私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おほつもごり

2007-12-31 13:02:37 | Weblog
 いよいよ今年の大晦日です。
 ぎぎぎぎぎ(偽偽偽偽偽?)と轟音を経てて一年の扉が閉じようとしています。
 それは兎も角として、我家もなんとなく一年が経ちました。例年の通り床にも神棚にもお正月飾りをつけ、一年の締めくくりをしました。
 

 良いお歳を!!

最後「松の落葉」

2007-12-29 20:56:09 | Weblog
 平成19年も後2日、いよいよ今年も押し詰まりました。「松の落葉」シリーズも今日で終わりです。
 191題について書かれた高尚先生の随想の内、私の思いと重なった部分だけを引き出して、私なりに解釈して、我田引水の感は否めませんが、4月から自由奔放に書きなぐって参りました。文章の拙さを始めとして、知識の乏しさも手伝って、あらぬものになったように思えます。毎回100ぐらいの平均の閲覧を頂き感謝しています。本当にありがとうございました。

 高尚先生が「松の落葉」で取り上げられている最後の題についてご紹介して、この項の締めくくりにします。

 「ここの書はさらなり。からのにまれ、天竺のにもまれ、書をよみあきらめたるを、その道みちのものしり人と言うべし。」
 日本や中国、更に印度の書物を読み明らかにした人を本当の「もの知り」というべきだ。
 この人たちは、何時も善事を行おうとして努力してきたのである。その人たちは常に、「よいことをしなさい。悪い事はしてはいけません」と、事あるごとに何時も説いていたのです。悪事は天地の神も大層忌み嫌い、また、世間の人もいたく「そしりたる」(うらんでいる)と言うことをしきりに強調しておられたのです。
 「そのつみかいなでの人よりは千重まさりなんかし」
 と。

 一昔前までは、ここに書かれた江戸末期を含め現代まで、殆どの世間一般の人が道徳の先生だったのです。

 それはそうとして、どこかの学校の教頭先生が、「平気でエッチなことをして、あくどい金儲けをしていた」と言うニュースが、今朝の新聞に出ていました。世も終わりですね、此れだけ「世の中が乱れているというか、でたらめな世の中だ」と、言う証拠でしょうか。

 この例を挙げるまでもなく、今みたいに、誰も彼も知識を一杯持っていそうな人達が、平気で悪事をしています。今年ぐらい、年の初めから終わりまで、偉いさんが謝罪のための頭をさげっぱなしの年はなかったようにおもわれますが。
 どうしてこうなったのでしょうね、原因は何処にあるのでしょう。
 
 さて、なんだかんだと愚痴っぽいことを申し上げてきましたが、この辺で終わりにします。長い間のお付き合い、厚く感謝申し上げます。
 
 最後の部分は、原文にてご紹介して筆を置きます。

 「此松の落葉よ、木かげにつもれるをかきよせいれしに、よつのかたにみちて、なほのこれるおほし。庭のかきねくまくまに、風の吹きよせてあるをもかきあつねなば、いまいつつむつのかたみにもといふやうなれど、さておきつ。其はゑは、ねでたき玉や、めずらしき石やをひろいあつめて見るにさへ、かずおほければ、あくここちもまじるならいなるを、ましてかれ葉の年へてつもりにたるは、大かたはくちくろみてきたなきをや、いといとうるさくなりてぞ」

 来春からは、ぐっと試行を変えて。正月の神迎えに関係のある福神について、しばらくお付き合いいただきたくい願いもうしあげます。

もちひががみー孫の教育について

2007-12-28 18:00:11 | Weblog
 今に言う『鏡餅』についても「松の落葉」には

 「睦月(一月)のもちひをかがみとは、平安のむかしからそう呼んでいた。栄華物語のなかにもある。睦月は一年のうちで一番神様をお祭りした。だから、当然お餅も神様にお供えした。普通のお餅ではなく、年の初めの祝い物として大きく鏡のように真ん丸く作って捧げ奉った。それが今に伝わっているのだ。

 私事(ひとりごと);
 核家族が進んで、昔からの「家の風習」が段々となくなってきて、合理的で経済的な生活が一般化されて、今まで伝統行事だった『お正月』も次第に影を失ってきています。それに比例するするように『クリスマス』が一般化して「それでいいのだ」と思う日本人が増えてきているようですが、何か私みたいな年寄りにはさみしい限りのように思えます。日本の古い伝統がなんだか古ぼけてきて、みんなしていじめているようでもあります。
 「それでいいのだ」と、平然と言っていていいのでしょうか。

 我家では、そんな社会の風潮を他所に、昔ながらの相変わらずの私の『お正月』をしています。(平成19年正月)

 昨日は、孫の友達も来て、しめ縄つくりに挑戦させてみました。縄を綯うことも出来ない人が増えています。保育園年長組みの孫達にも教えましたが、
 「こんな事難しくて出来ない。もう来年からはお飾りは作らない」
 と言う。
 さて、祖父として、この孫をどのようにして今後指導すればいいでしょうか。
 「ああそうか」
 と、言ってほっとけばいいのでしょうか。何かいい方法はないものでしょうか。

 物事に挑みかかる「応戦する」子供にと思うのですが、なかなかうまいこといかないものですね

ゆうしで

2007-12-27 08:30:35 | Weblog
 松の落葉の「門松」の中にあった「ゆふしで」という言葉がありました。あまり一般的でないので、これも蛇足になりますが、ちょっと説明しておきます。

 「ゆふ」というのは、漢字で書けば「木綿」になります。楮(こうぞ)の皮の繊維で作った糸で、幣帛(へいはく)として、お宮さんで祈祷する時に使われるものです。また、「しで」とは「垂・四手」で、玉串や注連縄などたらす幣(ぬさ)につけるものです。
 
 高尚先生の文中に
 「此山里にては、しきみの木を門ごとにたてわたして、しめ縄ひきはへ、ゆうしでかけて、いとこうごうしくしなしたり」
 と書かれています。

門松

2007-12-25 12:20:22 | Weblog
 しめ縄については『松の落葉』には「門松」で一緒に説明がしてあります。

 「かど松をたてるのは千年もの昔からのことであり、年の初めの飾りとして単に取り付けるのではなくて、ことさらに神をおまつりするためにこしらえるものである。
 私(高尚先生)が江戸から正月に帰るとき箱根の山で正月を迎えたことがある。そのとき見たのですが、この山里の正月は、家々の門にしきみを渡して、しめ縄を張り、ゆうしでを懸けて大層神々しい飾り付けをしていた。また、松としきみを混ぜてしめ縄にさしはさんだ家もあった。
 昔は榊として神わざに使う木は「しきみ」であった。
 これら松にしてもしきみにしても、「ひもろぎ」(神が宿る所)として、神がそれを頼りにして降りてお出でになる目印となったものです。それが門松なのだ」
 と。

 それにしても、「しきみ」が「榊」とは驚きです。今はしきみはお墓に供える物と相場が決まっているのに。

しめ飾り

2007-12-24 17:35:33 | Weblog
 時間の経過の速さに今更のように驚いています。今年もあとわずかになりました。ぼつぼつ我家の注連飾りをつくろうかなと思い、稲藁等の用意をしました。毎年作っているのですが、作る段になると、昨年はどうしたかなと思うのですが、すっかり忘れています。何回か失敗を繰り返しながら、やっと「これだ」と思い出したのが、もう夕方です。「まあ、明日があるさ」と早々に切り上げます。インターネットで、各地の注連飾りを見たのですが、本当にそれぞれの土地でそれぞれの注連飾りがありました。
 それこそ沖縄から北海道までさまざまなものがありますが、私は今までどうりのこの地方の注連飾りを作ります。
 それはそうとして、オラジロは表と裏のどちらを出してつけますか。地方地方で違いがあるらしいのですが。高知県では青々とした表を出してつけています。我家では裏の白い部分を表にして飾り付けます。ダイダイ、榊、昆布、ホンダワラとこのウラジロの上につけて飾り付けます。
 それから、これも昔からの言い伝えですが、このお飾りは29日と31日にはつけないものなのだそうです。どうしてでしょうか。ご近所には、「13日にはもう早々とつけるのだ」という人もいます。
 それぞれの土地の風習とは面白いですね。
 
 なお、これは当たり前の事ですが、吉備津神社の社家では、一年を通して、ご門にしめ飾りがしてあります。
 これも聞いた話ですが、伊勢神宮の周りの家々でも、年間を通してお飾りがつけてあるということです。

 まあ、我々一般の家では、正月だけ神様(福神・歳神様)に来ていただくという意味でお飾りをつけるということらしいのです。
 

初穂

2007-12-23 11:03:31 | Weblog
 「松の落葉」には、初穂について
 「むかしむかしには(平安の中ごろ)その年に出来た稲穂を、まづ神にたてまつったので、それを初穂と呼んでいたが、それが次第に、作られたものをまづ神にそなえるのも初穂と呼ばれるようになった。その後、作られたものだけではなくお金など、ただなんとなくたてまつるものをも初穂と呼ぶようになった。」
 と、あります。

 私事(ひとりごと);
 お酒などよく神様の御前にたてまつってありますが、これも初穂です。
 新しく化粧替えをした神殿内部に、ある運送会社から歴代の天皇の御影を描いた絵が、新装記念として、奉納されていますが、これなども、やはり「初穂」として奉納されたのかな?
 
  駄洒落て
       神頼みの お賽銭も 初穂かな?

冬至

2007-12-22 15:10:26 | Weblog
 朝から久しぶりの本格的な冷たい雨になりました。
 今日は冬至です。柚子が例年に増して豊作でした。柚子湯としゃれ込んでいただくようご近所にお配りしました。
 何時頃からこんな風習が出来たのかはわからないのですが。カボチャと並んで冬至の風物詩になっていることは確かです。

 「柚子」は融通が利くようにという意味があるのでと教えてくれた人がいましたが、では、どうして冬至にでしょうか。誰か教えて!!・・・・

 当然、高尚先生のご説明はございません。

両段再拝-2

2007-12-21 17:31:55 | Weblog
 お籠をもって吉備津神社に参拝した折、神官より
 「本殿に向かって玉串を左回りに置いて、二礼二拍一礼をしください」
と指示していただきお参りしました。なぜ二礼なのでしょう。
 高尚先生の『松の落葉』によると、三拝、四度拝、中には八度拝という拝み方もあるということです。
 両段再拝と言うのはふかくうやまい四度拝むからそう呼んだのだそうです。
 
 私事(ひとりごと);
 神主がお祭りの時などに神殿で拝む方法はどうするのか一度尋ねてみたいと思うのですが、チャンスなくはっきりした事は分りませんが、ご祈祷の時などは、一般には『二礼二拍一礼』の形式をとっています。
 果たして再拝(二礼)を重ねるので両段、即ち四礼になるのでしょうか?
 拝は特別に神の前だけではないと思います。会釈も拝礼の一種です。拝むと言う事は、人の「特別な敬い思う」という心が、頭を下げると言う行為に繋がったのではと思われます。
 だから、本来なら、一礼でも三礼でも四礼でも八礼でも、その人の心がこもっていおればそれでいいのだと思いますが、後から次第に形式的な型にはまってしまい、今では、神様の前では『二礼二拍』、それが当たり前のようになったています。

 現代を生きる人たちも、この拝を生活の中にもっと取り入れることが出来たら、今より随分と違った社会がうまれたのではないかと思いながら、神社を後にしました。
 

石なごー2

2007-12-20 15:11:01 | Weblog
 前に一度『石なご』について取り上げましたが、もう一度取り上げます。

 昨日でしたか、新聞小説に「西行」の歌が載せられていました。
  
   石なごの 玉の落ちくる ほどなさに
         過ぐる月日は 変りやはする


 「子供の時に遊んだ石なご遊びで、放り上げた石が落ちてくるようなほんの僅かな時間のような、過ぎ去ってしまった年月は、そんなにも変ったのだろうか、いや変ってはない昔のまんまだよ」
 と、いうぐらいな意味だと思います。
 
 この「石なご」について、
 高尚先生は
 「をさな子の遊びは昔も今も大方変らず、今の世の中でも子供達は石なご遊びをしている」
 と、お書きになっています。
 
 私事(ひとりごと);
 この石なご遊びは、平安の昔から、西行の時代を通って、室町、江戸・明治まで、いや私の遊んだ昭和30年代までも続けられていました。
 我々もよく2、30個の飴玉程度の同じぐらいな石ころを川原から拾ってきてポケットに入れて、学校に通ったと、言う記憶があります。授業中、手をポケットに入れて、その石をがちゃがちゃやらかして、先生に見つ、随分とおしかを受けた、と言う記憶もあまずっぱく残っています。冬の遊びではなったかと思います。
 
 それは兎も角として、西行の歌にもあるように、この遊びは、少なくとも1000年近く長きにわたって、日本の子供達の間で、随分と親しまれてきたポピラーな遊びだったのですが、今では殆どの人の記憶の中から消え去られてしまっています。わずか50年足らずで完全に忘れられてしまいました。
    
    石なごの やり方さへも 置き去られ
          過ぐる月日は 変りこそすれ

お篭

2007-12-19 10:42:12 | Weblog
 今朝は吉備津神社に「お篭」を納めにお参りして来ました。
 この「お篭」と言うのは、吉備津神社の氏子が、毎日、2,3軒づつで交代しながらその日にお宮さんへお供えする農作物などを持参する為にこしらえてある篭を呼ぶのですが、吉備津神社にお参りして、神のご加護にあずかるというのがもともとの趣旨のようでした。倉敷市の日畑や川入、納所、惣爪など吉備津以外のの人たちにも、このお篭のお参りに参加されています。
 何時ごろからどうしてこのような制度が生まれたのかも分らないのですが、他にはない独特な行事ではないかと思われます。

 朝八時、丁度お山から朝日が昇って神殿の中までが朝の光に包まれています。神殿まで昇殿して拝礼します、打つ拍手の音が清々しく新装の本殿に流れます。

 早朝の参拝もいいもんです。
 「清浄」そのものです。本当にいいもんです。

「いられる」と詞

2007-12-18 13:17:39 | Weblog

 今朝の新聞で、大江健三郎さんが
 「・・・は穏当でない言い方をしていられますが・・・」
 と、いう詞をお使いになって、現代の「悦ばしい知識」という一文を書かれていました。

 私みたいな知識の乏しい者であれば、この「いられます」は、「おられます」と書きます。大江さんの詞に対する特別な思いがあったからこそ『』という文字をお使いになったのだと思いながら読ませていただきました。

 この詞について、高尚先生もまた格別な思いをお持ちになってお使いになっていられます
 「『人わかる』というのは、自分は其処に留まったいて、人の別れ行く時に使う言葉であるから、『人』とは言わない。
 また、『女あへる』というのは、どこからかゆくりなく(思いがけなく、突然に)来て出会った時のことだから、『女』とは言わない。
 昔の人の詞づかいは、このように何時も正確に書き表しています。」
 と。

 私事(ひとりごと);
 「日本語が乱れて来ている」と、もう随分昔から言われているようですが、我々が日常使っている言葉を後世に残しておくように努めるのも我々年寄り役目ではないでしょうか。方言も、又、大切な文化財なのだと思って、大いに岡山弁を、孫達との会話に、家人からは、やいのやいのと言われ続けていますが、頑なに私々しています。
 
 なお、これは私の勝手な解釈ですが、『おられます』より『いられます』の方が若干なにか丁寧な言い方のような感じがしますがどうでしょう。


贋物

2007-12-16 11:08:23 | Weblog
 この前、テレビをみていると、50万円も出して買った中国の焼き物が、たったの「1000円です。全くの贋物です。第一、物に品格がありません」と鑑定士に、こてんぱあに言われて、一瞬、二の句が継げないような顔をしていた男の人がありました。
 この贋物についても、高尚先生は『松の落葉」の中にお書きになっています。
 
 「私が江戸に遊んだ時、加藤千蔭が、貫之が書いたという古今集を手に入れたから、それを板に彫って紙に刷り移したのでやると、言って持たせてくれた。そんなもの贋物に決まってると思ったが、折角の老人の言うこと、無碍に断るわけにもいかず、『大層珍しいものありがとう』と言って貰ってきたが、なんともへんてこりんな気がした。
 貫之の古今集や小野道風の万葉集があったということは、栄華物語にも書かれていて大変貴重なものだったが、焼けて今はなくなってしまっている。残念なことだが」
 と。

 私事(ひとりごと);
 お宝は、高尚先生よりも、もっと昔から大変な貴重品ゆえに大切に保管され、また、高額で取引されていたようです。50万円が千円と言うのも、ざらにあったということです。ここに出て来る貫之の書も当然の贋物、贋物とわかって貰った先生はどんなお顔してお口を拭ぐわれたかと思うとは、ちょと愉快な気分になります。
 まあそれにしても、近頃の「偽」ばやりですこと!

最後の一葉

2007-12-15 12:27:26 | Weblog
 外は木枯らしが吹きすさんでいます。冬ざれのわびしい景色が吉備の里にも広がり、秋はとっくにいむでしまいました。
 ついこの前まで、蔦の葉が真っ赤に燃えて、一帳羅の秋を見せていましたが、もう師走も半ば、総べての葉は散り落ち、本物の最後の一葉だけが落ちそうで落ちず、この冬風の中、己が自身を蔦に絡ませて、人の世をあざ笑うがごと壁に粘り強くへばりついています。
 
  残り葉の 一枚揺する 寒さかな    亮