私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

太閤の井戸

2008-02-29 10:09:21 | Weblog
 杉尾の山神様の直ぐ西側に小さな小さな谷川があります。今はこの上流(鼓山のど真ん中)に山陽高速道のトンネルが出来、それ以来、渓流は絶え、完全な涸れ川になっています。以前は年中潺湲たる渓流があり、沢山の沢蟹がいて、近くの子供達に夏の絶好の遊び場を提供してくれていたそうです。
 この渓流が流れ落ちた辺りに、羽柴秀吉が高松城の水攻めの時に飲んだと言われる『太閤の井戸』が、今でも残っています。谷川は涸れてしまってはいますが、この井戸だけは不思議な事なのですが、
 「年中、この井戸の水を一杯湛え枯れたことはない」
 と、近くの人は言っています。
 
 秀吉云々はどうかは分りかねますが。この鼓山に陣取り、山陽街道の守りを固めていた秀吉の弟、羽柴秀長の5000人もの兵士の飲み水の一部になっていただろうというのは確かな事だと思われます。
 
 なお、この井戸は、現在、杉尾の太田さんが管理しておられます。

鼓山山麓(杉尾の踏切)付近

2008-02-28 19:18:31 | Weblog
 地域の人たちの奉仕によって鼓山登山道が大変きれいに整理されました。
 登山口にある山神様の側には、
 「山神様にお参りしてからお登りください」
 と書かれてある案内板が立ってありました。地域の人たちが、如何にこの神様を大切にしているかが、手に取るように伝わってきます。
 この山神様を少し降りたところにあるJR吉備線の杉尾踏切辺りに「嘉永二年」という字が彫り込まれる石灯籠があります。
 
 江戸時代には、この石灯籠の前辺りを「足守往来」が通っていて、多くの旅人の足引きとめていたと言うことです。
 堀家家に嫁いだ佐伯氏喜智女もその弟緒方洪庵も江戸の画家司馬江漢も藩主木下侯も、勿論、豊臣秀吉も加藤清正も多くの織田方の武将たちもこの道を行き来したのではと思われます。
 なお、この直ぐ南が『真金十字路』です。松山、足守(高梁)・庭瀬往来が旧山陽道を中心にして真金の西端で十字路となりそれぞれが繋がり、明治以前の交通の要所となっていたのです。
 なお、この足守往来の通っていた鼓山山麓付近は、土地全体が周りの土地より一段と低くかって湿原をなしていたのではないかと思わせる地形が見られます。一説によると真金川(足守)がながれて、この石灯篭の付近で南に大きく蛇行して庭瀬辺りに流れ込んでいたのではと思われます。自然堤防の跡だと分る地形も見えます。
 なお、現在、この地区の字名は「立田」と呼ばれていますが、「立」〈たつ〉はその昔の鶴〈たず〉が変化した言葉で、この辺りは湿原が広かっていて鶴が沢山住んでいた土地ということではなかったかとも、私は想像していますが。
 

 このほか、この付近には面白い話が残っていますので明日からそれを2、3回に分けてお話ししたいと思います。

驚き!

2008-02-27 12:19:59 | Weblog
 土曜日に顔に付けた孫の大傷が、たった3日ほどで、ほぼ完全に自然治癒しました。
 
 たった3日ですよ。年寄りには考えられないくらいの速さで、乳幼児の身体的損傷は回復するのです。若いということはいい事ですね。
 驚異すべき自然の力を思わずにいられない、この2、3日でした。
 

 それにしても、笑顔っていいもんですね。


2008-02-26 15:01:40 | Weblog
 高尚先生や山陽先生の師であったと伝えられる笠岡の小寺清先という人がおられました。
 この小寺清先という人について調べているうちに、高尚先生と同門の人に「鳧翁」という奇妙な字を持つ先生がおられることが分りました。
 辞書でも分るのですが、この字について教えてもらいがてらに、久しぶりに例の漢文の先生に会ってもいいと思い訪ねました。

 鳧という字についてです。「フ」と読み、「かも」「けり」という鳥のことを言うのだそうです。けりという鳥がいるのかどうかは知りませんが、「けりを付ける」というのは、本来は「鳧(けり)がつく」であって、和歌などに見える助動詞「けり」ではないという。またもや目から鱗です。
 又、彼は言う。
 「こんな言葉があるのを知っているか。君」
 と、言って、紙切れに字を書いてくれます。
 その紙切れには、彼の特長でもあるミミズが這ったようなお世辞にも上手だとはいえない字で、堂々??と書いてくれます。でも、彼は、自分の書く字が世の中で最も美しい文字であると自負しているのですが、そこらあたりは私も大いに疑問です。
 その紙には
 「鳧脛雖短続之則憂」と書かれてありました。
 「鳧脛短じかしといえども之を続がばすなわち憂う」と読むのだそうです

 そして彼は、最近の事例として、この2、3日話題の中心になっている例のイージス艦「あたご」の事件を語りだします。
 「大体、あの艦の自衛官がたるんでいる。アメリカの真似かどうか知らんが、実験かなんかで空行くミサイルをたった一回打ち落としただけで『成功した成功した』と有頂天になって、錦を着て故郷に戻るような気分になって通うりょうたのと違うかな。俺様が通っているのだ、そこら辺りの木の葉のように漂っている小船たち「邪魔だ邪魔だ」と言わんばかりに通うりょうたのと違うかな。
「どうぞお先にお通りぐださい」
 と言うのが当然とばかりに船を運航させていたその心が見え見えだ。ありゃどう見ても自衛艦がわりい。言い訳ばかりしている。でも、言い訳をすればするほど、粗が出てき自分達がこまっとるじゃろうが。あのことを言うておるのじゃ」
 「へえ。そりゃ何のことですか」
 と私。
 「ああこれか。これはその紙に書いてある言葉の意味じゃ。鴨の脛はあるかないかぐれえ短こうても、じゃあ、と言って長くしてやったら鴨はこまるばかりじゃ。それと同じで、言い訳ばかりしておったら結局自分が困るばかりになると言うためしだ。わははは・・・」

 と、これまた例の高笑いを聞きながら彼の家を辞しました。
 なお、この言葉は彼によると「荘子」の中にあるのだそうです。念のために。
 

鼓山の登山道の草刈

2008-02-25 21:22:37 | Weblog
 日曜日の朝です、6時に目を覚ますと薄らと今年に入り数回目の雪景色です。どんよりとした曇り空からしきりに雪が舞い降りています。
 「今日は無いのかな」
 「そうですとも。こんな雪が降っているのに草刈なんてできるものですか。第一滑って大怪我でもしたらどうするの」
 そんな夫婦の会話は兎も角として、まずは、『鼓山を守る会』の会長平松氏に電話して確かめます。
 「雪は降っているんじゃが、このあたりの2,3人と相談したら『てえしたことはねえ。やろうじゃあねえか』ということになったのでででくれんかの」
 という返事。
 家人のぶつくさと言う声を後に、早速、草刈機を持って杉尾の山神さまに急ぎます。

 と言うのは、毎年、吉備津の老人会ら有志の人達のてによって、鼓山の登山道(標高110m、道420m)の草刈をして、三月に入ってからの吉備津保育園の子供達の登山のための道の整備をしているのです。
 毎年、市からいくらかの補助金を受けていますが、地域の人たちの願いは、そんなことは兎も角、この「鼓山」と言う名を出来うる限り永遠に残したいと言う気持ちから出発して、今日まで十数年も続けられています。

 この「鼓山」は全国的な話題として歴史の中で取り上げられることは皆無と言っていいほどだと思いますが、日本歴史の中にあって特異な戦術として知られる「高松城の水攻め」は、この鼓山を抜きにしては語ることは出来ないくらい重要な山なのです。戦いとして歴史の中に深く食い込まれ、永遠の輝きを放っても当然なお山なのですが、なぜか、今は残念な事に歴史の中から完全にで消え去ってしまって、地元の人でさえ
 「知らないよ」
 と、平然と言うぐらいに落ちぶれ果ててしまっているたった110mのお山なのです。輝きも何もあったものではありません。
 秀吉の高松城の水攻めの時、この鼓山に陣して山陽道の守りを固めてた秀吉の弟「羽柴秀長」という武将がいました。もし彼がいなかったなら、この時の勝利も勿論その後の日本統一も徳川幕府も決してありえなかっただろうといわれるぐらい、重大な歴史的事実の存在が、今では、この鼓山と同じように忘れられてしまっているのですが、この秀長という武将のはあるのです。

 こんな「秀長」の名を後世に永遠に伝えていくには、地元の幼い子達に知ってもらいのが一番良い方法だと思って、毎年吉備津地区の老人会が中心となって行っているいる事業なのです。
 園児達が登る道をきれいに整地してあげるのです。それこそ其処までしなくてはと思われるくらい徹底的に草刈をします。
 「もし子供達に怪我でもさせたら」
 と言う思いが、作業に参加している人全員からひしひしと感じられる心のこもったボランティア活動です。
 そうして半日をかけて、登りやすい愛情の見える道に仕上げているのです。
 この仕上がった道を通って園児のお父さんお母さんも一緒に登ります。
 それによってより沢山の人がこの鼓山や秀長を知ってくれ、郷土を深く愛する人になってくれることを願いながら汗を流しているのです。

 こんなボランティア事業も積極的に執り行われている吉備津なのです。
 いい郷でしょう。わが町吉備津は。

頼山陽と母

2008-02-24 13:12:31 | Weblog
 井山の宝福寺の雪舟の石碑についてお話した時、高尚先生の碑文の文面を見て、山陽先生は 
 「私は、かなは書かない」
 と、言ったと伝わています。
 山陽先生の「かな文字」は、漢字に比べて迫力美しさに欠け、書く自信が無かったからお断りしたのではと、勝手に想像していました。そうすると、山陽先生の「ひらかな」による文面は案外少ないのではと思っていましたが、捜してみると、沢山残っています。
 母親さん思いの彼は、結構、沢山の母梅颸(ばいし)に関する歌を作っています。その歌集などを見ると漢字と同じぐらい立派な堂々としたひらかな文字が並んでいます。
 

 写真は、彼の筆によるものです。一首目は解説によると
 
  “花も見せつ もみちも見せつ わが母に
          わかれて帰る 雪ふらぬ間に”
 
 と読むのだそうです。
 
 このように、父の死後、山陽は度々京へ母を迎えて、二度吉野山、三度琵琶湖など、各所の名勝故跡を案内して、母の喜びを喜びとして感懐を沢山詠吟しています。
 これを見ると流石、山陽先生、漢字だけでなく、なかなかひらかなもうまいもんだと舌を巻いています。どうしてひらかなは書かないと言ったのでしょうかね。

 

 また、一方、高尚先生もなかなかの能筆家なのです。それなのに、どうして総社の岡崎某氏は、わざわざ山陽先生の書を所望されたのでしょうかね。
 これも、又、不思議なことです。

 まあ、それは兎も角も、この山陽の書があったからこそ、色々と山陽先生の人柄をも推察できる材料となってくれているのです。

なおの初傷

2008-02-23 15:23:14 | Weblog
 「私の町吉備津」は今日はお休みして、我家のコマーシャルです。
 
 まあ、聞いてください。
 それは一歳八ヶ月になる孫が初めて怪我をしてのです。
 昨年の今頃は、まだ、はいはいも出来ず、じい様ばあ様をヤキモキきさせていたのですが、いつの間にやら歩き出し、近頃ではジャンプする姿にうきうきと見ほれていました。近頃では、テレビ幼児番組の歌に合わせて両足とびまでして踊りだすやらしています。床の上だけかと思いきや、一昨日は炬燵の上から床まで両足そろえてジャンプします。二度目か三度目か分りませんが、そのジャンプを失敗して前のめりになり、其処にあった籐製の籠にしこたま顔を打ちつけ、頬骨の辺りに大きな擦り傷をこさえたそうです。
 
 その様子を、「なお」の兄「しん」が早速、電話で知らせてくれます。何はほっといてもと直ぐに駆けつけました。美男子の顔に傷でもと心配は収まりません。
 幸い翌朝にお医者様に見ていただいたのですが、ただの傷だと言う事。やれやれと一安心の一幕でした。

虎と天照大神 2

2008-02-22 18:23:06 | Weblog
 さて、「どうしたらいいもんか」と、あれでもないこれでもないと思案を重ねていた岸駒です。
 たまたま、或る時、京の茶屋かどこかで芸子の踊りを見て、はたと手を打ち、早速家に帰った岸駒は、山陽先生宅を訪れます。
 「これはこれは岸駒の先生、この前にはいい虎の絵を頂きありがとうございました。今日は如何様なるご用事で」
 「うん・・、今日は ちと貴殿にお頼みしたい事があって罷り越したのじゃ」
 そこはどちらも相当な狡獪なる人物です。ややあって、岸駒先生が切り出します。
 「ちょっと入用があって、是非、先生の書を2枚ほど所望したいのじゃがお願いできませんか」
 「私の書ですか。いいでしょう。だがいいですか、一枚が100両ですよ」
 と平然と言う。
 「ああ、結構」と、これもやおら懐から200両の金を取り出し、山陽の前に置く。
 それからしばらくして、「出来上がった」と言う山陽からの知らせに、待ってましたとばかりにさっそく取りに行く岸駒。
 「してやったり。はまったな山陽先生よ」
 とさも満足そうな顔をしながら出来上がった山陽の書を見ます。途端に岸駒の顔から血の気が引き、二の句が継げなかったという。
 
 それもそのはず、出来上がっていた書には、堂々と「天照皇大神宮」と書かれていたそうです。

 岸駒の計画では、山陽に漢詩か何かを書いてもらって、それを祇園の芸子の浴衣か何かにしつらえ着せて、客人の前に繰り出そうと言うのだったらしいのです。
 でも、浴衣に「天照皇大神宮」とは、天下の岸駒といえども何が何でも出来るもんではなかったようです。
 「ううむ・・・」と言ったきりで、その書を押抱いて退散したと言う事です。
 
 こんな一面も持っている山陽先生です。
 
 これも蛇足になりますが、この山陽先生の書は今どうなっているかは分らないのですが、岸駒の描いた虎の絵は、真偽のほどは分らないのですが、吉備津の某家にあると伝えられているとかや。

                        

虎と天照大神 1

2008-02-21 10:09:06 | Weblog
 こんな逸話も山陽先生には付いて回っています。

 山陽24歳の時、その家督を叔父の子に譲り、居住の本拠を京都に移します。
 山陽と同じ頃、『虎の岸駒』といわれた金沢出身の画家が、やはり京都で活躍していたいました。
 鼻っ端の強い同士のこの2人が、どんな関係で知り合ったのかは分らないのですが、お互にいあまりいい感じでは付き合っていたとは思われませんが、兎に角、軽い付き合いはあったようです。
 
 そんな或る時、山陽は岸駒の家を訪ねて、二枚の虎の絵を描いて欲しいと頼みます。
 「折角の貴殿の頼みと合っては、断るわけにもゆくまい。・・・・よろしい描いてしんぜよう。ただし、一枚が100両です。・・・・良いいですか」
 と、さもどうだと言わんばかりに平然と言いのける岸駒。100両と言えば大金です。当時、応挙の絵でも10両もすればいい方だそうです。
 「うん」と言って、山陽はやおら懐から200両の金を岸駒の前に差し出します。そこらあたりが山陽の計算かもしれません。いくら山陽だといって、そう容易く懐の中から200両もの大金を直ぐに取り出せるわけはありません。予めそんなことぐらい言いかねない岸駒の性格を知っていたのだろうと思われます。
 
 それから何日かして、岸駒から出来上がったと言う知らせ。知らせを受けた山陽は急いでそれを受け取り、二枚の虎の絵を抱えて、一枚は表装屋へ、もう一枚は、西陣織屋に持っていったと言う事です。

 ややあって、こんな噂が京都の街中に流れます。
 「あの岸駒の描いた虎の絵が相撲の力士の化粧回しになって土俵を回っている」
 と、大変な評判になったらしいです。

 そうです。山陽先生がどうにも鼻持ちならぬ岸駒に一泡吹かせてやろうと、兼ねてから一計を案じて、山陽先生贔屓の力士の化粧回しとしてお目見えしたらしいのです。こんな遊び心もある山陽でもあるのです。『日本外史』という明治維新の改革を支える元になった本をお書きになった堅物一辺倒の先生ではなかったのです。
 
 「こにっくたらしき山陽め、まんまとしてやられたわい」
 と苦虫を噛み潰したような顔の岸駒先生。
 「覚えておれよ。安芸の先生」
 何かいい仕返しはと岸駒は考えます。


                       次回へつづく

山陽先生の真骨頂 2

2008-02-20 08:23:04 | Weblog
 頼山陽という人は調べてみればみるほど面白いというか、「これぞ正に奇才の人だ」と、思われます。
 例えば、十二歳の時
 「男児不学則已 学則当超群矣」
 即ち、男の子が学問をする以上、常に秀でていなくてはならない。自分もきっとそうなってみせると強い信念を謳い上げています、
 「孰謂吾言之狂乎」
 『こんな事を謂う私を誰が狂人などと嘯こうか。決して謂わないであろう』と、大言壮語しています。

 これが十二歳の少年の言うことかと驚くべきものです。

 さらに十三歳の時に
 「・・・天地無終始 人生有生死 安得類古人 千載列青史」
 と謳い、十四歳の春を迎えて何をぐづぐづしておれましょうか。やらねばならないと、果敢に自分自身を奮い立たせています。

 中学の1、2年生で、こんなことを考えるような人が、現代の社会におるでしょうか。

 まあ凄いお人です。これでは高尚先生も、年齢には関係なく、一目置かなければならないのではとも思いました。

 調べついでに、あと数回、山陽先生の正史に決して書かれていない面白い逸話を取り上げてみます。

山陽の真骨頂

2008-02-19 09:30:39 | Weblog
 山陽は書かれた高尚の文をそのまんまに、昨日ご紹介したとおりの惚れ惚れするような楷書で書き上げます。
 なお、言い伝えによりますと、高尚は最後に起草した文には、自分の名「宮内長門守従五位藤井高尚 撰」としてやや大きな字で、そして、この文を書く頼山陽の名は、石碑の裏面にでもと思われていたかのように小さい字で文面よりやや離れた所に「安芸 頼襄書」と書かれていたそうです。
 所がです。山陽はその高尚の文を見て、そのままに書き写すのですが、出来上がった紙面を見ると「安芸 頼襄書」という字は、「・・・高尚 撰」等の字よりはずっと大きく、しかも、ものすごく力を入れてより丁寧に、すぐその後書いてあるます。
 

 横の文字と同じ大きさで「・・・藤井高尚 撰」と書かれていますが。「安芸 頼襄書」という字が一段と大きいのに気が付かれると思います。
 
 これを見られた高尚先生はどう思われたかということはわかってはいませんが、「ふん、なかなかやるわい、山陽さんよ」ぐらいには思われていたのかもしれませんが、きっと知らん顔の半兵衛さんと決め込まれていたのではと思われます。そんなことぐらいでびくつく先生ではありませんもの。
 その頃ようやく山陽の名声も次第に高くなっていた時期でもあるし、笠岡の小寺清先という人の同門で弟弟子でもあるという関係から近親間をもたれていたということは確かです。それは、これからも高尚と山陽の交渉はずっと続いていますので。例の沼本氏の碑文依頼はこれより4年後ですから。

 山陽先生の向こう意気の強さがこの碑石の中から読み取れます。そんな意味からも、この碑はまことに珍しい石碑でもあるのです


 なお、山陽先生は30歳前後からお酒を窘められるようになったとか、若い時は甘いもの、特に「あべかわもち」等の甘いものには目がなく、お酒には目も呉れないという話でした。でも、結局、このお酒が命取りになり53歳でお亡くなりになっておられます。
 

雪舟の石碑

2008-02-18 15:17:42 | Weblog
 高尚先生の従兄弟の美屋女との関係から、円城の沼本家の墓碑について頼山陽に依頼して書いてもらったのは文政4年のことです。
 この4年前、文化14年には、高尚は総社の素封家岡崎某(? 多分こんな苗字だったと思いますが間違っているかもしれません)から雪舟の記念碑を建立するからその文を書いて、できる事なら、その書は高尚と昵墾の頼山陽に書いてもらって欲しいと頼まれます。
 其処に、どんな経緯があったのかは分りませんが、兎に角、高尚の碑文と山陽の書が出来上がります。
 
 話はそれだけですが、これが出来上がるまでに面白い経緯があったそうです。

 その前に、当時、高尚は54歳、山陽は38歳だったそうです。16歳の年齢の開きがあり、長幼の序が大層重んじられていた江戸の末期ですから当たり前の事だったのかも知れませんが、少々、高尚は山陽を見下していた所が無きにしも非ずだという事でした。これを頭に入れて、次を読んで頂きたいのです。

 高尚が書いた雪舟の碑文は、それまでの碑文の常識を逸して、当然、ひらかな交じりの和文で仕立てたのだそうです。
 高尚が差し出した文面を見た山陽は、
 「私はひらがなはかけない、漢字文でなければ書けない。」
 と拒否したという。
 其処でどのように話し合いがついたのかは分りませんが、高尚は万葉かな(漢字)を使った和文に書き直したのだそうです。但し、私の言う事も聞きなさいというのでもないでしょうが、「ニ」というカタカナをこの800字ほどの文の中で2ヶ所残しています。それを、又、漢字しかかけないといった山陽が忠実にかどうかは知らないのですが、惚れ惚れするぐらい見事な楷書で書き上げてありますが。念のために。
 

 これだけであればどういうこともないのですが、これにはまだ続き話があります。長くなりますので、明日にでも又。

金友商店に残る「宝木」

2008-02-17 09:59:50 | Weblog
 今朝の新聞に派手派手しく西大寺の会陽の姿が報じられています。日本の奇祭の内の一つに数えられているとか。
 この会陽は、吉備地方では、昔はといても第二次世界大戦以前には、各地のお寺でも普通に行われていた行事で、今みたいに「西大寺の観音院」だけが「会陽」の一手販売みたいなことはなかったのです。
 
 このお祭りが神社でなく寺院で行われていたという所にも、日本ではない何か異国の匂いもするのですがどうでしょう。また、開催が岡山香川という地域に限定されているというのも何か意味があるのかもしれません。
 まあ、兎に角、大変な奇祭であることには間違いありません。どうして裸なのか、真夜中なのかも、まだあまりよく分ってはいないようです。
 こんな奇祭が吉備津の普賢院でも戦前には行われていたということです。
 この前の護摩供養の時お参りしておられたお年寄りの人が、
 『我々の子供の時にはあの本堂の梁から『宝木』が放り投げられて、裸の群集がその神木を取り合っていたのを見た。あの竜神池で垢離(こり)を取り身を清めていた若者の姿が今でも目に付いている』
 と、懐かしそうにおっしゃられていました。
 果たして何人ぐらいの人がこの会陽に参加していたのかわ分らないのですが、大変な賑わいを見せていたという。
 この吉備津の近くにでも、「大和にも新本にも」と、沢山の開催されていた土地の名が次々に上がります、それぐらい到る所で開催され近郷近在の若者が詰め掛けていたようです。
 なお、吉備津の会陽について言えば、私は見たことはないのですが普賢院で投げられた「宝木」数本が、板倉の金友商店には残っているそうです。
 
 こんな吉備津にしかない宝物を一堂に集めた『吉備津の昔展』みたいなものを開けたらなと、夢みたいな事をを考えています。
 県立博物館の人の
 「吉備津の町中には珍しい宝物が一杯転がっているでえ」
 と、言う言葉を、かって、聴いたことがあります。

婦女鑑

2008-02-16 10:06:48 | Weblog
 高尚先生が「松の落葉」で『湯浅元禎』という人を大変優れた岡山の儒者だと言っておると紹介しました、が、今日は、その元禎のお母さんの事についてご紹介します。
 この人も、昨日の「みや」さんと同じように、大変な貞女節婦と、当時の人々から褒め称えられていたそうです。
 明治二十年に宮内省から出版された『婦女鑑』という本に出ています。世界各地の121人の、婦人の鑑として聞こえた人を取り上げて紹介した本です。
 今なら、男尊女卑もはなはだしいとして非難ごうごうたるもになっているだろうと思いますが。
 それは兎も角として、当時、世界で冠たる「誉れ高き婦人」の一人として、わが岡山から取り上げられているのが、この「湯浅元禎の母、瑠璃子さん」です。


 瑠璃子さんは幼い時から「天性英敏」記憶力抜群であったようです。八歳の時、父と江戸に行くのですが、その途中の宿駅、風景、山川の形状まで暗記して父を驚かしたそうです。また、その夫、湯浅英が病気をして寝付いてしまうと一身に看病し、家事も自分で司り、ぬいはりのことまでいささかも息を抜かず、暇さえあれば日本の貞女節婦の話を口ずさみ、歌を詠み、あるいは琴を弾き楽しみ、近所に困っている人あればこれに助けの手を差し伸べ、身の回りにあっては、奢侈を憎み浪費をはぶいき、また、これは当然かもしれませんが、深く自分の子を愛しんだそうです。
 特に、元禎に対しては幼少の時から、清少納言の話を聞かせて、女性でもきちんとつけた教養が身を助けるのだと言って、学問の大切さを教えていたそうです。

 こんな立派な人の名が歴史の中に埋没している世の中がどうかしているのかもしれませんが、人はやっぱり、誰がなんと言っても、母が育てるものなのですね。
 どこのどの母でも、母は強くて偉大なる者です。

沼本みやー吉備津の女

2008-02-15 09:49:10 | Weblog
 高尚先生の従兄弟である美屋女は、先生の父高久の弟藤井高寛(左忠治)の娘です。21才の時、円城の沼本宇右衛門に嫁しています。
 生まれつき貞淑で、舅姑に慇懃に仕え孝養怠りなく、日々家業も育児に到るまで姑の指示によく従い、その意に反するようなことは事は決してしなかったという。嫁入りしてから一度も宮内へは帰えらず、また、家事もきちんとこなし、茶碗一つも割った事がなく、針仕事もきちんとできるし、舅に対しもよく肩や腰を按摩してあげたという。
 そんな一家も舅の失敗から、家の田畑など財産総てが人手に渡る逆境に陥った時、「みや」を不憫に思い、一家相談の上、離縁して里である宮内に帰らそうと決めたのですが、そのみやは頑として聞き入れず、夫を励まして家業に精を出したそうです。
 田畑をこまめに耕作し、家計を節約しながら、二人の子供の教養に努め、一度も大声を上げたことなく、雨の日は自ら手習い読書を教えたという事です。長男は後に名主役まで勤めています。夫は大阪に出稼ぎに行くのですが、その間貞操をよく護り、一度没落した家をよく守り立て、出稼ぎから帰った夫が中風に罹り言語不自由、起居意にならずであったが、そんな夫を励ましながらよく看護したのです。
 そんな「みや」行いは藩主の聞くところとなり、『婦徳の亀鑑なり』として、特別に米八俵を送って孝貞を称えたのです。
 この藩主から美屋女に送られた米を、円城の人が旭川さかのぼって船で運んだ時の事だそうです。船が円城に入るや否や、大きな一匹の鯉が飛び跳ねて、その舟に飛び込んだという。「みや」の行いを天が大いに感じてのことだったと、その後、長く村に言い伝えとして残っているのだそうです。

 その当時の女性は「三従」という自由が殆ど認められない封建社会の中にあって隠忍自重を強制されていたのですが、すべての女性が、この「みや」さんのようにはいかなかったようです。だからこそ、『自らを犠牲にして親や夫や子に仕える』という徹底した封建社会のかがみとしての「みや」という一人の女性の美徳が藩主の知りえる所になるのだと思います。
 寛政年間という18世紀末の幕藩体制の退廃直前に、庶民の生活引き締めのため行われた藩の諸政策の内の一つとしての匂いはするのですが、でも、そんな女性が吉備津に生まれていたということは、吉備津人にとっては自慢話にはなるのではないでしょうか。