私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

冠山落城の武井將監

2010-07-31 08:37:21 | Weblog
 「拙者の腹の上を船に見立て歌を歌うから仰向けに寝転べだと、何を小癪な成り上りの船頭の小倅。生意気な奴。一刀両断に成敗してくれるは」
 と、刀を手にいきり立ちます。あわや戦いの前の、折角の宴席での、一大惨事になろうとしたのですが。
 「あや、しばしまたれよ」
 と、傍にいた鳥越、林などの將卒が飛び出して、両者の間に立ちはだかります。そうしてようやく両者が押隔てられて、一応、その場は事無に納まります。でも、納まらないのが団右衛門です。満座の席で辱めを受けたのです。その恨みはそんなに直ぐには解消出来る筈がありません。
 「おのれ。松田左衛門。覚えておけ。いつかきっと此の仇は取ってやる」
 と、恨むことしきりでした。
 何せ。この団右衛門、出が船頭です。武士の作法も、その復讐作法も何も知らない不智不能の下郎です。邪智悪計などあろうはずがありません。そんなもやもやが鬱積しいたのです。
 そのような時です。一気呵成に攻め上った秀吉軍は、冠山の強陣な防戦にたじろぎ、やむなく退却を余儀なくさせられ、この城から退却していたのです。是を、城の内から眺めていた団右衛門、
 「恥ずかしめをそそぐのは今だ」
 と、考えます。それは、退却していく加藤清正等の秀吉軍みて、幾分安堵の気持ちになっているここの毛利軍に、急を突かせ、攻めのぼらせ「落城させることだ」。そうすると、彼はこの城の大将だ。主君に対して申し開きが出来ず、
 「きっと、みんなの前で叱責されるに違いない。そうだ、それがあ奴に対する自分の仇打ちだ。それに決めた」

 と、ばかりに、自らの反逆で、これから起こるだろう戦いが、いかななる結果、強いては、己にいかなる結果をもたらすことになるだろうと云う展望も何もなく、ただ、その時一時の安易な熟慮なき行為に走ります。

 彼、黒崎団右衛門はそんな短慮で城に火を掛けます。そして、戻ってきた清正方の軍勢の為に門を開け、自分はいち早く、一番に駆け込んできた清正の前に出て降参するのです。

 そんなことで、この冠山の城は落ちます。
 是が絵本太閤記に書た石田玉山の冠山城の落城の話なのです。

 しかし、中国兵乱記と云う本によると、ここでは主人公のように取り扱われている団右衛門も松田左衛門も、その名すら見えません。
 この城の火事の原因は、清正が放った伊賀の忍者が城に火を放った為に起きたものだと記しています。その火が燃え広がって弾薬庫も炎上したとも。


 真相はどれが真実かわ分かりませんが、まあ、物語として面白いのは、言わずもがななことですが、「絵本」の方に軍配を上げざるを得ませんね。

 この団右衛門の小者としか言いようのない卑劣な戦いぶりとは違った、当時この戦いの最も優れた勇者として清正と正々堂々と戦い、かつ、散って行った備中早島の人で「武井将監」と云う武将の名が、此の兵乱記に記されています。
 そのお墓は、現在、早島小学校の裏山に、ひっそりと、誰からも顧みられることもなく、石に刻まれている字も薄くなって、忘れ去られるように小さく佇んでいます。
 此の武将について、往時の華々しい清正との戦いぶりが如何なるものであったか、どうして「武井將監」という名前だけが残ったかなどは歴史は、何も書き残されてはいません。ただ、墓石に僅かに残っている消えそうな字がうらやましげに、当時を物語っているように思われるのです。
 
 なお、記録によりますと、此の武井將監の戦いぶりがあまり見事だったと、清正から伝え聞いた秀吉侯は、時の金50両を出して、清正に備中宮内の「賀夜坊」と云う寺で鄭重な法事を催させたとあります。この賀夜坊なる寺は、今ではいずくにあったのか探す手立てすら見つかってはいません。吉備津神社の末寺ではないかと、考えられますが、その記録さえ見つかりません、残念ですが。

冠山城での最後の酒宴

2010-07-30 11:01:23 | Weblog
 戦国の世では、戦いの前には、戦勝を祈念して酒宴を催すのが慣例になっていたのです。
 秀吉たちが、次に、この冠山の城を攻撃してくることは明らかです。だから、その総攻撃が行われる数日前だろうとは思われますが、その酒宴が行われた日時までは分からないのですが、この城でも、総ての兵士が参加して、つぎの戦いに備え、お互いによき手柄がたれられますようにと、酒宴が開かれたのです。 
 その席でのことです。参加した大将の兵卒も、何がしかの余興にと、謡や舞をそれぞれで披露しています。ところです。この団右衛門、出が船頭ですから、謡も踊りもからしきだめなのです。一人で酒ばかり食らっていました。手拍子もころくにできなかったのです。
 常日ごろ、この団右衛門の功なくして足軽頭にまで成り上がっているのを憎々しく思っていた総大将の松田左衛門という武将が、酩酊していたということもあって、

 「見てのとおり、みんなこの酒宴に興を添えよう、或は歌い又は舞い、思い思いに肴をなしているのに、汝はいったいなんじゃ。酒ばっかり食らって、ろくに手拍子もできないじゃあないか。汝は芸州の青海原を往来する船頭の息子だ、と聞いている。船頭の息子なら舟歌ぐらい知っておろう。どうじゃ、それをひとつ聞かせてくれんか」
 と、少々からからかい気分で、じんわりといじめをします。
 
 すると、団右衛門は大いに怒って云います。

 「そうだ。みんなも知っているとおりわしは船頭の息子だ。舟歌ぐらいなら知っている。御好みに候へば舟歌一番歌うて聞せ申す」
 と。傍にあった槍を小脇に引っさげて、更に
 「わしの舟歌は船の上でしか歌えん。どうじゃな、松田殿、貴公ここに仰向け寝てもらえんか。その貴公の腹の上を船だと思って、この槍を櫂の変わりにして、そこで、わしが舟歌を歌うから」
 と、
 「なにお、こしゃくな、われの腹上で舟歌だと。よくも」
 とばかりに、松田は刀を押取り立ち上がります。

 あわやというところに、鳥越、林など大将が押し隔ててその場はどうにか事無く終わります。

冠山城より煙が

2010-07-29 14:51:07 | Weblog
 清正ら秀吉方の軍勢総勢が、その冠山から退却していた時のことです。今、あれほど勇猛に戦っていた冠山城から、突然、思いも及ばなかった猛焔が雲中に立ち上っているではありませんか。それを見た清正は、直ちに察します。
 「きっと、毛利の城中に謀反を起こしたものがいて、城に火をつけたものがいるに違いない
 と。
 これは千載一遇の機会だと思い
 「すわ、退却中止。みなのもの冠山に再度突撃だ。突っ込め」
 と、命令を下し、清正が一番手で、馬を引き返させます。城壁の側にめぐらせていた隍(ほり)際へ攻込みます。すると、不思議にも、その時、あれほど頑なに攻略を阻止していたはずの強固であった城門の扉が内よ自然に開くではありませんか。それとばかりに、その城門の中に、清正軍はなだれ込みます。そこに一人の毛利方の武者が飛び出してきて
 「降参降参」と、叫びながら清正の前に平伏します。
 毛利方の足軽頭をして、この冠山の防衛に来ていた武将です。名は黒崎団右衛門と言います。
 
 どうしてこの毛利の武将が、清正の軍に寝返ったのでしょうか?それにはこんな理由があったと伝わっています。

 もともと、この男は芸州の吉田と言うところに生まれた猟師だったのです。海の男で、武芸も武士としての素養もまったく無く、平生から武将たちの間から蔑まされていたのです。というのも、猟師がどうして武士に、それも足軽頭という相当くらいの高い地位に着いたかといいますと、それは、この団右衛門に妹がいて、誠に艶麗なる美容の女でした。それがタマタマも毛利輝元の目に留まり寵を受けます。そんな関係で俄に武士になったのです。それも人足頭にです。だから、平生から周りにいた者たちから、面と向かっては云われないにしても、相当疎んじられていというか、猟師上がりの妹の色香に便乗したた成り上がり者だと軽蔑されていたのです。
 
 この冠山に、秀吉が他の軍勢が押し寄せてくるという情報によって、毛利方の武将たちが篭城しはじめた時のことでした。秀吉方との戦いの戦勝を祈願して、ある夜、大将より士卒まで篭城者全員の酒宴が開かれます。
 その時、この団右衛門の心は、「毛利憎し」ではなく、そこに篭っている毛利方への、特に、大将松田と言う人への反発が復讐の心を生ませた一番の原因であると、この絵本太閤記には書いていま。

加藤清正の冠山城の戦い

2010-07-27 07:27:08 | Weblog
 秀吉が初めて備前と備中の境で毛利氏と対峙したのは天正十年四月初旬でした。まず、毛利の出城「宮地山城」を攻め落としています。次に、攻めたのが「冠山城」なのです。ここも、前の宮地山の攻撃と同じように備前藩の兵力に命じます。ただ、この戦いの参謀として秀吉はあの加藤虎之助清正を派遣して、相談役の任務につかせるのです。その辺りの人物の配置にまで配慮を巡らすことが出来た秀吉の武将としての大きさが伺われます。
 
 その時の戦いの様子を少々説明します。

 此の山城には毛利の武将林三郎左衛門や鳥越左兵衛などを中心として、二千の兵士によって守られていました。
 この城も、主力になって攻め込んでいったのが備前藩の兵士でした。毛利方の城中に立てこもっていた兵力は小勢でしたが、少しもひるまず弓鉄砲を頻りに打ち掛け防戦しきりです。この戦いで、備前の兵は腰ぬけだと云う評判になりますが、それが後の吉川元長をして「浮田勢はもとより表裏第一の弱兵なれば」と言わしめた基になるのです。
 此の冠城は、その位置や地形等、総てを見て判断すると、性急に何ら戦術ものたずにやたらとただ攻めるだけでは、決して簡単に落ちるような城ではない。此のまま戦いを進めさせれば、味方の兵力ばかりを消耗させる結果になり、作戦を変更して、改めて、戦いを仕切り直しする要があると思ったのが、あの加藤清正なのです。
 その為にはひとまず、味方の兵を退却させて、軍の体勢を立て直し、新たな戦略を組み直して出直すべきだと思ったのです。
 思ったすぐ実行に移すのが清正の流儀なのです。さっと、間髪をいれずに、そこらにいた味方の兵を総て一度にさっと風の如くに冠山から引き下がったのです。之を見た林、鳥越などの冠山城に陣取って戦っていた毛利方の武将達は
 「これには何は深いわけがありそうだ。敵の何かのわながあるに違いない」と思い、敢て、敵の退却を深追いしなかったのです。

 ところが、その秀吉勢の退却の途中で、毛利の軍にいた黒崎団右衛門と云う人物が、冠城に火をつけたのです。要するに、毛利家の内なる反乱です。謀反なのです。折しも、その時、風雨が強く、たちまちのうち、城は猛煙を雲中にたちのぼらせます。
 ではどうして、毛利方の団右衛門が、味方を裏切って城に火をつけたのでしょうか?そこらについては、例の如く、少々長くなりませいたので、また、明日にでも。

 

興防の合戦宜しく候べし

2010-07-26 20:53:55 | Weblog
 この元長の進言に、毛利方は、明日激しい一戦をなし敵味方の目を驚かさんと内評定一決したのです。そうです。衆議一決、そう決まったのです。この事実は、当然、いかに厳しい秀吉方の隠密衆の活躍があったとしても、秀吉方には伝わるわけがありません。
 是がこの戦いを左右する一番のポイントとなったのです。

 もし戦いが、このままに、この地で繰り広げたならば、いかなる戦いになったかは想像すらできないような、悲惨で悲喜こもごもな状況になっていたのは疑いありません。秀吉の運命もいかなる結果になったいたかもしれません。それくらいな日本の歴史を、この戦いを除けては語られない事実が生まれていたことは確かです。何せ12萬の直接の兵士の激突なのです。
 関ヶ原の戦いは、周りにいた多くの武将はどっちつかずの、日和見的に傍観していた者も多く、実際に、この戦いに参加した武力は、多く見積もっても数万の軍勢だったと云われていますれています。16万人の兵力がお互いに直接的な総対決の決戦ではなかったのが歴史的事実なのです。

 よい事か悪いことかは分かりませんが、日本の歴史には、壇ノ浦の戦い以上の過去に例を見ないような一大決戦が、この高松を中心とした地で、繰り広げられていたことには間違いありません。
 何せ12萬の総兵力が直接ぶつかるのです。毛利家も、生死を分けた決戦になることを覚悟にした必死の決意の元に、この戦いに臨もうとする態度がありありと読みとれます。それまでに飲まされた秀吉方の煮え湯に歯ぎしりしていた毛利家の武将は多かったと思います。その代表が若い吉川元春の嫡子治部小輔元長だったのです。此のまま秀吉の一方的な戦術に陥ってしまったなら、毛利家の敗北は目を見るより明らかです。どうしようもない戦国武将として恥辱的な敗北は目を見るより明らかです。そんな鬱憤が、毛利家の兵士全体にたまっていたのですだ。当時の毛利家は日本の雄藩なのです。だからこそ、この若い元長の意見に、そこに参列していた多くの武将が、直ちに、賛同したのです。

 でも、「明朝は決行する」ことが、毛利家の吉川元春等の主だった者たちによる評定で、衆議一決したのも関わらず、実際には、この戦いは日本の歴史書には書かれてもいませんと云うよりも、行われなったのです。不思議なことですが、それが歴史的事実なのです。
 どうして????????????????。どう思われますか

「十死一生の合戦せられ候ふべし」

2010-07-25 08:07:24 | Weblog
 余りにも厳しい警護態勢の為、毛利方では、ただ単に長詮議を重ねるだけで、これといった対策を打ち立てることはできませんでした。
 そのことに業を煮やした一人の若者が毛利家にいました。その人の名は吉川元長という。元春の長男です。彼は言います。

 「こんなに、ただ、徒らに長談義ばかりしていては埒があかない。今、此の地に織田信長が自ら指揮すべく援軍を率いてやってくると聞いている。もし、そうなると、敵方の総勢は二十万にも膨らみ、我が毛利家が如何に奮戦したとしても勝敗は決している。その援軍が来ない今こそ、総攻撃をかけて、秀吉の軍勢を打ち破り、堤を壊し、清水宗治らの友軍を助けるべきである」

 さらに、彼はその戦術として
 「小早川の軍勢は多くいるので秀吉の本陣へ、自分はその後ろ側に回って、秀吉の軍を挟み撃ちにして攻めれば、<勝利一時に是有るべし> 秀吉側についてりう備前の軍勢はそもそも以前から表裏一体の弱兵だから、我が軍が優勢になれば自ずから毛利方に味方すると思う。今こそ十死一生の合戦になること間違いありません」
 と。その攻撃方法まで示しながら合戦の戦略方法までを示したのです。

 智慮深く、謀を先にして戦いを後にする小早川隆景は、卒然と葉答えず、目を閉じて、手を打ち組んで思惟していました。

まんどうゑかくやと、夜を昼に替えたるが如し

2010-07-23 07:59:18 | Weblog
 高松城の水攻め用の堤の警護が如何に厳しいものであったか、その堅固なる様子を太田和泉守の太閤記には

 「堤の上には柵を付廻し、下には町屋作りに、小屋を小路小路に並べ、夜番廻番絶間もなくして、毛利家よりの密通だも思ひたえたり。況や助成之便をや。堤に添て十町に一か所づつ要害を拵え、大将小将を入れおき二六時中当番もしやの油断を催促せられけり。夜に入れば提灯を燃しつれ廻り侍れば、まんどうゑかくやと、夜を昼に替えたるが如し。又一万の勢を分けて後巻を相防ぐベく手だて有り。」

 このような物々しい防御の体勢を取っていたのです。所謂、ありの出入りの隙間もないくらいな厳重な警戒を取っていたのです。

 このような防御体制であったために、
 「陣の構え堅固なれば切落す手だてもなく、只用なき長詮議のみにして、はかゆくべくもあらざりけり」
 と、絵本太閤記にも記してあります。

 毛利方の者も、どうにかして、この清水宗治らを助けたいと思っていたのですが、あまりに完全なる防御の体勢を取っていたために、どうする手立てもなかったのです。夜を昼に替えたような明るさではどうしようもありません。そのくらいに秀吉のこの戦いにかける意気込みのすごさがうかがわれるのです。乗るか反るかの一大決戦だったのです。
 考えようによっては、この戦いは関ヶ原の戦いより歴史的な意義が大きいのではないかと思えます。いかがでしょうか?


会議評定はかもゆかぬ間に

2010-07-22 20:45:20 | Weblog
 「会議評定はかもゆかぬ間に、城は水はひたりにける故」と、ただ、佐柿常円は語っていますが、それはそれでいたしかたない事だと思います。敵方毛利氏が、此の水攻めに対して如何なる対策を講じたかは分かる筈がありません。

 そこら辺りの様子を探るには、「太閤記」を読みしか方法はありません。
 それについて「絵本太閤記」には、次のように記されています。

 「・・・されど水は次第に倍(まさ)り来て、今十日を経るものならば、戦わずして城中の兵水屑と成りぬベく、哀れ也し次第也。是に依って後詰めの大将吉川元春、小早川隆景いかにして堤を切って落とさばやと、さまざま計議評定有りけれ共、寄手大軍にして、しかも軍令甚だ厳しく、陣の構へ堅固なれば、切り落とすべき手術(てだて)もなく長詮議のみにして、はかゆべくもあらざりけり。・・・」
 と、書かれています。

 こう書いただけで、今日はいささか私用のためもあり、朝からてんてこまいをしましたので、瞼と瞼がひっつくようです。
 続きは明日にでも又。

なにゅうしょうたんなら

2010-07-21 09:44:24 | Weblog
 毛利輝元が猿掛山の本陣を敷いたと聞いた秀吉は毛利家の陣取を眺めて、「一方ならず悦あへりけり」と書かれています。と、云うのは、輝元が本陣とした猿掛山城は、現在の倉敷市矢掛町にあり、この高松城とは距離にして4,5里は離れており、いざと云う時は何らの役にもたヽないような位置にあります。直接対峙したのが4萬の吉川元春、小早川隆景の軍です。その岩崎山の元春の本陣と水攻め用に築いた秀吉の堤防までの距離は、わずか十町程しかなかったのです。100mほどしか離れてはいませんでした。

 そんなに近い距離にありながら、どうして四萬もの兵力を持っていた毛利軍は、ただ手をこまめいて、秀吉軍の為すがままの戦術に任せなくてはならなかったのでしょうか。
 後世の歴史家だけでなく、その有様を見ていた吉備の人々の多くが思っていたのです。
「なにゅうしょんなら。はよう たすけてやらにゃあ おえりゃあせんがなあ」
 と。

 そんな疑問を村瀬安兵衛は常円さんに投げかけます。しかし常円さんは、総大将吉川元春等が何を評議していたなどと云う事は知る由もありません。
 「長き堤を切てなはす事さへ不成、一線の事は不申及候事不審千萬に候と申す」
 としか、説明が出来なかったのでしょう、安兵衛さんは、こう聞書しているに過ぎません。
 そうです。どうして何もできなかったのか、常に秀吉のお側に控えていた常円さんすら不審千萬なことであったらしいのです。
 結局、この難局をどう立ち向かい、どう打ち破っていけばよいか、その方法等を、吉川・小早川など毛利方の大将たちが長々と会議評定をして、どう立ち向かうか決めかねている間に、城は水に浸たってしまったと、常円さんは語っています。

  ところがです。太閤記には、その辺りの理由がはっきりと出ています。

汗は漿をながして戦う

2010-07-19 08:37:39 | Weblog
 高松城は、今や濁流の底に沈もうとしています。そんな状況を、秀吉は城の背後にある龍王山頂にある本陣から眺めて、その水攻めだけでは飽き足らず、更に、船十艘を繰り出して、大筒小筒を撃ち掛けます。更に、士卒に手に手に熊手を持たせて、塀に攀じ登り城内への突入させ徹底的な城の占領を下知します。
 一方、城中の清水宗治方の士卒は十分に死地をわきまえ、これ以上生きようとする心は露程もなく攻め口を死守し、怯む気色はさらさらありませんでした。中でも、中島大炊守、林与三郎、片山勘九郎、鳥越五兵衛等の武将は汗は漿(こずい)を流して戦います。
 執拗な豊臣方の攻撃にも少しの怯む心なく必死に防戦したのですが、「絵本太閤記」には、兄部川、大堰川、血水川などから引きいれたと書かれている「水」と云う思わぬ自然の難敵に見舞われ、いかに生死を超越した強靭な高松城の士卒といえども、その力に、否応なく、押し流されようとしているのです。

 「汗は漿(こんず)を流す」。
 こんな諺は小学館のことわざ大事典にもありません。なお、漿とはご飯を炊いた時にこぼれるおもゆだと辞書にはあります。汗がおもゆになるのですから、大変な苦労して一心に戦う姿だろうと思いますが。はっきりしたことは分かりません。知っている人は教えていただけませんか。

 この「兄部川」には「かうべ}とルビがふってあります。大堰川(足守川)、血水川は分かりますが、兄部川は、現在の高梁川(当時の川辺川)だろうと思われます。此の川が総社辺りから二手に分かれて、その一つが、この高松を通り、庭瀬の川入に流れ込んでいたのだと思います。
 なお、太田和泉守が記したとされる「太閤記」には、兄部川など固有の河川名ななく、ただ、「五月朔日より、大小之河水を関入れ給へる」と、書いているだけです。

 平家物語に出てくる武将妹尾兼康が造ったと云われる十二ヶ郷用水が流れていたのは事実ですが、本当に、当時、兄部川(現在の高梁川)がこの辺りを流れていたかどうかは疑わしいのです。たぶん間違いだと思います。

 あの佐柿常円は、高松城の水攻めの使った水は、主に大井川の水だと書いていますので、その辺りが正解ではないかと云うのが、現在では、岡山の郷土史家の中では定説になっています?。

城の有様既に難儀

2010-07-18 09:09:33 | Weblog
 死を旦夕に待つだけの高松城です。辺りは一面の泥水の逆巻く一大湖水です。
 後4、5日もすれば、普通であるなら、城は完全に水没してしまう事は確実です。

 もし、あなたが、この戦いの秀吉方の総指揮官だとすると、この後の戦術はどんな方法を執りましょうや?

  


 さて、秀吉が、此の時、執った戦術はいかに。その模様を「絵本太閤記」では

 「秀吉、城の有様既に難儀に及びぬと見給ひ、大船十艘に櫓をあげ、城中を眼下に見下ろし大砲小砲の鉄砲を夥しく放ちかけ、熊手を以て塀を破り、乗り入らんと下知しけれど・・・」
 と書いています。
 
 そのまま、ほっとけば今にも城は完全に水没して、そこにいる数千人の命が果てること間違いない、そんな時にです。更に、この城に追い撃つを掛ける様に、十艘もの船をしつらへ大砲をぶっ放し、城に攻め上ったのです。こんな冷淡極まりないことを、それでも人間かと思えるような戦術が、平気で、よくも下知、そうです。命令を下すことができたものだと思いませんか。
 是が戦国の世の普通の戦術であったのです。

 なお、此の湖上の戦術についての記述は、太田和泉守が記したのを基として書かれた別の「太閤記」には、この絵本太閤記に書かれているような、そんな無常のように見える「大砲を沈みかけた城めがけて打ちこんだ」などと云うような記述は見当たりません。

 この戦術は嘘か真かは分かりませんが、さて、この秀吉の湖上の戦いはいかになりましょうや?

死を旦夕に待つのみ

2010-07-17 13:52:41 | Weblog
 当時の高松城は、その三方が深い沼になっていて、渺茫として(果てしなく広々と広がっている様子)、人馬が通ることすらできず、ただ一騎のみしか通ることのできないような細道が一筋しかなく、もう一方は、広い水掘が幾重とも掘なれ、例え幾万の兵を以てしても到底攻め落とすことはできないような難攻不落の城だと、絵本太閤記には書かれています。是が事実だとすると、湯浅常山が言うような「信長は、常に、大功の速に成を忌みなたむの心あるを察しての故なり」と云うのは、にわかに信じられないことだと思われます。
 その様な難攻不落の高松城の攻略方法として、秀吉は「水攻め」を本陣が置かれていた龍王山上から考え付いた云われています。この戦術に黒田官兵衛の助言によって秀吉が決行したと、ある本には書かれていますが、この太閤紀では、このような記述になっています。

 その辺り、どのような経過があったのかは分からないのですが、五月の下旬から堤防工事が始められ五月中旬まで、僅か二十日間で堤は完成します。その様子を太閤記には
 「今五月の末になって水弥高く(たたえ)上り、山を浸し丘を越え、浩々として一大湖水になる」
 と、記されています。
 このまま水嵩が、更に、五尺も増したならば、それこそ城中にいる者は生くべき者一人のなく、「死を旦夕に待つのみ也」と云った状態にあったのです。
 そんな状況にも関わらず、秀吉は、情け容赦も無く、更なる激しい攻撃を高松城に仕掛けます。これが戦国の世の戦いの実態なのです。「無常だが、それが戦いなのだ」と云ってしまえばそれで終わりですが、相手を完膚無きまでに、完全に息の根を止めてしまう、徹底的な戦いが戦国の戦なのです。本当に勝つか負けるかの妥協のない戦なのです。だから、その戦記を読むと、人間のどうしようもない厳しい非常さ、無常さ思わずには居られません。
 
 一般には、そこまでは、此の水攻めで語る人はいないのですが、明日にでもその様子を、秀吉方、清水宗治方、双方の側から追ってみたいと思います。


 
 
 

高松城の水攻め

2010-07-16 17:55:59 | Weblog
 俄かに出来た人口の湖に秀吉は、舟数艘を出し、その上に大砲を据え、頻りに高松城に向けて隙間なく撃ち込みます。
 「山川是が為に振動して、声江河を裂き、勢い雷電を崩せり。」と、その時の湖上の激しい大砲の雷鳴の様子が、このように表現されています。
 
 この時の秀吉方兵力は総群八萬余騎、その内二萬騎を毛利軍に対処させ、残りの六萬騎を高松城の周囲に配していたのです。一方、毛利軍は四萬余騎を猿掛山(毛利輝元が)や高松城に対面した廂(ひさし)山(吉川元春が)などに拝して、戦いに備えていたのです。

 このような状況の中、堤防の高さは段々に高くしていきます。水は愈々高くなり、水の深さ八尺余り(約2m40cm)になり、兵隊たちは困り果て櫓に登ったり、木の枝に簀の子を取り付けたりして居場所を確保する状態でした。
 終には全員が水底に沈み、城内にいる者全員が魚の餌ととなるのではないかと悲しんだ者もおったのです。
 清水宗治は水練の達者な者を選んで吉川元春の陣へ、城中の形勢を告げたのですが、秀吉の守りが堅固で、とうてい堤防を切り崩すことは不可能だったのです。
 「徒に日を重ねれば、水次第に増益せり」
 
 この戦いを見るに、この狭い高松周辺には両軍合わせて十二萬人が集結して戦いを繰り広げていたのです。もし、この模様を空からでも眺めることが出来たらとしたならば、壮大な絵巻物となっていたのはい言うまでもありませんん。

 なお、あの関ヶ原の戦いに参加した両軍の兵力は計十六万人ぐらいでしたから、それとほぼ同じくらいの人数が、この狭い高松城の周辺に集まったことになります。それも二十日間以上の長期間にです。

高松城の「寝耳に水」

2010-07-15 20:51:41 | Weblog
 法橋玉山と云う人が書いた「太閤記」には、高松城に濁流が、刻々と押し寄せて来るその辺りの模様を、次のように書き表しています。

 「梅雨瀧津瀬なして降来る程に、漸々に水嵩増り(みずかさたかまり)、高松の民家悉く水底に沈み、庭の松杉浪越えて、是なん樹によって魚を求めるとも得易からんとぞ覚えて、見る目も中々荒(すさま)じ・・・」
 と。

 城中の兵は、押し寄せる濁流にどう対処したらよいかも分からないまま、それこそ「寝耳に水で」、ただ「あきれたるばかりと見え申候」であったのです。
 また、日差山などその背後に陣取っていた毛利氏も、このミセ櫓に驚いて、小田原評定ならぬ会議・評定ばかりしているうちに、高松城は水にひたり、城主清水氏が切腹します。

 こう書いておりますと、足守川から流れ込んだ水が城を浸す間、両軍の間は、何も戦いもせず、いかになることやらと、ただ見守っていたように思えます。
 が、絵本太閤記では、此の水攻めの戦いと清水宗治切腹までの様子が、それは面白く、そして、詳しく書かれていますので、それも脱線ついで、明日から、又、少々紹介していきますので、興味のあるお方はお目にしてみてください。

秀吉の乱暴な戦術

2010-07-14 10:19:27 | Weblog
 4月下旬から堤を築きだして、5月上旬には完成しています。20日間ほどの間、昼夜を問わずの突貫工事でした。
 このようにして出来上がった堤防でしたが、常円は云います。
 「秀吉の御運にやよりけん」
 と。
 そうです。この堤が出来上がると途端です。3日間に渡る「しのつく程の大雨降りけり」といった状態です。天が秀吉に味方したのです。御運があったのです。

 法橋玉山と云う人が書いた「絵本太閤記」には、その辺りの模様を、次のように書き表しています。

 「梅雨瀧津瀬なして降来る程に、漸々に水嵩増り・・・・・」。次第にみずかさたかまりあっという間に、城の周りは海のように成ったのです。

 此の大雨を見た秀吉は、直ちに命令を下します。その時の模様を常円は語ります。
 「門前村(現在の高松門前)の外に三十間程の砂川あり、常に脚半のぬるヽばかりの浅水也。川上に大井村と云う故に川の名を大井川と云、彼三日の大雨にて川瀧成て流るヽ時、秀吉の仰せにて人数二千計手と手を取合て、此川の門前村の前へひたひたと入て人にて水をせかせたまいければ、其川下は二三尺迄はなき程浅瀬と成りける所を、土俵を以てつき切門前村の前の堤の口へ入ければ、逆巻て城外へ水滔々と目コスラス間に大海の如く成りける・・・」
 と。
 「人にて水をせかせる」そうです、人によって水を堰き止めさせたのです。何と乱暴な人権無視の方法をとったのです。太閤紀には見えない、秀吉らしい戦術の記述です。その詳しい方法の記述があればもっと面白いと思うのですが。
 
 今日、岡山地方には洪水警報が出ています。数日前から雨模様の天気が続いています。どれだけの水嵩かと、足守川(あの門前近く)まで行ってみました。滔々とした大変な流れです。こんな中によくも二千人もの人を並べられたものかと感心したり驚いたりした次第です。
 
 この水攻めに使った川水は高松城の周辺に降った雨だけを集めたのではないのです。備前の山々に降った川水までミゾを作って、この高松城の堤の中に流したのです。それ以後、高松一帯の田畑では、此の時、備前から引いた溝の水を田畑に利用します。
 「備前の水で備中の田をつくる」(他人の褌で相撲を取ると同義)
 と、備前の人々から、随分と、ひにくられたらしいことも書かれています。

 なお、蛇足ですが、太閤記には「川角太閤記」「甫庵太閤記」「真書太平記」「絵本太閤記」などがありますが、ここに取り上げた太閤記は絵本太閤記です。