私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

八田若郎女

2009-07-31 13:45:31 | Weblog
「八田若郎女」<やたのわきいらつめ>と読みます。この女性が黒日売の後、大后磐日売命が、紀伊の国に、御綱柏を取りに出かけていた留守の間に出来た新しい仁徳天皇の恋人です。あの倉人女が吉備の児島の仕丁(よほろ)から聞いた女性の名前です。
 この人は実際は仁徳の異母妹であったのですが、本居宣長なんかは、どうもそうじゃあない、仁徳と一緒に育ったのであたかも兄弟のよう思われていた女性だったと、推測しています。
 でも、古事記の、応神天皇の段では、天皇の皇女として名前が載っています。従って、仁徳の異母妹として。この応神天皇の皇女皇子は沢山いらっしゃいます。合わせて26人です。その数が古事記に載るほど沢山の皇子皇女です。
 この点を本居宣長が疑問視しているのです。前後の天皇、例えば、その前の仲哀天皇は4人の皇子皇女です。
 一人の天皇の皇子皇女の26人は、余りにの多すぎる数です。他の天皇の記録には皇子皇女の数を上げてはいないのですが、応神天皇だけは「26」と言う字を特別に上げています。
 そこで、宣長が推量したのが、兄弟ではないが、何かの特別な事情で一緒に育った子供をも、皇子皇女にしたのであろうと言うのです。「庶妹」の字を当てています。「ママ」と言うのが読み方です。そのために、真の兄弟ではなかろうとおっしゃられるのです。
 でも、古事記の応神天皇の段に、「異母兄弟である」と、書いています。そのために、此の八田若郎女は、近親婚による弊害を出さないために、敢えて子供は産まなかったとする学者もいます。
 なお、この仁徳天皇の他の妃に宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ)もいます。この人もまた仁徳の庶妹です。やはりお子様はいません。だから、この偶然だと、思うのですが、これを基にして「近親の弊害」などと言う説を唱えたのではないかと思います

 歴史って面白いですね。いくら追及して、更に、しても、次から次へと、いろいろな推理が可能なとなってくるわけです。特に、古代の「日本の歴史には」です。