私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

息抜きねー

2007-01-27 15:07:23 | Weblog
 息抜きの必要なお方は、次の2つをどうぞ。

 ① 空を見上げて、ふっと息を吹きかけなさい。とても爽やかな気分になれます。出来れば腹式呼吸でね。本当の息抜きです。

 ② それと、時に吉備津神社へお参りすること。

鬼の話し

2007-01-24 22:22:34 | Weblog
節分が近づいてきました。そこで、今日は吉備の国の鬼の話をします。            
 桃太郎は、きび団子を持って、鬼が島へ鬼退治に行きました。猿・雉・犬がお供をしました。
 
 皆さんのご存知の桃太郎のお話しです。
 
 この桃太郎さんが、実は吉備津彦命だったと言われています。

 さて、吉備地方に伝わっている鬼は、百済から空を飛んできて、妖術等を使って、この吉備一帯をあっという間に支配してしまったということです。
 風貌も、生活習慣も、支配方法も随分と異なり、戦いも馬等を使いこなし荒々しく、しかも疾風の如くに通り抜け、鉄製の刀などで多く善良な吉備人たちを切り殺し、その力を伸ばしていたのではと思います。
 食事方法も、肉なんかもしきりに食べていたようです。
 突然降って湧いたように現れた、この見慣れない服装も言葉も髪の形も違う異邦人に対して、吉備人は、どこか別世界に住む「鬼」が来たと思ったのです。その鬼の大将の名前が「温羅」(うら)です。
 
 でも、誠に不思議な話しですが、吉備津神社の中に、この鬼「温羅」がお祭りされています。先日取り上げた「えびす宮」もそうだし、神殿の外陣の丑寅にある「艮御崎」もそうです。

 まあそれはそれとして、この鬼を吉備津彦命が退治してくれたのです。これが「桃太郎」の原型になったと言う事です。
 
 この鬼を退治するのに、吉備津彦命は、陣取っていた吉備津神社から10km先の山城にいた鬼に向けて矢で攻撃したのです。
 
 その矢を置いたと言い伝えられている岩が、このお宮さんの入り口にある階段の側に、どっかと構えてあります。何時頃からそこにあるのかよく分らないそうです。
 正月2日に、この故事にちなんで、この岩の側で、「矢立ての神事」が毎年行われています。
 

 そんな古いお話が、もまことしやかに伝わっています。
 古い記録によりますと、この地方には、回りの国々には見えない「語部」という氏族もいたようです。この人たちによって、沢山の言い伝えが残されたという事です。

美しい国

2007-01-20 15:38:49 | Weblog
 
 吉備津の町をなんとなく歩いていると、「なんて美しいんだろう」と思う風景にぶつかる事があります。
 
 今日も、一寸街を歩いていたところ「ごみ収集場所の一輪の花」に出会いましたので、写真に写してきました。

 「美しい国に」なんて、誰かさんみたいに大声で叫ばないでも、「こんな美しい心を持ている人が、いっぱいいるのですよ、日本には」と教えてあげたいです。
 
 一体「美しい」とは何でしょうね?

今年初めての向畑日参札来る

2007-01-17 21:57:08 | Weblog
 午前中は、昼前から
 120軒ある吉備津向畑の家々を巡回している日参札が、我家に正月早々届いてきました。
 私は孫達がかぜで保育園を休んでいるという連絡を受け、そちらに行って孫達の様子を見てきました。
 その間に、家内が、早速、吉備津様にお参りして、新年のお札のご挨拶をして帰って来て、その札を隣に持っていったと言う事でした。
 
 このお札には、特別な意味があるわけでもありません。そのお札が届くとお宮さんにお参りするだけのことです。ただ、お参りして神様に2礼2拍して「我家に御札が」と報告すればいいのです。誰がお参りしても、また、特別にお参りしなくてもいいのは勿論です。

 もう150年以上続いている、なんとなく古臭くて、それでいて人の心をなんとなくホットさせてくれる、わが町だけの独特な伝統行事です。

吉備の中山に豊旗雲懸かる?

2007-01-15 18:18:00 | Weblog

 このところの日が続いておます。 
 今日は、9日「宵えびす」です。朝から、陽気な「笹持って来い」の声が吉備津神社から聞こえています。 

 八時ちょっと過ぎです。吉備の中山にある「吉備津彦命の御陵」の上から、真冬の朝日が覗こうとしています。 その朝日を受けて南の空一杯に豊旗雲がたなびいています。誠にきれいな風景です。

 天智天皇の御
    わたつみの 豊旗雲に 入日さし
               今宵の月夜 あきらけくこそ

 その雲だと思います。
 時刻が、夕方でなく、朝日で、景色も海と山の違いだけで、空の風景そのものは全く同じではと思います。

 今日の天気
              「清明已曾」


お宮さんでの町内祈祷

2007-01-14 13:35:36 | Weblog
 今朝は上です。霜柱を踏み踏みって八時ごろ家を出て、吉備津様へお参りしてきました。
 お正月に、わが町内向畑の人々が、お宮さんに御参りして今年一年の無事平安を祈願する町内行事です。
 本殿でのお祈りを済ませた後、お釜殿で、向畑の本年も占っていただきました。
 写真撮影禁止ですので、写真はありませんが、神事の様子を説明しますと、神殿の中には竈が2つ据えてあり、その一つ(右側)の竈に木がくべられ燃えさかり、甑からしきりに湯気が立っています。その竈の御前で、二人阿曾女(巫女)が控える中、禰宜さんが祝詞を奉ります。
 巫女さんのうちの一人が釜の中で、曲げ物に入れた直会(なおらい)(これは玄米です)を左右前後に、何回か打ち揺すります。
 すると、そのゆする音に誘引されたかのように、お竈全体が「うううーん」というか「ごうーごううーん」というか、どう言い表せばいいのか分らないような音が、御竈殿一杯に鳴り響くのです。
 今年も、その音は吉備の平野を、初春の寒風に乗りゆったりと這うように流れて、里の平安をお告げ下さっているようでした。
 里人の多く参加した、八時半から一時間の、初春のご祈祷でした。

 ご祈祷が済んで、10時ごろからお宮の境内でと、岡山鳶連の人たちによる、どっしりとした重みを感じさせる「纏かざし」勇壮で華麗な「梯子のり」、「厳かにぴんと張り詰めた感じを漂わせた「けやり」などの奉納があり、今年一年の無事を目の当たりに見たような思いに駆られました。

恵比須と戎

2007-01-10 17:50:50 | Weblog
 今日も朝から吉備津神社のえびすさんへ、仰山の人がお参りしていたようです。仰山と言うても、まあ、平生の日より、朝からややお参りが多いかなと言う程です。そんなに車が渋滞するほどではなかったのですが、でも、お昼前後は、熊手などのを売る巫女さんたちが食事が取れないほどの大賑わいを見せたと言うことでした。
 ところで、朝刊に、桂米朝の「口まかせ」では、「えびす」を「恵比須」でなく「戎」と言う字を使っておりました。熊手のことも書いてありました。 これもどうでもいいような事ですが、新聞には、ほこつくりに「十」でしたが、本当は「ナ」ではないかと思いましたがどうでしょう。
 「そんなちっぽけなことどでもええ。どうでもええ」と、きっとおっしゃるのではないかと、師匠の、苦虫を噛み潰したように、口をへの字に結んだ、なんだかようわからン噺の時にするあの顔を思い浮かべては、一人ほくそえんでおります。
     

 ちなみに、吉備津様のえびす宮は「えびす」とひらかなで書かれています。
 温羅か、事代主命か、蛭子か、また、夷かいずれでもよいように、敢えて、ひらかなを使ったのかもしれません?・・・・
 大阪や西宮のえびすさんでは、どんな字使っているんでしょう。大阪は、米朝さんのお話にある戎さんかな。西宮ではどうでしょう。
 誰か教えて。わざわざ行くほどではないと思いますので。

恵比寿さん

2007-01-09 23:06:04 | Weblog
 今日は宵恵比寿とかで、吉備津様から「商売繁昌で笹持って来い」の声が聞こえてきます。
 このお宮さんから「笹もってこい」と言う声が聞こえだしたのは、そんなに遠い昔ではありません。
 元禄4年の吉備津宮御絵図には、現在、えびす宮がある辺りには三重塔が描き込まれてきこまれて、このお宮は描かれては居ません。

 それはそうとして、「えびす」とは一帯どんな神さんでしょう。辞書で引きますと、恵比寿(須)、夷、蛭子、戎、胡等が当てられています。平安の頃にも、「夷」社の分社を江比寿とかな書きにした例もいくつか見えるようです。
 この「えびす」とは、いかなる神か、諸説芬々として定かではないのですが、      
 その中の一つに、まことしやかに、これぞ「えびす神」真の姿だと説明されているものがあります。
 「いざなぎ、いざなみの二神は一男三女を産給う。所謂日神、月神、蛭子、素盞鳴尊これなり。
 蛭子は三年まで足立たぬ尊としておわしければ天石櫲樟船(あめのいわくすぶね)に乗せ奉り、大海が原に推しだして流され給うが、摂津の海に流れ寄りて、海を領する神になりて、夷三郎殿と顕れ給うて、西の宮におはします」
 と、源平盛衰記に見えます。
 でも、真実はなかなか複雑怪奇で、この神の説明は一筋縄では行かないようです。
 夷三郎でもそうです。夷と三郎は、元々は別々の神であったのがいつの間にか一つになってみたり、大国主命がえびす神であったり、大国主命の御子事代主命(鯛を釣り上げた竿を持つえびす様)がえびす神であったりしながら、度々姿・形を時代時代で作り変えたりしながら、今日のような「えびす神」が出来上がったようです。
 えびす神は、今は「商売繁盛」の神ですが、元来は海全般の神から、海と関わりある航海者の安全の神に、さらに、航海者達によって、各地の産物等が交易されるようになり「市」が立ち、ここでの商売がうまくいくようにと祈った神にと、時代とともに変化し、商売繁昌を願う神となっていったようです。そのようにして、時代時代を経て、ついには財産を授ける福の神としての熱い信仰を得たようです。
 
 でも、西ノ宮が「えびすさん」の本家であることだけは変わらないようです。その西ノ宮から室町頃日本各地に分社されていき、商業が盛んになる江戸に入って、益々繁昌し、日本全国隅々に行き渡ったと思われます。
 江戸時代に商業の中心地となった大阪の恵比寿神社が隆盛を極めたのも至極当然の事です。

 ではなぜ、吉備津神社に、その分社があるのかはよく分りません。
 私の勝手な推測にすぎませんが、2,3説明しますと。
 ①元々「夷」とは蝦夷(えぞ)等異俗人を呼んでいました。九州の人をも景行天皇の時代には「夷」と呼んでいました。大和から遠隔地に折るものを総て「夷」であったようです
 また、平安の昔、野蛮で力猛々しく勇猛な人たちの集団であった関東・東北の武人たちを「東夷」と卑下しながら都の警護に使用していた貴族達から呼ばれていたそうです。
 これらのことからでも分るように、「夷神」は、ごく初めのうちは、軍事・武力に関わる神として使われていたようです。
 
 吉備津神社では、勇猛果敢な無法者、異俗人、鬼であるとされる「温羅」を何らかの形でお祭りしなくてはならない事情が生じ、「温羅」と言う言葉の代わりに「夷」(勇敢で獰猛)と言う言葉に置き換えて「えびす宮」に仕立てた。

 ②地域の古老の話しに
 「昔、賀陽栄西(栄西禅師)が宋の国へ留学する時、其の船の舳に、吉備津神社末社「えびす宮」の御神体を結わえつけて行ったので、安全な航海ができたのだ」
と、よく話しておられます。
 これから考えると、平安時代にお祭りしていた「えびす神」は「夷」ではなく「蛭子」だった。

 でも、現在お祭りしている「えびす神」は事代主命のようです。「商売繁昌で笹持って来い」の神さんのようです。
 本来の信仰の意味が廃れ、当代の流行り神にその使命を奪われたような形に変化した「えびすさま」に成り下がってしまっているようであります。
      (verbal  myths)
 

 
    ご批判願えればと存じます

今年こそ

2007-01-08 11:27:11 | Weblog
 「こそ」なんで、そんな言葉は、ナポレオン流に言いますと「私の辞書」にはありません。

 そこで駄洒落て;
  
 僅かばかりの年金暮らし
 明日の風は
 我には吹かず
 右を向いても左を見ても
 金・金・金の世の中にゃ
 私の居所ありません
 貝になりたしなりたし貝に
 殻に籠って泥の中
 浮世の波の
 その下で
 日がな一日
 ひっそりと
 みざるきかざるいわざるで
 こそっといきしておるだけの
 しがない老いの物語
 誰にも聞いてもらえずに
 プログに書いてみたけれど
 どうにもならない
 
 ああーしょうもなし 
 :しょうは生・翔・尚・将・賞・衝・勝・祥・笑・昇・照です。
  しょうであるものは床と障のみ

 
 以上、年寄りの冷水です。
 本心は「若者には負けん」心をまだまだもって行きたいのです。
 これが、わたしの今年の「こそ」です

 

吉備の中山を歩くⅡ(1月6日)

2007-01-07 18:23:53 | Weblog
 細谷川の潺湲とした流れを、こよなく愛した吉備津の学者「藤井高尚」は、この谷川を如何に書き連ねただろうかと思うも、その資料等が手元になく、探し様もなし。彼の随筆「松の落ち葉」の中にでもと思うのですが。
 いたしかたなく、、まんざら関係無きにしも非ずの露伴子の「易心後語」から、高尚ならしもと、断章取義よろしく書き綴ってみました。
 
 ご批判を仰ぎたいものです。

 「吉備津宮を過ぎ宮内とかや申して、主に旅の衆に投げの情けをかけまくもかしこき手管ありや無しや女郎達の居たまうところなりと往時を懐かしむ吉備の中山の峰峰を掻ける下る風背に受け、古やかなる鳥居くぐりて、それよりやや坂道にかかり石多き路をたどりて進む。いにしえの屋舎の門に真真新しき注連縄などみえ、昔ながらの情緒ゆかしき風情漂い面白し。
 ややありて対岸の岩聳えて、滝宮に涿水の掛井もあり、景色も眼覚むる心地す。
 沢に従い人径の許すばかりの小道に至れり。さらに登り行けば聞きしに違わで流れの態も尋常ならず、あるかなしかの水粛々として重畳たる巌渓を流れ下る。潺流罅を行く風情まことに塵外の思いを発せしむ。その音まことにさやけし。
 今、万葉散り寂寞としたる小径なれど、桜の樹さえ少なからず見ゆれば、花時の眺望如何に清絶美絶なるらむ、想いやるだに、今は枯れ果て絶えし松の翠の間を佐保姫の刺繍して出す桜花甲所に一簇の雪乙所に一団の白雲と現じなばわずかばかりの流れにも巖にも一倍の光彩を発して水妙香を伝え石落紅を点ずる風流実に賞するに足る事なるべし。

 
 まあ、続けると限がないので、この辺で打ち切りますが、ここの眺めは「絶景なり」と賞した石川氏にも一度見せたいものであります。

 その細谷川の小路を登っていきますと、やがて、当の「高尚」の句碑に出会います。小笹がその回りに生い茂り、誰も省みそうに無い場所に淋しく立って居ます。
 桜と松をこよやなく愛した高尚の記念碑にしてはお粗末過ぎます。その刻した字も風雨に崩れて読むことすら出来ない状態で立っています。
 栄枯盛衰を目の当たりにする心持でそっとその句碑に一礼して御陵を目指しました。

 石碑に刻してある高尚の和歌の字は読めませんが、案内板によると

   ・露深き 谷の桜の 朝しめり
              見し夕暮の 花はものかは
   ・もみじ葉は 谷ふところに かくしたる
              千いほの玉の 林なりけり

 の2首だそうです。
 
 明日は(その3)を書きます。では、今日はこれで。  

七草粥を作る

2007-01-07 16:25:19 | Weblog
 今日は七草、朝からである。
 「わが衣手に雪」を、と、思いつつ、玄関先に出でたまではよかったのですが、余の横殴りの吹雪にたじろぎ、家へと駆け込み戻りました。    
 昔の人の思いに至るには相当の苦労が要ることもよく分りました。
 それにしても、実にタイミングのよい今年の春です。
 
 それからしばらくは降りまた止みを繰り返しながら、お昼前まで続いていました。
 孫達が旅行から帰ったと言う知らせを受け、雪の止んだ、北風だけが相も変わらず吹きすさぶ、春の野に出でて若菜を摘みました。
 「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざ」は、たやすく吉備の野道から見つけられました。すずなとすずしろはわが畑から取り入れ、七草を孫達にも届けてやりました。
 暖かい日なら孫達と一緒に七草を探すのですが、今年は、風邪気味だということで私一人で採って来ました。
 昔ながらの風習を体験させておくのもと思い、毎年家人に笑われながらも 続けております。
      

   

吉備の中山を歩く

2007-01-06 18:32:17 | Weblog
 今日も昨日に続いてです。又、運動不足解消のため、今日は山登りとしゃれ込みました。山といっても吉備津神社が抱かれている、吉備の中山です。高さは一番高いところでもせいぜい170mぐらいの低いお山です。
 この「吉備の中山」の名は、清少納言の「枕草子」11段にも出ています。
 (どうでもよいのですが、本によっては載ってないのもあります。江戸時代の初めの写本には載っているのですが、それ以前の写本には「吉備の中山」の名は見えません。)
 その他、古今集にも、新古今集にも、多くの和歌集にも、平家物語の中にもみえます。
 まあ、なんだかんだと言っても、比較的早くから歴史の中に登場してくる全国に名高い名山であることは確かです。吉備地方随一のお山です。
 
 古今集;
   まかねふく 吉備の中山 帯にせる
          細谷川の 音のさやけさ
 新古今集;
   ときはなる 吉備の中山 おしなべて
          千歳の松の 深き色かな
 このほか、古来、多くの歌人が、吉備の中山を詠んでいます。
 
 有名な人では、前にあげた清少納言の父親でもある清原元輔、俊恵法師、後鳥羽院、大僧正慈円(いずれも百人一首の歌人です)などの歌が,今に伝えられています。

 元輔;
   誰か又 とし経ぬる身を 振り捨てて
          吉備の中山 越えむとすらん


 谷川の潺湲とした「音のさやけさ」を聞きつつ、「寒の入り」にしては、随分暖かな真冬の日差しに背中を押されつつ登っていきました。

運動不足解消のための参拝。 こんなお宮参りてあり?

2007-01-05 22:32:50 | Weblog

 今日は、もう正月5日です。 

 冬にしては、随分暖かな一日でした。
 そこで、正月以来の運動不足の解消にと愛車(10年来使っている、わが自転車「スケゴウ」)を吉備自転車道に繰り出して吉備津彦神社にお参りしてきました。 
 今日も又、うっかりしてお賽銭袋を忘れて来ました。それぐらいの信心心しか私には持ち合わせがないということだと思って、少々うんざりもしながら、自転車を扱いでいきました。 

 お賽銭なしに、本殿に拝礼して後、お正月だけ入ることが許される本殿地の四隅にある御崎神社にもお参りしました。(正月以外は禁足地) 
 吉備津神社にも本殿の四隅に同じように御崎神社が鎮座ましましてありますが、お祭りしている神々は違っているようです。  吉備津神社には温羅がお祭りされていますが、ここには温羅の名前を見ることは出来ません。 
 岩山神社もありました。
 そこら当りの神々を拝み、東側にあるお稲荷さんにも詣でました。その途中に真新しい温羅神社も見えます。その他たくさんの神々も鎮座ましましておられました。 
 その中の一つの祠に「保食神」も見えました。前に書いた「うけもち」のかみです。
 
 この保食神については、永山卯三朗の「岡山県農地史」に、『天照大神が葦原中国の保食神を見に月夜見命を遣わした時、この神が口から飯、魚、獣を出して饗したので、月夜見神は忿て保食神を殺した』とあります。それが元で、この国にお米や麦などが出来、それから食べ物ができるようになったと言う事らしいのです。どうも、農業(食物)を司る神のようです。
 

 表側の御手洗池の環状列石のある亀島の中にもお参りしました。その祭神は宇賀魂命であると記されていました。吉備津神社の宇賀神社と同じ神様がお祭りされていました。この神様も農業の守り神であるらしいのです。なお、お稲荷さんもやはり、出発点は農業の神さんであったらしいです。

 色々な神様が、同じ所にごちゃごちゃに入り混じって、どの神様も、どの神様も、総て拝んで、特に、この神でなくてはならないと言う事でもなく、また、特別に拝まなくてもそれでよいと言うよな神さんは、日本人以外の人には信じられない事でしょう。

 そんなことを考えながら、運動不測解消のためのお参りをしました。
 こんなことも、よその国の人には考えられない事だと思いながら、どの神さんにも、お参りだけしました。二礼二拍手はしたようでもありせんようでもあり。
 日本の神さんは本当に不思議な神さんですね。


宮内の神々

2007-01-03 22:38:14 | Weblog

 宮内をそぞろ歩きに辻々を回ると、板倉と同じように小さな祠が、こんなところにもと思うほど、あちこちに見つけることが出来ます。 

 そのうちの一つに、旧藤井高尚邸跡の横に小さな祠が建ています。平生はその扉は閉ざされているのですが、今日は正月です。その扉は開いて、町内の人が正月飾りをしてお祭りしていました。
 中に「産土宮」と書かれた木札が掲げてありました。 「うぶすなのみや」と読むそうです。
 弥生の時代になり、血縁関係でなしに、次第に地縁関係で地域の人々が結びつきます。それが、この神の誕生を見たのだそうです。 

 「産土」とは、その土地に住んでいる人々が、同じ場所に生まれたという意識の元に団結してこの神を中心と社会を形成してのだそうです。八幡様と同じ意味を持つ神様です。八幡様も、もともとの起源は、応神天皇だとされていますが、それより古くから、この「産土神」はその土地土地で信仰されたであったらしいのです。 そういえば、この吉備津地域には八幡様はありません。 吉備津彦命やその父、第7代孝霊天皇をお祭りしている吉備津神社に対して、応神天皇十六代の天皇です。そこらあたりと関わりが何かありそうです。 その代わりと言っては何ですが、「産土神社」が祭られたのかもしれません。 

 その側には「稲荷様」のお社もあります。この祠にもう半分ぐらい壊れていて、その姿ははっきりとは分らないのですが、キツネの灯篭みたいなものがありました。どうして壊れたのかな。これも不思議の一つです。 


吉備津様の正月風景

2007-01-03 19:08:28 | Weblog
happyyear

吉備津さまに初参りに行ってきました。元旦と今日の2回も。元旦は、お賽銭袋をついうっかり忘れていまったので、今日、持って再度お参りしました。
 周りの者は、
 「神さんは、お賽銭より、お金のほうを喜ばれる。お米なんか上げても仕方ない」
 と、しきりに言うのですが、私は昔から、賽銭袋にお米を入れて、それを少しずつ、総ての神さんに上げています。ただ、お金を「ちゃりん」と投げ入れて、それで、お参りが済んだとは思えません。だから、今も頑なに、この流儀を守っています。
 ゆっくりと2礼2拍手で、うやうやしく頭を下げて、やおら頭を挙げ神殿にしばらく正対して神を拝みます。
 なんとなく神が宿ったようなすがすがしい気分になります。他では味わう事が出来ない気分です。
 
 まあそんなことで今年も無事に一年が過ごせそうです。

 年末に、香川大学の地元の人たちの吉備津神社の信仰についてのアンケートがありました。その結果を楽しみにしています。

 とにかく国宝のお宮さんです。荘厳な不二の神さんであることには間違いありません。創建600年の歴史が、正対すると何かを物語ってくれます。

 お神社の広場で、恒例の餅つきをしていましたので写真に写しました。正月ならでの行事です。