私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

鬼ひしぐ 去来の句碑の 時雨かな

2006-12-28 21:13:08 | Weblog
 重源の建築様式(隅扇垂木)の見えるお釜殿を後にして、時雨れる吉備の道を、とぼとぼと松並木の方へと歩を進めてみました。
 そのすぐ前にある御手洗池が、師走の空とやけに派手々しい真っ赤な宇賀神社の影を寒々しく映し出しています。それを左手に見ながらしばらく進むと、駐車場の手前に小さな休み堂があります。
 その側に、随分と苔むした石碑がぽつねんと、池を背にして立っていました。
 この道を通る殆どの人は、そんなものがそこにあることすら気にも懸けずに行き過ぎてしまいそうな貧弱な古ぼけた小さな石碑です。

 よく見ると、なにやら字が彫り込まれています。
 最初の字からして読めません。

  火偏に禾です。こんな字って見たことありません。なんて読むのでしょう。
 頭を振り振りしながら眺めていますと、丁度、そこの居合わせた紳士ぜんとした人が、
 「この字かね。左右を逆さにするとすぐ分るのだ。昔の数寄心のある人が好んで使ったのだよ。秋という字ですよ」
 と、ご親切に教えてくださいました。
 次にある「うちひしぐ」もその意味がよく分りません。
          
 更に聞きたい気分になったのですが、そんな私を尻目に、その紳士はすたこらさっさと、平然とお宮の方へと向かわれて行かれてしまいました。

 よく見てみますと、「去来」と言う字も見えます。
 かって、山陽道随一と謳われていた歓楽街「宮内」に遊んだ時に詠んだ向井去来の句を石碑にしたものであるようでした。
 その句は
     
     秋の野や 鬼うちひしぐ 吉備の山

 です。
 後で調べて分ったのですが、「うちひしぐ」とは「こてんぱに打ちのめしてしまう、やっつけてしまう」という意味だそうです。また、「これから先、生きて行く意欲を全く失ってしまうほどの深い悲しみや絶望感に襲われる」と言う意味だと辞書にはありました。

 きっと、温羅と吉備津彦命の争いを頭に浮かべて詠んだものだと思われます。

     時雨ふる 鬼の涙か 吉備の里    
          

重源の息吹が残る吉備津神社

2006-12-27 23:31:40 | Weblog
 
 古来から、吉備津では、歴史的人物を多く生み出していますが、特に一番と言えば、何と言っても臨済宗を伝えた茶祖「栄西」です。
 生誕の地は、現在の岡山市東山にある、吉備津神社の神主であった賀陽氏館址だと言う事です。
 この栄西は晩年、東大寺の再建のための勧進職に就いたのですが、老齢のため、その職を弟子の「重源」に譲ったそうです。
 この重源が勧進職として、東大寺造営料地備前の「一宮」に来ており、栄西の生誕と深く関わりのある吉備津神社に、特別な思いがあって何度も足を踏み入れただろうことは想像がつきます。
 その思いが、吉備津神社への「釣鐘」を奉納だったのですが、残念ながら今ではありません。おそらく観応年間に起った火災のために焼失したものと思われます。
 でも、当時、建造中であった吉備津神社の中に、重源が伝えただろうと思われる建築用様式をいくつも見ることが出来ます。
 その一つが最初の写真にある隅扇垂木です。これはお釜殿の軒の垂木です。この建物は江戸時代にたれられたものですが、この地方では、他に例を見ない様式です。
 このほか、拝殿の貫にある木鼻や本殿の挿肘木、連子窓、藁座、化粧垂木など重源の影響と思われる建築様式が至る所に顔を覗かせています。
 豪放磊落な建築です。一度見て下さい。
 

ああーあ、今年もまたお預けです。

2006-12-23 21:43:47 | Weblog

  
 朝から空がすっきりと渡ることを期待して明の明星を拝もうと思い、6時には目を覚ましたのですが、生憎、今年も曇り空で、この日の日の出は拝めず、となって「ふて寝と相成り候」の次第にござ候。
 もう何年も冬至の日の出は拝めずじまいです。
 所がです、ご近所のお天気やさんの言うことにゃ、
「冬至の日近くでは、お天道様は1日や2日で出たり入ったりするところはそんなに違わない。殆ど同じところから出るのだぞ。よう心にしておけ」
 豪いお叱りを承った次第です。

 そんなこともあって、今日23日(冬至の翌日です)の朝、再び、日の出を拝みに6時に起きました。吉備津様の例の太鼓の音を聞きながら、朝刊を取りに外へ出ました。昨日と違い上。わくわくしながら新聞を読み読み、日の出を待ちました。
 
 さて、ここで問題です。
 「この日の日の出は何時だと思いますか」
 そうです。さすがですね。吉備の中山の上からお天道様が顔を覗かせるのは7:55ぐらいなのです。ちなみに、夏至は4:30頃でした。
 それは兎に角として、
「この日の日の出を拝めば、備前と備中の境目を決めた理由がはっきりするよ」
、おっしゃったお方の言葉とは裏腹に、そんなこと全然見当すらたたないのが現実でした。
 日の出ぐらいなことで、この境目を決めた理由が分ってたまる物ですかと、流れる谷川や石柱がせせら笑っているようっでした。
        

 それはそうとして、昨日の冬至に柚子湯に入り、カボチャ食べました?
 私は毎年欠かさずやっています。
 どうして、冬至は柚子とカボチャなのでしょうね。知っているいる人は教えて頂戴。


 あ!そうでした。今日は天皇誕生日でしたね。家の周りを歩いたのですが、なんだかんだと言っても国旗を立てている家の、なんて少ないことでしょう。私の町内120軒中なんと4軒だけなのですよ。これもどうお思いですか。ご感想をどうぞ
 

吉備の中山と日の出

2006-12-20 13:51:33 | Weblog

   

 備前と備中との堺目は、名越山から流れ下っている小さな谷川によって分けられています。
 吉備津神社近くで、国道180号線が大きくカーブしてJR吉備線をまたぐっています。その手前に「従是東備前国」と言う石柱が立ててあり、その堺を指し示しています。
 はっきりと意識しないで車で通り過ぎると「そんなものが・・」というほど目立たない石の道標と谷川です。
 そこが、かっての旧山陽道の板倉口です。多くの旅人が、今宵を待ちわび胸の高まりを抑えつつ、道しるべを脇目に、急ぎ早に通り過ぎて行っただろう風景がなんとなく、この標石と一緒に漂っているように思われます。また、ここには「両国橋」もあったはずですが、今ではその面影すらありません。

 どうしてこの場所が、備前備中二つの国の境目になったのか少々疑問に思いました。
 ある人が、
 「冬至に日の出をよく観察しておきなさい。すると、あなたの疑問は解決される出でしょう」
 と教えてくださいました。
 今年こそ、22日を忘れないで、吉備の中山からの日の出を、この道しるべから拝み、私の長い間の疑問を解決したいものだと思っています。

 これが今年やっておきたい最大の課題です。

 「あほじゃないか」と家人に笑われながら、明後日を、わくわくしながら待っています


買い物?もっと歴史を

2006-12-12 15:43:55 | Weblog

 12月8日は、「新高山に登れ」の暗号で始まった太平洋戦争の記念日です。  

 その当時は、「日常品のあらゆる物を総て戦争遂行のために使う。贅沢は敵だ」という至上命令のもとで、これ倹約にと、日本全国民が努めていたのです。 
 それこそ「今年の冬はこれを買う」なんてことが分れば、たちまちのうちに非難ごうごうで、『村八分』にもなりかねないような状態に陥ることは確かでした。 

 あれから70年近い時間が流れ去りましたが、今では買い物をしないほうが、人並みの生活をしてないのじゃないか、あそこは一寸へんなのじゃないか、可笑しいのじゃないかなどと、奇異に見られるような時代になりました。 
 でも、今日一日ぐらいは少々買い物等を控え、今の日本について皆で深く考えてみる必要があるのではないでしょうか。  

 現代の人々の生活があまりにもミイイズム過ぎて、
 「あなたには関係ない。ほっといて」
と、言う風潮ばかりが大手を振って通り過ぎていっています。だから、いじめも格差も、いつまでたっても、いくら大声を張り上げても是正されない原因だと思います。

 この欄の設定者も、戦争が過去にあったと言う事さえも知らない、今の時代を一杯に闊歩している若者だろなと想像しています。  
 もう少し人の歴史を知っている人なら、8日付けの題には、もっとましな他の題を設定しただろうなと思うのですが、皆さんはどう思われますか。 
 70年寄りの、それこそ「冷や水」でしょうか。 若者の意見を是非伺いたいものです