と言われた制度の下、全く自由がなかったように、言われていますが、それほど厳しい差別に虐げられていたわけではないように思われます。特に、高雅の母の喜智さんを思うと余計にそんなふうに感じられるのですが。

これって備中言葉?②

2009-06-13 13:35:32 | Weblog
 「エエテエテエ」
 これは、ご近所の人との会話の一部です。あまり面白くないのですが、まあ「キイテオクレンシェー」

 ある時、道端にそれまで見かけない物が置いてります。早速、私が
 「コゲンモンガ コゲントケエ エエテアルンジャガ。ドネエニ、シンサルンジャナー」
 これを標準簿に翻訳すると、大体「こんなものがこんな所に置いてありますが、どのようになさるおつもりですか」という意味になります。この問いかけに対して、ご近所の人の答えが
 「ソケエ エエテエテエ」
 と、けんもほろろに言うわけなのです。即ち、「そこへ置いておいてくださいな」と仕事の邪魔をされて怒っているかのような言い草です。
 
 方言と言うものは面白いものですね。
 日本の方言は、真偽のほどはわかりかねますが、京都を中心にして同心円を画くように昔の古い言葉が今でも日常の生活の中で使われているそうです。岡山辺りと名古屋辺りはこの方言の同心円の中にあり、従ってその使う言葉、方言ですが、よく似ているのだと言うことを聞いたことがあります。
 果たして、名古屋弁と岡山弁は似ているのでしょうか。知っている人いませんか。
 私が思うには、名古屋弁の代表的なものの一つに
 「ひゃっぽんひゃあとる」(100本入っている)
 と、言うのがあるそうですが、これを岡山弁で言うと
 「ひゃっぽんへえとる」
 となります。
 この「ひゃあ」と「へえ」は,ローマ字表記にするとhyaとheeになり、yaとeeハごく似た発音体系です。
そのように考えると、言葉の同心円的な発想もまんざら間違った説ではないと言えるのではないでしょうか。
 
 一方、名古屋弁の「がや」ですが、たとえば「忘れとったがや」だとか「降っとるがや」がありすが、岡山弁の「んどう」と言う言葉に置き換えられると思いますが、この2つの言葉の関係はどうもうまく説明がつきません。

 なお、昨日挙げたアイヌ語「エオカイ カツ」と言う言葉の意味は〈置かれておる〉と言うぐらいの意味だそうです。この中の「ツ」と言う発音はヅに近い「ツ」で、唇を真横にして発音するような言葉になるのだそうです。それと同じように「エエテエテエ」の「エ」も、アイヌの「ツ」と同じように、やはり唇を横に伸ばして発音するような音になります。

これって備中言葉?

2009-06-12 20:40:32 | Weblog
 今日は一段とホトトギスの声がかまびすしく聞こえております。「テッペンカケタカ」と、甲高い声が6月の空に響いています。
 そのホトトギスの声とともに、私のはなしょうぶの花もいんでしまいました。例年より1~2週間も早く咲き終えたのです。これも異常気象の所為なのでしょうか。
 
 ちょっと話題をそらします。
 私と親しくしている人がご近所におられます。田植えの最中のその人と話していたのですが、「こんな言葉って、今の人に理解できるかな」と、思うような会話がありましたので、「高雅」の話題から離れてお話ししてみます。これも吉備の国の物語になると思います。

 こんな言葉、あなたには理解できますか。・・・・そうです。「ええてえてえ」という言葉です。
 
 かって、私はアイヌの言葉を少々勉強したことがありますが、彼らの言葉の中、「エオカイ カツ」と、いうのがありますが、「エエテエテエ」と、どことなく似ているようにおもわれませんか。
 こんな言葉が我、備中には、今でも消え入りそうですが、ごくわずかに根付いて残っているのです。
 この「エエテエテ」という言葉の中には、アイヌではない、その元となったと、言われる縄文の文化の匂いがヒソヒシと感じられるように思われるのですがどうでしょう。「テエテエテエ」という言葉の中にある不思議な魔力とも言えるようなものが感じられるのです。
 
 この言葉、ホトトギスの「テッペンカケタカ」というのに似ていませんか?
 聞きようによっては「テッペンエエテエテ」とも聞こえるような感じがするのですが。これは我田引水です。

 さて、みなさん、この言葉をいかに解釈されますか?