私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

慈眼堂とは

2009-11-30 20:48:26 | Weblog
 慈眼堂は綱政侯が、特に、この地を選ばれて、お建てになったお堂です。
 この堂と岡山城天守閣は南北を結ぶ線の上にあり、池田家の永遠の安寧と繁栄を願って建立したお堂なのです。
 まず、仁王門・梵鐘堂を作り、巨石を積み上げ礎として、石段を設けて、その上に3坪の仏殿を建ています。
   
 仏殿ですから、斉敏侯が「御仏の ふかき恵みに・・」と詠まれたのです。
 この仏殿の傍らに栄唱橋の所にある大立石と同じような、犬島より取り寄せた岩が屹立しています。その側に、かっては常盤の松があり、これが後楽園十勝の「慈眼堂松」と呼ばれていたのです。
 でも、この松も「暫軒風」「境沢の蓮」と同じ運命に晒されて、今では目にすることができません。
 ここから見る風光は、後楽園一の絶勝地でもあります。このお堂の前に、現在茶店はできています。ここに腰かけて、一椀の茗を啜りながら前方を眺めれば、すぐ目の前の「沢の池」、それに連なる「唯心山」、更に、その借景としての岡山城天守閣が縦に連なり、石川五右衛門ではないのですが、「絶景なり」と、自然に口を衝いて出てくることは必定です。 

慈眼堂に供えられた小さな松

2009-11-29 09:34:00 | Weblog
 後楽園十勝の10番目の最後の佳境「慈眼堂の松」です。

     ・御仏の ふかき恵みに 松の名は
               千歳を契る 色を見すらん

 斉敏侯のお歌です。
 岡山藩主の内、初代の光政侯や後楽園の創設者綱政侯(2代)の和歌はよく知られているのですが、後楽園に限って言いますと、七代藩主斉敏侯も、また、お歌をよくするお方でしたが、32歳の若さで夭逝されていますので、あまり多くの歌は残ってはないようです。
 
 この慈眼堂の「千歳を契る」と、斉敏侯に詠まれた松も、無情にも、今はその姿をとどめてはいません。
 でも、此の姿を留めていない幻の松に、いつも、「千代の松が枝わけ出でし 昔の光 今 いずこ」とばかりに、どなたかは知らないのですが、限りない心を寄せておられるお方がございます。
 こんな写真を撮ってまいりました。後楽園をこよなく愛しておられる方だと想像しています。

     

 お堂の扉の前に、昔をしのぶかのように、ご自分の松の若木を供えて、永忠公にでしょうか、それとも、綱政侯にでしょうか、元禄の松をお見せするがに、そっと置かれております。しかし、この慈しむべき愛らしき松の姿に誰一人として眼を留めることなく、「そななん昔のことはようわからん」とでも言うかのように、足早に人々はお堂の前を、ただ、通り去るのみです。

 近くにある松林からの師走の松籟だけが、お堂前にポツンと供えられた小さな小さな松に、昔の光をしょしょと語っておりました。

「サチとチサ」、後楽園でのはやとちり

2009-11-28 16:00:00 | Weblog
 「27,8日頃が見ごろでしょう」と、後楽園事務所のお話でしたので、今日、先に上げた石灯篭も、もう一度確認してもいいわ、と思い入園してきました。
 まだ、未確認の花葉の森にあると言われる「チサの木」も、ついでにと栄唱橋の側を通り森の中に歩を進めます。でも「北西の隅にある葉のとんがった木」という事だけを頼りの探索です。いくら探しても、それらしい木は見当たりません。
 丁度、そこを後楽園の案内の人が、お客さんと連れだって通られます。
 「サチの木をご存じありませんか」
 と、尋ねてみました。
 「サチ?どんな字を書くのですか。大きな木ですか。花はどんな色ですか、いつごろさきますか・・・・分かりません。私は聞いたことはありません。すいませんね勉強不足でね」
 と、甚く恐縮されているご様子。

 その案内の人は、ご夫婦でしょうか、その案内をしながら、二色岡・廉池軒の方へと下って行かれます。
 私は、又、しばらく、葉のとんがっていそうな木を見つけるべく辺りをうろつきますが、そんな木はどこを探してもありません。まだ、しばらく辺りを捜しますがありません。
 仕方がありません。
 「花葉の紅葉が、今、一番だよ。この下からの眺めが格別です」
 と、さっきの案内の人が、別れる時に、教えて下さった花葉の紅葉を見に、丸石をきれいに敷き詰めて作った徑を下りていきます。
 そこには、今を盛りと、紅葉の錦が、池に映って実と虚との二段の美しさを映し出しています。己の一年のうちでの一番のはなやいだ姿を誇張しながら、まるでスラーの点描絵のように、微妙に違う無数の赤が乱れ跳んでいるようでもあります。
 そんな美しさに酔いしびれながら、しばらくはただ無心に、赤に心を奪われています。 その時です、どうしてでかは分からないのですが、突然に、ふと頭を横切ります。

 「あ、さっき、私はあの案内の人になんと言ったか。サチの木といったではないか。サチではない。・・・・・・チサだったのに」
 そこらあたりを見渡したのですが、あの案内の人の姿は見当たりません。なんとはやとちりをしたことでしょう。チサをサチだなんて。案内の人が、知らないのは当たり前です。それを、あれこれと、しつこく尋ねた自分に嫌気がさします
 
 今日の後楽園での私の失敗です。

 それから、これは失敗ではないのですが、大立石の側にあったと云う「一条院」と名付けられた、園内で一番先に秋を知らせてくれる楓の木は枯れて、今はないと、例の案内の人がお話してくださいました。

 なお、家に帰って調べてみますと、後楽園にある「チサの木」は」百年以上もたっている大木で、人の一抱えもある木肌が紫色をしている木だそうです。それを目安に捜せばすぐ分かると云う事でした。
 また、此の案内人の話ですと
 「千入の紅葉は、もう一週間後ぐらいが一番いい」
 とのことでした。
 だから、私は、それを見に、もう一度訪ねてみようと思っています。


 その時こそ「リチーサ」ではなく、「リサーチ」して、チサの木を見つけようと思っています。
 ダジャレニモナリマセンガ。

 

鯉山小学校の6年生と

2009-11-27 18:06:18 | Weblog
 鯉山小学校の6年生の子どもたちは、今幾班かに分かれて、吉備津ロードマップを造る学習をしているのだそうです。その中の一つの班が、吉備の中山にある色々な石について地図に書き込む作業をしていると云うのです。生きた社会科の勉強だそうです。
 その色々な石の探索に私も駆り出されました。
 石と言っても色々ありますが、でっかい石、何か字が書かれている石、変わった形をしている石の探索です。そんな石を探そうと云うのです。「捜す」ではなく「探す」なのだそうです。
 細谷川口から上り、御陵、そこから鏡岩、八畳岩、たいぼうの足跡と周り、福田海におりて来るコースです。2時間で周るのです。
 石の大きさやいわれ、その石に書かれている字を調べながら進むのです。到底2時間では回りきれるものではありません。穴観音の辺りで古墳の形などを写真に撮ったりしていると、もう予定の2時間が終わろうとしています。「たいぼうの足跡」まではどうしてもと、いう子供たちの要望で、大急ぎで探索して、残念ですが途中で切り上げて、学校に戻ってきました。「機会がありましたら又ね」と、子供たちに挨拶して、別れました。「地域探索」という学習は、案外、大変だと云う事が分かってくれたかなと思いながら。

 今日の短い探索を基にして、12人のグループでしたが、子供たちは、どんな吉備の中山のロードマップの制作が完成できるかなと楽しみにしています。
 
 同じ体験を通して、お互いに協力し合って作業をしていかなくては、決して、目的は達成できるものではないことを身をもって経験してくれるればと、祈るような心地で見つめて居ります。人としての生きる一つの大切な方法であることを理解してくれる場にもなればと思っています。

   がんばれ鯉山小、6年生の諸君よ!! 

露置そふる色ぞすヽしき

2009-11-26 12:01:13 | Weblog
 後楽園十勝9番目の「沢池の蓮」についても、多くの歌が詠まれていますが。やはり代表的な歌を上げるとすると、例の藩主池田綱政侯のお歌を上げなくてはいけないと思います。

    ・沢水の すめる心に はちす葉の
                  露置そふる 色ぞすヽしき

 どのお歌でもそうですが、綱政侯のお歌の助詞の使い方の素晴らしさには、いつもながらに感心させられます。このお歌でも、特に、十二分に吟味され尽くされた「の」、「に」、「の」と続く「な行」の言葉の持つ響きの特色を捉えて、歌全体の美しさを言葉だけからでなく、言葉の響きからも追及していく手法には驚かされます。「すヽしき」以上の爽やかさを詠み手に感じさせる効果を、この3つの助詞によっても描き出すように工夫されています。
 何回でも言いますが、江戸幕府が、当時、この綱政侯を「カクノゴトキ文学文盲短才モマタ珍シ」と、評価したと言う事ですが、そのような愚鈍な人では、決して読めない歌だと思います。

 もう1首、岡 直盧の中の島を詠った歌を上げておきます。

   ・沖つすに たつのねふれる さまみれば
                  池の心も のどけかるらん

 この岡氏は明治の岡山を代表する歌人だったのですが、もし、前の綱政侯のお歌と(二人の詠んだ情景が異なりますから比べること事態がすでに難しいのですが)、歌合わせをして、私が判者となるなら、当然、綱政侯のお歌に軍配を上げたいと思いますが????

庭園と石灯籠

2009-11-25 14:54:50 | Weblog
 この沢の池には、中の島、御野島の他、もう一つ島があります。「砂利島」です。全島白砂で覆われ、その上に一本の這松が地を蔽い、白と緑の配色が池の水に映え、側らに石灯籠までが置かれていて、蓬莱仙島の趣を漂わせています。晩秋の夕陽に映えるその様は、将に、園中随一の魅をなす風景でもあります。
 もし、私が後楽園十勝を選ぶとしたなら、「境沢の蓮」より、この砂利島を背景にした「沢池の夕陽」をむしろ挙げたいぐらいです?

   

 この砂利島にある石灯籠も、園中の雅趣の一役を果たしていますが、庭園の石灯籠と言えば、まず、兼六園があります。確か、ことじ灯篭を始めとして十数個の石灯篭があるのではと思います。一方、我が後楽園にも、花交池の百石島の前の水中になど、兼六園ほどは多くはないのですが、やはり石灯篭が見られます。
 このように、庭園と灯篭は、日本庭園では、決して切り離せない組合せになっているようです。
 一説によりますと、灯篭は、本来、春日神社などにあるように、燈明として奉られるろうそくを立てる容器として、神社仏閣で使用されていたのですが、千利休が、本来の利用目的を離れて、単なる雅趣を感じさせるための装飾品として、茶室の庭に置いたのが、日本で、庭園に石灯篭が置かれた最初だと言われているようです。
 それが、利休が始めた茶の湯の流行と並行して、大名庭園などにも置かれ、枯淡な感じを演出する最高級品として大いに持てはやされたのでした。それはやがて市民の間にも流行り、個人の庭園にも取り入れられていったのです。
 なお、次の写真は、最初が延養亭の前の芝生の中の灯篭で、次は百石島のものです。3枚目は延養亭の前の物です。三者三様の趣を呈しています。なお、金沢の兼六園のことじ灯篭も添付しておきました。念のために。
        
   



   

境沢の蓮

2009-11-24 17:24:40 | Weblog
 千入の森の紅葉を浴びながら、そぞろ小徑を西に進む(この道を桜の馬場と呼んでいるのではと思いますが)と新殿があります。そこを左に折れ、唯心山の方に歩んでいけば、やがて園内随一の、周囲330mの池があります。「沢の池」です。
 この池には島が3つあります。東から「中の島」・「御野島(みのしま)」・「砂利島」です。
 中の島に太鼓橋が架けられて、渡れば島の茶屋です。
  
 四方に矮松が植え、傍に怪石を配して、さも自然に出来あがったように見せています。この「中の島」の水辺は、表に「上道郡」、裏に「境沢」と、又、「御野島」の東汀には、表に「御野郡」と、裏には「みのしま」と書かれた石標が建てられています。
 
 此の園は、当時の御野郡と上道郡の境であった所に造られた証拠となります。
 この二つの郡を跨る境にある沢ですから、此の島と島の間の水道を「境沢」と命名したのです。今はその面影もないのですが、昔は、この辺り一帯に蓮が生えていて、夏の風物詩の一つとして、人々に愛されていたのです。ここが後楽園十勝の一つに数えられていました「境沢の蓮」です。


永忠の足跡を世界遺産に!

2009-11-23 15:32:27 | Weblog
 偉大な芸術家でもあった永忠ですが、やはり人の子でもあったのです。昔からの伝統というか、造園に当たって日本古来からの伝承でもある「縁起を担ぐ」という事にも、決して、無頓着であることはなかったのです。
 そうです。園の鬼門、東北に当たる片隅に、邪鬼を払うための魔よけのお堂を、ちゃんと、配置しているのです。
 千入の森の北側に、水の園でもある後楽園の守り神として「弁財天祠」をこの地に配したのも、したたかな永忠の思いでしょう。なお、面白いのは、永忠は、この祠の対称線上に(南西)ある二色ヶ岡に、東西南北を守る仏の居る、「四天王堂」を設置していることです。
 その弁財天祠を通り過ぎると、すぐ横に「東の稲荷祠」もみえます。この稲荷の祠(やしろ)は、明治になって、東京の旧岡山藩邸にあったものをここに移設したものですので永忠の思いの外です。
 この「東の稲荷」「新殿」「茶畑」を通り越して行くと、そこに、西の稲荷祠が鎮座しています。これが永忠の意図した「弁財天祠」と対になる、北の守り神です。この隣に「由加神社」があります。この神社も、やはり明治になってから、「東の稲荷祠」と一緒に、岡山藩江戸藩邸にお祭りしたものを、ここに移設したのだそうです
 だたら、永忠が、最初に、意図したこの園の鬼門を守る神は「弁財天」と「稲荷」だったのだと考えられます。 
 この「西の稲荷祠」と対称線上の南西の隅の二色ヶ岡にも、やはり、まえの四天王堂と同じく、「地蔵堂」の祠が見えます。
 このことからも分かるように、永忠は、園中の北と南に、当時の民間信仰の最高の神と仏を配するという縁起にも気を使って、この後楽園を造ったのだと思われます。元禄13年(1700)のことです。
 
 なお、これも蛇足ですが、北東に配置した「弁財天」と「稲荷」は、日本古来からの信仰対象というか、土着の神々であり、それらの「神々」による北の守りと、その対象となる、南には、インド伝来の四天王と地蔵という「仏様」による守りを考慮して配置しています。
 こんなところにも、人間の心を十分に捉えた計算しつくされた造園の影が映っています。今更のように、その人間の大きさに驚かされます。大した芸術家です。
 
 永忠は。300年もの昔、岡山という日本の片田舎にいた名もなき人ではありません。日本的規模、いや、世界的規模の人なのです。今、永忠の残した遺跡を「世界遺産」にという声も上がっていますが、ぜひ実現してほしいものだと思っています。
 

独り春を洩らす・・・

2009-11-22 17:12:03 | Weblog
 千入の森と茶祖堂の間に梅林があります。
 ここでは、百花未だ開かざるに先立ちて、独り春を洩らし、紅梅と白梅が交わり乱れ咲きます。
    ・あわれしる 人はきてみよ 夕月に
               鶴なく園の 梅のさかりを   斎藤忠敬
    ・かをらすは 雪とのみ見て 過ぎなまし
               梅の林の 花のさかりを    福田某

 梅の季節に是非、特に、月夜の梅見はいかがでしょうか?
 私は、まだ、かって一度も月夜の梅見はしたことがないのですが。斎藤氏の歌のように「あわれしる」こと間違いないと思っています。

 私は、この斎藤氏の歌を詠むと、「春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」の歌がいつも心に浮かびます。

 なお、園の北東に位置するこの辺りは、梅桜楓3つにはっきりとの区切ら林で、対角線上にある二色ヶ岡の森とはまた違った趣を呈しています。
 
 そこらあたりの対称の面白さも永忠の意図とした回遊式庭園としての後楽園の特色だろうと思っています。
 ただ、四季折々その時その時だけの自然の織り成す美の探索ではなく、永遠の時を捉えて恒久的な普遍的な美しさを、その瞬時の美しさの中から把握できるようにと、造園意図を置いたのではないかと思うのですが????
 要するに、これでもか、これでもかという永忠の思いがいっぱいに園中に敷き詰められたように配置されている庭園であるのです。
 見えないものの中から客観的な、普遍的なものを見破るだけの確かな眼を要求したのです。そんな偉大なる芸術家でもあったのだのです、永忠は。
 

わけ行けば袖も紅葉に・・・・・・

2009-11-21 11:04:32 | Weblog
 後楽園十勝の中で、一番、多く歌に詠まれている場所は、やはりここ「千入の紅葉」です。その歌の数々をご紹介します。
 
 まず、初めは、例によって岡山藩主池田綱政侯のお歌から、

    ・わけ行けば 袖も紅葉に 染めてけり
              千入の森を しぐれふる頃
 
 何の解説いりません。そのままの景色を詠みこんだ歌です。ただ、「千入の森に」でなく、詠む人が、森「を」にしたその背景に目を向ける必要はあると思います。
 ここら辺りからも、綱政が一廉の歌詠みであると、いわれる所以でもあるのです。

 この他、この森の紅葉を詠んだ歌を

    ・もみぢ葉の 千入のもりは くれやらで
              よその梢を わたるつきかな    河合就義
    ・白露は いかにそめけん くれないの
              ちしほの森の 木々の紅葉     高柳秀成 
    ・紅葉の ちしほの森に きて見れば   
              梢はかりそ くれのこりたり    浅野駒子
    ・名に染めし ちしほのもりの したてりに
              秋はゆうへも しらすぞありける  岡 直盧
    ・紅葉(もみぢば)の 千しほの森に 来てみれは
              芝生までこそ てりわたりけれ   貴島磯麿
    ・いつのまに 霜やおきけん 紅の
              千しほのもりは 色つきにけり   武田信敏

   など多くの人が多くの詠んでいます。
 
 やっぱり紅葉が、後楽園の心と、一番よく似合うのでしょうかね。

              
    ・くれないの 千しほのもりの したてりに 
             あきはいり日を ほそくまきけむ   読人不知         

千入の紅葉

2009-11-20 19:39:02 | Weblog
 吉備津出身の栄西を祭った「茶祖堂」を過ぎ、梅林や桜林を通り過ぎると楓樹数十株の、いわゆる「千入の森」があります。
 一たび秋霜に遇うと、木々は錦繍燦爛として、夕陽の頃に、ここを訪れますと、まさに、「2月の花より紅なり」を地でいく奇観を呈します。ここが、後楽園十勝の一つに挙げられています「千入の紅葉」です。
 「千入」とは、何だろうかと思ったのですが、ここにも案内板が立っています。
 

 それによりますと、「千入」とは「ちしお」と読み、幾度となく染めるという意味なのだそうです。

 今年は、例年よりやや遅くて、今月の25,6日頃が、紅葉の一番の見ごろを迎えるのではないかという、後楽園のお話でした。
 今は、まだ少し早いようです。

吉備津鯉山小学の学習発表会

2009-11-20 13:43:01 | Weblog
 インフルエンザのために一週間ものびた鯉山小学校の学習発表会が、今日、開かれ、ご招待がありましたので行ってきました。
 どの子も先生の必死なご指導のもとに熱心に演技していました。
 その子供たちの熱い演技を見ていると、何か熱いものがこみ上げるようでもあり、こんな小学校で学ぶ子供たちの幸せを思いました。
 全身で、未経験なものに、ぶつかっていく姿のなんて貴いのだろうと!  
 「鯉山の子供たちよ、頑張って、更に、高く高く跳ね飛びよ」と、呼びかけたいような心持にさせてくれました。

茶祖堂

2009-11-19 14:12:29 | Weblog
 花交瀑の落ちている池は「花交池」です。ここに閘(こう)を設けて、流れ落ちてきた水の量を調整して、あふれた水は旭川に流しています。
 この池の側に「茶祖堂」があります。これは、元岡山藩家老伊木忠澄という人の下屋敷にあった茶室ですが、明治になってこの地に移されたものです。最初は「利休堂」と呼ばれていたのですが、戦災で焼失して、戦後再建され、吉備津出身の栄西禅師がこの堂に祭られるようになってから、「茶祖堂」と名が変わります。
 その屋根は草葺で、屋根裏が天井で、誠に茶室としての雅致に富んでいます。時に、風騒(ふうそう)の客を迎えることありと、聞いています。

  ・世の塵を さけてけらしな 木の芳煎る
            けふりをおのか 籬にはして 
                        西川國臣

   

吉備津神社にも「序破急」の美学が

2009-11-18 20:55:04 | Weblog
 後楽園の花交瀧の序破急をブログしたのですが、それを見てくれたのでしょう、吉備津に住んでいるいる先輩から
 「地元の吉備津神社にも、その概念を取り入れて造られたところがあるのを知っているか」
 と、電話をいただきました。
 「吉備津神社の入り口から北随神門を通り拝殿に至る場所が序破急の考えに基づいて造られているのだ。行って確かめてみろ」
 と、言うのです。

 早速、吉備津神社へ、彼の言う場所の写真を撮ってきました。
①   ②   ③

 吉備津神社への上り口です。ゆったりとした階段を上ると①、天文十一年に造られた(1542)北随神門があります。その門を過ぎると急な階段が目の前に現れます②。丁度参拝されていたお年寄りの人が、
 「こりゃあ、きちい。ああ、えれえのう。いっぺんにゃあ、上れりゃあせん」
 と、階段の途中で、一息をついておられました。
 その急峻な階段を上がると、すぐ目の前に拝殿が広がっています③。その奥に派手派手しい朱色の神殿が姿を表します。

 これが、彼の言う吉備津神社の「序破急」です。
 なるほど、言われてみると、そんな気もしないではないです。ゆったりとした入口と随神門。それから一変して、上るにも一気にはいかないようなきつい石段。その石段を上りきると、そこには荘厳で、一瞬、おやこれが神社か?と、思わせるようなハッとするような拝殿と神殿の建物が目の前に迫りきます。
 まさに、「序」であり、「破」であり、「急」の造りそのものです。
 
 吉備津神社の古い記録によりますと、社殿は、観応二年(1351)に焼失し、応永三十二年(1425)に再建されています。
 再建当時、京都では、世阿弥が「風姿花伝」を著して(応永七年)、「一切の事は序破急あれば」と、美学の概念として「序・破・急」を説いています。
 一方、この吉備津神社が再建された時、吉備津神社の社務でもあった細川頼重という人がいます。この人は足利義満の管領であった細川頼之の甥で、備中守護をしていました。相当な文化人でもあったと云う事です。
 もし、吉備津神社の、入口から拝殿本殿に至るこの部分に「序破急」の概念を取り入れて造られたとするならば、当時、社務であった細川頼重の影響が、十二分にあったのではと、考えられてもいいのではないでしょうか???

飛花繚乱・・・花交瀑を詠んだ歌の数々

2009-11-17 10:16:04 | Weblog
 この花交瀑についても幾多の歌が詠まれています。
 花交瀑とは、花が飛沫の中に交りながら流れ落ちる滝という意味です。
 「花」とは、春のさくらも、いくら意識の中にあったと思われますが、本来は“からくれないみずくくるとは”と、詠った業平の龍田川の秋にちなんでの故事からの命名だと、私は強く思っています。
 八橋から流れ出た水が、すぐに、直接、この滝に流れ込んでいます。時間的な流れの中にいくつもの連続的な物語を、永忠は意識的に描きながら、先の蘇鉄をも含めて、この庭園を構成していったのだと思われます。だから、序破急の花交瀑は、春のそれよりも、秋を、というか、伊勢物語を深く意識して造られたのではと思います???。

 こんなことを書いていると、また、あの寶泥氏から
 「くだらねえことを、そげえに、ながたらしゅういわんでもええ。はよう次へいかにゃあ」
 と言う、お叱りのお言葉を頂戴すること確実です。

 そうでした。今日は滝について詠まれた歌の紹介だったのです。
 できたら、一首ずつ声に出しながら読んでみてください。色付いた「は」?が見えると思います。


      ・筆とりて いさや写さん ちる花を
                ぬきてそ落ちる 瀧のしら絲
                             西川國臣
      ・花交り 落ちくる瀧の しら絲は
                やまとにしきや おりいたすらん
                             貴島磯麿
      ・いはかとに おちくる瀧の しら玉と
                あらそいちるや 花さくらはな
                             岡 直盧
      ・いはかとに くたくるたきの しら玉を
                ひらふかことく ちるもみちかな
                             瀬川則孝
      ・家つとに つヽみて帰る よしもかな
                花にましりし 瀧の白玉
                             三宅知規